PANDORA・柩灯

「汐(うしお)さんって素敵よね……」

 ほうっとため息をついて、ユウナが微かな声で呟いた。
 その目は恍惚として、秘伝書を解説する汐を見つめていた。
 あどけなさを残す丸い頬は可憐に色付いて、唇の色もいつもより濃い気がした。

 シロナは、少し離れた席から汐の横顔を見る。
 優しげな眼差しと、艶のある黒髪。
 元・魂人(たまびと)の割に、病的に白過ぎない肌。
 質問に答える声は、子守唄のように心地好い。

 依月(よつき)家の秘伝書の調合は難易度が高く、記載通りに作っても上手くいかないものが多いようだった。
 それを見越してか、汐自らが夜辺(よるべ)家の薬師たちに講義を開いてくれたのだ。

 隣でうっとりしているユウナは、まだ十五歳の娘だというのに、とりわけ薬師の才能があった。
 故に汐の講義にほとんど強制参加をさせられて、最初は文句を言っていた。

「はぁ……あと何回くらい来てくれるんだろ」

 それが今や、汐が来る日を楽しみにしているのだ。

「ユウナさん」

 すると、思わぬところから名を呼ばれて、ユウナが「は、はいっ!?」と飛び上がった。
 あの青紫色が、困ったようにユウナを、こちらを見ていた。

「ちゃんと聞いておられますか?」

「はっ、は、はい……っ」

 淑女らしからぬ様子で頬杖をつき、無駄口を叩いていたはずなのに、汐からの視線一つで、ユウナはしおらしく返事をして居住まいを正す。
 まさか彼が一参加者、それも年少の、ただの少女の名前を把握しているとは思わず、シロナも驚く。

 汐という男が夜辺家に再び来るとなった時、それはそれは、騒ぎになった。

 軟禁状態を強いられた九日間を恨んでいるだろう。
 薬を盛られたことを許さないだろう。
 挙句の果ては、あの和雅(かずまさ)を説き伏せて地下へ帰還した。

 報復にでもやってくるのかと誰もが警戒する中、行われた講義。
 所作も言葉遣いも美しく、頭も良い。
 決して声を荒げず、感情の起伏もない。
 懇切丁寧に調合法を教え、時には軽い冗談も言って場を和ませてくれた。
 そして何より。

「秘伝書の調合は難しいですから、聞き漏らさないようにしてくださいね」

 ――相手が女でも、子どもでも、対等に扱ってくれた。

「はい! がんばります!」

 ユウナが目をきらきらとさせて、はきはきと返事をする。
 そんな彼女を横目に見て、シロナは瞼を伏せた。

 汐の講義が終わると、皆が調合室から出ていく。
 参加していた婦女たちは、髪を手で軽く整えてから汐に挨拶をして帰っていくのだ。
 硬派な堅物が多い男性陣も、汐を下に見ることはなく、礼儀を払って帰っていく。

 窓ひとつない調合室の中、シロナは机に広げた帳面を眺めて、小さくため息を漏らした。

(ユウナは、すごい。私は、全然追いつけない)

 ユウナよりも二つも年上なのに、薬学への理解が浅いままだと、シロナは膝で着物を握り締めた。

 夜辺家当主の三女として生まれ、人より多く、学びの機会を与えられたはずが、何をしても良くて平均点の、凡人だった。

 誰もが「汐さんの講義はわかりやすい」と賞賛するから、シロナも空気を読み賛同したけれど、秘伝書を解説されても調合はできないままだった。

 頭の良い人に紛れた凡人の辛さは、誰にも分からない。

「……こんなだから、私……っ」

 父に命じられた場面が、脳裏をよぎる。
 汐の部屋に行き、相手になれと言われた瞬間、「用無し」だと言われた気がした。
 兄と姉たちは優秀な薬師として、一族の力になっている。
 だから、少しは家の役に立たなければと、自分を奮い立たせて、寝所へ向かった。
 結局のところ、シロナは汐の部屋にすら入れなかった。

 毒針のように鋭く、容赦ない拒絶に怖気付き、逃げ帰った。
 講師としての汐は確かに素晴らしい人だった。
 だが、あの眼光を向けられたシロナは、未だに依月汐という男は恐ろしいままだ。

 天才と名高い依月汐から教われば、何か変わるだろうかと、期待なんてすべきではなかった。
 役立たずはどこまでいっても、役立たずでしかない。

 じわりと、目頭が熱くなる。

「――分からないところでもありましたか?」

「……」

 瞬間、真横から声が降ってきて、シロナは硬直した。
 帰ったはずの依月汐の声だと脳が理解するが、いつの間に隣まで来ていたのか分からない。

「おや、私の発言の一言一句まで纏めているんですか。すごいですね」

 帳面を見て感心されるけれど、殴り書きの乱れた文字や図を、この完璧な人に見られることが恥ずかしくて、シロナは慌てて帳面を閉じる。

「っか、書いてるだけじゃ、意味ないです」

 咄嗟に出てきた言葉が、思いのほか生意気ですぐに後悔する。
 あの日からまともに話すのはこれが初めてだった。
 汐はこちらのことなど、覚えてすらいないだろうが。
 去る勇気もなくしばらく俯いていると、徐に、汐が何故か目の前に椅子を持ってきて、座ってしまった。

「あの……?」

 恐る恐る顔を上げる。
 奥に何かを隠している瞳は良く言えば神秘的だが、誰にも踏み込ませない境界線だ。
 それでもやはり、美しかった。
 人格が、心が、容姿が、どれもが周りとは一線を画していた。

 夜に生きる、美しい化け物にしか見えなかった。

 その化け物が、獲物を食らうための口を開いた。

「……シロナさん、でしたね」

「え……」

 名を確認され、思わず瞠目した。
 首を傾げながら「ちがいましたか?」と聞かれて、慌てて頷いた。

「今日の調合、なかなか複雑だったので、分かりにくかったかなと思いまして」

「いえ、そんな……」

「私も人に教えるのは初めてなので、どこが分かりづらいか、教えてもらえるとありがたいのですが」

 口調は柔らかく腰は低いのに、有無を言わせない、不思議な圧がある。
 シロナは、元宗家の嫡子相手に厚かましいのでは? と躊躇うが、じっと見られると耐えられなかった。

「……大変、申し上げにくいのですが」

「ええ、どうぞ。ご遠慮なく」

「……本当は、初日から、全く理解できていませんでした……」

 それを聞き、汐はぱちぱちと、やや大袈裟に目を瞬かせて「なるほど」と呟いた。

「いえ、あのっ、汐さんの教え方じゃなくて、私が悪いんです。他の人たちはわかりやすいって言ってました」

 まるで汐を否定しているようで居た堪れず、急いで弁明してみるが、こんな程度で彼の鋼の仮面が動くわけもなかった。

「それは光栄なんですが……でも、もしかするとシロナさん以外にも、分かりづらいと言う方がいらっしゃるかもしれませんね」

「そんなことありません!」

 つい、思わず、大きな声を出してしまった。
 やはり汐は驚きもしない。
 代わりに、シロナ本人がはっと口を指先で隠した。

「み、みんな、私なんかより優秀ですから。私と同列なはずがありません」

 そう。夜辺家は皆、優秀だ。

 元宗家の依月家に引けを取らないくらい薬学に精通し、勤勉で、努力を平然と積み上げられる、誇り高き家だ。

(父上たちは、依月家の、代わりなんかじゃない)

 秘伝書を継承するか否か、その違いだけだと、シロナは口を一文字に結ぶ。

(父上も、母上も、兄さんも姉さんも、他の親族たちも、私みたいな落ちこぼれとはちがう。依月汐の力がなくとも、いつか――)

「……あの時の、睡眠薬……あなたが調合されましたか?」

 爆弾は、突然落とされた。
 思わぬ質問に、シロナの肩は跳ねた。

(この人、私のこと、覚えてる)

 講義にいる一員として認識されているのだと勘違いしていたけれど、汐は“薬を盛って、唆しにきた小娘”であると、シロナの顔を覚えていた。
 さっと顔色が失せていき、考える間もなく頭を下げた。

「もっ申し訳、ありませんでした……! あの時、とんだご無礼を……!」

 元宗家嫡子、神童の依月汐。
 物心が着いた頃には、彼は既に柩送りにされたあとだった。
 多くの親族や公家がシロナの兄を“依月汐”と比較しては、馬鹿にした。

『依月の坊がいれば、全部丸く収まったのに』

 あの家が馬鹿なことをしなければ、自分たちはもっと平穏に暮らせたのにと、地下でのんびりと店を営み、呆気なく成功したらしい汐を憎んだ。
 しかし、あの夜に初めて相対して、すべてを理解した。
 依月汐は紛れもなく宗家の跡取りとして教育を施された、人の上に立つ者だと。
 目の動き、息遣い、言葉、それらだけで、盤面を動かせる統治者だった。

 この男に目をつけられれば終わる。
 本能的な恐怖が、底から湧き上がってくる。
 汐は今や魂人ではなくなり、名実ともに夜辺家の人間で、対等な地上人だ。

「あー……えっと、顔を上げてください」

 戸惑う声が上から降ってくる。

「すみません。別にあなたを責めたいわけではないんです。ただ」

「お、仰る通り、私が調合いたしました! 最初に薬を交ぜてはどうかと打診したのも私です!」

「えっ、シロナさんが?」

「自分の新薬がどれほど効くか、ついでに試してみたかったんです。本当は別の薬師が調合した薬がありました。でもっ、私が勝手に取り替えました! ほ、本当にすみませんでした……!」

 誰にも使ったことのない薬で、運が悪ければ変な副作用でも出ないかと、少し考えた。
 この男が中途半端に生き残ったせいで自分たちはずっと苦しいのだと、どこにもぶつけられなかった憤りの、静かな爆発だった。
 盛ってみたものの汐は平然としており結果は不発。それも悔しかった。

 今思えば、なんと恐ろしい、化け物じみた思考だったかと、己を恥じた。

「ふ」

「え?」

 聞き捨てならない一音は、まるで笑い声にも聞こえて、シロナは顔を上げる。
 汐が口元を押さえて、笑うのを堪えていた。

「んんッ、ふ、ふふ。そんな正直に話さずとも良いのに」

 咳払いをして、何がおかしいのかくつくつと笑う。

「私は実験用ラットにされたわけですね……ふっ」

 一体何のツボに入っているのか、明らかに大笑いするのを我慢した震え声。

(な、なんなの、この人……)

 もうシロナは相手を理解するのを諦めて、「はあ……」とほとんど吐息でしかない返事をした。


 ひとしきり微かに笑い続けて満足したあと、汐は一息つき、シロナの帳面を改めた。
 見られてしまうなら、もっと綺麗な字を書けばよかったと一人で恥ずかしくなる。

「――シロナさんは、頭が良いんですね」

「はい? え? それはないです」

 有り得ない世辞に、反射的に否定する。
 汐は帳面の頁を捲り、何かを見透かす視線で文字を追っていた。

「この書き込み、講義の内容を書き写しているだけではありませんね。薬効の変化まで自分で考えている」

「それは……はい……」

「一から事の成り立ちを理解しないと、納得できない質(たち)なのでは? 多対一の講義だと、どうしても不必要な要素ははぶかれますから、あなたは納得ができなくて、思考が前に進まない」

「そう、なのかも……」

 幼い頃から指摘されてきた、“そんなところまで気にしなくていい”が、ちくりと胸に刺さる。
 思考も行動も愚鈍なところが、自分の短所だった。

「逆に、一人で時間をかけて熱心につくりあげたものは、劇的な効能を発揮する……あの睡眠薬のように」

「……全然、効いていませんでしたよね」

 見え透いた世辞だと、シロナは眉根を寄せる。
 生意気で、嫌な言い方だったかもしれない。
 それにもかかわらず、汐は何も気にすることなく、ゆるりとかぶりを振る。

「まさか。効果覿面(てきめん)でしたよ」

 眉尻は下がっているが、形の良い唇は楽しそうに笑っていた。

「若気の至りで、自分でつくった薬を自分で試しすぎまして、どの薬も中々効きづらい体質になってしまったんです」

「え、えぇ……」

 普通は実験用のねずみやラットを使うだろうに、やはり大分変な人だと、思わず引いてしまう。

「でも、夜辺家の薬はどれも強烈で、さすがの私も、なかなか辛かったですね」

 今、彼から責められているわけではない。
 お前の薬は凄かったと、褒められているのだと気付く。
 あのような仕打ちを受けてなお、汐は面白そうに薬のことを語る。
 いつの間にかシロナの眉間に刻まれた皺は消えていた。

「シロナさんはきっと、夜辺家でも替えのきかない薬師になりますね」

 風が揺蕩う声音で、川が流れるような気持ち良さで、汐は話した。

 汐は調合室から出ていく時、独自解釈や各過程の根拠を詳細に纏めたものをまた持ってくると約束して、帰って行った。

 彼がいなくなった出入口を見つめて、どうしてか、胸と腹の間に風が吹いた気がした。
 少しだけ、内臓がすっきりしていた。
 ぽたり、ぽたりと、机に雫が落ちて弾ける。

「……っ」

 喉が締め付けられて、熱い。
 得体の知れない熱で、体が意志とは関係なく駆け出しそうになる。
 そんな衝動を必死に抑えて、シロナは文房具と帳面を片付け始めた。

「……っがんばろう……」

 清く、正しく、勤勉に。
 いつか、父に認めてもらえるように。
 この家を守れるように。

 白薙(しろな)は手の甲で涙を拭い、荷物を持ち、椅子から立ち上がった。



 ◆ ◆ ◆



 薬師地区から柩地区へ下りるための関所までは、それなりに遠い。

 いつもの場所で馬車から下車すると、門番の如く、芽以(めい)ともう一人の軍人が立っていた。

「今日もお疲れさま」

 変わらぬやりとりをしながら、新しく発行された商い札を提示する。

 “幽泉堂(ゆうせんどう) 商用”

 魂人という焼印が消えたそれは、汐の身分が変わったことの証明だった。
 芽以は、それでも態度が変わることはなく、素っ気なく瞼を伏せて、顎をしゃくるだけだ。

「あはは、つれないなぁ」

 言葉の割に明るく笑うと、汐は洞窟へ入り、長い階段を下っていく。
 いつもの景色を見ながら帰路を進むと、幽泉堂の前に車椅子に乗った咲樂がいた。
 汐に気付いて手を振ってきたため、振り返した。
 この時間帯は帳場にいるはずなのにと、何か問題があったのかもしれないと急ぎ足になった。

「何かあった?」

「よ、良かった汐、帰ってきた」

 咲樂はほっと肩を撫で下ろした。
 しかし、表情は未だに強張っていた。
 深刻な問題が起きたに違いない。

「店空けてごめんね。何があったの?」

 真剣味を帯びた声で汐がそう問うと、何故か咲樂はきょとんとして、首を傾げる。

「何がって……?」

「え? 何か、あったんじゃないの? 君がわざわざ外で待ってるから、問題でも起きたのかと……」

「えっ。あっ」

 汐からの指摘に、咲樂ははっとしてから、ほんのりと頬を赤くした。

「な、なに? どうしたの? まさかまた変な人に求婚でもされたの?」

 赤みを隠すように両手を頬に当てて、なんとも恥ずかしそうにする。
 数年前なら、咲樂に求婚する男への干渉は控えていたが、今の汐は客と従業員の個人的な交流を簡単には許さない。
 あの悲劇を二度と繰り返さないためにも。

 この手の問題は嫌がられても聞き出すと決めている。

「さく――」

「――いつもより、帰りが遅かったから……」

 小さな子が、ぶつぶつと話すみたいだった。

「か、帰ってこなかったら、どうしようって……し、心配で」

 想像よりも単純で、いじらしい理由だった。
 帰って来なければどうしようという不安で、ここで待っていたのだろうか。

 咲樂は恥ずかしそうに目を伏せたままで、汐の顔など見もしない。
 もし心が目に見えるのだとしたら、小さく震えたあとに、ぱたりと倒れたかもしれない。

 羞恥心が伝染して、汐まで何やら恥ずかしくなってきた。
 上がりそうになる頬をつねる。
 そして、恥知らずな期待をするなと自分に言い聞かせて、車椅子のハンドルに手を置いた。
 そうすると、咲樂もそうっと、気まずそうに汐を見上げた。

「帰ってくるよ。ここが僕の家だからね」

「……うん」

「ほらほら仕事するよ。帳場今誰が立ってるの?」

 車椅子を押して、店の正面玄関へ向かう。

「てっちゃんが……あっ、そ、そんなにサボってたわけじゃないのよ? 俺が見ててやるって言ってくれて」

「鉄太の奴は相変わらずだねぇ」

 暖簾をくぐると、出汁の匂いが鼻腔を通り抜け、温かな行灯が出迎えてくれた。