幽泉堂を開いた理由は、主に二つあった。
一つ目は、咲樂と一緒に地下で生きていくため。
二つ目は、関札を手に入れるためだった。
地上の薬師地区に、封鎖された依月家の区画がある。
そこへ行きたかった。
歴代の嫡子に受け継いでいく、創薬の秘伝書を取りに行きたかったのだ。
門外不出だと、父に厳しく言い付けられた。
どうしてもその秘伝書を、取りに行きたかった。
汐にとって幽泉堂の開業は、いくつもの意味が重なっていた。
『いいか、汐。これは私たちのご先祖さまが大事に繋いできたものだ。お前も、いつか子ができたら、引き継いでいくんだぞ』
優しかった父の声は、もう思い出せない。
けれど、笑顔も、言葉も、記憶に刻まれている。
父も、母も、姉も、きっと反対しない。
「私はやはり、あなたが望む振る舞いはできかねます。夜辺家の道具になるつもりは、さらさらございません」
汐は和雅を見据え、はっきりと言い切った。
「依月の血が必要な道理も理解しております。次の代で言遣いが産まれなければ、夜辺家の未来も、自ずと決まるでしょう」
和雅の眉が僅かに跳ねた。
それが初めての感情の発露だった。
「……君は、そんな我等を見捨てると? それも当然か」
不快そうに口角が下がったかと思えば、自嘲するように、彼は目を伏せて笑った。
「先に君を見捨てたのは、私たちなのだから」
「……」
汐は知っている。
夜辺和雅が、悪人ではなかったことを。
小さな頃可愛がってくれた、優しい親戚のひとりだった。
彼は真面目で責任感の強い家長だ。
家を守るために、情よりも制度や理論を優先させる。
汐からすれば、薬を盛って相手を恣意的に動かそうと画策することさえ、想定内だった。
家のためなら、何でもやるのが宗家だ。
汐はつらそうに一瞬だけ眉根を寄せるけれど、瞬きをひとつ挟む。
「言遣いは、血が薄まり、いずれこの国から消えていくでしょう。現に、仁々樹家も長らく言遣いに恵まれなかった」
汐の調べが正しければ、六代前から言遣いが途絶え、尊の弟に、ようやく力が発現した。
「山染地区の山津見家も、他家から言遣いの養子を迎えた。各宗家の誰もが、本当は理解しているはずです」
汐は珍しく、声音に温度を乗せて、真摯に言葉を紡ぐ。
「言遣いは、いつか、この国からいなくなる」
和雅は否定しない。できない。
誰も口にはしなかったが、誰もが分かっている。
神聖な皇国。神に頼る政治。神に祈る民。
それらはいずれ消えていく。
「だからこそ、私は、言遣いがいなくとも、権威を示せる力を得るべきだと考えます」
汐は一息つき、どくどくと鳴る胸を落ち着かせる。
まだ汐の話は終わっていないと、和雅は口を挟まずに真剣に聞いている。
(父さん、いいよね)
膝でぎゅっと両手を握り、家族を、孤児院を、幽泉堂を、そして咲樂を思う。
もう逃げないと決めた。
「依月家の秘伝書を、夜辺家へ提供します」
声もなく、和雅は瞠目した。
汐は続ける。
「依月家没落後、市場から消えた依月製薬を、再び夜辺家が流通させるんです。未だに他の製薬会社は我々の技術に追いついていませんから、権威回復の有効打になり得ます」
願ってもいない理想論をそのまま語られて、疑いたいと言うのに、青年の瞳は嘘偽りない。
「……本気なのかね? 門外不出の独占権を手放すと?」
「独占権が、私と夜辺家になるだけです。我々は元は同じ一族……門外不出は、今後も変わりません」
これはただ捧げるだけではない。取引だ。
汐が、地下に帰るため。夜辺家へ世継ぎを遺さないための、取引。
柩地区よりも、薬師地区のほうが空気も景観も美しい。
電気も通り、暮らしの便利さも段違いのはずだ。
卑しい魂人だと尊厳を踏みにじられることもなくなる。
「何故、そうまでして、あそこへ帰りたがる」
もうその答えは知っていたのに、問わずにはいられなかった。
和雅は思いどおりには決してならない目の前の男に、呆れさえ湧いて、思わず口元が緩んでしまった。
それを受けて、汐もまた、意外そうに驚いたあと、小さく笑う。
「――そばにいたいんですよ……子どもっぽいでしょう?」
名前は言わないけれど、和雅の脳裏にはあの桃色がよぎった。
「彼女が心からちゃんと笑える場所で、私もそこにいたい。それだけなんです」
大人びた顔で、この部屋へ入ってきた青年と同一人物には見えないほど、汐は恥ずかしげもなく、赤裸々に答えた。
依月汐は、決して揺らがない。
これ以上の問答は愚かしい。
和雅は目を伏せ、それからゆっくりと汐へと、視線を戻す。
「その取引、謹んでお受けいたしましょう」
朝の光の中で、汐がほっと肩の力を抜いた。
やはり、朝日よりも、夜が似合う。
「あなたのその御決断に、最上の敬意と感謝を表します」
そっと恭しく、和雅はこうべを垂れてしっかりと伝える。
「これまでの数々の無礼、誠に申し訳ございませんでした」
世継ぎだけを遺せと、幾度も使者を送ったこと。
戸籍を無断で夜辺家へ再編成したこと。
薬を盛ったこと。
(本当にこの人も、大概だな)
でも。
「いいえ」
汐は首を横に振る。和雅が顔を上げる。
「和雅殿でなければ、あの薬師地区は立て直せなかった。夜辺家に、依月家の咎を背負わせてしまったこと、依月を代表してお詫び申し上げます」
恨みも、憎しみも飲み下して、汐もまた深く頭を下げた。
いつかの小さな子どもが、対等に交渉を持ちかけてくる。この日が来ることを、和雅は心のどこかで期待していたのかもしれない。
美しく、流れるように顔を上げ、背筋を伸ばした青年には、ここへ来た時のような仄暗さはない。
精悍さと覚悟が宿っていた。
「元宗家嫡子として、私も微力ながらお力添えいたします」
すべての遺恨が消え去ったわけではないけれど、汐の胸の奥の鉛が、消えていく。
(もう一度、人を信じてみる。どれほど、それが恐ろしくても)
何度傷つけられても、信じることをやめない咲樂の姿を、汐は見てきたから。
◆ ◆ ◆
汐が慌ただしく屋敷から出て行き、和雅は自室のソファーに深く座り、大きな大きな溜め息を吐き出した。
天井の木目をぼんやりと眺めていると、ドアが開く。
「汐さん、お帰りなったわ」
和雅の妻が飄々と言い、向かいに腰掛けた。
着物の生地に編み込まれた銀糸が照明に反射して、ちらちらと光る。
「ふふ、もう少しくらい、ゆっくりして行けばいいのにね」
やけに肩が凝った気がして、体が怠かった。
和雅は、行儀も気にせずに両足をローテーブルに上げた。
「こらあんた。下ろしなさい、みっともない」
「今日くらい大目に見てよ……はあ……咲樂くんも汐くんも、おっかなかったな……」
先程までの威厳はどこかへ飛んでいき、眉尻を下げる。
汐は最後に、穏やかな表情を引っ込めて、
『私の戸籍は夜辺家へ編成されましたが、私の所有権は、私にあります。次に私を縛ろうとすれば、あなた方は、依月と同じ道筋を辿るかもしれません』
と、そう言い残した。
いざと言う時の度胸と冷酷さは、やはり彼が宗家の嫡子なのだと思い知らされる。
脅し文句としては、これとないくらい、効いている。
彼は必要ならば手を汚せる男だ。
「二人とも迫力満点でね。美人は怒ると怖いよ、まったく……」
そう言いながらも満足そうな夫を見詰めて、妻は僅かに目尻の皺を深くした。
この屋敷に陰湿さが渦巻いて、早十四年が経った。
依月家の引き継ぎを、次々に辞退していく分家筋たちの中で、和雅だけが引き受けた。
一族の皆はそんな彼を尊敬している。
あらゆる手を尽くし、多くを傷つけ、恨まれ、策略を巡らせ、ここまで来た。
気付いた時には年老いていた双肩から、今日ようやく荷が降りた。
そんな気がした。
◆ ◆ ◆
泣き止まなければいけないのに、悲しくて、悔しくて、どうしようもなかった。
車椅子もブーツも屋敷の中に残されて追い出されてしまった咲樂は、尊の背に揺られながら、目元を何度も拭う。
あのまま屋敷の前にい続けることもできず、ひとまず馬車を拾うために大通りに出てみれば、旅人や学生、行商人がたくさんいた。
「……ここで、馬車、待ちましょ」
これ以上、背負って歩かせることが申し訳なく、そう提案してみる。
「いや、もう少し行くと、馬車が増えるから。そこまで――」
そこで、尊が言葉を切った。
「尊……?」
次はきょろきょろと辺りを見回し始めて、つられて咲樂も高い位置から街を見渡す。
その瞬間、咲樂は目を見開いて、歩いてきた道を振り返った。
まだ見えない。しかし、咲樂も、尊も、聞こえた。
「み、尊、あっち。あっちよ」
「ああ」
咲樂が指し示す方へ、来た時よりも足早に戻る。
それからすぐに、向こうから黒髪の青年が駆けてくる姿が見えた。
濃紺色の羽織がはためく。
もし足が動いたら、全力で走っていった。
眩しい太陽に照らされる汐は、やはりらしくなくて、それでも、そこが本来の彼の居場所だったのだと改めて分かった。
和雅に突きつけられた事実も、地上の住みやすさも咲樂は理解したけれど、汐が帰ってくる場所は幽泉堂が良かった。
「――咲樂! 尊!」
咲樂の車椅子と白いブーツを両腕に抱えた汐が、逸るように目の前まで走ってくる。
清々しさを感じさせる瞳と緩やかな唇を見て、咲樂に巣食っていた不安や悲しみが、まるで湯気のように消えていった。
「ごめんね、車椅子、置いていっちゃって。余裕なくて、強引なことした」
まず最初に出てきたのが、なんとも汐らしい謝罪で、尊も咲樂も、思わず笑ってしまった。
ゆっくりと車椅子に下ろされて、座り慣れたそこに安堵する。
「ちゃんと話せたのか?」
尊がただそれだけを聞いた。
夏風が吹いて、汐は頬にかかる髪を指先で避ける。
「うん。もう大丈夫。ちゃんと、納得できたから」
短い。だが、二人は汐の顔を見て、信じた。
「たくさん迷惑かけてごめんね。二人とも、ありがとう」
安心したはずなのに、また視界が滲んで、声が出なかった。
汐がすぐに困った顔で、いつもの笑みを見せた。
「帰ろっか」
その一言で、咲樂は微笑もうとした唇を震わせて、両手で顔を覆ってしまった。
目の前で、汐がしゃがむ気配がした。
「咲樂……ごめんね? 僕酷いことしたよね 。来てくれて、嬉しかったよ」
今話すと、変な声で、馬鹿なことを言ってしまいそうで、代わりに咲樂は何度も首を振る。
「地上に出るの、怖かっただろ」
どこまでも優しい、いつもの汐の声だった。
「……迎えに来てくれて、ありがとう」
こんな時でさえ上手く話せないなんて情けない。
咲樂は嗚咽とともに小さく背を震わせた。
「わた、し……っなにも、でき、なくて……迷惑、かけただけで……っ」
尊や芽以に助けられて、薬師地区までやって来られた。
外で尊が待っていてくれたから、心を強く持てた。
実際に和雅を説得できたわけでもなかった。
「……そんなことないよ」
けれども、汐は否定する。
「……咲樂は、誰のことも恨まないよね」
誰からもそんな風に言われたことなどなく、自分自身でも初めて知る自分に驚いて、手の中で目を見開いた。
「そんな君をずっと見てきて、僕もそうなりたいって、思ったんだ」
慰めでもお世辞でもない、真剣な声に、咲樂は濡れた顔を上げた。
真っ直ぐな眼差しが、咲樂を見つめていた。
「だから、僕もまた家と向き合えた。君のおかげだよ」
青紫色が細まる。
涙が滲む瞼がぱちぱちと瞬き、やがて照れくさそうな微笑みに変わる。
涙が宝石に変わらなくとも、その双眸は何よりも美しく、眩ゆかった。
太陽も空も素晴らしいけれど、あの柔らかな灯りが、二人の帰る場所だ。
一緒に帰りたい。
ただそれだけを胸に、頑張れた。
一つ目は、咲樂と一緒に地下で生きていくため。
二つ目は、関札を手に入れるためだった。
地上の薬師地区に、封鎖された依月家の区画がある。
そこへ行きたかった。
歴代の嫡子に受け継いでいく、創薬の秘伝書を取りに行きたかったのだ。
門外不出だと、父に厳しく言い付けられた。
どうしてもその秘伝書を、取りに行きたかった。
汐にとって幽泉堂の開業は、いくつもの意味が重なっていた。
『いいか、汐。これは私たちのご先祖さまが大事に繋いできたものだ。お前も、いつか子ができたら、引き継いでいくんだぞ』
優しかった父の声は、もう思い出せない。
けれど、笑顔も、言葉も、記憶に刻まれている。
父も、母も、姉も、きっと反対しない。
「私はやはり、あなたが望む振る舞いはできかねます。夜辺家の道具になるつもりは、さらさらございません」
汐は和雅を見据え、はっきりと言い切った。
「依月の血が必要な道理も理解しております。次の代で言遣いが産まれなければ、夜辺家の未来も、自ずと決まるでしょう」
和雅の眉が僅かに跳ねた。
それが初めての感情の発露だった。
「……君は、そんな我等を見捨てると? それも当然か」
不快そうに口角が下がったかと思えば、自嘲するように、彼は目を伏せて笑った。
「先に君を見捨てたのは、私たちなのだから」
「……」
汐は知っている。
夜辺和雅が、悪人ではなかったことを。
小さな頃可愛がってくれた、優しい親戚のひとりだった。
彼は真面目で責任感の強い家長だ。
家を守るために、情よりも制度や理論を優先させる。
汐からすれば、薬を盛って相手を恣意的に動かそうと画策することさえ、想定内だった。
家のためなら、何でもやるのが宗家だ。
汐はつらそうに一瞬だけ眉根を寄せるけれど、瞬きをひとつ挟む。
「言遣いは、血が薄まり、いずれこの国から消えていくでしょう。現に、仁々樹家も長らく言遣いに恵まれなかった」
汐の調べが正しければ、六代前から言遣いが途絶え、尊の弟に、ようやく力が発現した。
「山染地区の山津見家も、他家から言遣いの養子を迎えた。各宗家の誰もが、本当は理解しているはずです」
汐は珍しく、声音に温度を乗せて、真摯に言葉を紡ぐ。
「言遣いは、いつか、この国からいなくなる」
和雅は否定しない。できない。
誰も口にはしなかったが、誰もが分かっている。
神聖な皇国。神に頼る政治。神に祈る民。
それらはいずれ消えていく。
「だからこそ、私は、言遣いがいなくとも、権威を示せる力を得るべきだと考えます」
汐は一息つき、どくどくと鳴る胸を落ち着かせる。
まだ汐の話は終わっていないと、和雅は口を挟まずに真剣に聞いている。
(父さん、いいよね)
膝でぎゅっと両手を握り、家族を、孤児院を、幽泉堂を、そして咲樂を思う。
もう逃げないと決めた。
「依月家の秘伝書を、夜辺家へ提供します」
声もなく、和雅は瞠目した。
汐は続ける。
「依月家没落後、市場から消えた依月製薬を、再び夜辺家が流通させるんです。未だに他の製薬会社は我々の技術に追いついていませんから、権威回復の有効打になり得ます」
願ってもいない理想論をそのまま語られて、疑いたいと言うのに、青年の瞳は嘘偽りない。
「……本気なのかね? 門外不出の独占権を手放すと?」
「独占権が、私と夜辺家になるだけです。我々は元は同じ一族……門外不出は、今後も変わりません」
これはただ捧げるだけではない。取引だ。
汐が、地下に帰るため。夜辺家へ世継ぎを遺さないための、取引。
柩地区よりも、薬師地区のほうが空気も景観も美しい。
電気も通り、暮らしの便利さも段違いのはずだ。
卑しい魂人だと尊厳を踏みにじられることもなくなる。
「何故、そうまでして、あそこへ帰りたがる」
もうその答えは知っていたのに、問わずにはいられなかった。
和雅は思いどおりには決してならない目の前の男に、呆れさえ湧いて、思わず口元が緩んでしまった。
それを受けて、汐もまた、意外そうに驚いたあと、小さく笑う。
「――そばにいたいんですよ……子どもっぽいでしょう?」
名前は言わないけれど、和雅の脳裏にはあの桃色がよぎった。
「彼女が心からちゃんと笑える場所で、私もそこにいたい。それだけなんです」
大人びた顔で、この部屋へ入ってきた青年と同一人物には見えないほど、汐は恥ずかしげもなく、赤裸々に答えた。
依月汐は、決して揺らがない。
これ以上の問答は愚かしい。
和雅は目を伏せ、それからゆっくりと汐へと、視線を戻す。
「その取引、謹んでお受けいたしましょう」
朝の光の中で、汐がほっと肩の力を抜いた。
やはり、朝日よりも、夜が似合う。
「あなたのその御決断に、最上の敬意と感謝を表します」
そっと恭しく、和雅はこうべを垂れてしっかりと伝える。
「これまでの数々の無礼、誠に申し訳ございませんでした」
世継ぎだけを遺せと、幾度も使者を送ったこと。
戸籍を無断で夜辺家へ再編成したこと。
薬を盛ったこと。
(本当にこの人も、大概だな)
でも。
「いいえ」
汐は首を横に振る。和雅が顔を上げる。
「和雅殿でなければ、あの薬師地区は立て直せなかった。夜辺家に、依月家の咎を背負わせてしまったこと、依月を代表してお詫び申し上げます」
恨みも、憎しみも飲み下して、汐もまた深く頭を下げた。
いつかの小さな子どもが、対等に交渉を持ちかけてくる。この日が来ることを、和雅は心のどこかで期待していたのかもしれない。
美しく、流れるように顔を上げ、背筋を伸ばした青年には、ここへ来た時のような仄暗さはない。
精悍さと覚悟が宿っていた。
「元宗家嫡子として、私も微力ながらお力添えいたします」
すべての遺恨が消え去ったわけではないけれど、汐の胸の奥の鉛が、消えていく。
(もう一度、人を信じてみる。どれほど、それが恐ろしくても)
何度傷つけられても、信じることをやめない咲樂の姿を、汐は見てきたから。
◆ ◆ ◆
汐が慌ただしく屋敷から出て行き、和雅は自室のソファーに深く座り、大きな大きな溜め息を吐き出した。
天井の木目をぼんやりと眺めていると、ドアが開く。
「汐さん、お帰りなったわ」
和雅の妻が飄々と言い、向かいに腰掛けた。
着物の生地に編み込まれた銀糸が照明に反射して、ちらちらと光る。
「ふふ、もう少しくらい、ゆっくりして行けばいいのにね」
やけに肩が凝った気がして、体が怠かった。
和雅は、行儀も気にせずに両足をローテーブルに上げた。
「こらあんた。下ろしなさい、みっともない」
「今日くらい大目に見てよ……はあ……咲樂くんも汐くんも、おっかなかったな……」
先程までの威厳はどこかへ飛んでいき、眉尻を下げる。
汐は最後に、穏やかな表情を引っ込めて、
『私の戸籍は夜辺家へ編成されましたが、私の所有権は、私にあります。次に私を縛ろうとすれば、あなた方は、依月と同じ道筋を辿るかもしれません』
と、そう言い残した。
いざと言う時の度胸と冷酷さは、やはり彼が宗家の嫡子なのだと思い知らされる。
脅し文句としては、これとないくらい、効いている。
彼は必要ならば手を汚せる男だ。
「二人とも迫力満点でね。美人は怒ると怖いよ、まったく……」
そう言いながらも満足そうな夫を見詰めて、妻は僅かに目尻の皺を深くした。
この屋敷に陰湿さが渦巻いて、早十四年が経った。
依月家の引き継ぎを、次々に辞退していく分家筋たちの中で、和雅だけが引き受けた。
一族の皆はそんな彼を尊敬している。
あらゆる手を尽くし、多くを傷つけ、恨まれ、策略を巡らせ、ここまで来た。
気付いた時には年老いていた双肩から、今日ようやく荷が降りた。
そんな気がした。
◆ ◆ ◆
泣き止まなければいけないのに、悲しくて、悔しくて、どうしようもなかった。
車椅子もブーツも屋敷の中に残されて追い出されてしまった咲樂は、尊の背に揺られながら、目元を何度も拭う。
あのまま屋敷の前にい続けることもできず、ひとまず馬車を拾うために大通りに出てみれば、旅人や学生、行商人がたくさんいた。
「……ここで、馬車、待ちましょ」
これ以上、背負って歩かせることが申し訳なく、そう提案してみる。
「いや、もう少し行くと、馬車が増えるから。そこまで――」
そこで、尊が言葉を切った。
「尊……?」
次はきょろきょろと辺りを見回し始めて、つられて咲樂も高い位置から街を見渡す。
その瞬間、咲樂は目を見開いて、歩いてきた道を振り返った。
まだ見えない。しかし、咲樂も、尊も、聞こえた。
「み、尊、あっち。あっちよ」
「ああ」
咲樂が指し示す方へ、来た時よりも足早に戻る。
それからすぐに、向こうから黒髪の青年が駆けてくる姿が見えた。
濃紺色の羽織がはためく。
もし足が動いたら、全力で走っていった。
眩しい太陽に照らされる汐は、やはりらしくなくて、それでも、そこが本来の彼の居場所だったのだと改めて分かった。
和雅に突きつけられた事実も、地上の住みやすさも咲樂は理解したけれど、汐が帰ってくる場所は幽泉堂が良かった。
「――咲樂! 尊!」
咲樂の車椅子と白いブーツを両腕に抱えた汐が、逸るように目の前まで走ってくる。
清々しさを感じさせる瞳と緩やかな唇を見て、咲樂に巣食っていた不安や悲しみが、まるで湯気のように消えていった。
「ごめんね、車椅子、置いていっちゃって。余裕なくて、強引なことした」
まず最初に出てきたのが、なんとも汐らしい謝罪で、尊も咲樂も、思わず笑ってしまった。
ゆっくりと車椅子に下ろされて、座り慣れたそこに安堵する。
「ちゃんと話せたのか?」
尊がただそれだけを聞いた。
夏風が吹いて、汐は頬にかかる髪を指先で避ける。
「うん。もう大丈夫。ちゃんと、納得できたから」
短い。だが、二人は汐の顔を見て、信じた。
「たくさん迷惑かけてごめんね。二人とも、ありがとう」
安心したはずなのに、また視界が滲んで、声が出なかった。
汐がすぐに困った顔で、いつもの笑みを見せた。
「帰ろっか」
その一言で、咲樂は微笑もうとした唇を震わせて、両手で顔を覆ってしまった。
目の前で、汐がしゃがむ気配がした。
「咲樂……ごめんね? 僕酷いことしたよね 。来てくれて、嬉しかったよ」
今話すと、変な声で、馬鹿なことを言ってしまいそうで、代わりに咲樂は何度も首を振る。
「地上に出るの、怖かっただろ」
どこまでも優しい、いつもの汐の声だった。
「……迎えに来てくれて、ありがとう」
こんな時でさえ上手く話せないなんて情けない。
咲樂は嗚咽とともに小さく背を震わせた。
「わた、し……っなにも、でき、なくて……迷惑、かけただけで……っ」
尊や芽以に助けられて、薬師地区までやって来られた。
外で尊が待っていてくれたから、心を強く持てた。
実際に和雅を説得できたわけでもなかった。
「……そんなことないよ」
けれども、汐は否定する。
「……咲樂は、誰のことも恨まないよね」
誰からもそんな風に言われたことなどなく、自分自身でも初めて知る自分に驚いて、手の中で目を見開いた。
「そんな君をずっと見てきて、僕もそうなりたいって、思ったんだ」
慰めでもお世辞でもない、真剣な声に、咲樂は濡れた顔を上げた。
真っ直ぐな眼差しが、咲樂を見つめていた。
「だから、僕もまた家と向き合えた。君のおかげだよ」
青紫色が細まる。
涙が滲む瞼がぱちぱちと瞬き、やがて照れくさそうな微笑みに変わる。
涙が宝石に変わらなくとも、その双眸は何よりも美しく、眩ゆかった。
太陽も空も素晴らしいけれど、あの柔らかな灯りが、二人の帰る場所だ。
一緒に帰りたい。
ただそれだけを胸に、頑張れた。

