夜辺家の女中たちは、驚くほど親切だった。
玄関に入り、まず車椅子の車輪カバーをつけるのを手伝ってくれた。
そして数人の女性たちが、三和土から上がり框に上がるために、咲樂を介助してくれた。
誰一人として嫌な顔をせず、当たり前のように助けてくれた。
「ご不便がありましたら、お気軽にお申し付けくださいね」
そう言って優しく微笑んでくれた。
この人たちも、傾き続ける夜辺家の一員であり、今、苦しんでいるのだろうか。
刹那、同情してしまいそうになり、“汐を取り戻す”という使命感を必死に焚き付けた。
そして、一室の扉の前まで案内されて、咲樂は生唾を飲み込む。
この奥に、夜辺家当主――夜辺和雅がいる。
汐を強引に地上に連れ去った人が。
「和雅様。咲樂様をお連れいたしました」
女中が静かに襖を開く。
「失礼いたします」
咲樂は小さく息を吸った。
車椅子がゆっくりと敷居を越える。
そこは、夜辺家の応接室だった。
西洋建築の意匠を取り入れながらも、どこか和の趣を残した落ち着いた空間だった。
濃い飴色の床板の上には絨毯が敷かれ、艶のある木製家具が整然と並んでいる。
壁には風景画が一枚。
窓辺には白いレースのカーテンが揺れ、その向こうから柔らかな日差しが差し込んでいた。
豪奢ではない。
しかし、ひとつひとつが長く大切に使われてきたことの分かる、上質な調度品ばかりだった。
部屋の奥。
一人の男が、ソファーへ静かに腰掛けていた。
年の頃は五十代半ば。
白髪の混じった黒髪をきちんと撫でつけ、濃紺で、上質な着物を隙なく着こなしている。
皺は年齢相応に刻まれているが、その姿勢は真っ直ぐで、一切の衰えを感じさせない。
穏やかな眼差し。
それでいて、一目で人の上に立つ者だと分かる威厳があった。
夜辺家当主――夜辺和雅。
咲樂の胸が、どくり、と大きく脈打つ。
(この人が……)
何年も何年も、汐に使者を送り続けた張本人。
依月家亡き後、新たな宗家として君臨する男。
知らず、膝の上で指先へ力が入った。
女中が一礼する。
「ご苦労」
低く落ち着いた声だった。
女中たちは静かに部屋を辞し、扉が音もなく閉じられる。
部屋には二人だけが残った。
数秒、静寂だけが流れるが、先に口を開いたのは咲樂だった。
車椅子の上で背筋を伸ばす。
鼓動は速い。
けれど、それを悟られてはいけない。
「……本日は、お時間をいただきありがとうございます」
深く頭を下げる。
「柩地区の幽泉堂に勤めております、咲樂と申します」
顔を上げる。
桃色の瞳は真っ直ぐ和雅を見据えていた。
和雅は静かに頷く。
「初めまして」
柔らかな、しかし、重厚な声音だった。
「夜辺家当主、夜辺和雅です」
宗家当主でありながら、その居住まいに驕りはなかった。
魂人である咲樂を見下す色もない。
一人の来客へ向ける礼節そのままに、小さく一礼する。
「遠路、ご足労いただき感謝します」
咲樂は一瞬だけ目を瞬かせた。
もう少し、高圧的な人物を想像していた。
だが目の前の男は違う。
穏やかで、礼儀正しい。
だからこそ油断できない。
和雅が口を開く。
「紅茶でもご用意しましょうか」
「……お気遣いありがとうございます。ですが、お構いなく」
「そうですか」
短いやり取りだけで終わる。
再び静寂が訪れて、咲樂はゆっくりと息を整えた。
ここへ来た目的は一つしかない。
迷ってはいけない。
膝の上で両手を重ね、小さく握る。
「……本日は」
声が震えそうになる。
それでも視線は逸らさなかった。
「汐を、幽泉堂へ返していただきたくて参りました」
その一言で、部屋の空気が張り詰めた。
和雅は表情を変えない。
ただ、咲樂を見つめている。
「汐は」
咲樂は続ける。
「幽泉堂に必要な人です」
握った手へ、さらに力が入る。
「彼自身も、幽泉堂にいることを望んでいるはずです」
一緒にお店をしようよと言って、嬉しそうに工事現場に連れて行ってくれた少年の姿が、今でも思い出せる。
「何年もかけて、幽泉堂を……今の柩地区をつくりあげたのは汐です。彼は、地上で暮らしたいとは、一言も言っておりませんでした」
一度だけ息を吸う。
「なにより」
少しだけ目を伏せる。
「……私たちにとっても、汐は大切な家族です」
咲樂だけではない。
孤児院の職員や子どもたち。
瑚杜や鉄太、他の従業員たち。
柩地区にいる様々な人たちにとって、汐は家族であり、友人であり、かけがえのない人だ。
和雅は口を挟まず、静かに聞いている。
咲樂は勇気を振り絞るように、もう一歩踏み込んだ。
「どうか……」
桃色の瞳が揺れる。
「汐を、返してください」
部屋は静まり返っていた。
時計の針が進む音だけが、小さく響いている。
和雅はすぐには答えなかった。
咲樂の表情を、声を、そして言葉の一つひとつを確かめるように見つめ続ける。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……咲樂さん」
その声音は穏やかだった。
「あなたが汐殿を必要とするように、我々にとっても彼は、なくてはならない人であり――今や本物の家族です」
息が、胸が、一瞬で詰まった。
にこやかに告げられた言葉を理解するのを、頭が拒んだ。
和雅は目尻の皺を深くして、口の右端を持ち上げる。
「あなた方とちがい、血の繋がりも本物です。彼を地獄から地上へ救えるのは、私だけだった。それをしたまでです」
すべて、建前だ。
咲樂は分かっている。彼らの本当の狙いを。
「まだ幼かった汐殿への残酷な処罰を、歳月をかけて覆したまで」
満足げに微笑む目の前の権力に、咲樂は生まれて初めての感情が、腹の奥から湧いてくるような気がした。
「あなたも家族だと仰るなら、祝福されては如何でしょう? 汐殿はようやく、地下の汚泥から解放されたんですから」
「……」
思わず、言葉を失った。
汚泥。
その言葉に、反論、できなかった。
この世界を目にして、この広い空を見上げて、自然の恵みを知って、どちらが生きやすいか、理解できてしまった。
「……咲樂さんは、生まれも育ちも地下でしたね」
「……はい」
侮蔑するための問いではなく、確認だった。
「あなたには理解し難いかもしれない。言遣いがいない宗家が、どれほど惨めか」
分からなかった。
家族で、親戚で殺し合うほどの意味が。
議会で発言権を得られないことの重要性が。
自分が今、どれほど子どもじみた考えなのかだけ、分かっていた。
「私は依月家……正統な宗家から家を預かった身。薬師地区の民の生活を、保証しなくてはならない、当主です」
時計の針が、カチカチと進んでいく。
レースカーテンから透ける光が、優しく応接室を照らす。
月を信仰する一族だからか、陽の光の中にいる当主は、ひどく違和感があった。
「そして汐殿もまた、元宗家、唯一の生き残りとして――」
すっと、咲樂を見る切れ長の双眸に、冷たさが宿る。
「――血を遺し、言遣いを遺す義務がある」
和雅は言葉を切った。
静寂が落ちる。
咲樂は唇を噛んだ。
何か言わなければならない。
けれど、言葉が見つからない。
和雅は急かさなかった。
焦らせることも、威圧することもない。
ただ事実だけを積み重ねるように続ける。
「……咲樂さん。あなたは、汐殿を大切に思っておられる」
「……はい」
「それは疑いません」
和雅は小さく頷く。
「だからこそ、お尋ねしたい」
真っ直ぐ咲樂を見る。
「あなたは、汐殿の未来に責任を負えますか」
咲樂の呼吸が止まった。
「……責任」
「ええ」
和雅はどこまでも平坦だった。
「十年先、二十年先、三十年先」
一つずつ区切る。
「彼が病に伏した時。年老いた時。幽泉堂が立ち行かなくなった時」
言葉が淡々と続く。
「あなたは彼を守れますか」
「……」
「柩地区の自治が崩れた時。飢饉が起きた時。地上との均衡が失われた時」
和雅はそこで一度息を置いた。
「その時、汐殿を守れるだけの力を、あなたはお持ちですか」
答えられず、咲樂は俯いた。
自分は歩けない。
薬も医学も、火々里や汐みたいに知識があるわけではない。
戦えない。
常に汐に守られてきた側だ。
それを誰よりも知っている。
「ですが、夜辺家にはあります」
迷いのない声だった。
「財があります。人員も、権力も、護衛も。汐殿が望む研究を支えるだけの資金もあります」
一つ一つが、現実だった。
咲樂には反論できない。
「あなた方は愛情で汐殿を支えた」
和雅は認める。
「それは尊いことです。けれど」
その一言で空気が変わる。
「宗家は、愛情だけでは務まりません。一人の幸福だけを考えて生きる立場ではない」
和雅は窓の外へ目を向けた。
整えられた庭木が風に揺れている。
「汐殿は、元依月宗家嫡子です。本人が望もうと望むまいと、その血には責任が伴う。血筋とは、個人の自由より重いことがある」
咲樂は思わず拳を握る。
「……そんなの」
掠れた声だった。
「汐は……」
違う。
そう言いたかった。
「汐殿に子が生まれなければ、依月宗家の血統は完全に絶えます。歴代当主が守ってきた技術も、全てそこで終わる」
部屋が静まり返る。
「先祖たちが繋いできたものを絶やす。それを決める権利が、一人の青年だけにあると、私は思いません」
咲樂は顔を上げる。
初めて、その瞳へ怒りが宿っていた。
「……汐は、人です」
震えながらも言う。
「一族を繋ぐための、道具じゃありません」
和雅は頷いた。
「その通りです。だから私は、道具として扱うつもりはありません」
その返答が、さらに咲樂を苦しめた。
「家族として迎えました。生活を保証し、敬意を払っています」
和雅の声と視線には、他者を納得させる不思議な力があった。
「そしていずれ、自らの意思で夜辺家に残ると決めていただきたい」
咲樂の瞳が揺れる。
「……自らの意思」
和雅は微笑んだ。
「私は、鎖で繋ぐつもりはありません。けれど」
その微笑みは穏やかなまま、少しも揺らがない。
「汐殿ほど理性的な方なら、どちらが多くの者を救える道か、今は難しくとも、いずれ、必ず理解されるでしょう」
その一言が、咲樂の反論を完全に封じた。
和雅は汐を軽んじていない。
咲樂のことも否定していない。
ただ、“責務”と“未来”という、咲樂には背負えない天秤を卓上へ置いた。
その重さだけが、静謐な応接間を支配していた。
咲樂の頭が自然と下がっていき、長い髪が視界の中に垂れてきた。
和雅が話す内容に、綻びなどない。
当主として当たり前のことをしただけなのだと、今、理解した。
公家として、薬師地区の民を守り、家族を守る。
汐が地下で行うことと、同じだった。
和雅は正しかった。
しかし、だからと言って。
咲樂が最も許せなかったことは、別にある。
ここまで、尊が立場がありながら一緒に来てくれた。
汐と咲樂の友人でもない芽以が、協力してくれた。
幽泉堂の皆が、汐を待っている。
そっと顔を上げた咲樂は、苦しそうだった。
己の未熟さに消えてしまいたくなるけれど、諦める道理もない。
震える喉で息を吸った。
「わたしが、あなた方を許せないのは、汐の意思を無視したことです」
桃色の瞳に、静かな炎が宿り、目の前の男をじっと見据える。
垂れ下がる穏やかな眉は吊り上がり、細い肩が怒る。
「何年も、何度も、汐はお断りしたはずです。それをすべてなかったことにして、あなたは、議会という、誰にも覆せない方法で、彼の自由を奪った」
胸の奥で、押し殺していた感情が音を立てて燃え上がる。
「柩送りになった汐が、あの時どれほどつらかったのか、何もご存知ないあなたが、今更、汐の人生を奪わないでください」
初めて湧き上がる憤りで、声が震える。
汐はずっと、自分のせいで家が崩壊したと責め続けている。
あの笑顔の裏側で、どれほど悩んで悲しんでいたのか、想像することも烏滸がましい。
一度彼を要らないと手放した地上側が、都合よくまた連れ去ろうとしている。
誰が何と言おうとも、汐は、道具ではない。
血を遺すために存在する物ではない。
自分の人生を生きる、ひとりの人間だ。
ここへ来た時の恐怖と緊張がまるで嘘のように、咲樂は夜辺家当主と真正面から、強い眼差しで相対した。
「……では、咲樂さん」
そして和雅もまた、瞬きを一つして、声を低くした。
「あなたも我々と同じだ」
風が吹き、レースカーテンが靡く。
光がまばらに踊り、絨毯の上を遊んだ。
「――あなたも、汐殿の人生を、消費している」
桃色の髪が風に乗って、嫋やかに揺れる。
昔、汐が贈った髪飾りの装飾が、陽に反射して煌めいた。
窓からさす光で、絨毯に、車輪の影が伸びていた。
宝石のような美しい瞳が、砕けてしまいそうに、悲痛に見開かれた。
玄関に入り、まず車椅子の車輪カバーをつけるのを手伝ってくれた。
そして数人の女性たちが、三和土から上がり框に上がるために、咲樂を介助してくれた。
誰一人として嫌な顔をせず、当たり前のように助けてくれた。
「ご不便がありましたら、お気軽にお申し付けくださいね」
そう言って優しく微笑んでくれた。
この人たちも、傾き続ける夜辺家の一員であり、今、苦しんでいるのだろうか。
刹那、同情してしまいそうになり、“汐を取り戻す”という使命感を必死に焚き付けた。
そして、一室の扉の前まで案内されて、咲樂は生唾を飲み込む。
この奥に、夜辺家当主――夜辺和雅がいる。
汐を強引に地上に連れ去った人が。
「和雅様。咲樂様をお連れいたしました」
女中が静かに襖を開く。
「失礼いたします」
咲樂は小さく息を吸った。
車椅子がゆっくりと敷居を越える。
そこは、夜辺家の応接室だった。
西洋建築の意匠を取り入れながらも、どこか和の趣を残した落ち着いた空間だった。
濃い飴色の床板の上には絨毯が敷かれ、艶のある木製家具が整然と並んでいる。
壁には風景画が一枚。
窓辺には白いレースのカーテンが揺れ、その向こうから柔らかな日差しが差し込んでいた。
豪奢ではない。
しかし、ひとつひとつが長く大切に使われてきたことの分かる、上質な調度品ばかりだった。
部屋の奥。
一人の男が、ソファーへ静かに腰掛けていた。
年の頃は五十代半ば。
白髪の混じった黒髪をきちんと撫でつけ、濃紺で、上質な着物を隙なく着こなしている。
皺は年齢相応に刻まれているが、その姿勢は真っ直ぐで、一切の衰えを感じさせない。
穏やかな眼差し。
それでいて、一目で人の上に立つ者だと分かる威厳があった。
夜辺家当主――夜辺和雅。
咲樂の胸が、どくり、と大きく脈打つ。
(この人が……)
何年も何年も、汐に使者を送り続けた張本人。
依月家亡き後、新たな宗家として君臨する男。
知らず、膝の上で指先へ力が入った。
女中が一礼する。
「ご苦労」
低く落ち着いた声だった。
女中たちは静かに部屋を辞し、扉が音もなく閉じられる。
部屋には二人だけが残った。
数秒、静寂だけが流れるが、先に口を開いたのは咲樂だった。
車椅子の上で背筋を伸ばす。
鼓動は速い。
けれど、それを悟られてはいけない。
「……本日は、お時間をいただきありがとうございます」
深く頭を下げる。
「柩地区の幽泉堂に勤めております、咲樂と申します」
顔を上げる。
桃色の瞳は真っ直ぐ和雅を見据えていた。
和雅は静かに頷く。
「初めまして」
柔らかな、しかし、重厚な声音だった。
「夜辺家当主、夜辺和雅です」
宗家当主でありながら、その居住まいに驕りはなかった。
魂人である咲樂を見下す色もない。
一人の来客へ向ける礼節そのままに、小さく一礼する。
「遠路、ご足労いただき感謝します」
咲樂は一瞬だけ目を瞬かせた。
もう少し、高圧的な人物を想像していた。
だが目の前の男は違う。
穏やかで、礼儀正しい。
だからこそ油断できない。
和雅が口を開く。
「紅茶でもご用意しましょうか」
「……お気遣いありがとうございます。ですが、お構いなく」
「そうですか」
短いやり取りだけで終わる。
再び静寂が訪れて、咲樂はゆっくりと息を整えた。
ここへ来た目的は一つしかない。
迷ってはいけない。
膝の上で両手を重ね、小さく握る。
「……本日は」
声が震えそうになる。
それでも視線は逸らさなかった。
「汐を、幽泉堂へ返していただきたくて参りました」
その一言で、部屋の空気が張り詰めた。
和雅は表情を変えない。
ただ、咲樂を見つめている。
「汐は」
咲樂は続ける。
「幽泉堂に必要な人です」
握った手へ、さらに力が入る。
「彼自身も、幽泉堂にいることを望んでいるはずです」
一緒にお店をしようよと言って、嬉しそうに工事現場に連れて行ってくれた少年の姿が、今でも思い出せる。
「何年もかけて、幽泉堂を……今の柩地区をつくりあげたのは汐です。彼は、地上で暮らしたいとは、一言も言っておりませんでした」
一度だけ息を吸う。
「なにより」
少しだけ目を伏せる。
「……私たちにとっても、汐は大切な家族です」
咲樂だけではない。
孤児院の職員や子どもたち。
瑚杜や鉄太、他の従業員たち。
柩地区にいる様々な人たちにとって、汐は家族であり、友人であり、かけがえのない人だ。
和雅は口を挟まず、静かに聞いている。
咲樂は勇気を振り絞るように、もう一歩踏み込んだ。
「どうか……」
桃色の瞳が揺れる。
「汐を、返してください」
部屋は静まり返っていた。
時計の針が進む音だけが、小さく響いている。
和雅はすぐには答えなかった。
咲樂の表情を、声を、そして言葉の一つひとつを確かめるように見つめ続ける。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……咲樂さん」
その声音は穏やかだった。
「あなたが汐殿を必要とするように、我々にとっても彼は、なくてはならない人であり――今や本物の家族です」
息が、胸が、一瞬で詰まった。
にこやかに告げられた言葉を理解するのを、頭が拒んだ。
和雅は目尻の皺を深くして、口の右端を持ち上げる。
「あなた方とちがい、血の繋がりも本物です。彼を地獄から地上へ救えるのは、私だけだった。それをしたまでです」
すべて、建前だ。
咲樂は分かっている。彼らの本当の狙いを。
「まだ幼かった汐殿への残酷な処罰を、歳月をかけて覆したまで」
満足げに微笑む目の前の権力に、咲樂は生まれて初めての感情が、腹の奥から湧いてくるような気がした。
「あなたも家族だと仰るなら、祝福されては如何でしょう? 汐殿はようやく、地下の汚泥から解放されたんですから」
「……」
思わず、言葉を失った。
汚泥。
その言葉に、反論、できなかった。
この世界を目にして、この広い空を見上げて、自然の恵みを知って、どちらが生きやすいか、理解できてしまった。
「……咲樂さんは、生まれも育ちも地下でしたね」
「……はい」
侮蔑するための問いではなく、確認だった。
「あなたには理解し難いかもしれない。言遣いがいない宗家が、どれほど惨めか」
分からなかった。
家族で、親戚で殺し合うほどの意味が。
議会で発言権を得られないことの重要性が。
自分が今、どれほど子どもじみた考えなのかだけ、分かっていた。
「私は依月家……正統な宗家から家を預かった身。薬師地区の民の生活を、保証しなくてはならない、当主です」
時計の針が、カチカチと進んでいく。
レースカーテンから透ける光が、優しく応接室を照らす。
月を信仰する一族だからか、陽の光の中にいる当主は、ひどく違和感があった。
「そして汐殿もまた、元宗家、唯一の生き残りとして――」
すっと、咲樂を見る切れ長の双眸に、冷たさが宿る。
「――血を遺し、言遣いを遺す義務がある」
和雅は言葉を切った。
静寂が落ちる。
咲樂は唇を噛んだ。
何か言わなければならない。
けれど、言葉が見つからない。
和雅は急かさなかった。
焦らせることも、威圧することもない。
ただ事実だけを積み重ねるように続ける。
「……咲樂さん。あなたは、汐殿を大切に思っておられる」
「……はい」
「それは疑いません」
和雅は小さく頷く。
「だからこそ、お尋ねしたい」
真っ直ぐ咲樂を見る。
「あなたは、汐殿の未来に責任を負えますか」
咲樂の呼吸が止まった。
「……責任」
「ええ」
和雅はどこまでも平坦だった。
「十年先、二十年先、三十年先」
一つずつ区切る。
「彼が病に伏した時。年老いた時。幽泉堂が立ち行かなくなった時」
言葉が淡々と続く。
「あなたは彼を守れますか」
「……」
「柩地区の自治が崩れた時。飢饉が起きた時。地上との均衡が失われた時」
和雅はそこで一度息を置いた。
「その時、汐殿を守れるだけの力を、あなたはお持ちですか」
答えられず、咲樂は俯いた。
自分は歩けない。
薬も医学も、火々里や汐みたいに知識があるわけではない。
戦えない。
常に汐に守られてきた側だ。
それを誰よりも知っている。
「ですが、夜辺家にはあります」
迷いのない声だった。
「財があります。人員も、権力も、護衛も。汐殿が望む研究を支えるだけの資金もあります」
一つ一つが、現実だった。
咲樂には反論できない。
「あなた方は愛情で汐殿を支えた」
和雅は認める。
「それは尊いことです。けれど」
その一言で空気が変わる。
「宗家は、愛情だけでは務まりません。一人の幸福だけを考えて生きる立場ではない」
和雅は窓の外へ目を向けた。
整えられた庭木が風に揺れている。
「汐殿は、元依月宗家嫡子です。本人が望もうと望むまいと、その血には責任が伴う。血筋とは、個人の自由より重いことがある」
咲樂は思わず拳を握る。
「……そんなの」
掠れた声だった。
「汐は……」
違う。
そう言いたかった。
「汐殿に子が生まれなければ、依月宗家の血統は完全に絶えます。歴代当主が守ってきた技術も、全てそこで終わる」
部屋が静まり返る。
「先祖たちが繋いできたものを絶やす。それを決める権利が、一人の青年だけにあると、私は思いません」
咲樂は顔を上げる。
初めて、その瞳へ怒りが宿っていた。
「……汐は、人です」
震えながらも言う。
「一族を繋ぐための、道具じゃありません」
和雅は頷いた。
「その通りです。だから私は、道具として扱うつもりはありません」
その返答が、さらに咲樂を苦しめた。
「家族として迎えました。生活を保証し、敬意を払っています」
和雅の声と視線には、他者を納得させる不思議な力があった。
「そしていずれ、自らの意思で夜辺家に残ると決めていただきたい」
咲樂の瞳が揺れる。
「……自らの意思」
和雅は微笑んだ。
「私は、鎖で繋ぐつもりはありません。けれど」
その微笑みは穏やかなまま、少しも揺らがない。
「汐殿ほど理性的な方なら、どちらが多くの者を救える道か、今は難しくとも、いずれ、必ず理解されるでしょう」
その一言が、咲樂の反論を完全に封じた。
和雅は汐を軽んじていない。
咲樂のことも否定していない。
ただ、“責務”と“未来”という、咲樂には背負えない天秤を卓上へ置いた。
その重さだけが、静謐な応接間を支配していた。
咲樂の頭が自然と下がっていき、長い髪が視界の中に垂れてきた。
和雅が話す内容に、綻びなどない。
当主として当たり前のことをしただけなのだと、今、理解した。
公家として、薬師地区の民を守り、家族を守る。
汐が地下で行うことと、同じだった。
和雅は正しかった。
しかし、だからと言って。
咲樂が最も許せなかったことは、別にある。
ここまで、尊が立場がありながら一緒に来てくれた。
汐と咲樂の友人でもない芽以が、協力してくれた。
幽泉堂の皆が、汐を待っている。
そっと顔を上げた咲樂は、苦しそうだった。
己の未熟さに消えてしまいたくなるけれど、諦める道理もない。
震える喉で息を吸った。
「わたしが、あなた方を許せないのは、汐の意思を無視したことです」
桃色の瞳に、静かな炎が宿り、目の前の男をじっと見据える。
垂れ下がる穏やかな眉は吊り上がり、細い肩が怒る。
「何年も、何度も、汐はお断りしたはずです。それをすべてなかったことにして、あなたは、議会という、誰にも覆せない方法で、彼の自由を奪った」
胸の奥で、押し殺していた感情が音を立てて燃え上がる。
「柩送りになった汐が、あの時どれほどつらかったのか、何もご存知ないあなたが、今更、汐の人生を奪わないでください」
初めて湧き上がる憤りで、声が震える。
汐はずっと、自分のせいで家が崩壊したと責め続けている。
あの笑顔の裏側で、どれほど悩んで悲しんでいたのか、想像することも烏滸がましい。
一度彼を要らないと手放した地上側が、都合よくまた連れ去ろうとしている。
誰が何と言おうとも、汐は、道具ではない。
血を遺すために存在する物ではない。
自分の人生を生きる、ひとりの人間だ。
ここへ来た時の恐怖と緊張がまるで嘘のように、咲樂は夜辺家当主と真正面から、強い眼差しで相対した。
「……では、咲樂さん」
そして和雅もまた、瞬きを一つして、声を低くした。
「あなたも我々と同じだ」
風が吹き、レースカーテンが靡く。
光がまばらに踊り、絨毯の上を遊んだ。
「――あなたも、汐殿の人生を、消費している」
桃色の髪が風に乗って、嫋やかに揺れる。
昔、汐が贈った髪飾りの装飾が、陽に反射して煌めいた。
窓からさす光で、絨毯に、車輪の影が伸びていた。
宝石のような美しい瞳が、砕けてしまいそうに、悲痛に見開かれた。

