その日は、思ったよりも早くやってきた。
夜、咲樂の部屋に集まった咲樂と汐と火々里は、丸机を囲む。
「この文献を見てくれ」
火々里が、机に一冊の古い本を開いて置いた。
人体図が描かれ、ぎっしりと文字で埋まっている。
「ペルシック人……」
咲樂が、本の見出しを読み、ぽつりとこぼした。
「昔から、病気一つしたことなかったよな」
火々里は頷いて、切り出す。
「ガキの頃から怪我をしても治るのが、今思えば早かった」
確かに咲樂は風邪ひとつひかない、健康な子どもだった。
他の子どもたちの間で病が流行っても、咲樂だけ元気なままということが多く、いつも看病をする側にいた。
「脚の傷もだ。柩地区は清潔面で、あんまり環境が良くない。なのに一度も感染をおこさずに、綺麗に塞がった」
「……そういえば」
咲樂は自分の手を見た。
何度も包丁や裁縫道具で怪我をした白い手は、傷ひとつない。
病気をしないことも、傷の治りが早いことも、今まで特別なことだと思ったことがなかった。
足も、火々里や看護師の少女、姉たちが毎日きちんと手当てをしてくれたおかげだと思っていた。
けれど、火々里の口ぶりから、それだけではないのだと分かる。
「そこでだ」
トンと無骨な指が本の一文を指した。
つられて、咲樂と汐の視線がそこへ流れた。
「……活性細胞」
先に声を出したのは汐だった。
行灯の火がゆらゆらと、青紫の双眸を揺らしている。
咲樂には耳慣れない言葉だが、汐も火々里も理解している表情だ。
「この文献が正しければ、ペルシック人の臓器は俺たちとは違う。体内水分をろ過する時、特殊な臓器で活性細胞を生成して、送り出しているんだ」
「え、えっと、つまり……?」
「例えば、腎臓は血流を綺麗にする。肝臓は体内の毒素を解毒するんだ。つまり、腎臓と肝臓の機能を何十倍も強力にしたようなペルシック人の超臓器が、同時に活性細胞……体を修復する細胞まで作り出している」
汐がすかさず、本の人体図の内臓を指し示しながら、解説してくれる。
「体が病原菌と戦うというよりも、そもそも病原菌が住めない体なんだよ。病気知らずな体質には、ちゃんと仕組みがあったんだ」
「そ、そんな風になってたのね、わたし……」
医学的に見ても特異的な体なのだろうと理解したが、他人の話を聞いているようだ。
「この前、脚つつかれて反射反応があったのは、壊れた神経が四年かけて修復されたか、新しく神経ができたか――多分前者だと、俺は思ってる」
火々里のいつになく真剣な声と眼差しに、咲樂は緊張した面持ちで耳を傾ける。
「このまま行けば、もしかしたらいつか足が良くなるかもしれない」
その一言に、咲樂は目を見開いた。
期待してはいけないと自分に言い聞かせていた未来を、他の誰でもない火々里が提示してくれた。
「でも医療に絶対はない。良くなるのが明日かもしれない。十年先、五十年先かもしれない。良くはなっても、車椅子生活のままかもしれない」
「……うん」
「だから俺は、こっちを推したい」
大きな手が、本の頁をめくった。
左上に球体の絵があり、“ペルシック”と書かれていた。
ペルシック人が涙を流すと“ペルシック”という宝石に変わる――咲樂でさえにわかには信じられない、おとぎ話のような現象を綴っている。
咲樂は、純血のペルシック人ではない。
だから一度も涙が宝石化したことはない。
朧気な記憶の中の母からも、宝石については話されなかった。
ペルシックについて羅列された文献の内容を見て、咲樂は申し訳なさそうに目を伏せる。
特殊な臓器を通った水分は、体内で活性細胞を極限まで増幅させる。
そして涙として外に出て、空気に触れることで、結晶化する。
それがペルシックが生まれる仕組みだと、淡々と記載されていた。
母や火々里、姉たちが最も危惧した力を、咲樂は持たなかった。
持たなかったからこそ幸せだったこと、悔やんだこと、同じくらいあったように思う。
涙が宝石に変わればお金に替えられたのにと、今まで何度も無力感に苛まれた。
そうすれば周りの人たちに、返せるものがもっとたくさんあったはずなのだと。
無意識に膝の上でぎゅっと手を握った時、火々里が息を吸った。
「――咲樂の涙を集めて、特効薬をつくる」
静かな部屋に、芯の通った低い声が響いた。
咲樂も汐も、黙ったまま衝撃を受けて、目の前の医師を見つめる。
「この理屈なら、ペルシックにならなくても、涙自体に活性細胞がある程度含まれている可能性がある。抽出して患部に使えば―― 」
火々里は決して口にはしなかったけれど、あの日から絶えず、咲樂の足を治すために、方々に赴き、医学書を読み、休みも返上して動いてくれていたことを、知っていた。
「――もっと早く、足を治せるかもしれない」
柩地区の片隅で、蹲って死を待つだけだった自分を抱き上げてくれた時から、ずっと手を繋いでくれた人だった。
「ただし、この特効薬開発には、咲樂の涙がそれなりに必要になる」
暗闇の中に垂れてきた光の糸。
今も昔も、咲樂にとっての火々里はそんな人だった。
「特効薬が本当に効くのかも、やってみないと分からない。お前が決めてくれ」
火々里は最後に咲樂に決定権を委ねると、じっと桃色の瞳を見据えた。
すぐに、これ以上の負担は、火々里には迷惑ではないかと考える。
しかし、自分を拾って面倒を見てくれて、足を治すと言ってくれた火々里が、迷惑なんて思うはずがなかった。
「やりたい」
自然と答えていた。
頬が強張り、とても笑うこともできずに、ただ赤い瞳を見て、じっと固まる。
咲樂のそんな眼差しを受け、火々里もいつの間にか力んだ肩がふっと和らいだ。
「もし特効薬が完成したとして、使うのは咲樂にだけで、完治したら二度と作ることもない。市場には出ないし、二人も、絶対に外には漏らすな」
本当に特効薬ができれば、もっと多くの人を救えるはずだが、その分涙も必要になる。
奇跡の薬として認知されれば、今度こそ咲樂は権力争いに巻き込まれていくと明白だ。
これは咲樂の安全を守るための約束事なのだと、二人はしかと頷いた。
「それから汐」
すると、余計な口を挟まずに静観していた汐へ、突如として矛先が向いた。
「……僕?」
「お前が監督役で、俺と咲樂が暴走しないように見張ってくれ」
「……監督役か」
「俺は多分突っ走るし、こいつは大丈夫大丈夫って平気で嘘つくからな」
先日も今日も、火々里の言葉の端々に棘があり、咲樂は素直にむくれたい気持ちが強かったが、叱られたばかりの負い目で縮こまった。
「倫理委員会ってやつは、必要だろ?」
汐は僅かに考える素振りをしたあと、真っ直ぐに火々里を見た。
「……分かった。でも薬なら、僕の領分だ。僕も二人の力になりたい」
火々里はその申し出を聞き、最初から分かっていたかのように、にっと口角を上げる。
医者然とした真面目さから打って変わり、あの精悍な双眸が仄かに輝いた。
火々里が唯一、面白い玩具を見つけた子どもになる瞬間は、昔から決まっていた。
「期待してるぜ、汐」
三人だけの秘密で、特効薬の研究が始まる。
◆ ◆ ◆
話し合いが終わり、汐が切ってきた果物と、火々里のために用意した夜食を、それぞれが口へ運ぶ。
「――でも、涙って……咲樂が泣かなきゃいけないんだろ?」
根本的な素材回収のやり方に表情を曇らせる汐は、まさに監督役に適任だった。
「そうだ。おい、泣けるか」
発案者は軽々しく、湯のみを両手で持っていた咲樂に言いのける。
「えっ、い、いま? ちょ、ちょっと待って」
そして当の咲樂も、律儀に瞼に力を入れて泣こうとしてみるものだから、汐もついため息を吐いて、火々里を睨む。
「……真面目かよ」
「え? あっ、か、からかったのね!」
「火々里……僕真面目に言ってるんだけど?」
すぐに悪ふざけをする癖を叱る。
火々里は反省する素振りすらなく肩を竦めて、大きな欠伸をした。
「怒るなよ。椿姫あたりに、泣ける小説とか持ってきてもらうか」
「小説か。……まあ、それならいいか」
火々里は箸を置くと、持ってきた鞄の中身を漁り、机の上に蓋付きの試験管を数本雑に並べた。
「ほい、これ試験管。いつ泣いても良いように携帯しといてくれ。蒸発するから、すぐ冷蔵しとけよ」
「わかったわ。頑張ってたくさん泣いてみる」
咲樂が試験管の一つを手に取り、やる気に満ち溢れた顔で頷いた。
「おう。汐に感動的な話でもしてもらえ」
「……適当言わないでくれる?」
夜、咲樂の部屋に集まった咲樂と汐と火々里は、丸机を囲む。
「この文献を見てくれ」
火々里が、机に一冊の古い本を開いて置いた。
人体図が描かれ、ぎっしりと文字で埋まっている。
「ペルシック人……」
咲樂が、本の見出しを読み、ぽつりとこぼした。
「昔から、病気一つしたことなかったよな」
火々里は頷いて、切り出す。
「ガキの頃から怪我をしても治るのが、今思えば早かった」
確かに咲樂は風邪ひとつひかない、健康な子どもだった。
他の子どもたちの間で病が流行っても、咲樂だけ元気なままということが多く、いつも看病をする側にいた。
「脚の傷もだ。柩地区は清潔面で、あんまり環境が良くない。なのに一度も感染をおこさずに、綺麗に塞がった」
「……そういえば」
咲樂は自分の手を見た。
何度も包丁や裁縫道具で怪我をした白い手は、傷ひとつない。
病気をしないことも、傷の治りが早いことも、今まで特別なことだと思ったことがなかった。
足も、火々里や看護師の少女、姉たちが毎日きちんと手当てをしてくれたおかげだと思っていた。
けれど、火々里の口ぶりから、それだけではないのだと分かる。
「そこでだ」
トンと無骨な指が本の一文を指した。
つられて、咲樂と汐の視線がそこへ流れた。
「……活性細胞」
先に声を出したのは汐だった。
行灯の火がゆらゆらと、青紫の双眸を揺らしている。
咲樂には耳慣れない言葉だが、汐も火々里も理解している表情だ。
「この文献が正しければ、ペルシック人の臓器は俺たちとは違う。体内水分をろ過する時、特殊な臓器で活性細胞を生成して、送り出しているんだ」
「え、えっと、つまり……?」
「例えば、腎臓は血流を綺麗にする。肝臓は体内の毒素を解毒するんだ。つまり、腎臓と肝臓の機能を何十倍も強力にしたようなペルシック人の超臓器が、同時に活性細胞……体を修復する細胞まで作り出している」
汐がすかさず、本の人体図の内臓を指し示しながら、解説してくれる。
「体が病原菌と戦うというよりも、そもそも病原菌が住めない体なんだよ。病気知らずな体質には、ちゃんと仕組みがあったんだ」
「そ、そんな風になってたのね、わたし……」
医学的に見ても特異的な体なのだろうと理解したが、他人の話を聞いているようだ。
「この前、脚つつかれて反射反応があったのは、壊れた神経が四年かけて修復されたか、新しく神経ができたか――多分前者だと、俺は思ってる」
火々里のいつになく真剣な声と眼差しに、咲樂は緊張した面持ちで耳を傾ける。
「このまま行けば、もしかしたらいつか足が良くなるかもしれない」
その一言に、咲樂は目を見開いた。
期待してはいけないと自分に言い聞かせていた未来を、他の誰でもない火々里が提示してくれた。
「でも医療に絶対はない。良くなるのが明日かもしれない。十年先、五十年先かもしれない。良くはなっても、車椅子生活のままかもしれない」
「……うん」
「だから俺は、こっちを推したい」
大きな手が、本の頁をめくった。
左上に球体の絵があり、“ペルシック”と書かれていた。
ペルシック人が涙を流すと“ペルシック”という宝石に変わる――咲樂でさえにわかには信じられない、おとぎ話のような現象を綴っている。
咲樂は、純血のペルシック人ではない。
だから一度も涙が宝石化したことはない。
朧気な記憶の中の母からも、宝石については話されなかった。
ペルシックについて羅列された文献の内容を見て、咲樂は申し訳なさそうに目を伏せる。
特殊な臓器を通った水分は、体内で活性細胞を極限まで増幅させる。
そして涙として外に出て、空気に触れることで、結晶化する。
それがペルシックが生まれる仕組みだと、淡々と記載されていた。
母や火々里、姉たちが最も危惧した力を、咲樂は持たなかった。
持たなかったからこそ幸せだったこと、悔やんだこと、同じくらいあったように思う。
涙が宝石に変わればお金に替えられたのにと、今まで何度も無力感に苛まれた。
そうすれば周りの人たちに、返せるものがもっとたくさんあったはずなのだと。
無意識に膝の上でぎゅっと手を握った時、火々里が息を吸った。
「――咲樂の涙を集めて、特効薬をつくる」
静かな部屋に、芯の通った低い声が響いた。
咲樂も汐も、黙ったまま衝撃を受けて、目の前の医師を見つめる。
「この理屈なら、ペルシックにならなくても、涙自体に活性細胞がある程度含まれている可能性がある。抽出して患部に使えば―― 」
火々里は決して口にはしなかったけれど、あの日から絶えず、咲樂の足を治すために、方々に赴き、医学書を読み、休みも返上して動いてくれていたことを、知っていた。
「――もっと早く、足を治せるかもしれない」
柩地区の片隅で、蹲って死を待つだけだった自分を抱き上げてくれた時から、ずっと手を繋いでくれた人だった。
「ただし、この特効薬開発には、咲樂の涙がそれなりに必要になる」
暗闇の中に垂れてきた光の糸。
今も昔も、咲樂にとっての火々里はそんな人だった。
「特効薬が本当に効くのかも、やってみないと分からない。お前が決めてくれ」
火々里は最後に咲樂に決定権を委ねると、じっと桃色の瞳を見据えた。
すぐに、これ以上の負担は、火々里には迷惑ではないかと考える。
しかし、自分を拾って面倒を見てくれて、足を治すと言ってくれた火々里が、迷惑なんて思うはずがなかった。
「やりたい」
自然と答えていた。
頬が強張り、とても笑うこともできずに、ただ赤い瞳を見て、じっと固まる。
咲樂のそんな眼差しを受け、火々里もいつの間にか力んだ肩がふっと和らいだ。
「もし特効薬が完成したとして、使うのは咲樂にだけで、完治したら二度と作ることもない。市場には出ないし、二人も、絶対に外には漏らすな」
本当に特効薬ができれば、もっと多くの人を救えるはずだが、その分涙も必要になる。
奇跡の薬として認知されれば、今度こそ咲樂は権力争いに巻き込まれていくと明白だ。
これは咲樂の安全を守るための約束事なのだと、二人はしかと頷いた。
「それから汐」
すると、余計な口を挟まずに静観していた汐へ、突如として矛先が向いた。
「……僕?」
「お前が監督役で、俺と咲樂が暴走しないように見張ってくれ」
「……監督役か」
「俺は多分突っ走るし、こいつは大丈夫大丈夫って平気で嘘つくからな」
先日も今日も、火々里の言葉の端々に棘があり、咲樂は素直にむくれたい気持ちが強かったが、叱られたばかりの負い目で縮こまった。
「倫理委員会ってやつは、必要だろ?」
汐は僅かに考える素振りをしたあと、真っ直ぐに火々里を見た。
「……分かった。でも薬なら、僕の領分だ。僕も二人の力になりたい」
火々里はその申し出を聞き、最初から分かっていたかのように、にっと口角を上げる。
医者然とした真面目さから打って変わり、あの精悍な双眸が仄かに輝いた。
火々里が唯一、面白い玩具を見つけた子どもになる瞬間は、昔から決まっていた。
「期待してるぜ、汐」
三人だけの秘密で、特効薬の研究が始まる。
◆ ◆ ◆
話し合いが終わり、汐が切ってきた果物と、火々里のために用意した夜食を、それぞれが口へ運ぶ。
「――でも、涙って……咲樂が泣かなきゃいけないんだろ?」
根本的な素材回収のやり方に表情を曇らせる汐は、まさに監督役に適任だった。
「そうだ。おい、泣けるか」
発案者は軽々しく、湯のみを両手で持っていた咲樂に言いのける。
「えっ、い、いま? ちょ、ちょっと待って」
そして当の咲樂も、律儀に瞼に力を入れて泣こうとしてみるものだから、汐もついため息を吐いて、火々里を睨む。
「……真面目かよ」
「え? あっ、か、からかったのね!」
「火々里……僕真面目に言ってるんだけど?」
すぐに悪ふざけをする癖を叱る。
火々里は反省する素振りすらなく肩を竦めて、大きな欠伸をした。
「怒るなよ。椿姫あたりに、泣ける小説とか持ってきてもらうか」
「小説か。……まあ、それならいいか」
火々里は箸を置くと、持ってきた鞄の中身を漁り、机の上に蓋付きの試験管を数本雑に並べた。
「ほい、これ試験管。いつ泣いても良いように携帯しといてくれ。蒸発するから、すぐ冷蔵しとけよ」
「わかったわ。頑張ってたくさん泣いてみる」
咲樂が試験管の一つを手に取り、やる気に満ち溢れた顔で頷いた。
「おう。汐に感動的な話でもしてもらえ」
「……適当言わないでくれる?」

