PANDORA・柩灯

 海に沈んでいく途中に考えたのは、このままだと人魚姫のように、泡になっちゃう。

 そんな、どこまでも能天気なことだった。
 自分は生まれた時からお花のように大事にされてきたお姫様ではあったけれど、本当に泡になって消えたいわけではないのに。


 八歳の夏、運命を教えてくれた日のこと。


「――えぇっ! 尊、釣りに行っちゃったの?」

 仁々樹(ににぎ)家に走って行くと女中長のハルヨが出てきて、尊(みこと)と芽以(めい)が山染地区の海へ行ったと教えてくれた。
 椿姫(つばき)は、前日に二人と交わした会話を思い出す。

『明日は釣りに行くから、椿姫は留守番だ』

『どうして? 椿姫も行く!』

『お前はうるさいからもう連れていかない。この前もギャアギャアさわいで、全っ然釣れなかったんだぞ!』

『どうしてそんないじわる言うの? 芽以のばか! 行くったら行くもん!』

『だめだ! ついてきたら承知しないからな!』

 ただの冗談、いつもの軽口。
 芽以が厳しいのは日常だから、今回もきっとそう。

『……椿姫、明日は俺と芽以で行ってくるから、また釣りが終わったら迎えに行く』

 そう思ったのに、尊も宥めるように頭を撫でて、待ち合わせ場所も時間も教えてくれなかった。
 そんなことを言いながらも、きっと連れて行ってもらえると、今日尊の家まで訪ねたが、まさか本当に置いていかれてしまうとは、驚きだった。

「海ならあそこしかないから、わかるもん!」

 椿姫は被ってきた麦わら帽子をしっかりと頭に押し込み、一人で走り出した。

 蓮塔(れんとう)地区と隣接する山染地区は、緑豊かで自然がきらめく原風景が広がる。
 何度も三人で行ったことがあるため、考えなくても道が分かった。

「あっ、自転車!」

 尊と芽以が乗っている自転車がぽつんと停めてあり、浜辺を一望した。
 しかし、人ひとりおらず、彼等が既に船に乗って海へ出てしまったあとだと分かった。

「もうっ、どうして置いていくのっ?」

 椿姫は浜を歩くには適さないパンプスで砂を踏みしめて、多くの船が繋がれた桟橋に行く。

 仲間外れは嫌だ。

 その感情だけが先行して、椿姫は意地になっていた。
 一番手前に繋がれて乗りやすそうだった船になんとか乗り込み、係船柱(けいせんちゅう)に引っ掛けてあった紐を外す。
 普段は尊か芽以しか触らない木板の櫂(かい)を手に取り、水平線を見つめた。

「はやくおいつかなくちゃ」

 いつもは尊か芽以が持つそれで、船を漕いだ。


 ◆ ◆ ◆



「――結構釣れたんじゃないか?」

 海に一隻だけ浮かぶ和船には、魚でいっぱいになった魚篭があった。
 朝早くから出て、様々な場所に船を移動させた甲斐があるというものだ。
 芽以は嬉しそうに釣果を見て、頬を染める。

「こんなに釣れたの初めてだ! たくさん食べれるぞ!」

「良かったな。腹も減ったし、そろそろ戻るか」

「ああ!」

 今日作ってもらう魚料理の話をしながら船を漕いでいると、ふいに芽以が言う。

「ほらな、やっぱり椿姫のせいで釣れなかったんだ。これからも椿姫は不参加決定だな」

 はっと鼻で笑う表情は「俺の言う通りだった」と言わんばかりだが、尊は眉を下げて小さく笑う。

「そう言うなよ。椿姫も楽しんでるだけで、悪気はないだろ?」

「悪気があるかないかはどうでもいい。結果的にいない方が釣れたから、これからは連れていかない」

「まったく……」

 暫く、穏やかな海の上、船を漕ぎ続けた。
 朝を超えて陽射しがより強くなる前に帰りたい。
 そんなことを考えていた時だった。
 向かいに座る芽以が、僅かに目を見開いた。

「なんだあれ……」

 芽以が見つめる方へ顔だけ振り向けば、一隻の船だけが浮いていたのだ。
 櫂も人もなく、宛もなく彷徨うように。
 尊はなんとなく気になって、その船に近付き、中を覗き込む。

 瞬間、群青の双眸が瞠目して固まってしまった。

「何あったのか?」

 芽以の気のない声が、遠くに聞こえる。

 船の中には、見覚えのある水筒と、小さな赤い鞄、それから赤い靴が片方だけ、無造作に転がっていた。

「つば、き……」

 誰にも聞こえない呟きが自然と唇から溢れる。

 可愛いのが良いと言って、彼女の父が外国から仕入れた少女らしい水筒は、椿姫以外が持っているところを、見たことがなかった。
 肩から鞄と水筒を提げて、いつも着いてきていた。

 尊の息が無意識に震えた。

「芽以、先に浜に戻れ」

 尊は持っていた櫂を芽以に半ば無理矢理持たせる。

「え?」

「一番近い診療所に行って、医者を呼んで来てくれ」

 持っていた物、背負った物、全てを下ろして着物も脱いだ。
 それに戸惑う芽以も、尊が目にした船の中を見て、顔を真っ青にした。

「み、みこと、あれ、椿姫、の」

「分かってる。お前は慌てずに浜に戻るんだ、いいな」

「あいつ、泳げないのに……っ」

「大丈夫だから、お前は医者を呼んでこい。頼んだぞ」

 そう言うやいなや、尊は躊躇なく海に飛び込んだ。
 名前を呼ぶ芽以の声が聞こえたが、構わずに海中を縦に横に進んで行った。
 規律正しく忠実な芽以ならば、必ず言われたことを遂行するはずだから大丈夫だと、自身に言い聞かせて。

 椿姫を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
 息継ぎを三度目繰り返したあと、力なく海中に揺蕩う赤色を見つけ、尊は急いで空の方へと引っ張りあげた。

 名前を何度も呼ぶが、椿姫は小さな体をぐったりとさせ何の反応も返さない。
 不幸中の幸い、見つけた場所から遠くなかった浜辺に戻ることができ、尊は椿姫の体を揺する。

「椿姫、椿姫!」

 青白い顔はぴくりとも動かない。
 手首を掴めば僅かに脈は感じられたが、肩も胸も動かず、呼吸をしていないのだと気付く。
 尊の頭の中は真っ白になってから、一瞬にして数々のことが脳内を駆け巡った。

 一緒に連れて行かなかったから。
 椿姫なら無理にでも着いてくると、予想できたはずだ。
 芽以はまだか。
 一刻も早く救命処置をしなければ。
 このまま、椿姫は――。

 少し先の最悪の未来を想像して、体の芯が恐ろしいほど冷えて、今までないほどに全身が震えていた。

(椿姫が、死ぬ)

 そう思った途端、止まったままではいられなかった。
 学院で覚えた救命処置が、自然と体を動かした。
 仰向けに寝かせたまま気道を確保し、小さな鼻を摘んで顎に手を添える。
 尊は深く息を吸い込むと、椿姫の口から息を吹き込んだ。
 胸が微かに持ち上がった。
 もう一度、繰り返す。
 何度繰り返したか数える余裕もなく、無我夢中だった。
 幾度目かの時、動かなかった体がビクリと跳ねて、それから咳き込んだ。

「げほっげほっ」

「椿姫!」

 ようやく反応が返ってきたことで、肩を撫で下ろしたが、激しい咳のあとに、椿姫が胃の中のものをもどしてしまい、慌てて体を横に向けた。

「げほっ、ごぼっ……う……」

 頼むから目を開けて欲しい。
 神にも縋る思いで、揺れる瞳で見つめる。

 その時、薄く、ぼんやりと椿姫の瞼が開かれて、紅玉が露わになった。

「つばき……良かった……俺が、分かるか?」

 まだ生気のない目は虚ろだったが、呼吸が戻ったことに安堵して尊は不器用に口角を上げた。
 赤みの消えた頬や、ずぶ濡れの体。寒いはずに違いない。
 少しでも自身の熱を分けてやりたくて、丸い頬に手のひらを当てた。

「……ま……」

「ん?」

 椿姫の唇が動く。
 陽射しが燦々と降り注ぐ厳しい夏の昼だということを、ようやく思い出す。
 波の音と蝉の鳴き声がずっとあることに、今しがた気付いた。

(まだ油断はできないけど、良かった……)

 学院で得た知識だけで救えるのか不安で堪らなかった。
 どれほど兄らしく振舞おうと、尊はたった十三歳の子どもでしかなく、目頭が思わず熱くなってしまった。
 

「……おうじ、さ、ま……」

「え?」

 急に、よく分からないことを椿姫が呟いて、本当に意味が分からずに、尊は聞き返してみたが、椿姫はプツリとまた気を失ってしまった。

 その後、近くの診療所に運ばれて、適切な処置をされた。
 寝台で眠る姿は、いつもの陽気さはなくぐったりとしており、彼女の両親も駆け付けて、ずっと娘の手を握り涙ぐんでいた。
 医者は「命に別状はない」と診断したが、誰一人として生きた心地がしなかった。



 ◆ ◆ ◆



 目が覚めた時に一番最初に視界に入ったのは、自分と同じ髪色をした、大好きな母の泣き顔だった。

 泣きながら、力いっぱい手を握られて「いたいよ」と声を出そうとしたが、咳込んで言えなかった。
 医者による診察を終え、念のために一日だけの入院が決まった。
 特に異常はないと言われ両親は良かったと安心するけれど、椿姫の頭の中は、既に別のことでいっぱいだった。

「……椿姫の、かばん、は……?」

 お気に入りの真っ赤な鞄が、見当たらない。
 途切れ途切れの声に覇気はなかったが、何とも呑気な言葉は、いつも通り変わらない。
 母は眉を下げて、目を細める。

「また買えばいいわ。椿姫ちゃんが無事なことが、一番大事なんだから」

 父が外国から取り寄せてくれたせっかくの物でも、微かにも怒らず、ただただ心配をしてくれる。
 嬉しいはずなのに、椿姫は悲しくて悲しくて、じんわりと涙を滲ませた。

「み、尊と、芽以に、あげようと思って、おやつ入れてたのぉ……っ」

 言ってしまうと、より一層悔しくなり、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出る。

「つばき、こっそり、おいてたの……っ、うっ、外国の、めずらしいやつだから……っ」

 嗚咽で、お腹や肩が跳ねた。
 今日は船の上で、三人で菓子を食べたかったのだ。
 食べることが好きな芽以が喜んでくれる。
 尊が笑って頭を撫でてくれる。
 楽しみにしていたものがなくなってしまって、悔しくて涙が止まらなくなった。

「お前、馬鹿なのか……!」

 すると、どこからか芽以の声が聞こえてきて、椿姫は仰向けのまま目をきょろきょろと泳がせた。
 父と母の向こう側に、芽以と尊がいた。

「おやつってなんだよ! そんなことのために、一人で船に乗ったのか!」

 急に大きな声で怒られて、椿姫はぼんやりとした視界で芽以をじっと見た。
 顔を真っ赤にして、肩を怒らせていた。
 声変わり前の高く鋭い声だった。

「泣く理由がおかしいだろ! おやつって、なんだよ! おまえ、本当に……!」

 そこで芽以は言葉を詰まらせて、ぐっと唇を噛み締めた。
 みるみるうちに、さらに顔は赤くなり、美しい碧眼が膜を張っていった。

「ふざけるな……! この、ばかぁ! もう椿姫なんかっ、知らない……!」

 芽以は次から次へと涙を流して、思いのままに叫んだ。
 恥もなく声を上げて泣く姿を見て、椿姫は自分がしたことで、どれほど周りが傷付いたのかを知った。

「……芽以くん、椿姫がごめんなぁ。心配してくれてるんだよね」

 父が椅子から立ち、芽以の頭を撫でながらそう言った。

 ――心配。

 どうしてひどいことを言うのと、悲しくなったことが吹き飛び、再び椿姫も泣いてしまった。

「ごめん、なさいぃぃっ、ごめんなさ……ごめんなさいぃ……っ」

 布団を握りしめ、必死に謝った。
 椿姫と芽以が号泣する中、尊は困った表情で二人を交互に見て、暫く見守った。
 椿姫の父と尊は芽以を、母は椿姫をひたすら宥めた。

 大泣きから静かな嗚咽に変わる頃、ようやく落ち着き始めた椿姫は、鼻を啜りながらも、眠そうに瞼を閉じたり開いたりをした。
 溺れてからそのまま泣き続けて、体力は限界に近かった。

「椿姫」

 ずっと芽以の隣にいた尊が寝台の横に来て、眉尻を下げながらも微笑む。
 そして壊れ物に触れるように、頭を撫でてくれた。

「お菓子、持ってきてくれたんだな。ありがとう。また今度、一緒に食べよう」

 天井にある照明、窓から差し込む光が、尊の灰色の髪をきらきらと照らしていた。
 海色の瞳が穏やかに煌めいていたのは、尊も泣きそうだったからだろうか。

 溺れてから最初に目が覚めた時、やっぱり尊だと思った。
 海に沈んで苦しくて、もう泡になってしまうと諦めかけたけれど、やっぱり尊が救ってくれた。

 毒林檎を食べたお姫様を助ける王子様のように。

「……うん」

 自分や芽以よりも大きな手で撫でられる感触が心地良く、椿姫はうつらうつらと目を細めて、ほんの少しだけ頬を緩ませた。



 ◆ ◆ ◆



 ――自然と目が覚めた時、妙に頭がすっきりとしていた。

 尊は寝台から起き上がり、窓の外を見る。
 家に帰ってきた時はまだ真上に太陽があったはずなのに、もう夕焼けさえ見えない。
 病院まで椿姫がわざわざ迎えに来て、強引に帰宅させられたのだと思い出す。
 額に手の甲を当てる。
 明日は出勤しても問題なさそうだ。

 台所に行くと案の定の光景が広がり、幻覚かと思い、眼鏡をかけていない瞼を擦った。

「あら、起きたのね! 具合はどう?」

 長い髪をひとつに結んだ椿姫は、菜箸で料理を盛り付けている最中だった。

「椿姫……これは……」

「うふふっ、座って座って! ご飯は食べられる? お薬飲まなきゃいけないから、少しは食べて欲しいわ!」

「……まあ、食べられるが……」

 肩を押されて無理矢理座らされ、卓上の数々の皿を見て、尊は呆然とした。
 椿姫はそんなことにもお構いなしに、嬉々として説明を始める。

「まずこれは看病の鉄板、おかゆ! 梅干しと昆布があるわ。でもおかゆで満足できなかったらいけないと思って、御雑炊も作ったからね! とっても健康に良いって聞いたから、すっぽんで出汁をとったの!」

「……豪華だな」

 御雑炊には、更に蟹身と貝柱が見える。

「あと、お野菜たっぷりのお味噌汁と、さっぱりした物もいるかもと思って、白菜の浅漬け。お魚も恋しいかしら? って考え出すと止まらなくて、とりあえず鯛の煮付けも作ったの。甘いものが欲しくなったら、すりおろし林檎もあるからね!」

 病人食と呼ぶには豪勢な献立と、とても一人では食べきれない量。
 木花(このはな)家という名家で蝶よ花よと愛され、甘やかされている椿姫の金銭感覚は、同じ公家同士とは思えないほど外れている。
 この短時間で一体どこからすっぽんや蟹を買ってきたのか、気になったが考えるのをやめた。

 椿姫は箸と匙を用意して、尊の目の前に置いて無邪気に笑った。
 何の邪心もないその顔を見ていると、昔から、複雑に考えていたことがどうでも良くなる。
 今日もそれは同じで、尊は小さなため息をついて無意識に笑ってしまった。

「……ありがとう。いただきます」

「うん! 絶対においしいからね!」