PANDORA・柩灯

 幽泉堂(ゆうせんどう)の回廊から中庭に出る。
 美嶺(みね)、美嶺の案内人の尊(みこと)。
 そして、「私たちも行かなきゃ……!」と、咲樂(さくら)の車椅子を押してついてきた椿姫(つばき)が、汐の前に揃う。

「手っ取り早く、神楽を一度見せて欲しいのだけど」

 汐がなんと誤魔化そうかと考える暇もなく、直球な要求は清々しい。

「汐(うしお)、舞ができるの? すごい!」

 興味津々に椿姫(つばき)が無邪気にはしゃぐが、勘弁してくれと頭が痛くなる。

「あの……僕が神楽をやってたの、八歳までだからね? そんなに期待されると困るな……」

 地下足袋の底で地面を踏みしめて、凹凸がないかを確認する。

「別に構わないわ。今の薬師(やくし)地区の宗家は、あまり祭事に力を入れてないみたいだし」

「……そうですか」

 汐(うしお)の長い睫毛がふっと伏せられた。

 中庭には、柔らかな昼の光が落ちていた。
 地下の街でありながら、幽泉堂(ゆうせんどう)の中庭には、天井に設けられた空気口から陽光が差し込む。

 美嶺は縁側に腰を下ろし、真っ直ぐ汐を見ている。
 その隣では咲樂が車椅子に座り、椿姫は興味津々といった様子で身を乗り出していた。
 尊だけは少し離れた場所で腕を組み、立ったまま無言で様子を見守っている。

「それじゃあ……」

 汐は少し困ったように笑った。

「本当に大したものじゃないですよ」

 そう言いながらも、中庭の中央へ歩いていく。

 石畳の上へ立ち、静かに目を閉じて、帯に差した鉄扇を音もなく引き抜いた。
 僅かに風が吹き込む。
 袖が揺れる。
 その瞬間まで、そこにいたのは穏やかな青年だった。

 だが。

 汐は静かに息を吸い、右足を一歩引いた。
 その一歩だけで、空気が変わる。
 穏やかな宿屋の主人は、もうそこにはいなかった。

 青紫の双眸が静かに開かれる。
 月を掬うように、右手がゆるやかに持ち上がる。 左手は夜風を受け止めるように添えられ、袖が淡く揺れた。
 音もなく、一歩。
 石畳を踏む足運びは羽のように軽く、それでいて寸分の狂いもない。
 指先が弧を描く。
 まるで夜空へ月光を流し込むように。

 美嶺の生家である日輪一族が舞う神楽が、太陽を迎える舞ならば、汐が舞っている月兎(つきと)神楽は、夜そのものへ祈りを捧げる舞だった。
 静かだった。
 けれど、その静けさが見る者の目を奪う。

「……」

 椿姫は息を呑んだ。
 さっきまで騒いでいたことなど、とうに忘れている。
 咲樂もまた、ただ黙って見つめていた。
 尊は腕を組んだまま微動だにしない。
 だが、美嶺だけは目を見開いていた。

(嘘でしょう……)

 美嶺にはすぐに分かった。

 この舞は、決して見よう見まねでは届かない。
 わずかな重心の移動。
 呼吸。
 指先の角度。
 視線の流し方。
 そのすべてが、一つとして乱れていない。
 柔らかく見えるほど、舞は難しい。
 力を隠し、無駄を削ぎ落とし、ようやく辿り着く境地だ。

(八歳で辞めた……?)

 信じられなかった。
 十年以上舞っていない者の所作ではない。
 むしろ、長い年月を積み重ねた神職の舞にしか見えなかった。
 ないはずの楽器の音色が聞こえてくる。

 やがて、汐の最後の一歩が止まる。
 胸元で重ねた手がゆっくりと下りて、深く頭を垂れた。
 中庭には、しばらく誰一人、声を発することができなかった。

「……終わりました」

 汐が顔を上げる。
 そこでようやく神楽の気配が消え、いつもの穏やかな青年に戻る。
 少しだけ気恥ずかしそうに頬を掻いたあと、鉄扇をゆっくり閉じて、帯に差す。

「私が覚えているのは、これくらいですね」

 その言葉に真っ先に反応したのは美嶺だった。

「なによ、上手(じょうず)じゃない」

 呆れ半分の声音が即答して、汐の目を瞬く。
 美嶺(みね)は腕を組みながら続けた。

「それにやっぱり日輪(ひのわ)神楽とは型が全くちがうのね……」

 彼女の金色の瞳が真剣な光を宿している。
 研究者の目だ。
 未知の神楽を前にした巫女の目。

「ねえ」

 すたすたと足早に縁側から歩いて、身を乗り出す。

「まだ時間はある?」

 汐は嫌な予感がした。

「えっと……」

「私に教えてくれないかしら」

 予感は当たり、苦笑する。

「いえ、教えられるほどの技量は」

「あるわ」

 即座に否定された。

「お願いよ」

 美嶺(みね)は真っ直ぐ見つめる。

「月兎(つきと)神楽の研修に来たんだから、上手い人に教わらなきゃ意味ないもの」

 あまりにも真剣だった。ひたむきさと純粋さが眩しい。
 だからこそ汐は困る。

「いや、でも……」

「お願い」

「……」

「お願い」

「……」

 押しが強い。想像以上に強い。
 汐が助けを求めるように視線を逸らすと、咲樂と椿姫の隣に立つ尊が視界に入った。

 尊は無言だったが、眼鏡の奥の瞳は僅かに逸らされる。
 完全に確信犯だった。

 局長から聞いた。
 今の宗家より詳しい。
 研修に協力してほしい。

 汐の青紫の瞳が細くなる。じぃ、と睨む。
 尊は咳払いした。わざとらしいくらい不自然だ。

「……」

「……」

 しばらく無言のやり取りが続く。
 咲樂が思わず、口許を押さえて笑った。

「ふふふっ」

 椿姫も首を傾げる。

「どうしたの?」

「ううん。汐が怒ってるのよ」

 咲樂は笑いを堪えながら言う。

「えっ、今!?」

 椿姫が驚く。

「うん」

「全然分からない!」

 汐は小さくため息を吐いて、もう一度尊を見た。
 尊は相変わらず知らぬ顔をしているけれど、眼鏡の奥の視線だけは僅かに笑っていた。

 ――余計なことを。

 汐はそう思ったけれど、本気で怒っているわけではない。
 こういう面倒事を持ち込むのも、尊らしかった。
 だから結局、また断り切れないのだろうと、半ば諦めながら小さく苦笑する。

「日輪(ひのわ)殿、汐は店があるので、また日を改めましょう」

 尊が静かに口を開いた。
 中庭の空気を壊さないような落ち着いた声音だった。

 汐は内心で少しだけ安堵する。
 正直なところ、これ以上神楽の話を続けられると困る。

 実際のところ、覚えていることは多いが、それを人に教えられるほど自信があるわけではなかった。

 まして相手はカンナギ島(とう)宗家の日輪(ひのわ)美嶺(みね)である。
 神楽を司る家の人間に教えるなど、どう考えても荷が重い。

 美嶺は尊を見て、それから少しだけ考える。

「……そうね。そうするわ」

 名残惜しそうな声だった。
 しかしすぐに、

「急にごめんなさい」

 と素直に頭を下げた。
 もっと押し切る性質かと思っていたが、意外と礼儀はしっかりしているらしい。
 だが、気が抜けたのは一瞬だけだった。

「明日は? 空いてるの?」

 ぐい、と距離を詰めてくる。
 汐は思わず一歩だけ後ろへ下がった。

「え?」

「明日」

 逃がさない。そんな覇気すら感じる。

「午前? 午後?」

 矢継ぎ早な質問責めに汐は困り、咲樂の方を見る。
 助けを求めたのに、口元を隠して楽しそうにしていた。
 全く助ける気がない。
 椿姫などはもっと酷かった。
 面白そうに目を輝かせている。

「汐、人気者ね!」

「他人事だと思って……」

 汐は小さくため息を吐き、改めて美嶺へ向き直った。

「午前中は買い出しや仕込みがありますので」

「うん」

「お昼過ぎでしたら」

「本当?」

 ぱっと表情が明るくなる。
 太陽そのものみたいな笑顔だった。

「その時間でよろしければ」

「もちろん!」

 美嶺は嬉しそうに頷いた。
 どうやら本気で月兎(つきと)神楽を学ぶつもりらしい。
 その真っ直ぐな熱意に、汐もそれ以上断れなかった。
 いつの間にか力んだ肩をふっと和らげる。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

 美嶺が微笑むと、尊は眼鏡を押し上げながら小さく息を吐いた。
 最初からこうなると分かっていた顔だった。

「では、そろそろ失礼いたします」

 尊が一礼して、美嶺も続いて頭を下げた。

「今日は本当にありがとう」

「いいえ」

「また明日」

「はい」

 そうして尊と美嶺の二人は幽泉堂(ゆうせんどう)を後にした。
 そして一番最初に口を開いたのは椿姫だった。

「すっごく綺麗だったわ!」

 興奮したように両手を握り締めている。純粋に目をきらきらと輝かせて。

「ねえねえ! あれ本当に汐だった!?」

「どういう意味?」

 汐は思わず苦笑する。

「だって普段の汐と全然違うんだもの! いつもふわふわしてるのに、舞ってる時はすごく格好良かった!」

「ねえ、褒めてるのかな、それ」

「褒めてるわ!」

 その隣では咲樂も静かに微笑んでいる。

「本当に綺麗だった」

 穏やかな声だった。飾り気がないからこそ本心だと分かる。

「見とれてしまったもの」

 汐は少しだけ視線を逸らした。
 真っ直ぐに褒められるのは、どうにも昔から苦手だった。

「そんなことないよ」

 眉尻を下げて頭を掻くが、咲樂は首を横に振る。

「あるわ」

 優しく断言する。

「とても綺麗だった」

 汐はますます困った顔になった。
 すると、「ねえねえ」と椿姫からの質問が続く。

「月兎(つきと)神楽って、宗家が覚える神楽よね?」

 椿姫が思い出したように声を上げた。

「小さなころ、尊も少しだけお稽古していたもの!」

 その言葉に汐は瞬きをする。

「あぁ……」

 少しだけ懐かしそうな顔になった。
 そう言えば椿姫は知らない。
 幽泉堂が建ち、しばらくしてからの付き合いだから当然だった。

「……そっか」

 汐は静かに笑った。
 柔らかな光が横顔を照らす。
 その笑みは穏やかだった。
 けれど、ほんの少しだけどこか遠くを見ているようにも見えた。
 椿姫が首を傾げる。

「椿姫には話したことなかったね」

「うん?」

 汐は頷きながら、扇の要部分を指先で撫でる。

「──僕がどうして魂人(たまびと)になったのか」

 その一言で、場の空気が静かに変わった。
 椿姫が目を瞬かせる。
 咲樂も僅かに表情を引き締めた。

 地下街の奥から、水の流れる音が聞こえる。

 遠い昔の記憶を呼び起こすように、汐は静かに目を伏せた。

 薬師(やくし)地区。
 依月(よつき)家。
 宗家嫡子。

 そして──。

 全てを失った、あの日のことを思い出しながら。