誰も、助けてはくれなかった。
可愛がってくれた親戚たちは皆、他人のように振舞った。
議会の大人たちは機械的に、冷酷に審判を下した。
地上から柩送りにされる人間には、平等に罪人の墨が入れられる。
懐紙を咥えさせられて、大人に押さえつけられた。
怒りか、悲しみか、痛みか。
左肩が焼けるように熱く、涙が止まらなかった。
一体自分が何の罪を犯したと言うのだろう。
宗家の嫡子でありながら、言遣いではなかったことだろうか。
依月家崩壊後、何が起こったのか理解できないまま、世界は汐を置き去りにして進んで行った。
生まれた家も、家族も、地位も、尊厳も、何もかもを失った八歳の出来事だった。
誰も、助けてはくれなかった。
「お食事でございます」
汐に用意された部屋に、食事が運ばれた。
畳と、卓袱台と、布団が入った押し入れしかない和室。
女中が出ていったあと、汐は食事を見下ろす。
白米、香の物、味噌汁、焼き魚、茶碗蒸し。
念の為、口をつける前に、匂いを嗅いでみた。
(……やっぱり入ってるな)
食材や調味料に紛れて、分かりにくいけれど、確実に別の何かが混入している。
(毒の類いじゃない。痺れ薬でもない)
嗅覚だけでは正確に探れないが、夜辺家が自分を毒殺するとも考えられない。
夜辺家へ連行されてから今日で三日目――。
汐は端から夜辺家を信用しておらず、ここへ来てから何も食べなかった。
しかし、いつまで続くか分からないこの状況に、妥協点を見つけるしかない。
食べ続けないことは、現実的に考えて無理だ。
汐は意を決して、夜辺家の食事に初めて口をつけた。
そして、数十分後。
強烈な睡魔に襲われた。
「ほ、本日、汐様のお相手を仰せつかった、シロナと、申します……よろしくお願いいたします」
その時機を狙ってか、若い――汐よりも年下の少女が襖を開けて座ったまま、深く頭を下げた。
予想よりも、随分と直接的な攻め方に、青紫色の双眸がすっと冷えた。
「結構」
たったそれだけだった。
汐が放った一言に、シロナの肩が跳ねて、あからさまに狼狽する。
そこには、いつもの穏やかな微笑みを携える青年はいない。
「私はあなたとお話することもありませんから、どうぞ、お引き取りください」
苛立ちと呆れを含む声音と、鋭い目。
シロナは狼狽えて迷っていたが、汐からの厳しい視線に耐えかねて、結局退散した。
その一件のせいで、あまり眠らなかった汐は、更に睡眠を削り、床につくこともやめた。
寝ている間に、誰かが入ってくるかもしれない。
翌日から、また出された食事を食べなかったが、七日目に毒ではないと確信を得て、一か八か賭けて夕食を食べてみた。
食器を下げられてから、時間はそう経っていない。
汐は畳に片膝を立てたまま座った状態で、頭を抱えた。
押さえた額が異常に熱く、まるで動悸のように心拍数が跳ね上がっていた。
生唾を飲み下して、深く吐き出した息は、僅かに震えている。
(……最悪だ)
額へ滲んだ汗が、頬を伝う。
夏だから、汗が落ちたわけではなかった。
呼吸を整えようとしても、胸の奥は落ち着かなかった。
体の芯から焼かれるような熱が、ゆっくりと全身へ広がっていく。
汐は壁へ背中を預け、深呼吸をして、どうにか落ち着かせようとした。
(……催淫剤か)
喉が焼ける。
呼吸が浅くなる。
誰にも触れられたくない。
それなのに、誰かの体温だけを脳が求め始める。
「……っ」
汐はある程度の薬物にも、毒物にも、耐性があった。
大抵の薬は効きにくい体質だが、さすがは一流の薬師が揃う家だと、皮肉を言いたくなる。
(……ここまで強いものを)
視界が僅かに霞む。
脈拍は早く、耳の奥で自分の鼓動ばかりが響いていた。
その時、襖の向こうから、小さく声が掛かる。
「失礼いたします」
返事を待つことなく、襖が静かに開いた。
二十代半ばほどの女性が、音もなく部屋へ入る。
薄藤色の着物を乱れなく着こなし、所作の一つひとつまで美しい。
部屋へ入ると、畳へ正座し、深々と頭を下げた。
「ミツキと申します」
穏やかだが、意志の強そうな声だった。
「本日、汐様のお世話を仰せつかりました」
汐は返事をしない。
ただ冷え切った眼差しだけが、ミツキへ向けられる。
その視線を受けても、彼女の表情は崩れなかった。
「お辛いご様子ですね」
静かに言う。
「……結構です」
短く返すが、掠れた声だった。
それでも拒絶の意思だけは、十分に伝わる。
しかし、ミツキは立ち去らなかった。
「ご無理をなさらなくても構いません」
正面から、隣に。
ミツキは過剰に距離を詰めて、汐の体を支えるように肩に手を添えた。
花の香りがふわりと鼻腔を抜ける。
「お一人で耐える必要はございません」
汐の眉が僅かに寄る。
「わたくしは命じられて参りました。どうか、お力添えをさせてください」
「必要ありません」
今度は先ほどよりも低い声だった。
部屋の空気が張り詰める。
ミツキは一瞬だけ息を止めた。
恐ろしい。
そう思った。
目の前の青年は身体こそ薬に蝕まれているはずなのに、その眼光だけは少しも揺らいでいない。
むしろ怒りだけが、静かに燃えていた。
それでも彼女は役目を果たそうと、小さく息を整える。
「一度だけで結構です。わたくしにその身を委ねてください」
ミツキの手が、そっと汐の胸元に宛てがわれた。
「決して汐様のお体に、傷はつけません」
その時。
汐が、乱暴にも見える強さで、ミツキの手首を掴み、立ち上がった。
小さな悲鳴が上がるが、構う余裕もなかった。
僅かにふらついた足取りで、汐はミツキを部屋から追い出す。
「これ以上、この部屋へ入ることは許しません」
口調こそ穏やかだが、声音には決して覆せない意志が宿っていた。
ミツキは思わず息を呑む。
この人は限界のはずだ。
家の中でも、一際腕の良い薬師が創った薬を盛られたはずなのに。
それでもなお、最後の一線だけは誰にも踏み越えさせない。
揺るがない矜持が、ひしひしと伝わってきた。
しばらく見つめ合った末、ミツキは深く頭を下げる。
「……失礼、いたしました」
襖が閉まる音が、小さく響いた。
汐はその場で大きく息を吐き、閉ざされた襖を見つめる。
無意識に、左肩を掻き毟るように爪を立てて、痛みで上塗りをした。
夜の長さは、途方もなかった。
――その二日後だった。
咲樂が夜辺家へやって来たのは。
桃色が視界に飛び込んできた瞬間、時が止まったように動けなかった。
何故。
どうやって。
誰と。
火々里は知ってるのか。
いや火々里が行かせるはずがない。
ならば、夜辺家が。
一瞬で様々な可能性が脳内を駆け巡り、和雅を疑ったけれど、咲樂は、自らの意思で来たのだと、はっきりと言葉にした。
――嬉しかった。
嬉しいと思ってしまった自分を嫌悪した。
咲樂が地上に、公家に、自分に縛られることは、汐自身が何よりも許せない。
これ以上、傷ついて欲しくない。
ただ、それだけだった。
その一心で汐は心を鬼にして、咲樂を舞台から退場させた。
あんなに必死に引き止めてくれたのに、拒絶するしかなかった。
初めて、あんな咲樂を見た。
何かに必死に手を伸ばす姿を。
「わた、し……うっ、ぅ……なにも、でき、なか……っ」
背を向けた玄関扉の向こうから、耳にするだけで胸を抉られるような、泣き声。
「……そんなことないだろう。宗家へ来て、当主と交渉した。大抵の者は怖気付いて、乗り込まない」
尊の静かな声も聞こえる。
(……まったくその通りだね)
夜辺和雅は、公家の間でも口が立つと評判の男だ。
だからこそ、正統な宗家でもない、言遣いもいない夜辺家が、現状維持を叶えている。
汐も、和雅とは議論を交わしたくなかった。
「君は勇敢だったよ」
咲樂を励ます尊の声は、どこまでも誠実だった。
汐は目を閉じて数秒、細く、深く息を吐く。
血の海。
刀。
目の前で倒れた両親と、姉。
議会の大人と、親族。
左肩を鑿で掘られる激しい痛み。
それから、振り払ってしまったクッキー。
掴まれた胸ぐら。
抱きしめてくれた腕。
医学書。
向けられた清らかな愛と、期待を孕んだ赤い瞳。
世界が嫌いだった。
憎かった。
許せなかった。
だから見返してやりたかった。
手を差し伸べたくなかった。
だけど――。
汐は瞼を開く。
青紫の双眸に、もう翳りはなかった。
先ほど歩いてきた廊下を戻っていく。
咲樂に背中を叩かれた感触を思い出して、思わず笑みが零れた。
(叩かれたの、初めてだったな)
誰かに決められる人生は、こりごりだ。
帰る場所は、もう決めていた。
「和雅殿」
応接間。
ソファーに座したままの男は、静かな笑みを湛え、汐を待っていた。
あの時、救ってくれなかった大人と無力な子どもではなく、夜辺家当主と依月家嫡子として向き合う。
「依月汐として、夜辺家へ正式に交渉を申し入れます」
可愛がってくれた親戚たちは皆、他人のように振舞った。
議会の大人たちは機械的に、冷酷に審判を下した。
地上から柩送りにされる人間には、平等に罪人の墨が入れられる。
懐紙を咥えさせられて、大人に押さえつけられた。
怒りか、悲しみか、痛みか。
左肩が焼けるように熱く、涙が止まらなかった。
一体自分が何の罪を犯したと言うのだろう。
宗家の嫡子でありながら、言遣いではなかったことだろうか。
依月家崩壊後、何が起こったのか理解できないまま、世界は汐を置き去りにして進んで行った。
生まれた家も、家族も、地位も、尊厳も、何もかもを失った八歳の出来事だった。
誰も、助けてはくれなかった。
「お食事でございます」
汐に用意された部屋に、食事が運ばれた。
畳と、卓袱台と、布団が入った押し入れしかない和室。
女中が出ていったあと、汐は食事を見下ろす。
白米、香の物、味噌汁、焼き魚、茶碗蒸し。
念の為、口をつける前に、匂いを嗅いでみた。
(……やっぱり入ってるな)
食材や調味料に紛れて、分かりにくいけれど、確実に別の何かが混入している。
(毒の類いじゃない。痺れ薬でもない)
嗅覚だけでは正確に探れないが、夜辺家が自分を毒殺するとも考えられない。
夜辺家へ連行されてから今日で三日目――。
汐は端から夜辺家を信用しておらず、ここへ来てから何も食べなかった。
しかし、いつまで続くか分からないこの状況に、妥協点を見つけるしかない。
食べ続けないことは、現実的に考えて無理だ。
汐は意を決して、夜辺家の食事に初めて口をつけた。
そして、数十分後。
強烈な睡魔に襲われた。
「ほ、本日、汐様のお相手を仰せつかった、シロナと、申します……よろしくお願いいたします」
その時機を狙ってか、若い――汐よりも年下の少女が襖を開けて座ったまま、深く頭を下げた。
予想よりも、随分と直接的な攻め方に、青紫色の双眸がすっと冷えた。
「結構」
たったそれだけだった。
汐が放った一言に、シロナの肩が跳ねて、あからさまに狼狽する。
そこには、いつもの穏やかな微笑みを携える青年はいない。
「私はあなたとお話することもありませんから、どうぞ、お引き取りください」
苛立ちと呆れを含む声音と、鋭い目。
シロナは狼狽えて迷っていたが、汐からの厳しい視線に耐えかねて、結局退散した。
その一件のせいで、あまり眠らなかった汐は、更に睡眠を削り、床につくこともやめた。
寝ている間に、誰かが入ってくるかもしれない。
翌日から、また出された食事を食べなかったが、七日目に毒ではないと確信を得て、一か八か賭けて夕食を食べてみた。
食器を下げられてから、時間はそう経っていない。
汐は畳に片膝を立てたまま座った状態で、頭を抱えた。
押さえた額が異常に熱く、まるで動悸のように心拍数が跳ね上がっていた。
生唾を飲み下して、深く吐き出した息は、僅かに震えている。
(……最悪だ)
額へ滲んだ汗が、頬を伝う。
夏だから、汗が落ちたわけではなかった。
呼吸を整えようとしても、胸の奥は落ち着かなかった。
体の芯から焼かれるような熱が、ゆっくりと全身へ広がっていく。
汐は壁へ背中を預け、深呼吸をして、どうにか落ち着かせようとした。
(……催淫剤か)
喉が焼ける。
呼吸が浅くなる。
誰にも触れられたくない。
それなのに、誰かの体温だけを脳が求め始める。
「……っ」
汐はある程度の薬物にも、毒物にも、耐性があった。
大抵の薬は効きにくい体質だが、さすがは一流の薬師が揃う家だと、皮肉を言いたくなる。
(……ここまで強いものを)
視界が僅かに霞む。
脈拍は早く、耳の奥で自分の鼓動ばかりが響いていた。
その時、襖の向こうから、小さく声が掛かる。
「失礼いたします」
返事を待つことなく、襖が静かに開いた。
二十代半ばほどの女性が、音もなく部屋へ入る。
薄藤色の着物を乱れなく着こなし、所作の一つひとつまで美しい。
部屋へ入ると、畳へ正座し、深々と頭を下げた。
「ミツキと申します」
穏やかだが、意志の強そうな声だった。
「本日、汐様のお世話を仰せつかりました」
汐は返事をしない。
ただ冷え切った眼差しだけが、ミツキへ向けられる。
その視線を受けても、彼女の表情は崩れなかった。
「お辛いご様子ですね」
静かに言う。
「……結構です」
短く返すが、掠れた声だった。
それでも拒絶の意思だけは、十分に伝わる。
しかし、ミツキは立ち去らなかった。
「ご無理をなさらなくても構いません」
正面から、隣に。
ミツキは過剰に距離を詰めて、汐の体を支えるように肩に手を添えた。
花の香りがふわりと鼻腔を抜ける。
「お一人で耐える必要はございません」
汐の眉が僅かに寄る。
「わたくしは命じられて参りました。どうか、お力添えをさせてください」
「必要ありません」
今度は先ほどよりも低い声だった。
部屋の空気が張り詰める。
ミツキは一瞬だけ息を止めた。
恐ろしい。
そう思った。
目の前の青年は身体こそ薬に蝕まれているはずなのに、その眼光だけは少しも揺らいでいない。
むしろ怒りだけが、静かに燃えていた。
それでも彼女は役目を果たそうと、小さく息を整える。
「一度だけで結構です。わたくしにその身を委ねてください」
ミツキの手が、そっと汐の胸元に宛てがわれた。
「決して汐様のお体に、傷はつけません」
その時。
汐が、乱暴にも見える強さで、ミツキの手首を掴み、立ち上がった。
小さな悲鳴が上がるが、構う余裕もなかった。
僅かにふらついた足取りで、汐はミツキを部屋から追い出す。
「これ以上、この部屋へ入ることは許しません」
口調こそ穏やかだが、声音には決して覆せない意志が宿っていた。
ミツキは思わず息を呑む。
この人は限界のはずだ。
家の中でも、一際腕の良い薬師が創った薬を盛られたはずなのに。
それでもなお、最後の一線だけは誰にも踏み越えさせない。
揺るがない矜持が、ひしひしと伝わってきた。
しばらく見つめ合った末、ミツキは深く頭を下げる。
「……失礼、いたしました」
襖が閉まる音が、小さく響いた。
汐はその場で大きく息を吐き、閉ざされた襖を見つめる。
無意識に、左肩を掻き毟るように爪を立てて、痛みで上塗りをした。
夜の長さは、途方もなかった。
――その二日後だった。
咲樂が夜辺家へやって来たのは。
桃色が視界に飛び込んできた瞬間、時が止まったように動けなかった。
何故。
どうやって。
誰と。
火々里は知ってるのか。
いや火々里が行かせるはずがない。
ならば、夜辺家が。
一瞬で様々な可能性が脳内を駆け巡り、和雅を疑ったけれど、咲樂は、自らの意思で来たのだと、はっきりと言葉にした。
――嬉しかった。
嬉しいと思ってしまった自分を嫌悪した。
咲樂が地上に、公家に、自分に縛られることは、汐自身が何よりも許せない。
これ以上、傷ついて欲しくない。
ただ、それだけだった。
その一心で汐は心を鬼にして、咲樂を舞台から退場させた。
あんなに必死に引き止めてくれたのに、拒絶するしかなかった。
初めて、あんな咲樂を見た。
何かに必死に手を伸ばす姿を。
「わた、し……うっ、ぅ……なにも、でき、なか……っ」
背を向けた玄関扉の向こうから、耳にするだけで胸を抉られるような、泣き声。
「……そんなことないだろう。宗家へ来て、当主と交渉した。大抵の者は怖気付いて、乗り込まない」
尊の静かな声も聞こえる。
(……まったくその通りだね)
夜辺和雅は、公家の間でも口が立つと評判の男だ。
だからこそ、正統な宗家でもない、言遣いもいない夜辺家が、現状維持を叶えている。
汐も、和雅とは議論を交わしたくなかった。
「君は勇敢だったよ」
咲樂を励ます尊の声は、どこまでも誠実だった。
汐は目を閉じて数秒、細く、深く息を吐く。
血の海。
刀。
目の前で倒れた両親と、姉。
議会の大人と、親族。
左肩を鑿で掘られる激しい痛み。
それから、振り払ってしまったクッキー。
掴まれた胸ぐら。
抱きしめてくれた腕。
医学書。
向けられた清らかな愛と、期待を孕んだ赤い瞳。
世界が嫌いだった。
憎かった。
許せなかった。
だから見返してやりたかった。
手を差し伸べたくなかった。
だけど――。
汐は瞼を開く。
青紫の双眸に、もう翳りはなかった。
先ほど歩いてきた廊下を戻っていく。
咲樂に背中を叩かれた感触を思い出して、思わず笑みが零れた。
(叩かれたの、初めてだったな)
誰かに決められる人生は、こりごりだ。
帰る場所は、もう決めていた。
「和雅殿」
応接間。
ソファーに座したままの男は、静かな笑みを湛え、汐を待っていた。
あの時、救ってくれなかった大人と無力な子どもではなく、夜辺家当主と依月家嫡子として向き合う。
「依月汐として、夜辺家へ正式に交渉を申し入れます」

