PANDORA・柩灯

「――あなたも、汐(うしお)殿の人生を、消費している」

 厳しい、鋭い声だった。

 和雅(かずまさ)は、咲樂(さくら)から目を逸らさずに、誤魔化しも気遣いも払い除けた、その一撃を、真正面から叩き込んだ。

 怒りで熱くなった頭から冷水を浴びせられたように、すっと全身が冷えた。
 握りこんだ手も、怒(いか)った両肩も、力が抜ける。

 ――汐の人生を、消費。

 こんなにも、納得せざるを得ない言葉選び、あるだろうか。
 そんなことないと、否定できるはずもなかった。

 咲樂が十七歳の頃から抱いている負い目を、誰も叩きつけなかった。
 家族だから、兄妹だから。
 しかし和雅はちがう。
 今、二人でたった一人を賭けて争っている。

 投げ込まれた爆弾に太刀打ちできなくても、引き下がれなかった。

 心臓を握られたような痛みと恐ろしさに、逃げたくなった。

 咲樂は唇をきゅっと結んだけれど、震えて、歪む。
 滲む視界の中の和雅は、今も凛とした姿勢のまま、決して揺るがない。

 ここで涙を流すことだけは、自分自身が許せなかった。

 代わりに着物を両手で握り締めて、目を逸らさない。

「確かに、わたしは……っ」

 声が震える。

「……汐を」

 だめだ。

 何を言えば、いいのだろう。

 続かなかった言葉で、沈黙が落ちた。
 それは肯定だった。

 彼の時間を自分に使ってもらうことを、望んではいない。
 けれど、結果として受け入れている。
 この生活になる前に戻れたわけではなかった。
 その事実だけは変えられない。

(――やっぱり、わたしは)

 胸の奥から、あの日と同じ思いが顔を出す。

 汐の人生を奪っている。

 その罪悪感は、一度も消えたことなどなかった。
 だからこそ、今だけは。
 どうしても、和雅にだけは伝えたい言葉があった。
 咲樂は静かに息を吸う。
 震えは止まらない。

「わたしは……汐の未来を、縛っているんじゃないかと、何度も考えました」

 瞳だけは、決して逸らさなかった。

「……それでも」

 小さな声が、静かな部屋に落ちる。

「汐の生き方を決めるのは」

 真っ直ぐに和雅を見据える。

「わたしでも、あなたでもありません」

 その一言だけは、誰にも譲れなかった。

 和雅は、しばらく咲樂を見つめていた。
 その眼差しは静かで、底が見えない。
 やがて小さく息を吐くと、口元だけが僅かに緩んだ。

「……少し、意地が悪かったですね」

 そう言った声音にも、謝罪の色はほとんどない。

 咲樂は答えない。
 胸の鼓動だけが、やけに大きく耳へ響いていた。
 和雅はドアへ視線を向けると、外に控えていた女中へ声を掛けた。

「――汐殿を、こちらへ」

「かしこまりました」

 外から足音が遠ざかっていく。
 咲樂は思わず和雅を見た。
 何を考えているのか分からない、微塵も動かない表情は、ただただ咲樂を困惑させた。

「……せっかくここまで来られたんです。汐殿とお会いしたいでしょう」

「……は、はい……」

 何故?
 九日間、音沙汰なく、尊でさえ情報を得られなかったのに、こんなに簡単に会わせてもらえるとは、思わなかった。

「……屋敷の庭園はご覧になりましたか? 私が言うのもなんですが、中々美しいでしょう」

 汐が来るまでの時間をもたせるためか、和雅は突然、窓の外へ視線をやって、小さく微笑む。

「……はい。いろんな色の魚や、木や……初めて見るものがたくさんありました」

「そうですか。薬師(やくし)地区は緑が多くて、空気が綺麗ですから。過ごしやすい場所なんです」

 地下とはちがって。
 そう聞こえた気がした。

「我が一族は、薬師の一族です。病や怪我……そういったものへ……職業病ですかね。敏感なんです」

 いつもなら微笑んで、何か一言くらい返せたはずなのに、咲樂はそれ以降、気の利いた返事もできず、ただ和雅の話を聞いた。

 恐ろしく長い時間が経った気がした。
 和雅と共にいる空間に耐え難くなった頃、ようやく戸が三度叩かれた。

 とんとんとん。
 渇望した音にはっと顔を上げて、重厚なドアに振り向く。

「どうぞ」

「失礼いたします」

 女中の声のあと、ドアノブが動く。

 風が、レースカーテンと、あの黒髪をふわりと攫った。

「汐……」

 無意識に唇から零れたのは、長らく離れ離れになった家族に出会えたような、大袈裟な響きだったかもしれない。

 張り詰めていた感情がふっと解かれる気がした。

 いつもと変わらない黒髪と理知的な双眸だったけれど、目の下の隈が濃く、心做しか、痩せたように見えた。

 そんな汐の瞳が、応接間を見渡した瞬間、信じられないものを目にしたように、大きく見開かれた。

「なん、で……」

 胡乱な目つきは一瞬で消え、ただ驚いている。
 咲樂はそんなことさえ気にならないくらいに、汐を一目で見られたという安堵で、胸がいっぱいになった。

「和雅殿、これは一体どういう――」

 しかし、すぐさま厳しさを滲ませる視線と声が、咲樂から和雅へ移る。

「――ち、ちがうの! わたしが、自分でここへ来たの!」

 滅多に見ない――いや、初めてだった。
 汐が自分の感情を隠さずに、こんなにもあけすけに怒りを露わにしたのは。

「全然帰ってこなかったから心配で……汐のこと、迎えに来たの」

 思わず身を乗り出して、弁明する。
 すると、ただでさえ険しかったその眉間の皺が、更に深くなった。

「ここがどこか、分かって……君が来ていい場所じゃない」

 それは決して貶める発言ではないと、咲樂は理解できていた。
 危ないから来るなと、汐は言っている。

 顔色も悪い。
 疲れている。
 九日前の汐と、同じではなかった。
 藤鼠色の淡い着流しも、汐らしくない。

 どれほど地上の素晴らしさを並べ立てられても、今の彼が、幽泉堂にいる時よりも元気には、とても見えない。

「……帰って」

 けれども、次に響いたのは拒否だった。
 こちらの返事など聞かない、聞く必要もないと言いたげに、汐は一言だけ口にして、また和雅を見る。
 まるで、最初から咲樂の意見など聞かないとでも言う風に。

「和雅殿、彼女とお話されていたことは、後は私が」

「いや」

 汐の願いを真正面から払い除ける。
 もしかすると、初めてかもしれない。

 咲樂は、車椅子の肘置きをぎゅっと握った、。
 ここへ来たことは向こう見ずで、軽率だったかもしれない。
 でも、来なければ良かったとは思わなかった。

 素直に帰ると思っていたのだろうか。
 瞠目したあと、すぐになんてことない様(さま)を装った汐は、咲樂を一瞥する。

「咲樂」

「帰らない。絶対」

 交渉の余地はないと、目を逸らさない。
 こんな姿を見た限り、尚更ここへ置いて帰れなかった。

「汐が帰るまで、帰らないわ」

 和雅は、静かに二人を見比べた。

 頑なに動かない咲樂と、庇うように彼女の半歩前に立つ汐。
 その距離感だけで、十分だった。
 目を細め、ふっと息をついた。

「……なるほど」

 独り言のように呟く。
 そして、穏やかな声音のまま、咲樂へ視線を戻した。

「では、咲樂さん」

 応接間に緊張が走る。

「――あなたも、夜辺家へ、入られますか」

「……え」

 咲樂は瞬きを繰り返した。
 何を言われたのか、一瞬理解が追いつかない。

 和雅は続ける。

「あなたは、汐殿の処遇を案じておられる。目の届かない場所で、彼に何が起きているのか分からないから」

 それもまた、事実ではあった。
 汐がひとりぼっちの中、辛い目にあっていたらどうしようと、憂いていた。

「でしたら、お二人とも夜辺家へ迎え入れるという選択肢もあります。汐殿も、あなたがご一緒なら心強いのでは?」

 汐の表情が、すっと消えた。

「……和雅殿」

 威圧する、低い声だった。
 しかし和雅は意に介さない。

「さすがに、咲樂さんへ地上戸籍を与えることは難しいでしょう。しかし」

 咲樂を、車椅子を、見る。

「魂人を一人、地上へ保護すること自体は法に触れません」

 あまりにも淡々としていた。

「それに、一族の伝手であなたの足も、治療ができるかもしれません。如何ですか」

 部屋が静まり返る。
 咲樂は言葉を失った。
 地上へ。
 夜辺家へ。
 自分も。

 そんな発想は、一度たりとも頭に浮かばなかった。

「……わた、しも」

 戸惑いのまま声を漏らした、その瞬間だった。
 ふわり、と身体が浮く。

「――えっ」

 次の瞬間には、視界が大きく反転していた。

「う、汐……!?」

 何が起きたのか理解するより早く、肩へ担ぎ上げられていた。
 汐は一言も発しない。
 ただ咲樂を軽々と担ぎ、そのまま踵を返す。

「失礼します」

 それだけ告げると、応接間を真っ直ぐ出ていく。

「う、うしお、待っ――」

 返事はない。
 足音だけが廊下へ響く。
 和雅も、止めなかった。
 ただ静かに、その背中を見送っている。

 「和雅さん……!」

 呼び掛けても、和雅は穏やかな笑みを崩さない。
 その姿はあっという間に角の向こうへ消えた。
 廊下を進む足取りは速い。
 迷いがない。
 汐の肩越しに見える景色が次々と流れていく。

「う、うしお……」

 返事はない。
 腰や、太腿を押さえる手の力だけが、決して逃がすまいとするように強かった。
 やがて見覚えのある道順に、気付く。
 玄関に向かっているのだ。

 咲樂は息を呑んだ。

 ――帰される。

 そう悟った瞬間、胸が締め付けられる。

「やだ……!」

 思わず身をよじる。

「離して! 汐!」

 背中を叩く。
 何度叩いても、汐の歩みは一度も乱れなかった。

「お願い、離して!」

 ここまで来たのに、帰れない。

「まだ終わってないの! わたし、まだ話さなきゃ――」

「駄目」

 ようやく返ってきた声は、低く、短かった。
 感情を押し殺した声。

「はな、して……! 汐!」

 人を叩いたことなんて、今までなかった。
 咲樂は動かせる範囲で脚も動かして、必死に逃れようと抵抗した。
 それなのに、まるで意味がなかった。

 悔しい。

 視界がぼやけて、喉が、目頭が、熱い。

 汐は止まらなかった。
 長い廊下を抜け、玄関の大扉が近付いてくる。
 女中たちが慌てて左右へ身を引き、重たい引き戸を開け放った。

 夏の風が屋敷の中へ吹き込む。
 その先に、一人の青年が立っていた。

 灰色の髪と群青色の瞳。
 黒い和服に身を包んだ尊が、静かに待っている。

「……汐?」

 尊は肩へ担がれた咲樂を見て、一瞬だけ目を見開いた。
 事情を尋ねるより早く、汐は尊の前まで歩み寄る。

「預かって」

 説明も何もなく、ただそれだけ言うと、汐は咲樂を尊のほうへ半ば押し出すように差し出した。

「え――」

 尊は反射的に両腕を伸ばす。
 咲樂の身体が肩から下ろされ、今度は尊の腕へと受け止められた。

「ちょ、ちょっと待て、何が――」

「連れて帰って」

 その一言だけだった。
 汐の顔色を見た瞬間、尊はそれ以上の言葉を飲み込む。

 青紫の瞳は冷え切っている。
 怒っている。
 違う。
 怒りを、必死で押し殺している。
 尊はそのことだけ、嫌というほど分かった。

 咲樂を一瞥もせずに踵を返そうとした途端、

「汐!」

 咲樂の手が、去ろうとしたその着物を必死に掴んだ。
 白い手が、更に白くなる。

 ちりん、と風鈴の音がどこからか聞こえた。

 無理矢理に運ばれて乱れた桃色の髪が、咲樂の視界を邪魔していた。
 吐く息すら震えそうで、懸命に声を、言葉を紡ぐ。

「っおねが、い……」

 とうとう、我慢していたものが溢れ出す。

「行か、ないで……っ」

 まるで小さな子どもみたいに、汐に縋り付いて、懇願することしか、もうできなかった。

 咲樂には優れた交渉術も、解決策も何もない。

「帰って、きて、おねがい……っ」

 ただ、帰ってきて欲しい。
 稚拙さを恥じる暇もないほど、他のことはどうでも良かった。

 汐が傷付けられていないか、心配だった。
 汐と会えなくなることが、怖かった。

 汐に選ぶ権利があると言ったその口から出てきたのは、利己的な懇願だった。

 けれども、これが今の咲樂にできる精一杯だった。

「――」

 ほんの僅かな間、何を考えていたのか、汐が黙り込んだけれど。

 次の瞬間に、追い縋った手を振り払われた。

「……帰って。二度と来ないで」

 払われた強さが嘘のように、その声は掠れて、苦しそうだった。
 今度こそ汐はそのまま背を向けて、迷いなく屋敷へ戻る。

「待っ……」

 ぴしゃりと閉められた戸の向こうに、汐の姿が消えた。

 伸ばした手が行き場を失い、宙を彷徨う。
 やがて力なく落ちていき、胸の上で震えた。

「……うし、お……」

 呼んでも、返事はない。
 重たい戸の向こうは、あまりにも静かだった。
 今まで、どんな時でも、汐は振り返ってくれた。
 困っても、呆れても、仕方ないなという顔をして。

 必ず、自分を置いてはいかなかった。
 けれど今回は、違った。
 閉ざされた扉だけが、その答えだった。

 夏風が吹き抜ける。
 乱れた桃色の髪を揺らしても、その温度は少しも届かない。

「……咲樂」

 尊が静かに名を呼ぶ。
 その声さえ遠く聞こえて、咲樂はただ閉ざされた屋敷を見つめ続けた。

 ――初めてだった。

 汐に、「来るな」と拒まれたのは。

 閉ざされた屋敷は、もう何も答えてはくれなかった。