人生における初めての敗北感は、忘れもしない、夕暮れの中でほほえむ、あの人がもたらしたものだった。
綺麗で、凛としていて、大人っぽい。
当たり前のように隣で笑う尊と彼女は、まるで前世から思い合ってきた、運命の恋人のようだった。
自分が世界で一番可愛いと信じてきた。
だから椿姫は、長い髪を二つに高く結び、フリルがたくさんの赤いワンピースで毎日着飾った。
どんな時でも一番可愛くいたい。
どこにいても一番格好良い尊の隣にいるためには、もっともっと可愛くならないといけない。
そう思っていたけれど。
蓮塔学院の前で尊を待ち伏せしていた時、正門から出てきた尊を見つけて、一目散に駆け寄り飛び付いた。
『うわっ、なんだこのガキ!』
最初に聞こえたのは尊ではない男の人の声で、その後に頭上から溜め息が聞こえた。
『……俺の幼馴染み』
『あ、前に話してた子だ。赤い髪可愛い~。火々里とお揃いじゃない』
可愛い。その言葉に椿姫は顔を上げて、声の主を見た。
学院創立以来、初めて入学を許された話題の女子生徒なのだと一目見て分かった。
『えへへ、あなたも綺麗よ! 袴もかっこいいわ!』
純粋にその人を、噂に違わない素敵な人だと感じた。
『本当? ありがとう。ほんとに可愛いんだけど、この子、歌劇団の子役とか?』
よく言われる褒め言葉でも、何度言われても嬉しいもので、こんなに持て囃される自分は、尊に相応しいのだと、信じて疑わなかった。
『ちがうよ。普通に公家の子。家同士が仲良いんだ』
尊に抱きついたまま、右側にいる大きな男の人をじっと見上げると、素っ気なく目を逸らされる。
『お姉さんとお兄さん、尊のお友達? いつも一緒に帰ってるの?』
男の人は目付きが鋭く少し怖かったけれど、女の人は柔らかな雰囲気で、正に“お姉さん”だ。
尊のことなら何でも知りたい。
ただそれだけの気持ちで軽く聞いた質問に、女の人は『えっと……』と答えにくそうに苦笑いをした。
『なぁに?』
女の人の目が、ちらりと尊を見て、男の人も急に面白おかしそうに口角を上げた。
すると尊が、何の躊躇いもなく答えた。
『火々里は友達で、結衣は――俺の恋人だから、友達じゃない』
あの時の衝撃は、墓に入るまで忘れないだろう。
三日三晩、家に引きこもって泣き続けて父と母を困らせた。
そして最後には、『世界一可愛い椿姫ちゃんが頑張ったら、何でもできちゃうはずよ』と言われて、大復活を遂げたのだ。
◆ ◆ ◆
「やあー!」
「こら椿姫! もっと優雅に美しく! 変な奇声をあげるな!」
ダンッと片足を床につき、扇を持った手を高々と掲げる。
椿姫は今日も伊羅舞踊の稽古に、自主的に励んでいた。
舞踊や神楽、剣舞に長けた芽以に頼み込み、彼の都合がつけば個人練習をしてもらっている。
「ふんっ! てやぁ!」
舞いは静と動が大切。それを意識して、一生懸命に腕を振り上げる。
「お前……っ! 耳はついているのか! 叫ぶなこの下手くそ!」
「ええ! でも私の可愛い声が聞ける方が嬉しいと思わない!?」
「うるさい黙れ! 伊羅舞踊は伝統ある芸なんだぞ! お前の声なんぞいらん!」
聞き捨てならない台詞に、思わず椿姫は頬を膨らませた。
「真面目にやる気がないなら俺は部屋に帰るからな」
「真面目にやってるわ! こっちの方がより良い舞いになると思ってやってるのよ?」
冗談みたいなことを真剣に言う椿姫に、芽以は眉根を寄せ一蹴したくなるが、嘘をつく発想がない人間であることは百も承知だった。
着物を纏い長時間体を動かせば体力も消費する。
椿姫の額や首筋には汗が流れていた。
「……何度も言うが、椿姫は舞いも歌も才能がないから、諦めた方がいいぞ」
歯に衣着せぬ、辛辣な言葉。
大きな深紅色の瞳は揺らぐことなく、ぱちぱちと瞬きをしてから、呆れを滲ませた。
「諦めるなんて有り得ないわ。私は尊に釣り合いたいんだもの。もっと上手になるの」
言って、椿姫は椅子に置いていた水筒を取ると、水を一口飲んだ。
料理も、裁縫も、舞踊も、琴も、華道や茶道も、たくさん頑張らなければならない。
尊のように何でもできる完璧な人に振り向いてもらうためには、可愛いだけでは駄目なのだ。
あの人のようになりたいわけでないけれど、尊に認められるには、きっと努力を重ねなければならない。
学生服を着たあの頃の尊たちよりも、今の自分のほうが年上で、成人もしているのに、“並ぶだけでお似合い”には、どうすればなれるのか分からないままだった。
(それでも、私は今の自分が大好きだから、私のままで、尊の隣にいたい)
陽も高いうちに稽古が終わり、椿姫は葉山家の正門を出た。
紅葉の季節はとうに過ぎて、木々は丸裸にされて寒そうだ。吐く息は、既に白かった。
椿姫は帰り際に振り向き、芽以を見上げる。
「今日はありがとう。またお稽古お願いね!」
「……分かったから、さっさと帰れ」
まるで犬をあしらうように、しっしと手を払われるが、毛ほども気にせず、椿姫は「あ!」と大きな声をあげた。
次に周りを見渡し、誰もいないことを確認すると、ほんのりと頬を染めて芽以を指さした。
「ら、来週の瑞花祭、芽以は絶対についてきちゃ駄目よっ」
稽古の時よりも余程真剣な眼差しだ。
「はあ? 誰が行くものか」
「今年の瑞花祭は私と尊、二人きりで行くんだからねっ? 今回は芽以はお留守番よ? 分かった? でも別に芽以を仲間外れにしてるわけじゃないのよ?」
「どうでもいいが、羽目を外して尊に迷惑かけるなよ。尊は忙しい中来てくれるんだから、精々感謝することだな」
「もちろんよ! だからとびっきり可愛い私をお披露目して、尊に喜んでもらうの!」
着物姿で、一回転、二回転、最後に片足を可憐に後ろに上げて、片目を閉じる。
幼い頃から変わらない挙動に、最早何も言う気になれずに、芽以は再度しっしと追い払った。
「早く帰れ」
「ええ、またね、芽以!」
尊との瑞花祭が楽しみでもう待ちきれない。
高鳴る胸と共鳴するように軽い足取りで、椿姫は帰路に着いた。
尊と二人だけで過ごす、初めての瑞花祭。
幼い頃は、子どもたちだけで行くのは駄目だと反対されて保護者がいた。
尊に恋人ができてからは、一緒に行ってくれなくなった。
去年は、芽以も含めた三人で行こうと約束していたが、椿姫の体調が悪くなって、行けなくなってしまった。
椿姫は決めていた。
尊に縁談がたくさん来ていると、父が何気なく言った時に、決めたのだ。
(尊に、ちゃんと告白する)
この気持ちが本気なのだと、知って欲しい。
綺麗で、凛としていて、大人っぽい。
当たり前のように隣で笑う尊と彼女は、まるで前世から思い合ってきた、運命の恋人のようだった。
自分が世界で一番可愛いと信じてきた。
だから椿姫は、長い髪を二つに高く結び、フリルがたくさんの赤いワンピースで毎日着飾った。
どんな時でも一番可愛くいたい。
どこにいても一番格好良い尊の隣にいるためには、もっともっと可愛くならないといけない。
そう思っていたけれど。
蓮塔学院の前で尊を待ち伏せしていた時、正門から出てきた尊を見つけて、一目散に駆け寄り飛び付いた。
『うわっ、なんだこのガキ!』
最初に聞こえたのは尊ではない男の人の声で、その後に頭上から溜め息が聞こえた。
『……俺の幼馴染み』
『あ、前に話してた子だ。赤い髪可愛い~。火々里とお揃いじゃない』
可愛い。その言葉に椿姫は顔を上げて、声の主を見た。
学院創立以来、初めて入学を許された話題の女子生徒なのだと一目見て分かった。
『えへへ、あなたも綺麗よ! 袴もかっこいいわ!』
純粋にその人を、噂に違わない素敵な人だと感じた。
『本当? ありがとう。ほんとに可愛いんだけど、この子、歌劇団の子役とか?』
よく言われる褒め言葉でも、何度言われても嬉しいもので、こんなに持て囃される自分は、尊に相応しいのだと、信じて疑わなかった。
『ちがうよ。普通に公家の子。家同士が仲良いんだ』
尊に抱きついたまま、右側にいる大きな男の人をじっと見上げると、素っ気なく目を逸らされる。
『お姉さんとお兄さん、尊のお友達? いつも一緒に帰ってるの?』
男の人は目付きが鋭く少し怖かったけれど、女の人は柔らかな雰囲気で、正に“お姉さん”だ。
尊のことなら何でも知りたい。
ただそれだけの気持ちで軽く聞いた質問に、女の人は『えっと……』と答えにくそうに苦笑いをした。
『なぁに?』
女の人の目が、ちらりと尊を見て、男の人も急に面白おかしそうに口角を上げた。
すると尊が、何の躊躇いもなく答えた。
『火々里は友達で、結衣は――俺の恋人だから、友達じゃない』
あの時の衝撃は、墓に入るまで忘れないだろう。
三日三晩、家に引きこもって泣き続けて父と母を困らせた。
そして最後には、『世界一可愛い椿姫ちゃんが頑張ったら、何でもできちゃうはずよ』と言われて、大復活を遂げたのだ。
◆ ◆ ◆
「やあー!」
「こら椿姫! もっと優雅に美しく! 変な奇声をあげるな!」
ダンッと片足を床につき、扇を持った手を高々と掲げる。
椿姫は今日も伊羅舞踊の稽古に、自主的に励んでいた。
舞踊や神楽、剣舞に長けた芽以に頼み込み、彼の都合がつけば個人練習をしてもらっている。
「ふんっ! てやぁ!」
舞いは静と動が大切。それを意識して、一生懸命に腕を振り上げる。
「お前……っ! 耳はついているのか! 叫ぶなこの下手くそ!」
「ええ! でも私の可愛い声が聞ける方が嬉しいと思わない!?」
「うるさい黙れ! 伊羅舞踊は伝統ある芸なんだぞ! お前の声なんぞいらん!」
聞き捨てならない台詞に、思わず椿姫は頬を膨らませた。
「真面目にやる気がないなら俺は部屋に帰るからな」
「真面目にやってるわ! こっちの方がより良い舞いになると思ってやってるのよ?」
冗談みたいなことを真剣に言う椿姫に、芽以は眉根を寄せ一蹴したくなるが、嘘をつく発想がない人間であることは百も承知だった。
着物を纏い長時間体を動かせば体力も消費する。
椿姫の額や首筋には汗が流れていた。
「……何度も言うが、椿姫は舞いも歌も才能がないから、諦めた方がいいぞ」
歯に衣着せぬ、辛辣な言葉。
大きな深紅色の瞳は揺らぐことなく、ぱちぱちと瞬きをしてから、呆れを滲ませた。
「諦めるなんて有り得ないわ。私は尊に釣り合いたいんだもの。もっと上手になるの」
言って、椿姫は椅子に置いていた水筒を取ると、水を一口飲んだ。
料理も、裁縫も、舞踊も、琴も、華道や茶道も、たくさん頑張らなければならない。
尊のように何でもできる完璧な人に振り向いてもらうためには、可愛いだけでは駄目なのだ。
あの人のようになりたいわけでないけれど、尊に認められるには、きっと努力を重ねなければならない。
学生服を着たあの頃の尊たちよりも、今の自分のほうが年上で、成人もしているのに、“並ぶだけでお似合い”には、どうすればなれるのか分からないままだった。
(それでも、私は今の自分が大好きだから、私のままで、尊の隣にいたい)
陽も高いうちに稽古が終わり、椿姫は葉山家の正門を出た。
紅葉の季節はとうに過ぎて、木々は丸裸にされて寒そうだ。吐く息は、既に白かった。
椿姫は帰り際に振り向き、芽以を見上げる。
「今日はありがとう。またお稽古お願いね!」
「……分かったから、さっさと帰れ」
まるで犬をあしらうように、しっしと手を払われるが、毛ほども気にせず、椿姫は「あ!」と大きな声をあげた。
次に周りを見渡し、誰もいないことを確認すると、ほんのりと頬を染めて芽以を指さした。
「ら、来週の瑞花祭、芽以は絶対についてきちゃ駄目よっ」
稽古の時よりも余程真剣な眼差しだ。
「はあ? 誰が行くものか」
「今年の瑞花祭は私と尊、二人きりで行くんだからねっ? 今回は芽以はお留守番よ? 分かった? でも別に芽以を仲間外れにしてるわけじゃないのよ?」
「どうでもいいが、羽目を外して尊に迷惑かけるなよ。尊は忙しい中来てくれるんだから、精々感謝することだな」
「もちろんよ! だからとびっきり可愛い私をお披露目して、尊に喜んでもらうの!」
着物姿で、一回転、二回転、最後に片足を可憐に後ろに上げて、片目を閉じる。
幼い頃から変わらない挙動に、最早何も言う気になれずに、芽以は再度しっしと追い払った。
「早く帰れ」
「ええ、またね、芽以!」
尊との瑞花祭が楽しみでもう待ちきれない。
高鳴る胸と共鳴するように軽い足取りで、椿姫は帰路に着いた。
尊と二人だけで過ごす、初めての瑞花祭。
幼い頃は、子どもたちだけで行くのは駄目だと反対されて保護者がいた。
尊に恋人ができてからは、一緒に行ってくれなくなった。
去年は、芽以も含めた三人で行こうと約束していたが、椿姫の体調が悪くなって、行けなくなってしまった。
椿姫は決めていた。
尊に縁談がたくさん来ていると、父が何気なく言った時に、決めたのだ。
(尊に、ちゃんと告白する)
この気持ちが本気なのだと、知って欲しい。

