『ごめん、なさい……護珠家に、嫁ぐことに、なったの』
俯き、申し訳なさそうに、震える声で言う彼女と、瞠目する尊。
彼女の黒い髪が、袴の裾が風に揺れる。
彼女の十九歳の誕生日は何を渡そうと、呑気なことを考えていた時分だった。
護珠家――出雲地区の宗家。
代々言遣いが生まれ、地上で最も安定した統治を叶えているのは、護珠家が治める出雲地区だった。
彼女は、蓮塔学院に入学を果たした史上初の女生徒だ。
柩地区から通う火々里と並び、良くも悪くも注目の的だった。
いつ、彼女に手が届かなくなるのだろうと、ふいに不安が過ぎる瞬間が、幾度となくあった。
だから尊は、心のどこかでこんな日がくるような気がしていた。
『……』
女の緊張感など、この時の尊には気付く余裕もなかった。
『……分かった。今までありがとう……幸せになってくれ』
迷う時間は、僅かにもなかった。
諦めるしかない。
彼女の――結衣の未来や境遇を思えば、送り出すべきだったからだ。
自分は宗家の長男だったが、言遣いではなかった。
嫡子ではない。パンドラも持っていない。
家柄に恵まれた、ただの優等生でしかなかった。
一方で結衣は、皇族に嫁ぐかもという噂が流れるほどの才媛だ。
これが正しい結末だと、納得するしかない。
しかし、尊は結衣の表情を見て、目を見張った。
ひどく傷ついた顔をして、今にも溢れそうな涙を目の縁に溜めていた。
間違えたのだと、分かった。
それでも引き止めてもいい資格も、勇気もなかった。
『今まで、ありが、とう……ごめん』
そう言って去りゆく結衣の手を掴むことも、追いかけることも、できなかった。
人生で初めて本気で好きになった人との別れは、驚くほど呆気なかった。
◆ ◆ ◆
「――おい尊、生きてっか」
霞んだ視界に、眩しい明かりと、天井。そして赤色がぼんやりと映った。
「……ん……」
「おい、もう一つ氷嚢持ってきてくれ」
「は、はい!」
尊が起き上がろうとした時、頭の痛みで顔を歪めた。
「起きるな、寝てろ」
火々里の端的な命令に、自然と従う。
今の自分の現状を把握したが、ネクタイが緩められた格好で、寝台に仰向けになっている。
「……すまない。倒れたのか、俺は」
「頭にデカい本が何冊も落ちてきてな」
「……ああ……そういえば、そうだった」
書庫で、事務員が古文書や文献の整理をしていたのだが、小さな地震に驚いた事務員が本棚にぶつかり、その衝撃で本が落ちてきた。
事務員を庇った尊に。
「ついでに熱もある。朝から具合悪かったのか?」
「……そういえば、だるかったな。気付かなかった」
「なんでだよ。一先ず検査入れたから、総合病院でレントゲン撮ってこい」
「……そうか、迷惑かけたな」
夏が過ぎ、並木道が赤や黄色に染まっている。
馬車の車窓から見える街はすっかり秋めいて、火々里や芽以が食べすぎる季節が来たなと、ぼんやりと考える。
結衣の誕生日も、もうすぐだった。
総合病院に着き、待合室の椅子に座っていると、小さな子どもと手を繋いだ女性が少し離れた場所に座る。
尊はすぐに誰か気づき、そっと席を離れようとしたが、女性が気づいてしまい、声をかけてくる。
「……尊?」
結衣だった。
声を掛けられたからには、他人のふりをするわけにもいかず、潔く諦めて肩から力を抜いた。
「……久しぶりだな」
尊は苦笑に近い表情だったが、決して再会を疎む雰囲気ではない。
「驚いた。尊でも病院に行くんだ」
そして結衣は何一つ変わらない口調で、軽口を叩く。
からかい混じりで、気安い。
夜会で顔を合わせることはあれど、一対一で話す機会は長らくなかった。
「まあ、ちょっと鈍臭いことをしてな、レントゲンだ」
公家の女性らしく着物を纏い、髪を纏めているけれど、口を開けば、あの頃のまま気さくだ。
「あはは、 珍しい。鈍臭い尊なんて見たことない」
「そんなことないだろう」
格好がつかなかったことなんて、結衣や火々里の前ではたくさんあったように思う。
蓮塔学院を卒業して、まだ十年も経っていないのかと、ふいに懐かしくなった。
「お母さん、おしっこいきたい」
すると、尊からは見えないように、結衣の陰に隠れていた少年が、着物を引っぱった。
その大きな目は探るように、尊を見ている。怖いものか敵を見る目だった。
少年は鼻声で、頬が赤い。
「はいはい、御手洗まで我慢してね」
優しい顔立ちなのに意志の強そうな幼い瞳は、母親にそっくりだ。
尊は睨まれてしまったと気まずさを覚えながらも、小さく微笑んでみたが、すぐに顔を逸らされた。
「もう……ご挨拶は?」
「いいよ。しんどいだろうから」
「お母さん、はやく」
少年が急いでこの場所から母を引き離したい理由は、なんとなく尊にも理解できた。
「わかったわかった。それじゃあね、尊」
「ああ。お大事に」
「ありがとう。尊もね。火々里にも、よろしく」
気高く、清廉で、気軽に人を寄せ付けなかった幼さは、もうない。
結衣はただただ愛おしそうに我が子を見つめ、優しく触れ、異国神話に出てくる女神・パンドラのように慈愛に満ちていた。
少年はぐいぐいと結衣の手を引っ張って行き、やがて二人の背中は見えなくなる。
母親になった彼女は、幸せそうだった。
「けほっ……」
小さな乾咳が、虚しく吐きでた。
レントゲンの結果、頭部の異常はなく、解熱剤だけを処方されて病院から出た。
白律庁に戻って仕事の続きをやらねばと考えていると、今あまり聞きたくはない声で「尊!」と呼ばれて、固まった。
声がする方へ渋々振り返れば、案の定赤いワンピースがひらひらと踊りながら、こちらへ駆けてきた。
その手には、尊が置いていった仕事用の鞄まであった。
「大丈夫だったの!? 頭を打ったって聞いて、慌てて飛んできたの!」
子犬のような高い声に、尊は顔を顰めて椿姫がいる方の耳を塞ぐ。
「お前……また局長室に来たのか。あそこは遊び場じゃないと何度言えば……」
「でもでもそのおかげで、尊の具合が悪いって知れたわ! ほら、あそこに馬車を待たせてるの、帰りましょ!」
耳を塞いだはずが、その腕を引っ張られてぐいぐいと大通りへと誘導される。
「悪いが俺は白律庁に戻るから、椿姫も、今日は幽泉堂にでも行ってきてくれ」
今のこの体調で、仕事と椿姫を捌く元気はさすがにない。
子どもをあしらうように言ってみたが、椿姫は衝撃を受けた表情で振り向いた。
「だめ! 今日はもうお仕事はおしまい! 火々里に“俺ができる処理はやっとくから、今日は連れて帰れ”って言われたの!」
まったく似ていない火々里の物真似を披露しながらも、椿姫は歩き続け、馬車の傍らに着く。
「はいどうぞ! また私も尊のお仕事手伝ってあげるから、今日はお家に帰りましょ!」
「椿姫が見てもいい書類は一枚もないんだがな」
「じゃあお茶汲みをしたり、肩揉みをしたり、応援係をやってあげる! 椿姫に応援されると、みーんなやる気が出ちゃうんだから!」
暗に、「白律庁に帰りたい」と言っているのだが、椿姫は無邪気に、今日も自信満々の笑顔だ。
押しの強さと、話の通じなさは相変わらずで、尊はやれやれとため息をついて、大人しく帰ることを決めた。
尊の家に着くと、椿姫は強引に尊を寝室に押し込み、「期待してゆっくり寝ててちょうだい!」と、台所に向かった。
「……帰らないのか……はあ……」
できれば早々に帰って欲しかったのだが、椿姫は一度言い始めると梃子でも動かない。
幼い頃は「有言実行で偉いな」と褒めたものだが、大人になった今は、もう少し柔軟でいてほしいとも思う。
「……今更か」
もうすべてを諦めて寝るしかないと、半ばやけくそになり、尊は部屋着に着替えて眠りにつくことにした。
俯き、申し訳なさそうに、震える声で言う彼女と、瞠目する尊。
彼女の黒い髪が、袴の裾が風に揺れる。
彼女の十九歳の誕生日は何を渡そうと、呑気なことを考えていた時分だった。
護珠家――出雲地区の宗家。
代々言遣いが生まれ、地上で最も安定した統治を叶えているのは、護珠家が治める出雲地区だった。
彼女は、蓮塔学院に入学を果たした史上初の女生徒だ。
柩地区から通う火々里と並び、良くも悪くも注目の的だった。
いつ、彼女に手が届かなくなるのだろうと、ふいに不安が過ぎる瞬間が、幾度となくあった。
だから尊は、心のどこかでこんな日がくるような気がしていた。
『……』
女の緊張感など、この時の尊には気付く余裕もなかった。
『……分かった。今までありがとう……幸せになってくれ』
迷う時間は、僅かにもなかった。
諦めるしかない。
彼女の――結衣の未来や境遇を思えば、送り出すべきだったからだ。
自分は宗家の長男だったが、言遣いではなかった。
嫡子ではない。パンドラも持っていない。
家柄に恵まれた、ただの優等生でしかなかった。
一方で結衣は、皇族に嫁ぐかもという噂が流れるほどの才媛だ。
これが正しい結末だと、納得するしかない。
しかし、尊は結衣の表情を見て、目を見張った。
ひどく傷ついた顔をして、今にも溢れそうな涙を目の縁に溜めていた。
間違えたのだと、分かった。
それでも引き止めてもいい資格も、勇気もなかった。
『今まで、ありが、とう……ごめん』
そう言って去りゆく結衣の手を掴むことも、追いかけることも、できなかった。
人生で初めて本気で好きになった人との別れは、驚くほど呆気なかった。
◆ ◆ ◆
「――おい尊、生きてっか」
霞んだ視界に、眩しい明かりと、天井。そして赤色がぼんやりと映った。
「……ん……」
「おい、もう一つ氷嚢持ってきてくれ」
「は、はい!」
尊が起き上がろうとした時、頭の痛みで顔を歪めた。
「起きるな、寝てろ」
火々里の端的な命令に、自然と従う。
今の自分の現状を把握したが、ネクタイが緩められた格好で、寝台に仰向けになっている。
「……すまない。倒れたのか、俺は」
「頭にデカい本が何冊も落ちてきてな」
「……ああ……そういえば、そうだった」
書庫で、事務員が古文書や文献の整理をしていたのだが、小さな地震に驚いた事務員が本棚にぶつかり、その衝撃で本が落ちてきた。
事務員を庇った尊に。
「ついでに熱もある。朝から具合悪かったのか?」
「……そういえば、だるかったな。気付かなかった」
「なんでだよ。一先ず検査入れたから、総合病院でレントゲン撮ってこい」
「……そうか、迷惑かけたな」
夏が過ぎ、並木道が赤や黄色に染まっている。
馬車の車窓から見える街はすっかり秋めいて、火々里や芽以が食べすぎる季節が来たなと、ぼんやりと考える。
結衣の誕生日も、もうすぐだった。
総合病院に着き、待合室の椅子に座っていると、小さな子どもと手を繋いだ女性が少し離れた場所に座る。
尊はすぐに誰か気づき、そっと席を離れようとしたが、女性が気づいてしまい、声をかけてくる。
「……尊?」
結衣だった。
声を掛けられたからには、他人のふりをするわけにもいかず、潔く諦めて肩から力を抜いた。
「……久しぶりだな」
尊は苦笑に近い表情だったが、決して再会を疎む雰囲気ではない。
「驚いた。尊でも病院に行くんだ」
そして結衣は何一つ変わらない口調で、軽口を叩く。
からかい混じりで、気安い。
夜会で顔を合わせることはあれど、一対一で話す機会は長らくなかった。
「まあ、ちょっと鈍臭いことをしてな、レントゲンだ」
公家の女性らしく着物を纏い、髪を纏めているけれど、口を開けば、あの頃のまま気さくだ。
「あはは、 珍しい。鈍臭い尊なんて見たことない」
「そんなことないだろう」
格好がつかなかったことなんて、結衣や火々里の前ではたくさんあったように思う。
蓮塔学院を卒業して、まだ十年も経っていないのかと、ふいに懐かしくなった。
「お母さん、おしっこいきたい」
すると、尊からは見えないように、結衣の陰に隠れていた少年が、着物を引っぱった。
その大きな目は探るように、尊を見ている。怖いものか敵を見る目だった。
少年は鼻声で、頬が赤い。
「はいはい、御手洗まで我慢してね」
優しい顔立ちなのに意志の強そうな幼い瞳は、母親にそっくりだ。
尊は睨まれてしまったと気まずさを覚えながらも、小さく微笑んでみたが、すぐに顔を逸らされた。
「もう……ご挨拶は?」
「いいよ。しんどいだろうから」
「お母さん、はやく」
少年が急いでこの場所から母を引き離したい理由は、なんとなく尊にも理解できた。
「わかったわかった。それじゃあね、尊」
「ああ。お大事に」
「ありがとう。尊もね。火々里にも、よろしく」
気高く、清廉で、気軽に人を寄せ付けなかった幼さは、もうない。
結衣はただただ愛おしそうに我が子を見つめ、優しく触れ、異国神話に出てくる女神・パンドラのように慈愛に満ちていた。
少年はぐいぐいと結衣の手を引っ張って行き、やがて二人の背中は見えなくなる。
母親になった彼女は、幸せそうだった。
「けほっ……」
小さな乾咳が、虚しく吐きでた。
レントゲンの結果、頭部の異常はなく、解熱剤だけを処方されて病院から出た。
白律庁に戻って仕事の続きをやらねばと考えていると、今あまり聞きたくはない声で「尊!」と呼ばれて、固まった。
声がする方へ渋々振り返れば、案の定赤いワンピースがひらひらと踊りながら、こちらへ駆けてきた。
その手には、尊が置いていった仕事用の鞄まであった。
「大丈夫だったの!? 頭を打ったって聞いて、慌てて飛んできたの!」
子犬のような高い声に、尊は顔を顰めて椿姫がいる方の耳を塞ぐ。
「お前……また局長室に来たのか。あそこは遊び場じゃないと何度言えば……」
「でもでもそのおかげで、尊の具合が悪いって知れたわ! ほら、あそこに馬車を待たせてるの、帰りましょ!」
耳を塞いだはずが、その腕を引っ張られてぐいぐいと大通りへと誘導される。
「悪いが俺は白律庁に戻るから、椿姫も、今日は幽泉堂にでも行ってきてくれ」
今のこの体調で、仕事と椿姫を捌く元気はさすがにない。
子どもをあしらうように言ってみたが、椿姫は衝撃を受けた表情で振り向いた。
「だめ! 今日はもうお仕事はおしまい! 火々里に“俺ができる処理はやっとくから、今日は連れて帰れ”って言われたの!」
まったく似ていない火々里の物真似を披露しながらも、椿姫は歩き続け、馬車の傍らに着く。
「はいどうぞ! また私も尊のお仕事手伝ってあげるから、今日はお家に帰りましょ!」
「椿姫が見てもいい書類は一枚もないんだがな」
「じゃあお茶汲みをしたり、肩揉みをしたり、応援係をやってあげる! 椿姫に応援されると、みーんなやる気が出ちゃうんだから!」
暗に、「白律庁に帰りたい」と言っているのだが、椿姫は無邪気に、今日も自信満々の笑顔だ。
押しの強さと、話の通じなさは相変わらずで、尊はやれやれとため息をついて、大人しく帰ることを決めた。
尊の家に着くと、椿姫は強引に尊を寝室に押し込み、「期待してゆっくり寝ててちょうだい!」と、台所に向かった。
「……帰らないのか……はあ……」
できれば早々に帰って欲しかったのだが、椿姫は一度言い始めると梃子でも動かない。
幼い頃は「有言実行で偉いな」と褒めたものだが、大人になった今は、もう少し柔軟でいてほしいとも思う。
「……今更か」
もうすべてを諦めて寝るしかないと、半ばやけくそになり、尊は部屋着に着替えて眠りにつくことにした。

