「――あなたも、汐殿の人生を、消費している」
厳しい、鋭い声だった。
和雅は、咲樂から目を逸らさずに、誤魔化しも気遣いも払い除けた、その一撃を、真正面から叩き込んだ。
怒りで熱くなった頭から冷水を浴びせられたように、すっと全身が冷えた。
握りこんだ手も、怒った両肩も、力が抜ける。
――汐の人生を、消費。
こんなにも、納得せざるを得ない言葉選び、あるだろうか。
そんなことないと、否定できるはずもなかった。
咲樂が十七歳の頃から抱いている負い目を、誰も叩きつけなかった。
家族だから、兄妹だから。
しかし和雅はちがう。
今、二人でたった一人を賭けて争っている。
投げ込まれた爆弾に太刀打ちできなくても、引き下がれなかった。
心臓を握られたような痛みと恐ろしさに、逃げたくなった。
咲樂は唇をきゅっと結んだけれど、震えて、歪む。
滲む視界の中の和雅は、今も凛とした姿勢のまま、決して揺るがない。
ここで涙を流すことだけは、自分自身が許せなかった。
代わりに着物を両手で握り締めて、目を逸らさない。
「確かに、わたしは……っ」
声が震える。
「……汐を」
だめだ。
何を言えば、いいのだろう。
続かなかった言葉で、沈黙が落ちた。
それは肯定だった。
彼の時間を自分に使ってもらうことを、望んではいない。
けれど、結果として受け入れている。
この生活になる前に戻れたわけではなかった。
その事実だけは変えられない。
(――やっぱり、わたしは)
胸の奥から、あの日と同じ思いが顔を出す。
汐の人生を奪っている。
その罪悪感は、一度も消えたことなどなかった。
だからこそ、今だけは。
どうしても、和雅にだけは伝えたい言葉があった。
咲樂は静かに息を吸う。
震えは止まらない。
「わたしは……汐の未来を、縛っているんじゃないかと、何度も考えました」
瞳だけは、決して逸らさなかった。
「……それでも」
小さな声が、静かな部屋に落ちる。
「汐の生き方を決めるのは」
真っ直ぐに和雅を見据える。
「わたしでも、あなたでもありません」
その一言だけは、誰にも譲れなかった。
和雅は、しばらく咲樂を見つめていた。
その眼差しは静かで、底が見えない。
やがて小さく息を吐くと、口元だけが僅かに緩んだ。
「……少し、意地が悪かったですね」
そう言った声音にも、謝罪の色はほとんどない。
咲樂は答えない。
胸の鼓動だけが、やけに大きく耳へ響いていた。
和雅はドアへ視線を向けると、外に控えていた女中へ声を掛けた。
「――汐殿を、こちらへ」
「かしこまりました」
外から足音が遠ざかっていく。
咲樂は思わず和雅を見た。
何を考えているのか分からない、微塵も動かない表情は、ただただ咲樂を困惑させた。
「……せっかくここまで来られたんです。汐殿とお会いしたいでしょう」
「……は、はい……」
何故?
九日間、音沙汰なく、尊でさえ情報を得られなかったのに、こんなに簡単に会わせてもらえるとは、思わなかった。
「……屋敷の庭園はご覧になりましたか? 私が言うのもなんですが、中々美しいでしょう」
汐が来るまでの時間をもたせるためか、和雅は突然、窓の外へ視線をやって、小さく微笑む。
「……はい。いろんな色の魚や、木や……初めて見るものがたくさんありました」
「そうですか。薬師地区は緑が多くて、空気が綺麗ですから。過ごしやすい場所なんです」
地下とはちがって。
そう聞こえた気がした。
「我が一族は、薬師の一族です。病や怪我……そういったものへ……職業病ですかね。敏感なんです」
いつもなら微笑んで、何か一言くらい返せたはずなのに、咲樂はそれ以降、気の利いた返事もできず、ただ和雅の話を聞いた。
恐ろしく長い時間が経った気がした。
和雅と共にいる空間に耐え難くなった頃、ようやく戸が三度叩かれた。
とんとんとん。
渇望した音にはっと顔を上げて、重厚なドアに振り向く。
「どうぞ」
「失礼いたします」
女中の声のあと、ドアノブが動く。
風が、レースカーテンと、あの黒髪をふわりと攫った。
「汐……」
無意識に唇から零れたのは、長らく離れ離れになった家族に出会えたような、大袈裟な響きだったかもしれない。
張り詰めていた感情がふっと解かれる気がした。
いつもと変わらない黒髪と理知的な双眸だったけれど、目の下の隈が濃く、心做しか、痩せたように見えた。
そんな汐の瞳が、応接間を見渡した瞬間、信じられないものを目にしたように、大きく見開かれた。
「なん、で……」
胡乱な目つきは一瞬で消え、ただ驚いている。
咲樂はそんなことさえ気にならないくらいに、汐を一目で見られたという安堵で、胸がいっぱいになった。
「和雅殿、これは一体どういう――」
しかし、すぐさま厳しさを滲ませる視線と声が、咲樂から和雅へ移る。
「――ち、ちがうの! わたしが、自分でここへ来たの!」
滅多に見ない――いや、初めてだった。
汐が自分の感情を隠さずに、こんなにもあけすけに怒りを露わにしたのは。
「全然帰ってこなかったから心配で……汐のこと、迎えに来たの」
思わず身を乗り出して、弁明する。
すると、ただでさえ険しかったその眉間の皺が、更に深くなった。
「ここがどこか、分かって……君が来ていい場所じゃない」
それは決して貶める発言ではないと、咲樂は理解できていた。
危ないから来るなと、汐は言っている。
顔色も悪い。
疲れている。
九日前の汐と、同じではなかった。
藤鼠色の淡い着流しも、汐らしくない。
どれほど地上の素晴らしさを並べ立てられても、今の彼が、幽泉堂にいる時よりも元気には、とても見えない。
「……帰って」
けれども、次に響いたのは拒否だった。
こちらの返事など聞かない、聞く必要もないと言いたげに、汐は一言だけ口にして、また和雅を見る。
まるで、最初から咲樂の意見など聞かないとでも言う風に。
「和雅殿、彼女とお話されていたことは、後は私が」
「いや」
汐の願いを真正面から払い除ける。
もしかすると、初めてかもしれない。
咲樂は、車椅子の肘置きをぎゅっと握った、。
ここへ来たことは向こう見ずで、軽率だったかもしれない。
でも、来なければ良かったとは思わなかった。
素直に帰ると思っていたのだろうか。
瞠目したあと、すぐになんてことない様を装った汐は、咲樂を一瞥する。
「咲樂」
「帰らない。絶対」
交渉の余地はないと、目を逸らさない。
こんな姿を見た限り、尚更ここへ置いて帰れなかった。
「汐が帰るまで、帰らないわ」
和雅は、静かに二人を見比べた。
頑なに動かない咲樂と、庇うように彼女の半歩前に立つ汐。
その距離感だけで、十分だった。
目を細め、ふっと息をついた。
「……なるほど」
独り言のように呟く。
そして、穏やかな声音のまま、咲樂へ視線を戻した。
「では、咲樂さん」
応接間に緊張が走る。
「――あなたも、夜辺家へ、入られますか」
「……え」
咲樂は瞬きを繰り返した。
何を言われたのか、一瞬理解が追いつかない。
和雅は続ける。
「あなたは、汐殿の処遇を案じておられる。目の届かない場所で、彼に何が起きているのか分からないから」
それもまた、事実ではあった。
汐がひとりぼっちの中、辛い目にあっていたらどうしようと、憂いていた。
「でしたら、お二人とも夜辺家へ迎え入れるという選択肢もあります。汐殿も、あなたがご一緒なら心強いのでは?」
汐の表情が、すっと消えた。
「……和雅殿」
威圧する、低い声だった。
しかし和雅は意に介さない。
「さすがに、咲樂さんへ地上戸籍を与えることは難しいでしょう。しかし」
咲樂を、車椅子を、見る。
「魂人を一人、地上へ保護すること自体は法に触れません」
あまりにも淡々としていた。
「それに、一族の伝手であなたの足も、治療ができるかもしれません。如何ですか」
部屋が静まり返る。
咲樂は言葉を失った。
地上へ。
夜辺家へ。
自分も。
そんな発想は、一度たりとも頭に浮かばなかった。
「……わた、しも」
戸惑いのまま声を漏らした、その瞬間だった。
ふわり、と身体が浮く。
「――えっ」
次の瞬間には、視界が大きく反転していた。
「う、汐……!?」
何が起きたのか理解するより早く、肩へ担ぎ上げられていた。
汐は一言も発しない。
ただ咲樂を軽々と担ぎ、そのまま踵を返す。
「失礼します」
それだけ告げると、応接間を真っ直ぐ出ていく。
「う、うしお、待っ――」
返事はない。
足音だけが廊下へ響く。
和雅も、止めなかった。
ただ静かに、その背中を見送っている。
「和雅さん……!」
呼び掛けても、和雅は穏やかな笑みを崩さない。
その姿はあっという間に角の向こうへ消えた。
廊下を進む足取りは速い。
迷いがない。
汐の肩越しに見える景色が次々と流れていく。
「う、うしお……」
返事はない。
腰や、太腿を押さえる手の力だけが、決して逃がすまいとするように強かった。
やがて見覚えのある道順に、気付く。
玄関に向かっているのだ。
咲樂は息を呑んだ。
――帰される。
そう悟った瞬間、胸が締め付けられる。
「やだ……!」
思わず身をよじる。
「離して! 汐!」
背中を叩く。
何度叩いても、汐の歩みは一度も乱れなかった。
「お願い、離して!」
ここまで来たのに、帰れない。
「まだ終わってないの! わたし、まだ話さなきゃ――」
「駄目」
ようやく返ってきた声は、低く、短かった。
感情を押し殺した声。
「はな、して……! 汐!」
人を叩いたことなんて、今までなかった。
咲樂は動かせる範囲で脚も動かして、必死に逃れようと抵抗した。
それなのに、まるで意味がなかった。
悔しい。
視界がぼやけて、喉が、目頭が、熱い。
汐は止まらなかった。
長い廊下を抜け、玄関の大扉が近付いてくる。
女中たちが慌てて左右へ身を引き、重たい引き戸を開け放った。
夏の風が屋敷の中へ吹き込む。
その先に、一人の青年が立っていた。
灰色の髪と群青色の瞳。
黒い和服に身を包んだ尊が、静かに待っている。
「……汐?」
尊は肩へ担がれた咲樂を見て、一瞬だけ目を見開いた。
事情を尋ねるより早く、汐は尊の前まで歩み寄る。
「預かって」
説明も何もなく、ただそれだけ言うと、汐は咲樂を尊のほうへ半ば押し出すように差し出した。
「え――」
尊は反射的に両腕を伸ばす。
咲樂の身体が肩から下ろされ、今度は尊の腕へと受け止められた。
「ちょ、ちょっと待て、何が――」
「連れて帰って」
その一言だけだった。
汐の顔色を見た瞬間、尊はそれ以上の言葉を飲み込む。
青紫の瞳は冷え切っている。
怒っている。
違う。
怒りを、必死で押し殺している。
尊はそのことだけ、嫌というほど分かった。
咲樂を一瞥もせずに踵を返そうとした途端、
「汐!」
咲樂の手が、去ろうとしたその着物を必死に掴んだ。
白い手が、更に白くなる。
ちりん、と風鈴の音がどこからか聞こえた。
無理矢理に運ばれて乱れた桃色の髪が、咲樂の視界を邪魔していた。
吐く息すら震えそうで、懸命に声を、言葉を紡ぐ。
「っおねが、い……」
とうとう、我慢していたものが溢れ出す。
「行か、ないで……っ」
まるで小さな子どもみたいに、汐に縋り付いて、懇願することしか、もうできなかった。
咲樂には優れた交渉術も、解決策も何もない。
「帰って、きて、おねがい……っ」
ただ、帰ってきて欲しい。
稚拙さを恥じる暇もないほど、他のことはどうでも良かった。
汐が傷付けられていないか、心配だった。
汐と会えなくなることが、怖かった。
汐に選ぶ権利があると言ったその口から出てきたのは、利己的な懇願だった。
けれども、これが今の咲樂にできる精一杯だった。
「――」
ほんの僅かな間、何を考えていたのか、汐が黙り込んだけれど。
次の瞬間に、追い縋った手を振り払われた。
「……帰って。二度と来ないで」
払われた強さが嘘のように、その声は掠れて、苦しそうだった。
今度こそ汐はそのまま背を向けて、迷いなく屋敷へ戻る。
「待っ……」
ぴしゃりと閉められた戸の向こうに、汐の姿が消えた。
伸ばした手が行き場を失い、宙を彷徨う。
やがて力なく落ちていき、胸の上で震えた。
「……うし、お……」
呼んでも、返事はない。
重たい戸の向こうは、あまりにも静かだった。
今まで、どんな時でも、汐は振り返ってくれた。
困っても、呆れても、仕方ないなという顔をして。
必ず、自分を置いてはいかなかった。
けれど今回は、違った。
閉ざされた扉だけが、その答えだった。
夏風が吹き抜ける。
乱れた桃色の髪を揺らしても、その温度は少しも届かない。
「……咲樂」
尊が静かに名を呼ぶ。
その声さえ遠く聞こえて、咲樂はただ閉ざされた屋敷を見つめ続けた。
――初めてだった。
汐に、「来るな」と拒まれたのは。
閉ざされた屋敷は、もう何も答えてはくれなかった。
厳しい、鋭い声だった。
和雅は、咲樂から目を逸らさずに、誤魔化しも気遣いも払い除けた、その一撃を、真正面から叩き込んだ。
怒りで熱くなった頭から冷水を浴びせられたように、すっと全身が冷えた。
握りこんだ手も、怒った両肩も、力が抜ける。
――汐の人生を、消費。
こんなにも、納得せざるを得ない言葉選び、あるだろうか。
そんなことないと、否定できるはずもなかった。
咲樂が十七歳の頃から抱いている負い目を、誰も叩きつけなかった。
家族だから、兄妹だから。
しかし和雅はちがう。
今、二人でたった一人を賭けて争っている。
投げ込まれた爆弾に太刀打ちできなくても、引き下がれなかった。
心臓を握られたような痛みと恐ろしさに、逃げたくなった。
咲樂は唇をきゅっと結んだけれど、震えて、歪む。
滲む視界の中の和雅は、今も凛とした姿勢のまま、決して揺るがない。
ここで涙を流すことだけは、自分自身が許せなかった。
代わりに着物を両手で握り締めて、目を逸らさない。
「確かに、わたしは……っ」
声が震える。
「……汐を」
だめだ。
何を言えば、いいのだろう。
続かなかった言葉で、沈黙が落ちた。
それは肯定だった。
彼の時間を自分に使ってもらうことを、望んではいない。
けれど、結果として受け入れている。
この生活になる前に戻れたわけではなかった。
その事実だけは変えられない。
(――やっぱり、わたしは)
胸の奥から、あの日と同じ思いが顔を出す。
汐の人生を奪っている。
その罪悪感は、一度も消えたことなどなかった。
だからこそ、今だけは。
どうしても、和雅にだけは伝えたい言葉があった。
咲樂は静かに息を吸う。
震えは止まらない。
「わたしは……汐の未来を、縛っているんじゃないかと、何度も考えました」
瞳だけは、決して逸らさなかった。
「……それでも」
小さな声が、静かな部屋に落ちる。
「汐の生き方を決めるのは」
真っ直ぐに和雅を見据える。
「わたしでも、あなたでもありません」
その一言だけは、誰にも譲れなかった。
和雅は、しばらく咲樂を見つめていた。
その眼差しは静かで、底が見えない。
やがて小さく息を吐くと、口元だけが僅かに緩んだ。
「……少し、意地が悪かったですね」
そう言った声音にも、謝罪の色はほとんどない。
咲樂は答えない。
胸の鼓動だけが、やけに大きく耳へ響いていた。
和雅はドアへ視線を向けると、外に控えていた女中へ声を掛けた。
「――汐殿を、こちらへ」
「かしこまりました」
外から足音が遠ざかっていく。
咲樂は思わず和雅を見た。
何を考えているのか分からない、微塵も動かない表情は、ただただ咲樂を困惑させた。
「……せっかくここまで来られたんです。汐殿とお会いしたいでしょう」
「……は、はい……」
何故?
九日間、音沙汰なく、尊でさえ情報を得られなかったのに、こんなに簡単に会わせてもらえるとは、思わなかった。
「……屋敷の庭園はご覧になりましたか? 私が言うのもなんですが、中々美しいでしょう」
汐が来るまでの時間をもたせるためか、和雅は突然、窓の外へ視線をやって、小さく微笑む。
「……はい。いろんな色の魚や、木や……初めて見るものがたくさんありました」
「そうですか。薬師地区は緑が多くて、空気が綺麗ですから。過ごしやすい場所なんです」
地下とはちがって。
そう聞こえた気がした。
「我が一族は、薬師の一族です。病や怪我……そういったものへ……職業病ですかね。敏感なんです」
いつもなら微笑んで、何か一言くらい返せたはずなのに、咲樂はそれ以降、気の利いた返事もできず、ただ和雅の話を聞いた。
恐ろしく長い時間が経った気がした。
和雅と共にいる空間に耐え難くなった頃、ようやく戸が三度叩かれた。
とんとんとん。
渇望した音にはっと顔を上げて、重厚なドアに振り向く。
「どうぞ」
「失礼いたします」
女中の声のあと、ドアノブが動く。
風が、レースカーテンと、あの黒髪をふわりと攫った。
「汐……」
無意識に唇から零れたのは、長らく離れ離れになった家族に出会えたような、大袈裟な響きだったかもしれない。
張り詰めていた感情がふっと解かれる気がした。
いつもと変わらない黒髪と理知的な双眸だったけれど、目の下の隈が濃く、心做しか、痩せたように見えた。
そんな汐の瞳が、応接間を見渡した瞬間、信じられないものを目にしたように、大きく見開かれた。
「なん、で……」
胡乱な目つきは一瞬で消え、ただ驚いている。
咲樂はそんなことさえ気にならないくらいに、汐を一目で見られたという安堵で、胸がいっぱいになった。
「和雅殿、これは一体どういう――」
しかし、すぐさま厳しさを滲ませる視線と声が、咲樂から和雅へ移る。
「――ち、ちがうの! わたしが、自分でここへ来たの!」
滅多に見ない――いや、初めてだった。
汐が自分の感情を隠さずに、こんなにもあけすけに怒りを露わにしたのは。
「全然帰ってこなかったから心配で……汐のこと、迎えに来たの」
思わず身を乗り出して、弁明する。
すると、ただでさえ険しかったその眉間の皺が、更に深くなった。
「ここがどこか、分かって……君が来ていい場所じゃない」
それは決して貶める発言ではないと、咲樂は理解できていた。
危ないから来るなと、汐は言っている。
顔色も悪い。
疲れている。
九日前の汐と、同じではなかった。
藤鼠色の淡い着流しも、汐らしくない。
どれほど地上の素晴らしさを並べ立てられても、今の彼が、幽泉堂にいる時よりも元気には、とても見えない。
「……帰って」
けれども、次に響いたのは拒否だった。
こちらの返事など聞かない、聞く必要もないと言いたげに、汐は一言だけ口にして、また和雅を見る。
まるで、最初から咲樂の意見など聞かないとでも言う風に。
「和雅殿、彼女とお話されていたことは、後は私が」
「いや」
汐の願いを真正面から払い除ける。
もしかすると、初めてかもしれない。
咲樂は、車椅子の肘置きをぎゅっと握った、。
ここへ来たことは向こう見ずで、軽率だったかもしれない。
でも、来なければ良かったとは思わなかった。
素直に帰ると思っていたのだろうか。
瞠目したあと、すぐになんてことない様を装った汐は、咲樂を一瞥する。
「咲樂」
「帰らない。絶対」
交渉の余地はないと、目を逸らさない。
こんな姿を見た限り、尚更ここへ置いて帰れなかった。
「汐が帰るまで、帰らないわ」
和雅は、静かに二人を見比べた。
頑なに動かない咲樂と、庇うように彼女の半歩前に立つ汐。
その距離感だけで、十分だった。
目を細め、ふっと息をついた。
「……なるほど」
独り言のように呟く。
そして、穏やかな声音のまま、咲樂へ視線を戻した。
「では、咲樂さん」
応接間に緊張が走る。
「――あなたも、夜辺家へ、入られますか」
「……え」
咲樂は瞬きを繰り返した。
何を言われたのか、一瞬理解が追いつかない。
和雅は続ける。
「あなたは、汐殿の処遇を案じておられる。目の届かない場所で、彼に何が起きているのか分からないから」
それもまた、事実ではあった。
汐がひとりぼっちの中、辛い目にあっていたらどうしようと、憂いていた。
「でしたら、お二人とも夜辺家へ迎え入れるという選択肢もあります。汐殿も、あなたがご一緒なら心強いのでは?」
汐の表情が、すっと消えた。
「……和雅殿」
威圧する、低い声だった。
しかし和雅は意に介さない。
「さすがに、咲樂さんへ地上戸籍を与えることは難しいでしょう。しかし」
咲樂を、車椅子を、見る。
「魂人を一人、地上へ保護すること自体は法に触れません」
あまりにも淡々としていた。
「それに、一族の伝手であなたの足も、治療ができるかもしれません。如何ですか」
部屋が静まり返る。
咲樂は言葉を失った。
地上へ。
夜辺家へ。
自分も。
そんな発想は、一度たりとも頭に浮かばなかった。
「……わた、しも」
戸惑いのまま声を漏らした、その瞬間だった。
ふわり、と身体が浮く。
「――えっ」
次の瞬間には、視界が大きく反転していた。
「う、汐……!?」
何が起きたのか理解するより早く、肩へ担ぎ上げられていた。
汐は一言も発しない。
ただ咲樂を軽々と担ぎ、そのまま踵を返す。
「失礼します」
それだけ告げると、応接間を真っ直ぐ出ていく。
「う、うしお、待っ――」
返事はない。
足音だけが廊下へ響く。
和雅も、止めなかった。
ただ静かに、その背中を見送っている。
「和雅さん……!」
呼び掛けても、和雅は穏やかな笑みを崩さない。
その姿はあっという間に角の向こうへ消えた。
廊下を進む足取りは速い。
迷いがない。
汐の肩越しに見える景色が次々と流れていく。
「う、うしお……」
返事はない。
腰や、太腿を押さえる手の力だけが、決して逃がすまいとするように強かった。
やがて見覚えのある道順に、気付く。
玄関に向かっているのだ。
咲樂は息を呑んだ。
――帰される。
そう悟った瞬間、胸が締め付けられる。
「やだ……!」
思わず身をよじる。
「離して! 汐!」
背中を叩く。
何度叩いても、汐の歩みは一度も乱れなかった。
「お願い、離して!」
ここまで来たのに、帰れない。
「まだ終わってないの! わたし、まだ話さなきゃ――」
「駄目」
ようやく返ってきた声は、低く、短かった。
感情を押し殺した声。
「はな、して……! 汐!」
人を叩いたことなんて、今までなかった。
咲樂は動かせる範囲で脚も動かして、必死に逃れようと抵抗した。
それなのに、まるで意味がなかった。
悔しい。
視界がぼやけて、喉が、目頭が、熱い。
汐は止まらなかった。
長い廊下を抜け、玄関の大扉が近付いてくる。
女中たちが慌てて左右へ身を引き、重たい引き戸を開け放った。
夏の風が屋敷の中へ吹き込む。
その先に、一人の青年が立っていた。
灰色の髪と群青色の瞳。
黒い和服に身を包んだ尊が、静かに待っている。
「……汐?」
尊は肩へ担がれた咲樂を見て、一瞬だけ目を見開いた。
事情を尋ねるより早く、汐は尊の前まで歩み寄る。
「預かって」
説明も何もなく、ただそれだけ言うと、汐は咲樂を尊のほうへ半ば押し出すように差し出した。
「え――」
尊は反射的に両腕を伸ばす。
咲樂の身体が肩から下ろされ、今度は尊の腕へと受け止められた。
「ちょ、ちょっと待て、何が――」
「連れて帰って」
その一言だけだった。
汐の顔色を見た瞬間、尊はそれ以上の言葉を飲み込む。
青紫の瞳は冷え切っている。
怒っている。
違う。
怒りを、必死で押し殺している。
尊はそのことだけ、嫌というほど分かった。
咲樂を一瞥もせずに踵を返そうとした途端、
「汐!」
咲樂の手が、去ろうとしたその着物を必死に掴んだ。
白い手が、更に白くなる。
ちりん、と風鈴の音がどこからか聞こえた。
無理矢理に運ばれて乱れた桃色の髪が、咲樂の視界を邪魔していた。
吐く息すら震えそうで、懸命に声を、言葉を紡ぐ。
「っおねが、い……」
とうとう、我慢していたものが溢れ出す。
「行か、ないで……っ」
まるで小さな子どもみたいに、汐に縋り付いて、懇願することしか、もうできなかった。
咲樂には優れた交渉術も、解決策も何もない。
「帰って、きて、おねがい……っ」
ただ、帰ってきて欲しい。
稚拙さを恥じる暇もないほど、他のことはどうでも良かった。
汐が傷付けられていないか、心配だった。
汐と会えなくなることが、怖かった。
汐に選ぶ権利があると言ったその口から出てきたのは、利己的な懇願だった。
けれども、これが今の咲樂にできる精一杯だった。
「――」
ほんの僅かな間、何を考えていたのか、汐が黙り込んだけれど。
次の瞬間に、追い縋った手を振り払われた。
「……帰って。二度と来ないで」
払われた強さが嘘のように、その声は掠れて、苦しそうだった。
今度こそ汐はそのまま背を向けて、迷いなく屋敷へ戻る。
「待っ……」
ぴしゃりと閉められた戸の向こうに、汐の姿が消えた。
伸ばした手が行き場を失い、宙を彷徨う。
やがて力なく落ちていき、胸の上で震えた。
「……うし、お……」
呼んでも、返事はない。
重たい戸の向こうは、あまりにも静かだった。
今まで、どんな時でも、汐は振り返ってくれた。
困っても、呆れても、仕方ないなという顔をして。
必ず、自分を置いてはいかなかった。
けれど今回は、違った。
閉ざされた扉だけが、その答えだった。
夏風が吹き抜ける。
乱れた桃色の髪を揺らしても、その温度は少しも届かない。
「……咲樂」
尊が静かに名を呼ぶ。
その声さえ遠く聞こえて、咲樂はただ閉ざされた屋敷を見つめ続けた。
――初めてだった。
汐に、「来るな」と拒まれたのは。
閉ざされた屋敷は、もう何も答えてはくれなかった。

