PANDORA・柩灯

 腕時計を何度も見て、何度も触れた。

 護珠(ごず)家の大広間で開催された宴は賑やかで、多くの要人に話しかけられ、挨拶をし、それほど重要でもない雑談に応じた。

 親に連れられて参加したであろう令嬢を次々に紹介され続け、なんと無駄な時間だろうと辟易した。
 議会命令、すなわち宰相である父からの命令だが、白律庁(はくりつちょう)局長として参加しなければならない正当性が、見当たらなかった。

 大広間をざっと見渡すだけで、各地区の有力貴族の令嬢や令息が多くいる。
 そして親が子を連れて続々と尊へ挨拶へ来る。

 父の思惑を察して、溜め息が漏れた。
 そろそろ身を固めろとつつかれている最中の、これだ。
 どんな緊急事態なのかと身構えた自分が馬鹿らしい。

 こんなところに座って、雑談をしている場合ではないのに。
 窓の外を見れば、雪が降っていた。
 椿姫との待ち合わせ時間から既に三十分が過ぎている。
 まだ時計台の下で待っているかもしれないと想像して、胸の奥がきりきりと締め付けられた。
 居合わせた芽以に伝言を頼んだけれど、そういう問題でもない。

『――み、尊と……ふ、ふたりで! 瑞花祭に行きたいの!』

 夏に、いつものように勝手に局長室にやってきた椿姫が、見たこともないくらい真っ赤な顔で叫んだ。
 大声を出すなと注意するのも忘れて、思わずその顔に見入った。
 何回、何十回、何百回、椿姫に言って聞かせてきた。
 死にかけた危機的状況から、たまたま自分が助けたから勘違いをしてしまったのだと。
 雛鳥の刷り込み現象と同じ。
 いつか目が醒めると思っても、椿姫はあの頃からずっと追い掛けてくる。

『芽以(めい)も火々里(かがり)も、呼んじゃダメ。私と尊、ふたりがいいの』

 まるで、その恋が本物かのような顔をするから、いつものように断れなかった。


「どうしたの局長さん。時計ばっかり気にして」

 声を掛けられ、はっとなる。
 鼓膜を通った声の懐かしさに驚いて顔を上げれば、徳利(とっくり)を持った結衣と、その夫がいた。
 夫婦だから血縁などないはずなのに、二人の雰囲気や顔つきはよく似ていた。

「飲んでおられますか尊殿。酒がお好きだと、聞いてますよ」

 結衣の夫の桂汰(けいた)は尊の隣に膝をつき、結衣から受け取った徳利を、掲げた。
 尊は猪口を持ち、桂汰に差し出す。

「すみません、ありがとうございます」

 何杯目か分からない注がれた酒に軽く口をつける。

「ここにあるのはいい酒ばかりですね」

 この状況でなければ、もっと味わえたに違いない。
 深みと品のある、上等な酒だった。

「白律庁の局長殿も来られると聞いて、慌てて出しましたから」

 桂汰はにこにこと、毒気がない。
 権力闘争に盛んな護珠家当主とは似ていないらしい。

「突然参加させていただいたにもかかわらず、お気遣い痛み入ります」

 結衣と決別してからしばらく、ふとした瞬間に後悔が押し寄せて、己に失望した。
 しかし長い時間がいつの間にか傷を塞ぎ、かさぶたを剥がしてくれた。
 結衣とも、桂汰とも、真正面から相対しても、もう心は動じなかった。

「……時間、大丈夫? 何か用があるの?」

 不意に、桂汰の横に控える結衣が伺うように言った。
 この場で、そのような質問をされるとは思わず、尊は僅かに目を見張り、何と返せば良いかと押し黙ってしまった。

「急な参加だったし、もしかして先に予定があったのかなって、思ったんだけど。時計、気にしてたし」

 昔から、相手を待たせることが嫌で、約束がある日は何度も腕時計を見てしまう癖があった。

「え……そう、なの? 確かに今日は瑞花祭だし……も、もしかして恋人との約束とか!?」

 桂汰が勝手な憶測を口にして、自ら驚く。

「い、いえ……恋人ではないんですが……まあ、その……先約があったのは事実ですね」

 主宰の護珠家の者の前で、失礼だとは百も承知の上で正直に告げる。
 すると、結衣が穏やかな眉を吊り上げて尊から猪口を取り上げ、立ち上がった。

「もう有力貴族との挨拶は終わったよね?」

「え? あ、ああ。粗方は……」

「なら早く行った方がいいよ。私がお義父さんに上手く言っといてあげるから、帰りなよ」

 藤色の着物を纏い、髪を結い上げた結衣の姿は、尊には馴染みがないけれど、学生服よりも、よく似合っていた。

 途中で帰れば、父や弟、護珠家の顔を潰さないかと思わないわけではなかった。
 それでも雪花火や屋台について楽しそうに話していた椿姫がよぎり、尊も立ち上がる。

「すみません。途中退席のご無礼をお許しください」

 頭を下げ、鞄を持ち直す。

「いえいえ。こちらこそ、ここまでお越し下さってありがとうございました。雪が降ってますから、お気をつけて」

 そのあと、尊は結衣に護珠邸の玄関先まで見送られ、蓮塔(れんとう)地区までの近道を教えてもらった。

「――ありがとう。手間をかけて本当にすまないが、当主殿によろしく伝えてくれ」

「分かったから、早く行きな。傘もこれ使って。返さなくていいから」

 親切に差し出された傘を受け取ろうとして、刹那、手が止まり、何も掴まずに下ろした。

「いや、いい。走っていくから、傘はいらない」

 子どもの頃、結局あの二本の簪は、結衣に渡せなかった。
 あのときは青色がとても似合うと思っていたけれど、やはり結衣には、結衣自身が選んだ藤色がぴったりだった。

 “歩く堅物”と名高い男の素っ頓狂な言動に、結衣は目を丸くして、耐えきれないように吹き出した。
 笑われて、雪の中走る姿がそんなに可笑しいだろうかと、尊は首を傾げた。

「あは、あははっ、その格好で、雪の中全力疾走は、面白すぎるよ!」

 腹を抱えて大笑いする結衣は目尻を指先で拭い、大きく肩を下ろして一息をついた。
 そして片手をあげて、白い歯を見せる。

「転ばないようにしなよ。尊」