夜の幽泉堂は賑わっていた。
食堂では湯気の立つ料理が運ばれ、宿泊客たちの談笑が行灯の灯りに溶けている。
咲樂は帳簿へ目を落としながら数字を確認しており、その隣では汐が宿帳を整理している。
その時、引き戸が開かれる。
酒の匂いを纏った男たちが三人、食堂へ入ってきた。
「いらっしゃいませ」
咲樂がすぐに顔を上げて、接客に切り替える。
男たちは席を探すように店内を見回して、「食堂で」と酔客特有の、やや大きな声を出した。
給仕係の従業員が、忙しなく動き回っているのを視界の端に捉えながら、
「少々お待ちくださいね。案内を──」
呼ぼうとした時だった。
「あんたが“柩の咲樂”か?」
男の一人が言った。
咲樂は、思わず瞬きをする。
「え?」
久しぶりに耳にした呼び名に、思わず抜けた声が出た。
「お前初めて見るのか?」
「見るのは初めてだな」
「へぇ……」
質問した男はじろじろと咲樂を眺めた。
頭から顔、首筋へと、値踏みと好奇心が入り交じった視線が、べっとりとまとわりついた。
「えれぇべっぴんだなぁ」
周囲の空気が少しだけ変わる。
咲樂は困ったように口元を緩ませ、眉尻を下げるだけだった。
「とんでもないです」
慣れていた。
こういう視線にも。こういう言葉にも。
宿帳から男たちへ、汐の青紫の双眸が流れた。
「その髪、本物か?」
男が笑う。
桃色の、恐らくはこの国で一人しかいない稀有な髪の毛を、面白そうに指さした。
「目もつくりもんみてぇだな」
言われ慣れている。
言葉そのものへの温度は、全く変わらなかった。
しかし、酒が入り気が大きくなった男は、まるで八百屋で野菜を手に取るくらい当たり前に、平然と、嫋やかに波打つ髪の毛に、手を伸ばした。
|咲樂の目には、その手が酷くゆっくりと迫って来るように見えた。
──触られる。
そう思った瞬間、細い肩は小さく跳ね、ブリキの玩具のように固まった。
「お客様」
誰もが心地よくなる、完璧な声音だった。
固まって、思わず言葉を失った咲樂の視界に、濃紺色が広がった。
「従業員への接触はお控えください」
隣にいた汐が右腕を上げて、客と咲樂の間を隔てたようだった。
彼の着る羽織の袖が暖簾のように、咲樂の眼前に垂れている。
そっと見上げると、柔らかな目元や上がった口角が寸分も乱れずに維持されていた。
男が眉を顰めた。
「は?」
あからさまに不機嫌になった、棘を含む一音。
「なんだ兄ちゃん」
友人二人が顔色を変えた。
「おい」
「やめとけ」
男は気づかない。
「魂人なのに、指図すんのか?」
魂人──蔑む声に、咲樂の指先が膝の上で強張った。
汐は変わらず微笑んでいる。
「ここは単なる宿屋でございますから」
穏やかだった。
「遊郭と提携しているので、よく誤解されるんです。分かりづらいですよね」
「ああ?」
男の声が大きくなる。
「宿屋でもなんでも、魂人が地上の人間に逆らうのはどうなんだ!」
周囲がざわつく。
食堂の和やかな雰囲気が止まり、視線が帳場へと集まる。
「魂人風情が一丁前に勿体つけてんのか!」
男は興奮したように叫んだ。
空気が冷えた。
汐は笑っていたけれど、目だけが冷たく、凍った湖面みたいだった。
「裏に行って」
けれど、咲樂へ向けられた声だけは優しい。
汐を見上げ、頷いた。
「……うん」
車椅子を動かす。
すると男は更に激昂した。
「おい!」
机を叩く。大きな音に咲樂は耳を塞ぎたくなり、急いでその場から去る。
「俺のこと馬鹿にしてんのか!」
「やめろってお前!」
友人が肩を掴んで止めに入った。
「ここどこか知らねぇのか!」
「なにがだ!」
男は振り払い、止まらない。
「あの女呼び戻せ!」
酒臭い息を吐いた。
常ならばここまで興奮状態にならないだろうに、酒の力はどこまでも男を愚かにさせる。
「俺が魂人の立場を分からせてやる!」
その瞬間、汐が言った。
「ご退店を」
静かなのに、よく通る声だった。
「ああ!?」
「どうぞ、お引き取りください」
汐は一秒たりとも笑みを引っ込めない。
「今後も、ここへはいらっしゃらないでください」
「ふざけてんのか!」
怒鳴りながら汐に向けられた人差し指は、我慢ならないように震えている。
「俺は地上の──!」
「──地上のことは存じ上げませんが」
言葉を断ち切った。
どこまでも平坦な声が、初めて語気を強めて、理不尽な地上人を見据えた。
氷よりも冷ややかな瞳の奥を見た男が、思わず押し黙る。
「――この幽泉堂では、私が法でございます」
静寂が落ちる。
客たちも従業員たちも誰も口を開かない。
「当店の規律に従っていただけない方を、お客様として扱うわけにも参りません」
男の顔が赤くなる。
「なんだと……っ」
「まだなにか?」
愛想よく首を傾ける。
それだけだった。それだけなのに、男は続けられなかった。
周囲の視線に気づいたのだろう。
友人たちも、男から距離を空けていた。
「……っ」
着物の衿を引っ張り、舌打ちをすると踵を返した。
引き戸が乱暴に閉まり、大きな音が響いた。
しばらく誰も喋らなかったが、やがて汐は客たちへ向き直り、丁寧に一礼した。
「お見苦しいところをお見せしました」
微笑む。
「どうぞごゆっくり」
そこでようやく空気が動き始めた。
客たちも徐々に会話を再開して、食堂にも音が戻っていく。
汐は荒れた空気を振り払うように、小さく息を吐いてから、帳場奥の物品庫へと向かった。
暗がりに、咲樂がいた。
車椅子を止め、膝の上で重ねた両手が僅かに震えていた。
汐は何も言わず近づき、そして目線を合わせた。
「大丈夫?」
咲樂は少しだけ目を伏せる。
申し訳なさそうな顔は、今夜も変わらない。
「……うん」
小さく頷いた。
汐はそれ以上聞かなかった。
「もう少ししたら落ち着くから、戻れそうなら戻ってきて」
穏やかに言う。
「無理なら今日はここで在庫確認とかお願い」
「戻る」
あまりの早い返答に、汐は思わず笑う。
「……即答だね」
「……汐が横にいてくれるんでしょ?」
咲樂が見上げる。
少しだけ不安そうな目だったが、汐は迷わない。
当たり前の答えしか持っていないからだ。
「うん、もちろん」
その答えに、咲樂はほんの少しだけ笑った。
帳場に戻り、しばらくして、
「お前、相変わらず怖い奴だな」
と、背後から声がした。
振り返れば、いつの間にか赤毛の長身の男が立っていた。
仕事帰りなのだろう。白衣ではなく、無造作な出で立ちだ。
「あれ。火々里、来てたんだ」
汐は目を丸くさせるが、どこか白々しい仕草だ。
「明日休みだからな」
火々里は広い肩を竦めると、咲樂を見やった。
「……なぁに?」
「明日リハビリの日だから忘れるなよ」
からかいを帯びた口調に、咲樂はむっと頬を膨らませる。
「ちゃんと、覚えてるわよ」
「そうかそうか」
全然信用していない顔に、咲樂がますます不満そうになる。
「あ、そうだ」
そうして、ほんの少しわざとらしい間を空けて、火々里が思い出したように言った。
「明後日、カンナギ島から来る巫女が、お前と話したいそうだ」
「僕?」
汐が首を傾げる。
「なんでまた?」
「なんか、神楽のことを聞きたいんだと」
「えぇ……」
汐は露骨に困った顔をして、宿帳の背表紙で自身の肩を二度叩く。
「あんまり覚えてないのにな……」
「汐にしか聞けないって、うちの局長様からのお願いだ」
「んー……」
少し考える。
「……まぁ……お昼過ぎなら、いいよ」
快諾、とは言わない。
渋々、仕方なくといった風だったが、遠慮の欠片もない様子で、低い声が面白そうに笑った。
「おう、ありがとな」
火々里は軽く手を上げると、汐の肩をぽんぽんと叩いて、そのまま食堂へ戻っていった。
その背中を見送りながら、咲樂がぽつりと言う。
「……カンナギ島って」
「うん」
汐も頷く。
「あのカンナギ島、だろうね」
「わたし、初めてお目にかかるわ」
咲樂が呟く。
表情はほとんど崩れていないけれど、その声は、期待や喜びではなく、どこか不安そうなものだった。
「火々里やあの局長殿が頼んできた人なら、そう変な人じゃないよ」
「……ええ、そうよね」
見透かされている気がしたのか、咲樂はほんのりと頬を染めると、誤魔化すように笑顔を作った。
食堂では湯気の立つ料理が運ばれ、宿泊客たちの談笑が行灯の灯りに溶けている。
咲樂は帳簿へ目を落としながら数字を確認しており、その隣では汐が宿帳を整理している。
その時、引き戸が開かれる。
酒の匂いを纏った男たちが三人、食堂へ入ってきた。
「いらっしゃいませ」
咲樂がすぐに顔を上げて、接客に切り替える。
男たちは席を探すように店内を見回して、「食堂で」と酔客特有の、やや大きな声を出した。
給仕係の従業員が、忙しなく動き回っているのを視界の端に捉えながら、
「少々お待ちくださいね。案内を──」
呼ぼうとした時だった。
「あんたが“柩の咲樂”か?」
男の一人が言った。
咲樂は、思わず瞬きをする。
「え?」
久しぶりに耳にした呼び名に、思わず抜けた声が出た。
「お前初めて見るのか?」
「見るのは初めてだな」
「へぇ……」
質問した男はじろじろと咲樂を眺めた。
頭から顔、首筋へと、値踏みと好奇心が入り交じった視線が、べっとりとまとわりついた。
「えれぇべっぴんだなぁ」
周囲の空気が少しだけ変わる。
咲樂は困ったように口元を緩ませ、眉尻を下げるだけだった。
「とんでもないです」
慣れていた。
こういう視線にも。こういう言葉にも。
宿帳から男たちへ、汐の青紫の双眸が流れた。
「その髪、本物か?」
男が笑う。
桃色の、恐らくはこの国で一人しかいない稀有な髪の毛を、面白そうに指さした。
「目もつくりもんみてぇだな」
言われ慣れている。
言葉そのものへの温度は、全く変わらなかった。
しかし、酒が入り気が大きくなった男は、まるで八百屋で野菜を手に取るくらい当たり前に、平然と、嫋やかに波打つ髪の毛に、手を伸ばした。
|咲樂の目には、その手が酷くゆっくりと迫って来るように見えた。
──触られる。
そう思った瞬間、細い肩は小さく跳ね、ブリキの玩具のように固まった。
「お客様」
誰もが心地よくなる、完璧な声音だった。
固まって、思わず言葉を失った咲樂の視界に、濃紺色が広がった。
「従業員への接触はお控えください」
隣にいた汐が右腕を上げて、客と咲樂の間を隔てたようだった。
彼の着る羽織の袖が暖簾のように、咲樂の眼前に垂れている。
そっと見上げると、柔らかな目元や上がった口角が寸分も乱れずに維持されていた。
男が眉を顰めた。
「は?」
あからさまに不機嫌になった、棘を含む一音。
「なんだ兄ちゃん」
友人二人が顔色を変えた。
「おい」
「やめとけ」
男は気づかない。
「魂人なのに、指図すんのか?」
魂人──蔑む声に、咲樂の指先が膝の上で強張った。
汐は変わらず微笑んでいる。
「ここは単なる宿屋でございますから」
穏やかだった。
「遊郭と提携しているので、よく誤解されるんです。分かりづらいですよね」
「ああ?」
男の声が大きくなる。
「宿屋でもなんでも、魂人が地上の人間に逆らうのはどうなんだ!」
周囲がざわつく。
食堂の和やかな雰囲気が止まり、視線が帳場へと集まる。
「魂人風情が一丁前に勿体つけてんのか!」
男は興奮したように叫んだ。
空気が冷えた。
汐は笑っていたけれど、目だけが冷たく、凍った湖面みたいだった。
「裏に行って」
けれど、咲樂へ向けられた声だけは優しい。
汐を見上げ、頷いた。
「……うん」
車椅子を動かす。
すると男は更に激昂した。
「おい!」
机を叩く。大きな音に咲樂は耳を塞ぎたくなり、急いでその場から去る。
「俺のこと馬鹿にしてんのか!」
「やめろってお前!」
友人が肩を掴んで止めに入った。
「ここどこか知らねぇのか!」
「なにがだ!」
男は振り払い、止まらない。
「あの女呼び戻せ!」
酒臭い息を吐いた。
常ならばここまで興奮状態にならないだろうに、酒の力はどこまでも男を愚かにさせる。
「俺が魂人の立場を分からせてやる!」
その瞬間、汐が言った。
「ご退店を」
静かなのに、よく通る声だった。
「ああ!?」
「どうぞ、お引き取りください」
汐は一秒たりとも笑みを引っ込めない。
「今後も、ここへはいらっしゃらないでください」
「ふざけてんのか!」
怒鳴りながら汐に向けられた人差し指は、我慢ならないように震えている。
「俺は地上の──!」
「──地上のことは存じ上げませんが」
言葉を断ち切った。
どこまでも平坦な声が、初めて語気を強めて、理不尽な地上人を見据えた。
氷よりも冷ややかな瞳の奥を見た男が、思わず押し黙る。
「――この幽泉堂では、私が法でございます」
静寂が落ちる。
客たちも従業員たちも誰も口を開かない。
「当店の規律に従っていただけない方を、お客様として扱うわけにも参りません」
男の顔が赤くなる。
「なんだと……っ」
「まだなにか?」
愛想よく首を傾ける。
それだけだった。それだけなのに、男は続けられなかった。
周囲の視線に気づいたのだろう。
友人たちも、男から距離を空けていた。
「……っ」
着物の衿を引っ張り、舌打ちをすると踵を返した。
引き戸が乱暴に閉まり、大きな音が響いた。
しばらく誰も喋らなかったが、やがて汐は客たちへ向き直り、丁寧に一礼した。
「お見苦しいところをお見せしました」
微笑む。
「どうぞごゆっくり」
そこでようやく空気が動き始めた。
客たちも徐々に会話を再開して、食堂にも音が戻っていく。
汐は荒れた空気を振り払うように、小さく息を吐いてから、帳場奥の物品庫へと向かった。
暗がりに、咲樂がいた。
車椅子を止め、膝の上で重ねた両手が僅かに震えていた。
汐は何も言わず近づき、そして目線を合わせた。
「大丈夫?」
咲樂は少しだけ目を伏せる。
申し訳なさそうな顔は、今夜も変わらない。
「……うん」
小さく頷いた。
汐はそれ以上聞かなかった。
「もう少ししたら落ち着くから、戻れそうなら戻ってきて」
穏やかに言う。
「無理なら今日はここで在庫確認とかお願い」
「戻る」
あまりの早い返答に、汐は思わず笑う。
「……即答だね」
「……汐が横にいてくれるんでしょ?」
咲樂が見上げる。
少しだけ不安そうな目だったが、汐は迷わない。
当たり前の答えしか持っていないからだ。
「うん、もちろん」
その答えに、咲樂はほんの少しだけ笑った。
帳場に戻り、しばらくして、
「お前、相変わらず怖い奴だな」
と、背後から声がした。
振り返れば、いつの間にか赤毛の長身の男が立っていた。
仕事帰りなのだろう。白衣ではなく、無造作な出で立ちだ。
「あれ。火々里、来てたんだ」
汐は目を丸くさせるが、どこか白々しい仕草だ。
「明日休みだからな」
火々里は広い肩を竦めると、咲樂を見やった。
「……なぁに?」
「明日リハビリの日だから忘れるなよ」
からかいを帯びた口調に、咲樂はむっと頬を膨らませる。
「ちゃんと、覚えてるわよ」
「そうかそうか」
全然信用していない顔に、咲樂がますます不満そうになる。
「あ、そうだ」
そうして、ほんの少しわざとらしい間を空けて、火々里が思い出したように言った。
「明後日、カンナギ島から来る巫女が、お前と話したいそうだ」
「僕?」
汐が首を傾げる。
「なんでまた?」
「なんか、神楽のことを聞きたいんだと」
「えぇ……」
汐は露骨に困った顔をして、宿帳の背表紙で自身の肩を二度叩く。
「あんまり覚えてないのにな……」
「汐にしか聞けないって、うちの局長様からのお願いだ」
「んー……」
少し考える。
「……まぁ……お昼過ぎなら、いいよ」
快諾、とは言わない。
渋々、仕方なくといった風だったが、遠慮の欠片もない様子で、低い声が面白そうに笑った。
「おう、ありがとな」
火々里は軽く手を上げると、汐の肩をぽんぽんと叩いて、そのまま食堂へ戻っていった。
その背中を見送りながら、咲樂がぽつりと言う。
「……カンナギ島って」
「うん」
汐も頷く。
「あのカンナギ島、だろうね」
「わたし、初めてお目にかかるわ」
咲樂が呟く。
表情はほとんど崩れていないけれど、その声は、期待や喜びではなく、どこか不安そうなものだった。
「火々里やあの局長殿が頼んできた人なら、そう変な人じゃないよ」
「……ええ、そうよね」
見透かされている気がしたのか、咲樂はほんのりと頬を染めると、誤魔化すように笑顔を作った。

