PANDORA・柩灯

 夜辺家の女中たちは、驚くほど親切だった。

 玄関に入り、まず車椅子の車輪カバーをつけるのを手伝ってくれた。

 そして数人の女性たちが、三和土から上がり框(かまち)に上がるために、咲樂を介助してくれた。

 誰一人として嫌な顔をせず、当たり前のように助けてくれた。

「ご不便がありましたら、お気軽にお申し付けくださいね」

 そう言って優しく微笑んでくれた。
 この人たちも、傾き続ける夜辺家の一員であり、今、苦しんでいるのだろうか。
 刹那、同情してしまいそうになり、“汐を取り戻す”という使命感を必死に焚き付けた。

 そして、一室の扉の前まで案内されて、咲樂は生唾を飲み込む。

 この奥に、夜辺家当主――夜辺和雅(かずまさ)がいる。

 汐を強引に地上に連れ去った人が。

「和雅様。咲樂様をお連れいたしました」

 女中が静かに襖を開く。

「失礼いたします」

 咲樂は小さく息を吸った。
 車椅子がゆっくりと敷居を越える。

 そこは、夜辺家の応接室だった。
 西洋建築の意匠を取り入れながらも、どこか和の趣を残した落ち着いた空間だった。

 濃い飴色の床板の上には絨毯が敷かれ、艶のある木製家具が整然と並んでいる。
 壁には風景画が一枚。
 窓辺には白いレースのカーテンが揺れ、その向こうから柔らかな日差しが差し込んでいた。
 豪奢ではない。
 しかし、ひとつひとつが長く大切に使われてきたことの分かる、上質な調度品ばかりだった。

 部屋の奥。
 一人の男が、ソファーへ静かに腰掛けていた。
 年の頃は五十代半ば。
 白髪の混じった黒髪をきちんと撫でつけ、濃紺で、上質な着物を隙なく着こなしている。
 皺は年齢相応に刻まれているが、その姿勢は真っ直ぐで、一切の衰えを感じさせない。
 穏やかな眼差し。
 それでいて、一目で人の上に立つ者だと分かる威厳があった。

 夜辺家当主――夜辺和雅。

 咲樂の胸が、どくり、と大きく脈打つ。

(この人が……)

 何年も何年も、汐に使者を送り続けた張本人。
 依月家亡き後、新たな宗家として君臨する男。
 知らず、膝の上で指先へ力が入った。
 女中が一礼する。

「ご苦労」

 低く落ち着いた声だった。
 女中たちは静かに部屋を辞し、扉が音もなく閉じられる。

 部屋には二人だけが残った。
 数秒、静寂だけが流れるが、先に口を開いたのは咲樂だった。
 車椅子の上で背筋を伸ばす。
 鼓動は速い。
 けれど、それを悟られてはいけない。

「……本日は、お時間をいただきありがとうございます」

 深く頭を下げる。

「柩(ひつぎ)地区の幽泉堂(ゆうせんどう)に勤めております、咲樂と申します」

 顔を上げる。
 桃色の瞳は真っ直ぐ和雅を見据えていた。
 和雅は静かに頷く。

「初めまして」

 柔らかな、しかし、重厚な声音だった。

「夜辺家当主、夜辺和雅です」

 宗家当主でありながら、その居住まいに驕りはなかった。
 魂人(たまびと)である咲樂を見下す色もない。
 一人の来客へ向ける礼節そのままに、小さく一礼する。

「遠路、ご足労いただき感謝します」

 咲樂は一瞬だけ目を瞬かせた。
 もう少し、高圧的な人物を想像していた。
 だが目の前の男は違う。
 穏やかで、礼儀正しい。
 だからこそ油断できない。
 和雅が口を開く。

「紅茶でもご用意しましょうか」

「……お気遣いありがとうございます。ですが、お構いなく」

「そうですか」

 短いやり取りだけで終わる。
 再び静寂が訪れて、咲樂はゆっくりと息を整えた。
 ここへ来た目的は一つしかない。
 迷ってはいけない。
 膝の上で両手を重ね、小さく握る。

「……本日は」

 声が震えそうになる。
 それでも視線は逸らさなかった。

「汐を、幽泉堂へ返していただきたくて参りました」

 その一言で、部屋の空気が張り詰めた。
 和雅は表情を変えない。
 ただ、咲樂を見つめている。

「汐は」

 咲樂は続ける。

「幽泉堂に必要な人です」

 握った手へ、さらに力が入る。

「彼自身も、幽泉堂にいることを望んでいるはずです」

 一緒にお店をしようよと言って、嬉しそうに工事現場に連れて行ってくれた少年の姿が、今でも思い出せる。

「何年もかけて、幽泉堂を……今の柩地区をつくりあげたのは汐です。彼は、地上で暮らしたいとは、一言も言っておりませんでした」

 一度だけ息を吸う。

「なにより」

 少しだけ目を伏せる。

「……私たちにとっても、汐は大切な家族です」

 咲樂だけではない。
 孤児院の職員や子どもたち。
 瑚杜(こもり)や鉄太(てった)、他の従業員たち。
 柩地区にいる様々な人たちにとって、汐は家族であり、友人であり、かけがえのない人だ。

 和雅は口を挟まず、静かに聞いている。
 咲樂は勇気を振り絞るように、もう一歩踏み込んだ。

「どうか……」

 桃色の瞳が揺れる。

「汐を、返してください」

 部屋は静まり返っていた。
 時計の針が進む音だけが、小さく響いている。
 和雅はすぐには答えなかった。
 咲樂の表情を、声を、そして言葉の一つひとつを確かめるように見つめ続ける。
 やがて、ゆっくりと口を開いた。

「……咲樂さん」

 その声音は穏やかだった。

「あなたが汐殿を必要とするように、我々にとっても彼は、なくてはならない人であり――今や本物の家族です」

 息が、胸が、一瞬で詰まった。

 にこやかに告げられた言葉を理解するのを、頭が拒んだ。
 和雅は目尻の皺を深くして、口の右端を持ち上げる。

「あなた方とちがい、血の繋がりも本物です。彼を地獄から地上へ救えるのは、私だけだった。それをしたまでです」

 すべて、建前だ。
 咲樂は分かっている。彼らの本当の狙いを。

「まだ幼かった汐殿への残酷な処罰を、歳月をかけて覆したまで」

 満足げに微笑む目の前の権力に、咲樂は生まれて初めての感情が、腹の奥から湧いてくるような気がした。

「あなたも家族だと仰るなら、祝福されては如何でしょう? 汐殿はようやく、地下の汚泥(おでい)から解放されたんですから」

「……」

 思わず、言葉を失った。
 汚泥。
 その言葉に、反論、できなかった。

 この世界を目にして、この広い空を見上げて、自然の恵みを知って、どちらが生きやすいか、理解できてしまった。

「……咲樂さんは、生まれも育ちも地下でしたね」

「……はい」

 侮蔑するための問いではなく、確認だった。

「あなたには理解し難いかもしれない。言遣(ことつか)いがいない宗家が、どれほど惨めか」

 分からなかった。
 家族で、親戚で殺し合うほどの意味が。
 議会で発言権を得られないことの重要性が。

 自分が今、どれほど子どもじみた考えなのかだけ、分かっていた。

「私は依月(よつき)家……正統な宗家から家を預かった身。薬師(やくし)地区の民の生活を、保証しなくてはならない、当主です」

 時計の針が、カチカチと進んでいく。
 レースカーテンから透ける光が、優しく応接室を照らす。
 月を信仰する一族だからか、陽の光の中にいる当主は、ひどく違和感があった。

「そして汐殿もまた、元宗家、唯一の生き残りとして――」

 すっと、咲樂を見る切れ長の双眸に、冷たさが宿る。

「――血を遺し、言遣(ことつか)いを遺す義務がある」

 和雅は言葉を切った。
 静寂が落ちる。
 咲樂は唇を噛んだ。
 何か言わなければならない。
 けれど、言葉が見つからない。
 和雅は急かさなかった。
 焦らせることも、威圧することもない。
 ただ事実だけを積み重ねるように続ける。

「……咲樂さん。あなたは、汐殿を大切に思っておられる」

「……はい」

「それは疑いません」

 和雅は小さく頷く。

「だからこそ、お尋ねしたい」

 真っ直ぐ咲樂を見る。

「あなたは、汐殿の未来に責任を負えますか」

 咲樂の呼吸が止まった。

「……責任」

「ええ」

 和雅はどこまでも平坦だった。

「十年先、二十年先、三十年先」

 一つずつ区切る。

「彼が病に伏した時。年老いた時。幽泉堂が立ち行かなくなった時」

 言葉が淡々と続く。

「あなたは彼を守れますか」

「……」

「柩地区の自治が崩れた時。飢饉が起きた時。地上との均衡が失われた時」

 和雅はそこで一度息を置いた。

「その時、汐殿を守れるだけの力を、あなたはお持ちですか」

 答えられず、咲樂は俯いた。
 自分は歩けない。
 薬も医学も、火々里や汐みたいに知識があるわけではない。
 戦えない。
 常に汐に守られてきた側だ。

 それを誰よりも知っている。

「ですが、夜辺家にはあります」

 迷いのない声だった。

「財があります。人員も、権力も、護衛も。汐殿が望む研究を支えるだけの資金もあります」

 一つ一つが、現実だった。
 咲樂には反論できない。

「あなた方は愛情で汐殿を支えた」

 和雅は認める。

「それは尊いことです。けれど」

 その一言で空気が変わる。

「宗家は、愛情だけでは務まりません。一人の幸福だけを考えて生きる立場ではない」

 和雅は窓の外へ目を向けた。
 整えられた庭木が風に揺れている。

「汐殿は、元依月宗家嫡子です。本人が望もうと望むまいと、その血には責任が伴う。血筋とは、個人の自由より重いことがある」

 咲樂は思わず拳を握る。

「……そんなの」

 掠れた声だった。

「汐は……」

 違う。
 そう言いたかった。

「汐殿に子が生まれなければ、依月宗家の血統は完全に絶えます。歴代当主が守ってきた技術も、全てそこで終わる」

 部屋が静まり返る。

「先祖たちが繋いできたものを絶やす。それを決める権利が、一人の青年だけにあると、私は思いません」

 咲樂は顔を上げる。
 初めて、その瞳へ怒りが宿っていた。

「……汐は、人です」

 震えながらも言う。

「一族を繋ぐための、道具じゃありません」

 和雅は頷いた。

「その通りです。だから私は、道具として扱うつもりはありません」

 その返答が、さらに咲樂を苦しめた。

「家族として迎えました。生活を保証し、敬意を払っています」

 和雅の声と視線には、他者を納得させる不思議な力があった。

「そしていずれ、自らの意思で夜辺家に残ると決めていただきたい」

 咲樂の瞳が揺れる。

「……自らの意思」

 和雅は微笑んだ。

「私は、鎖で繋ぐつもりはありません。けれど」

 その微笑みは穏やかなまま、少しも揺らがない。

「汐殿ほど理性的な方なら、どちらが多くの者を救える道か、今は難しくとも、いずれ、必ず理解されるでしょう」

 その一言が、咲樂の反論を完全に封じた。
 和雅は汐を軽んじていない。
 咲樂のことも否定していない。

 ただ、“責務”と“未来”という、咲樂には背負えない天秤を卓上へ置いた。
 その重さだけが、静謐な応接間を支配していた。

 咲樂の頭が自然と下がっていき、長い髪が視界の中に垂れてきた。
 和雅が話す内容に、綻びなどない。
 当主として当たり前のことをしただけなのだと、今、理解した。
 公家として、薬師地区の民を守り、家族を守る。
 汐が地下で行うことと、同じだった。

 和雅は正しかった。

 しかし、だからと言って。
 咲樂が最も許せなかったことは、別にある。

 ここまで、尊が立場がありながら一緒に来てくれた。
 汐と咲樂の友人でもない芽以が、協力してくれた。
 幽泉堂の皆が、汐を待っている。

 そっと顔を上げた咲樂は、苦しそうだった。
 己の未熟さに消えてしまいたくなるけれど、諦める道理もない。

 震える喉で息を吸った。

「わたしが、あなた方を許せないのは、汐の意思を無視したことです」

 桃色の瞳に、静かな炎が宿り、目の前の男をじっと見据える。
 垂れ下がる穏やかな眉は吊り上がり、細い肩が怒る。

「何年も、何度も、汐はお断りしたはずです。それをすべてなかったことにして、あなたは、議会という、誰にも覆せない方法で、彼の自由を奪った」

 胸の奥で、押し殺していた感情が音を立てて燃え上がる。

「柩送りになった汐が、あの時どれほどつらかったのか、何もご存知ないあなたが、今更、汐の人生を奪わないでください」

 初めて湧き上がる憤りで、声が震える。

 汐はずっと、自分のせいで家が崩壊したと責め続けている。
 あの笑顔の裏側で、どれほど悩んで悲しんでいたのか、想像することも烏滸がましい。

 一度彼を要らないと手放した地上側が、都合よくまた連れ去ろうとしている。

 誰が何と言おうとも、汐は、道具ではない。
 血を遺すために存在する物ではない。
 自分の人生を生きる、ひとりの人間だ。

 ここへ来た時の恐怖と緊張がまるで嘘のように、咲樂は夜辺家当主と真正面から、強い眼差しで相対した。

「……では、咲樂さん」

 そして和雅もまた、瞬きを一つして、声を低くした。

「あなたも我々と同じだ」

 風が吹き、レースカーテンが靡く。
 光がまばらに踊り、絨毯の上を遊んだ。

「――あなたも、汐殿の人生を、消費している」

 桃色の髪が風に乗って、嫋やかに揺れる。
 昔、汐が贈った髪飾りの装飾が、陽に反射して煌めいた。

 窓からさす光で、絨毯に、車輪の影が伸びていた。

 宝石のような美しい瞳が、砕けてしまいそうに、悲痛に見開かれた。