目下、ひたすら無言で足のリハビリをしてくれている兄に、咲樂は気まずい思いをしていた。
週に一度の火々里とのリハビリ中、火々里はずっとムスッとしており、咲樂が何かを言っても知らんふりをする。
おろおろする咲樂は、自分が何か気に障ることをしたんだろうかと気を揉む。
これまで、火々里に無視をされるなんてこと、一度もなかった。
「……火々里、怒ってる……? わたし、なにかした?」
「した」
即答だった。
咲樂は、火々里がこうも静かに怒るなんてと顔を青くする。
「ご、ごめん……わたしなにしたの?」
「すぐに答えを聞くな。自分で考えろ」
いつにも増してぶっきら棒で素っ気ない態度に驚いてから、思わずむっと顔を顰めた。
「わたし、火々里を怒らせるようなこと、してないわ」
大人気なく無視をして、理由を聞いても教えてくれない。
少々むっとしてそう言うと、足を見ていた火々里の顔がすっと上がり、鋭い眼光を飛ばした。
彼相手なら、いつもより言いたいことを言う咲樂だが、初めて向けられた静かな怒気に、口を閉じた。
三秒ほど、じっと睨まれて目をそらすこともできなかった。
「お前と、尊に怒ってんだよ俺は」
いつ見ても迫力満点な火々里の怒り顔に、蛇に睨まれた蛙のように、動けない。
自分と尊。心当たりしかない。
周りのみんなに黙って、夜辺家へ行ったことを怒っているのだと、すぐに気付く。
「自分の立場、そろそろ分かれよ」
低いその一言に、ぎくりとした。
「公家はほぼ全員、“柩の咲樂”がペルシック人の娘だって知ってんだぞ。お前なんか拘束しようと思えば簡単にできる」
今もなお動かない足を見下ろし、「そんなことない」と言えるはずもない。
「髪も目も血も、さぞかし高値で売れるだろうぜ。無理矢理子どもを産まされる可能性もある。隔世遺伝で、涙が宝石になるガキができれば万々歳だ。最悪海外のオッサンに売り飛ばされるかもな」
淡々と残酷な可能性を突き付けられ、咲樂は無意識に顔を青くする。
孤児院で暮らし始めてすぐに、魂人の男に髪を切られたことがあった。
幼い頃は、ずっと桃源楼にある母の家で半ば閉じ込められるように過ごしていたから、家の外に興味があった。
危ない世界だとは知らず、咲樂は勝手に孤児院を出て街を歩いていた時に起こった出来事だった。
記憶は定かではないけれど、通りがかった男に髪を掴まれ、小さな咲樂は何をされたのかよく分からなかった。
だが、恐怖だけは確かにあって、男が去ったあとも泣きながら小さく蹲っていた。
『咲樂!?』
そこへ火々里が駆けつけてくれて、泣きついた。
『おまえ、その髪っ……』
怖いことをされた衝撃で、何が起こったのか説明もできなかった。
ざっくばらんに短くなった髪は孤児院の職員が整えてくれた。
幼く、見目への頓着もなかったため、その後はいつも通りに、何も気にせずに過ごしていた。
しかし、そのあとに事件が起きた。
ある日、孤児院の外から怒鳴り声と、激しい物音が聞こえてきて、職員たちが恐る恐る見に行ったのだ。
『か、火々里…!』
悲鳴のように兄の名が叫ばれて、咲樂の足は自然と玄関へと向かい、姉の陰から外を覗いた。
桃色の大きな目は、こぼれんばかりに見開いて、幼いながらに大変なことが起きたと理解できた。
まだ子どもだった火々里が、大人の男に馬乗りになって拳を振り上げていたのだ。
火々里も男もぼろぼろで、血が出て傷だらけだった。
そして二人が暴れている地面には、桃色の髪の毛が散らばっていた。
途中から、火々里が一方的に男をいたぶっていた。
痩せて、ぼろきれの着物を纏っていた男は、大人ではあったが、子どもながらに体格が良く力が強かった火々里にされるがままになっていた。
桃源楼の男衆が止めに来るまで、誰も手をつけられなかった。
どうして火々里が男を殴ったのか、当時の咲樂には分からなかった。
『に、にぃに……』
肩で呼吸を繰り返して、奥が据わった赤い目。
顔も腫れ、大怪我を負っていた。
それでも、咲樂が心配そうに駆け寄り着物を掴めば、頭をぐしゃりと撫でてくれた。
結局、火々里は腕を骨折して、柩送りになった元医学生に応急処置をされたけれど、大人たちに酷く叱責された。
今もある左頬の古傷も、その時のものなのではないかと、咲樂は思っている。
後日、咲樂の髪を切ったのは桃源楼で働く男だと判明し、絹代と楼主が孤児院まで謝罪に来た。
大人同士でどのようなやり取りがあったのかは不明だったが、咲樂はお詫びとして綺麗な着物と髪飾りをもらい、喜んだ。
『にぃに、ごはんすきだから、ごはんもください』
大怪我をして可哀想だと、咲樂が無邪気に絹代にお願いをしたあと、孤児院にたくさんの食糧が届いた。
すべて、咲樂の血統価値が引き起こしたことだった。
物心つき、自分が周囲とは少し違う存在なのだと気付いた時に、髪を切られた意味も理解できた。
母が一度も外に出してくれなかった理由も。
幼い咲樂が外で遊ぶことを楽しみにしていたから、火々里や姉たちは、それからも「危ないから外に出るな」とは、一度も言わないでくれた。
その代わりに、大きくなるまでいつも一緒にいてくれた。
『兄ちゃんが一緒に行ってやるから、これからはちゃんと言えよ』
ただの一度も怒らず、面倒がらず、守ってくれた。
汐も咲樂を縛らずに、一人の人間として尊重してくれた。孤児院を卒院して働き始めてからは、自分の責任として受け止めた。
だから、夜辺家へ行くことも、自分の責任だった。
思いつく中で一番強い手札を切ったつもりで、尊の力も借りた。
汐と一緒に幽泉堂に帰ってこられたことは、咲樂にとっては大きな達成感があったのだ。
こんな自分にも、できることがあったと。
火々里に否定されても、事実は変わらない。
しかし、咲樂は血だらけになって怒ってくれた兄の姿をしっかりと覚えていた。
咲樂なりに考え抜いた行動でも、火々里からすれば関係ない。
彼の怒りを、大袈裟だと一蹴することは決してできない。してはいけない。
「――ごめん、なさい……」
背を丸め、俯いた。か弱く、ほとんど囁きだった。
咲樂の部屋の前、いつもリハビリをする廊下には響きもしなかった。
自分が動くだけで、周りに心配や迷惑をかけてしまうとは、理解していた。
(なら、どうすれば、良かったんだろう)
まさか火々里にここまで叱られるとは思わず、目頭が熱くなった。
「火々里、そのへんにしてあげてよ」
聞き慣れた声がして、はっと顔を上げる。
この空間と店を仕切るために置いた衝立から、苦く微笑む汐が顔を覗かせていた。
「もとはと言えば僕のせいだし、あんまり咲樂のこと責めないであげて」
衝立を避けてこちらへ来ると、咲樂が座る長椅子に腰掛けて、汐が火々里を見つめた。
「お前は関係ないだろ。今はこの馬鹿に説教してんだよ」
「関係あるだろ。僕が地上に出なかったら咲樂も来なかったよ」
汐をじっと睨む火々里だったが、緩く微笑んで首を傾げてみせる。
そのわざとらしい仕草に馬鹿馬鹿しくなって、大きなため息を吐いた。
「……精々反省するんだな」
火々里はそう言いながら咲樂の脚を叩いて小さな腹いせをしたが、瞬間、咲樂が「いたっ」と声を上げて、脚をびくりと揺らした。
「こら火々里。またすぐ手を上げて――」
すかさず、汐は叱ろうとしたが、火々里の驚いた表情を見て、言葉が続かなかった。
火々里は咲樂の顔と脚へ視線を往復させ、自身の大きな手のひらを見ている。
そしてあろうことか、無言でもう一度咲樂の脚をぺちんと叩いたのだ。
「や、な、なにっ? ちゃんと、反省してるから」
「ちがう」
短く否定したのを聞いて、汐もはっとした。
「針かなんか、尖ってるもんあるか」
「うん、待って。持ってくる」
汐が一度は緩めてくれたはずが、急に真剣な空気に戻り、咲樂は戸惑いながら二人を交互に見る。
「は、針……?」
汐は足早にどこかへ行ってしまった。
「は、針で何するの……? わ、わたし、ちゃんと反省してるわ。次からは、気をつけるから」
今この雰囲気で針を持ってくるなんて、何か罰を受けさせられるとしか思えず、咲樂の顔色は更に悪くなった。
「……ほお? 約束できんのか?」
「うん」
長椅子の前にしゃがんだままこちらを見上げる火々里の剣幕は、さきほどよりも穏やかになっていた。
「火々里、これでいい?」
足早に戻ってきた汐の指先には、縫い針よりも大きな針があって、咲樂は益々青褪める。
まさか汐まで仕置に加担する気なのかと。
「よし。おい咲樂、脚貸せ」
火々里は針を受け取ると、尖った先端を見せ付けるように持ち上げて、にやりと笑った。
どうやら許してもらないらしいと思い込み、咲樂は言葉を失って、諦めたように脚を差し出した。
しかし見ていた汐が、火々里の後頭部を優しく小突いた。
「咲樂で遊ぶなよ」
「……え?」
「言うなよ。つまんねえな」
「え? 怒ってなかったの? 火々里」
「は? キレてんだよ俺は。馬鹿と長々と話したくねえから、さっさと触診すんぞ」
「ばか……」
改めて言われ、咲樂はしゅんと肩を落として、されるがままに火々里を眺める。
つん、と針先が白い皮膚をつついた瞬間、またびくりと反射的に咲樂の脚が跳ねた。
痛みよりも、ちくりとした痒みの方が近いかもしれない。
「……わざと動かしてねえな?」
「ええ」
じっと脚を見たまま、しばらく火々里は黙り込んだ。汐も深刻な顔で沈黙するものだから、咲樂はいよいよ不安になり、二人を交互に見た。
「よし、なら俺帰るわ。じゃあな」
ところが、火々里は立ち上がると片手を上げて、いつもの調子で軽く言った。
そのまま本当に帰ろうとするものだから、思わず汐も驚き咄嗟に腕を掴んで止めた。
「なら帰るわじゃないでしょ。説明は」
「そ、そうよ。針でちくちく刺されたのに」
「今度言うって。俺は今すぐ研究室に帰りてぇんだよ。別に悪化してるとかじゃないから心配すんな」
今度こそ火々里は「じゃ」と短く言って、本当に帰ってしまった。まるで何かを引っ張られるように急いで。
置いていかれた二人は顔を見合わせて、同時にため息をつく。
特に気にも掛けていなかったけれど、脚に衝撃を受けた時、以前なら咄嗟に「痛い」とは、出てこなかった。
一体いつから、こうなっていたのかなんて、到底分からなかった。
咲樂は脚をぶつけないように、細心の注意を払って生活をしていたから。
(もしかして、前より良くなってるのかな……)
手術ではもう治せないと言われてから、およそ四年。
ずっと車椅子で生きていくしかないと思い、それなりの覚悟をしていた。
でも――。
「……だめだめ。期待しない、期待しない……」
治るかもしれないなんて、安易に考えない方が良いと、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……また今度、火々里の話を聞いてからだね」
そして汐も困った顔で微笑みながら、そう言った。
週に一度の火々里とのリハビリ中、火々里はずっとムスッとしており、咲樂が何かを言っても知らんふりをする。
おろおろする咲樂は、自分が何か気に障ることをしたんだろうかと気を揉む。
これまで、火々里に無視をされるなんてこと、一度もなかった。
「……火々里、怒ってる……? わたし、なにかした?」
「した」
即答だった。
咲樂は、火々里がこうも静かに怒るなんてと顔を青くする。
「ご、ごめん……わたしなにしたの?」
「すぐに答えを聞くな。自分で考えろ」
いつにも増してぶっきら棒で素っ気ない態度に驚いてから、思わずむっと顔を顰めた。
「わたし、火々里を怒らせるようなこと、してないわ」
大人気なく無視をして、理由を聞いても教えてくれない。
少々むっとしてそう言うと、足を見ていた火々里の顔がすっと上がり、鋭い眼光を飛ばした。
彼相手なら、いつもより言いたいことを言う咲樂だが、初めて向けられた静かな怒気に、口を閉じた。
三秒ほど、じっと睨まれて目をそらすこともできなかった。
「お前と、尊に怒ってんだよ俺は」
いつ見ても迫力満点な火々里の怒り顔に、蛇に睨まれた蛙のように、動けない。
自分と尊。心当たりしかない。
周りのみんなに黙って、夜辺家へ行ったことを怒っているのだと、すぐに気付く。
「自分の立場、そろそろ分かれよ」
低いその一言に、ぎくりとした。
「公家はほぼ全員、“柩の咲樂”がペルシック人の娘だって知ってんだぞ。お前なんか拘束しようと思えば簡単にできる」
今もなお動かない足を見下ろし、「そんなことない」と言えるはずもない。
「髪も目も血も、さぞかし高値で売れるだろうぜ。無理矢理子どもを産まされる可能性もある。隔世遺伝で、涙が宝石になるガキができれば万々歳だ。最悪海外のオッサンに売り飛ばされるかもな」
淡々と残酷な可能性を突き付けられ、咲樂は無意識に顔を青くする。
孤児院で暮らし始めてすぐに、魂人の男に髪を切られたことがあった。
幼い頃は、ずっと桃源楼にある母の家で半ば閉じ込められるように過ごしていたから、家の外に興味があった。
危ない世界だとは知らず、咲樂は勝手に孤児院を出て街を歩いていた時に起こった出来事だった。
記憶は定かではないけれど、通りがかった男に髪を掴まれ、小さな咲樂は何をされたのかよく分からなかった。
だが、恐怖だけは確かにあって、男が去ったあとも泣きながら小さく蹲っていた。
『咲樂!?』
そこへ火々里が駆けつけてくれて、泣きついた。
『おまえ、その髪っ……』
怖いことをされた衝撃で、何が起こったのか説明もできなかった。
ざっくばらんに短くなった髪は孤児院の職員が整えてくれた。
幼く、見目への頓着もなかったため、その後はいつも通りに、何も気にせずに過ごしていた。
しかし、そのあとに事件が起きた。
ある日、孤児院の外から怒鳴り声と、激しい物音が聞こえてきて、職員たちが恐る恐る見に行ったのだ。
『か、火々里…!』
悲鳴のように兄の名が叫ばれて、咲樂の足は自然と玄関へと向かい、姉の陰から外を覗いた。
桃色の大きな目は、こぼれんばかりに見開いて、幼いながらに大変なことが起きたと理解できた。
まだ子どもだった火々里が、大人の男に馬乗りになって拳を振り上げていたのだ。
火々里も男もぼろぼろで、血が出て傷だらけだった。
そして二人が暴れている地面には、桃色の髪の毛が散らばっていた。
途中から、火々里が一方的に男をいたぶっていた。
痩せて、ぼろきれの着物を纏っていた男は、大人ではあったが、子どもながらに体格が良く力が強かった火々里にされるがままになっていた。
桃源楼の男衆が止めに来るまで、誰も手をつけられなかった。
どうして火々里が男を殴ったのか、当時の咲樂には分からなかった。
『に、にぃに……』
肩で呼吸を繰り返して、奥が据わった赤い目。
顔も腫れ、大怪我を負っていた。
それでも、咲樂が心配そうに駆け寄り着物を掴めば、頭をぐしゃりと撫でてくれた。
結局、火々里は腕を骨折して、柩送りになった元医学生に応急処置をされたけれど、大人たちに酷く叱責された。
今もある左頬の古傷も、その時のものなのではないかと、咲樂は思っている。
後日、咲樂の髪を切ったのは桃源楼で働く男だと判明し、絹代と楼主が孤児院まで謝罪に来た。
大人同士でどのようなやり取りがあったのかは不明だったが、咲樂はお詫びとして綺麗な着物と髪飾りをもらい、喜んだ。
『にぃに、ごはんすきだから、ごはんもください』
大怪我をして可哀想だと、咲樂が無邪気に絹代にお願いをしたあと、孤児院にたくさんの食糧が届いた。
すべて、咲樂の血統価値が引き起こしたことだった。
物心つき、自分が周囲とは少し違う存在なのだと気付いた時に、髪を切られた意味も理解できた。
母が一度も外に出してくれなかった理由も。
幼い咲樂が外で遊ぶことを楽しみにしていたから、火々里や姉たちは、それからも「危ないから外に出るな」とは、一度も言わないでくれた。
その代わりに、大きくなるまでいつも一緒にいてくれた。
『兄ちゃんが一緒に行ってやるから、これからはちゃんと言えよ』
ただの一度も怒らず、面倒がらず、守ってくれた。
汐も咲樂を縛らずに、一人の人間として尊重してくれた。孤児院を卒院して働き始めてからは、自分の責任として受け止めた。
だから、夜辺家へ行くことも、自分の責任だった。
思いつく中で一番強い手札を切ったつもりで、尊の力も借りた。
汐と一緒に幽泉堂に帰ってこられたことは、咲樂にとっては大きな達成感があったのだ。
こんな自分にも、できることがあったと。
火々里に否定されても、事実は変わらない。
しかし、咲樂は血だらけになって怒ってくれた兄の姿をしっかりと覚えていた。
咲樂なりに考え抜いた行動でも、火々里からすれば関係ない。
彼の怒りを、大袈裟だと一蹴することは決してできない。してはいけない。
「――ごめん、なさい……」
背を丸め、俯いた。か弱く、ほとんど囁きだった。
咲樂の部屋の前、いつもリハビリをする廊下には響きもしなかった。
自分が動くだけで、周りに心配や迷惑をかけてしまうとは、理解していた。
(なら、どうすれば、良かったんだろう)
まさか火々里にここまで叱られるとは思わず、目頭が熱くなった。
「火々里、そのへんにしてあげてよ」
聞き慣れた声がして、はっと顔を上げる。
この空間と店を仕切るために置いた衝立から、苦く微笑む汐が顔を覗かせていた。
「もとはと言えば僕のせいだし、あんまり咲樂のこと責めないであげて」
衝立を避けてこちらへ来ると、咲樂が座る長椅子に腰掛けて、汐が火々里を見つめた。
「お前は関係ないだろ。今はこの馬鹿に説教してんだよ」
「関係あるだろ。僕が地上に出なかったら咲樂も来なかったよ」
汐をじっと睨む火々里だったが、緩く微笑んで首を傾げてみせる。
そのわざとらしい仕草に馬鹿馬鹿しくなって、大きなため息を吐いた。
「……精々反省するんだな」
火々里はそう言いながら咲樂の脚を叩いて小さな腹いせをしたが、瞬間、咲樂が「いたっ」と声を上げて、脚をびくりと揺らした。
「こら火々里。またすぐ手を上げて――」
すかさず、汐は叱ろうとしたが、火々里の驚いた表情を見て、言葉が続かなかった。
火々里は咲樂の顔と脚へ視線を往復させ、自身の大きな手のひらを見ている。
そしてあろうことか、無言でもう一度咲樂の脚をぺちんと叩いたのだ。
「や、な、なにっ? ちゃんと、反省してるから」
「ちがう」
短く否定したのを聞いて、汐もはっとした。
「針かなんか、尖ってるもんあるか」
「うん、待って。持ってくる」
汐が一度は緩めてくれたはずが、急に真剣な空気に戻り、咲樂は戸惑いながら二人を交互に見る。
「は、針……?」
汐は足早にどこかへ行ってしまった。
「は、針で何するの……? わ、わたし、ちゃんと反省してるわ。次からは、気をつけるから」
今この雰囲気で針を持ってくるなんて、何か罰を受けさせられるとしか思えず、咲樂の顔色は更に悪くなった。
「……ほお? 約束できんのか?」
「うん」
長椅子の前にしゃがんだままこちらを見上げる火々里の剣幕は、さきほどよりも穏やかになっていた。
「火々里、これでいい?」
足早に戻ってきた汐の指先には、縫い針よりも大きな針があって、咲樂は益々青褪める。
まさか汐まで仕置に加担する気なのかと。
「よし。おい咲樂、脚貸せ」
火々里は針を受け取ると、尖った先端を見せ付けるように持ち上げて、にやりと笑った。
どうやら許してもらないらしいと思い込み、咲樂は言葉を失って、諦めたように脚を差し出した。
しかし見ていた汐が、火々里の後頭部を優しく小突いた。
「咲樂で遊ぶなよ」
「……え?」
「言うなよ。つまんねえな」
「え? 怒ってなかったの? 火々里」
「は? キレてんだよ俺は。馬鹿と長々と話したくねえから、さっさと触診すんぞ」
「ばか……」
改めて言われ、咲樂はしゅんと肩を落として、されるがままに火々里を眺める。
つん、と針先が白い皮膚をつついた瞬間、またびくりと反射的に咲樂の脚が跳ねた。
痛みよりも、ちくりとした痒みの方が近いかもしれない。
「……わざと動かしてねえな?」
「ええ」
じっと脚を見たまま、しばらく火々里は黙り込んだ。汐も深刻な顔で沈黙するものだから、咲樂はいよいよ不安になり、二人を交互に見た。
「よし、なら俺帰るわ。じゃあな」
ところが、火々里は立ち上がると片手を上げて、いつもの調子で軽く言った。
そのまま本当に帰ろうとするものだから、思わず汐も驚き咄嗟に腕を掴んで止めた。
「なら帰るわじゃないでしょ。説明は」
「そ、そうよ。針でちくちく刺されたのに」
「今度言うって。俺は今すぐ研究室に帰りてぇんだよ。別に悪化してるとかじゃないから心配すんな」
今度こそ火々里は「じゃ」と短く言って、本当に帰ってしまった。まるで何かを引っ張られるように急いで。
置いていかれた二人は顔を見合わせて、同時にため息をつく。
特に気にも掛けていなかったけれど、脚に衝撃を受けた時、以前なら咄嗟に「痛い」とは、出てこなかった。
一体いつから、こうなっていたのかなんて、到底分からなかった。
咲樂は脚をぶつけないように、細心の注意を払って生活をしていたから。
(もしかして、前より良くなってるのかな……)
手術ではもう治せないと言われてから、およそ四年。
ずっと車椅子で生きていくしかないと思い、それなりの覚悟をしていた。
でも――。
「……だめだめ。期待しない、期待しない……」
治るかもしれないなんて、安易に考えない方が良いと、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……また今度、火々里の話を聞いてからだね」
そして汐も困った顔で微笑みながら、そう言った。

