雪花火の音が、まるで入ってこない。
いるはずのない幼馴染みの姿だったが、少しだけ見開いた瞳は、すぐに伏せられた。
「……どうして、芽以がここにいるの?」
芽以は祭が特別に好きなわけではない。
いつも椿姫が誘って着いてくるくらいの認識だ。
今日も仕事を休まずに働いていたのだろう。
心のどこかで、もう理解した。
芽以が今ここにいることの道理を。
「……尊が、来られなくなった」
やけに静かな声だった。
気遣うでも、馬鹿にするでもなく、ただ事実を伝えるだけの、色のない声。
「急遽、護珠家の夜会に連れていかれた」
白い手袋をした手が、その姓を聞き、僅かに跳ねた。
「白律庁の局長として参加しろと、議会命令だ。俺も要人警護で向こうにいたから、代わりに伝えに来た」
告げられた話に、「ああそうなんだ」とすんなりと納得できた。
尊は皇国の治安維持を担う、責任のある仕事をしている。
あの若さで、椿姫には到底想像も及ばない苦労を経験して、毎日頑張っている。
「そう……」
だから、仕方がなかった。
「……そっか。尊、忙しいものね」
「ああ」
出雲地区。護珠家。
東の仁々樹家に次ぐ西の大貴族。
そして――。
「忙しい、もの……私には、入る隙も、ない、くらい……っ」
レンガ道、新しいブーツ、ワンピースの裾が、ぼやけて滲んでいく。
椿姫の脳裏には、夕暮れの中で微笑む黒髪の女がいた。
護珠家に嫁いでいった彼女が。
頬が一筋濡れると、小さく嗚咽が漏れた。
椿姫なりに勇気を出して、今日を迎えた。
お嫁さんになりたいとは言っても、「好き」だとは、今まで一度も尊に伝えたことがない。
母や女中に褒められて嬉しい。
でも、本当に認めてほしい人には、いつも届かない。
尊は忙しいから仕方がないと納得できても、胸の奥は痛くてどうしようもなかった。
大きな両目から、ぼろぼろと涙が溢れて洋服に染み込んでいった。
「……どうする? 祭、見て回るか? それとももう帰るか?」
芽以は普段の厳しさではなく、気遣うように聞く。
「ひっく、う、うっ……雪苺の、アイスクリームと、焼きそばが、食べたいっ……」
紅い唇が震えながら、今日したかったことを紡いだ。
「……それだけか?」
「あと、桃飴を、咲樂に、持っていきたいわ……っ」
芽以は頭を撫でるわけでも、優しい慰めを言うわけでもない。
「ああ。ほら、行くぞ」
ただ傘を差して、一緒に歩いてくれる。
ひとりぼっちで凍えそうだった心が、毛布で包まれたようで、無性に安心した。
椿姫は泣き止むわけでもなく、しとしとと落涙しながらも、食べたかった屋台飯を一通り食べた。
悔しくなって、途中から雪花火から顔を背けて意地を張ってしまった。
そして最後に、桃飴や鈴カステラなどの甘味をたくさん買い、芽以と共に幽泉堂まで足を運んだ。
泣き顔で咲樂や汐、瑚杜に会うことが嫌で、芽以にお土産を持っていってもらい、椿姫は外の長椅子に座って待った。
外からでも幽泉堂が賑わっている気配が十分に伝わり、なんとも心地好い喧騒に、幾分か穏やかになれた。
咲樂や汐や瑚杜たちが、喜んでくれる顔を思い浮かべると尚更。
徐々にやみつつある雪の中、馬車に揺られ木花家に着く。
大きな門を抜け、玄関まで辿り着く頃には真っ赤になった目や鼻を、家の者に見せる恥ずかしさは、もう消えていた。
「……椿姫」
外階段を上がろうとした時、不意に芽以に呼ばれて振り返る。
「尊はちゃんと」
芽以が話し始めた瞬間、そう遠くない場所からも自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
門がある方から、あの灰色の髪を揺らしながら、男が走ってくる。
真冬にもかかわらず白律庁の制服だけで、羽織りも襟巻きもしていない。
肩で呼吸をして、うっすらと額に汗すら浮かんでいた。
途中で外したのか、眼鏡は掛けていなかった。
二人の目の前に来てから、すぐに尊は謝り、頭を下げる。
「……椿姫、芽以。悪かった」
体力がある尊が息を切らしている。
それだけで、走ってここまで来たのだと分かった。
「別に俺はいい」
常から慕う男に頭を下げられ、芽以が気まずそうに返事をするが、椿姫は頷くことすらできない。
すぐに明るく笑って「大丈夫よ」と言いたいのに、つんと染みる鼻の奥が、それを拒んだ。
「……よく話し合えよ」
芽以はちらりと椿姫の表情を一瞥して、尊と入れ違うように帰っていった。
彼にありがとうと言いたかったのに、言えなかった。
椿の花が咲き誇る庭園を背景に、重い沈黙が落ちる。
しかし、すぐに尊は切り出す。
「すまなかった。約束を破って」
尊はもう一度頭を下げる。躊躇いもなく。
何の言い訳もしない潔さが、何故か苦しい。
「……お仕事だもの。仕方ないわ」
自然と、聞き分けのよい返事が零れる。
そうだ、仕方がなかった。
国と自分を賭けた時、自分を選んでほしいなど、優しい尊に言って良いはずがないのだから。
「でも、最低なことをした」
その言葉に、椿姫はようやく顔を上げて、青く真剣な眼差しを見た。
「最低……?」
幾分か小さくなった雪が髪や頬に落ちては溶けた。
「雪花火、楽しみにしてただろう。見たいって。屋台もたくさん回りたいって」
話したことを覚えて、叶えられなかったことを申し訳なく思ってくれている。
けれど、そうだけど、そうじゃなかった。
椿姫が一番悲しかったのは、尊が来なかったからではない。
「……ちがう」
瑞花祭の今日、尊が出雲地区へ行ったことが嫌だった。
護珠家主宰の夜会へ参加したことが嫌だった。
ずっと待っていたのに、その間に、また結衣と仲良く話していたのだろうかと想像して、胸が張り裂けそうだった。
まるで、自分との約束よりも、結衣を優先されたような気がしたからだった。
椿姫はミトンの手袋をつけた手を無意識に握り込み、わなわなと肩を震わせた。
「ちがう……!」
喉から飛び出てきたのは、自分でも聞いたことのない鋭く尖った、可愛くない声だった。
唇も喉も震えて、抑えられない。
「っ尊なんか嫌い! 大嫌い!」
“嫌い”など、死ぬまで口にしないと思っていた。
尊の酷く驚いた顔が見える。
言ってしまえば、もう止まらない。
「ずっとずっと、あの人のこと考えてればいいんだわ! 意気地無し! 弱虫! 馬鹿!」
腹の奥から沸き上がる、生まれて初めての激情に支配されて、尊との間に厚い壁ができた錯覚に陥った。
椿姫はこれ以上尊と同じ場所にいたくなくて、家の中に入ろうと階段をのぼるが、腕を咄嗟に掴まれた。
「何の話だ。ちゃんと教えてくれ」
振り返れば、こちらを見上げる真剣な尊と目が合う。
「うるさい! もう絶交よ! 二度と尊とは遊ばない! もうお話もしない!」
「椿姫」
腕を振り払おうとしても、強く掴まれたわけでもないのに中々大きな手は離れず、余計に腹が立った。
腹が立って、腹が立って、泣き喚いてしまいそうになった時、玄関の扉がそうっと開かれた。
「あら、椿姫ちゃんと……尊くん?」
騒がしいと思い、出てきたのだろう。
椿姫の母が戸惑いながら二人を見て、すぐに頬に片手を当てた。
「あらあらまあ、どうしたの。泣いてるの? 椿姫ちゃん。今日は確か、二人で瑞花祭に行くって」
玄関で見送った時はあんなに笑顔だったのに、滅多にない娘の強い語気に、驚くのも無理はなかった。
尊は椿姫の腕を離すと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、俺が、その……仕事が入ってしまって、約束を守れなかったんです」
「あらそうなの……大丈夫よ椿姫ちゃん。尊くんちゃんとここまで来てくれたじゃない」
母は苦笑しつつも、目も鼻も真っ赤にして泣く椿姫の背を優しく撫でた。
「尊くん、お仕事帰りなんでしょ? お腹空いてるでしょ、食べていく?」
誰にでも優しい母が大好きだったが、今だけは受け入れがたい。
「いえ、俺は」
「いや! もう尊とは絶交したわ! お母様ももう尊とお話しないで!」
嫌われてしまうかもしれない。
我儘を言って困らせて、子どものように駄々を捏ねて。
「帰って! 椿姫のこと一番にしてくれない尊なんか、もう知らない!」
尊の恋人になるには相応しくない振る舞いを止められない。
そんなことさえも、どうでもいいと思ってしまったのだ。
椿姫は力一杯叫んで、逃げるように先に家の中に入り、強く扉を閉めた。
雪白蝶が一斉に孵化を迎えた聖なる夜、人生で一番素敵な日になると夢見ていた。
夢を打ち壊してしまったのは、自分だったのだろうか。
椿姫はブーツも脱げずに、玄関で蹲って顔を覆った。
いるはずのない幼馴染みの姿だったが、少しだけ見開いた瞳は、すぐに伏せられた。
「……どうして、芽以がここにいるの?」
芽以は祭が特別に好きなわけではない。
いつも椿姫が誘って着いてくるくらいの認識だ。
今日も仕事を休まずに働いていたのだろう。
心のどこかで、もう理解した。
芽以が今ここにいることの道理を。
「……尊が、来られなくなった」
やけに静かな声だった。
気遣うでも、馬鹿にするでもなく、ただ事実を伝えるだけの、色のない声。
「急遽、護珠家の夜会に連れていかれた」
白い手袋をした手が、その姓を聞き、僅かに跳ねた。
「白律庁の局長として参加しろと、議会命令だ。俺も要人警護で向こうにいたから、代わりに伝えに来た」
告げられた話に、「ああそうなんだ」とすんなりと納得できた。
尊は皇国の治安維持を担う、責任のある仕事をしている。
あの若さで、椿姫には到底想像も及ばない苦労を経験して、毎日頑張っている。
「そう……」
だから、仕方がなかった。
「……そっか。尊、忙しいものね」
「ああ」
出雲地区。護珠家。
東の仁々樹家に次ぐ西の大貴族。
そして――。
「忙しい、もの……私には、入る隙も、ない、くらい……っ」
レンガ道、新しいブーツ、ワンピースの裾が、ぼやけて滲んでいく。
椿姫の脳裏には、夕暮れの中で微笑む黒髪の女がいた。
護珠家に嫁いでいった彼女が。
頬が一筋濡れると、小さく嗚咽が漏れた。
椿姫なりに勇気を出して、今日を迎えた。
お嫁さんになりたいとは言っても、「好き」だとは、今まで一度も尊に伝えたことがない。
母や女中に褒められて嬉しい。
でも、本当に認めてほしい人には、いつも届かない。
尊は忙しいから仕方がないと納得できても、胸の奥は痛くてどうしようもなかった。
大きな両目から、ぼろぼろと涙が溢れて洋服に染み込んでいった。
「……どうする? 祭、見て回るか? それとももう帰るか?」
芽以は普段の厳しさではなく、気遣うように聞く。
「ひっく、う、うっ……雪苺の、アイスクリームと、焼きそばが、食べたいっ……」
紅い唇が震えながら、今日したかったことを紡いだ。
「……それだけか?」
「あと、桃飴を、咲樂に、持っていきたいわ……っ」
芽以は頭を撫でるわけでも、優しい慰めを言うわけでもない。
「ああ。ほら、行くぞ」
ただ傘を差して、一緒に歩いてくれる。
ひとりぼっちで凍えそうだった心が、毛布で包まれたようで、無性に安心した。
椿姫は泣き止むわけでもなく、しとしとと落涙しながらも、食べたかった屋台飯を一通り食べた。
悔しくなって、途中から雪花火から顔を背けて意地を張ってしまった。
そして最後に、桃飴や鈴カステラなどの甘味をたくさん買い、芽以と共に幽泉堂まで足を運んだ。
泣き顔で咲樂や汐、瑚杜に会うことが嫌で、芽以にお土産を持っていってもらい、椿姫は外の長椅子に座って待った。
外からでも幽泉堂が賑わっている気配が十分に伝わり、なんとも心地好い喧騒に、幾分か穏やかになれた。
咲樂や汐や瑚杜たちが、喜んでくれる顔を思い浮かべると尚更。
徐々にやみつつある雪の中、馬車に揺られ木花家に着く。
大きな門を抜け、玄関まで辿り着く頃には真っ赤になった目や鼻を、家の者に見せる恥ずかしさは、もう消えていた。
「……椿姫」
外階段を上がろうとした時、不意に芽以に呼ばれて振り返る。
「尊はちゃんと」
芽以が話し始めた瞬間、そう遠くない場所からも自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
門がある方から、あの灰色の髪を揺らしながら、男が走ってくる。
真冬にもかかわらず白律庁の制服だけで、羽織りも襟巻きもしていない。
肩で呼吸をして、うっすらと額に汗すら浮かんでいた。
途中で外したのか、眼鏡は掛けていなかった。
二人の目の前に来てから、すぐに尊は謝り、頭を下げる。
「……椿姫、芽以。悪かった」
体力がある尊が息を切らしている。
それだけで、走ってここまで来たのだと分かった。
「別に俺はいい」
常から慕う男に頭を下げられ、芽以が気まずそうに返事をするが、椿姫は頷くことすらできない。
すぐに明るく笑って「大丈夫よ」と言いたいのに、つんと染みる鼻の奥が、それを拒んだ。
「……よく話し合えよ」
芽以はちらりと椿姫の表情を一瞥して、尊と入れ違うように帰っていった。
彼にありがとうと言いたかったのに、言えなかった。
椿の花が咲き誇る庭園を背景に、重い沈黙が落ちる。
しかし、すぐに尊は切り出す。
「すまなかった。約束を破って」
尊はもう一度頭を下げる。躊躇いもなく。
何の言い訳もしない潔さが、何故か苦しい。
「……お仕事だもの。仕方ないわ」
自然と、聞き分けのよい返事が零れる。
そうだ、仕方がなかった。
国と自分を賭けた時、自分を選んでほしいなど、優しい尊に言って良いはずがないのだから。
「でも、最低なことをした」
その言葉に、椿姫はようやく顔を上げて、青く真剣な眼差しを見た。
「最低……?」
幾分か小さくなった雪が髪や頬に落ちては溶けた。
「雪花火、楽しみにしてただろう。見たいって。屋台もたくさん回りたいって」
話したことを覚えて、叶えられなかったことを申し訳なく思ってくれている。
けれど、そうだけど、そうじゃなかった。
椿姫が一番悲しかったのは、尊が来なかったからではない。
「……ちがう」
瑞花祭の今日、尊が出雲地区へ行ったことが嫌だった。
護珠家主宰の夜会へ参加したことが嫌だった。
ずっと待っていたのに、その間に、また結衣と仲良く話していたのだろうかと想像して、胸が張り裂けそうだった。
まるで、自分との約束よりも、結衣を優先されたような気がしたからだった。
椿姫はミトンの手袋をつけた手を無意識に握り込み、わなわなと肩を震わせた。
「ちがう……!」
喉から飛び出てきたのは、自分でも聞いたことのない鋭く尖った、可愛くない声だった。
唇も喉も震えて、抑えられない。
「っ尊なんか嫌い! 大嫌い!」
“嫌い”など、死ぬまで口にしないと思っていた。
尊の酷く驚いた顔が見える。
言ってしまえば、もう止まらない。
「ずっとずっと、あの人のこと考えてればいいんだわ! 意気地無し! 弱虫! 馬鹿!」
腹の奥から沸き上がる、生まれて初めての激情に支配されて、尊との間に厚い壁ができた錯覚に陥った。
椿姫はこれ以上尊と同じ場所にいたくなくて、家の中に入ろうと階段をのぼるが、腕を咄嗟に掴まれた。
「何の話だ。ちゃんと教えてくれ」
振り返れば、こちらを見上げる真剣な尊と目が合う。
「うるさい! もう絶交よ! 二度と尊とは遊ばない! もうお話もしない!」
「椿姫」
腕を振り払おうとしても、強く掴まれたわけでもないのに中々大きな手は離れず、余計に腹が立った。
腹が立って、腹が立って、泣き喚いてしまいそうになった時、玄関の扉がそうっと開かれた。
「あら、椿姫ちゃんと……尊くん?」
騒がしいと思い、出てきたのだろう。
椿姫の母が戸惑いながら二人を見て、すぐに頬に片手を当てた。
「あらあらまあ、どうしたの。泣いてるの? 椿姫ちゃん。今日は確か、二人で瑞花祭に行くって」
玄関で見送った時はあんなに笑顔だったのに、滅多にない娘の強い語気に、驚くのも無理はなかった。
尊は椿姫の腕を離すと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、俺が、その……仕事が入ってしまって、約束を守れなかったんです」
「あらそうなの……大丈夫よ椿姫ちゃん。尊くんちゃんとここまで来てくれたじゃない」
母は苦笑しつつも、目も鼻も真っ赤にして泣く椿姫の背を優しく撫でた。
「尊くん、お仕事帰りなんでしょ? お腹空いてるでしょ、食べていく?」
誰にでも優しい母が大好きだったが、今だけは受け入れがたい。
「いえ、俺は」
「いや! もう尊とは絶交したわ! お母様ももう尊とお話しないで!」
嫌われてしまうかもしれない。
我儘を言って困らせて、子どものように駄々を捏ねて。
「帰って! 椿姫のこと一番にしてくれない尊なんか、もう知らない!」
尊の恋人になるには相応しくない振る舞いを止められない。
そんなことさえも、どうでもいいと思ってしまったのだ。
椿姫は力一杯叫んで、逃げるように先に家の中に入り、強く扉を閉めた。
雪白蝶が一斉に孵化を迎えた聖なる夜、人生で一番素敵な日になると夢見ていた。
夢を打ち壊してしまったのは、自分だったのだろうか。
椿姫はブーツも脱げずに、玄関で蹲って顔を覆った。

