PANDORA・柩灯

 柩(ひつぎ)地区から、蓮塔(れんとう)地区にある関所へ繋がる洞窟と階段を前にして、咲樂(さくら)と尊(みこと)は顔を見合わせた。

「……ご、ごめんなさい……どうやって上がるか考えてなかったわ」

 車椅子では、この長い階段は上がれない。

 地上に出る! と意気込んだものの、今までここへ一切寄り付かなかった咲樂にとって、階段は大誤算だった。

「どうする? ……俺が背負ってもいいのか?」

 尊が気遣わしげに、咲樂を横目で見る。
 一瞬だけ、どうしようと躊躇うも、尊に運んでもらう以外の方法は生憎となさそうだ。

「お願い、してもいい……? わたし結構重いんだけど……」

 幼いころから火々里(かがり)に、「重い、デカい」と言われ続けた。
 失礼な人だと怒るけれど、確かに自分は背が高いし重いと、納得せざるを得ない。

 天井を見上げると、階段が短くはないだろうと予想がつく。
 申し訳なさと恥ずかしさはあるが、尊を頼るしかなかった。

「ああ。割と鍛えているから、心配しなくても大丈夫だよ」

 尊はなんでもない風に言うと、咲樂の目の前に背を向けてしゃがんだ。

 見た目よりも大分逞しい背に乗せられて、咲樂は落ちないように、しっかりと尊の肩を持って揺られた。
 咲樂を背負いながら、器用に片手で車椅子まで持って、一段一段上っていく尊に、ただただ驚く。

 見た目通りに力持ちの火々里でも、こんな運び方はしない。

「……あの、尊。今日は本当に、ありがとう……こんな図々しいことお願いして、ごめんなさい」

「いいや。俺も汐(うしお)のことは気になっていたから、ちょうど良かった。頼ってもらえて嬉しいよ」

 業務中は意図的に人間味を出さないけれど、彼は私的な場では、驚くほど親切で、穏やかだった。
 椿姫(つばき)が長年追いかけ続ける理由は、誰にでも分かった。

「でも君が、自分から地上に出るとは思わなかった。一体どんな作戦を思いついたんだ?」

 岩肌に、声と足音が反響する。
 その声は、どこか嬉しそうだが、咲樂は首を傾げて少し戸惑ってしまう。

「作戦……? ただ、汐を家に帰してくださいって、お願いしに行くだけよ?」

「え?」

「えっ?」

「……」

 黙り込んでしまった。

「……まあ、確かに……宗家当主に、小手先の交渉術は通用しない、か……?」

「それに、夜辺(よるべ)家も元は汐の親戚だし、そう悪い人たちでもないと思うの」

「そう、なのか……?」

「ええ。だからわたし、諦めずに頑張るわ」

 咲樂はしかと頷いて、見えてきた外の明かりに目を細めた。

 やがて長い階段を登り切る。

 湿った地下の空気が途切れ、頬を撫でる風が少しだけ軽くなった。
 眩しい陽の光に、咲樂は思わず目を細める。
 久しぶりの地上だった。

 咲樂の記憶にある地上は、いつも閉ざされた瞼の向こうだった。
 思わず手に力が入り、肩が強ばった。

 最後の一段を上って、漸く外の世界が視界に広がった。

 薄い紫の空に、白い雲が微かに浮かんでいる。
 行灯はどこにもないのに、こんなに明るいなんて、不思議だ。

 桃色の瞳に、目新しく新鮮な景色が次々に映る。

 風が髪を揺らす。
 湿気を帯びた地下の空気とは違う。
 乾いていて、どこまでも遠くへ抜けていくような風だった。

 思わず胸いっぱいに吸い込む。
 肺の奥まで透き通るような心地よさに、咲樂は静かに目を見開いた。

 鳥の鳴き声が聞こえる。
 葉擦れの音が聞こえる。
 どれも初めて耳にするはずなのに、不思議と懐かしい。
 地下では聞こえない音ばかりだった。

(なんて、残酷なんだろう)

 柩地区にはないものたちは、当たり前のようにそこにあった。

 咲樂は唇をきゅっと結ぶ。
 地下で暮らす人々は、この景色すら知らない。
 大半の者が見たこともないまま、一生を終える。
 そう思うだけで、胸の奥が締め付けられた。

 その後、車椅子に乗り換えて、尊が案内してくれるままについていく。
 すると、関所から少し離れた場所に大きな馬車が停まっており、見覚えがある青年が御者台に座っていた。

「芽以(めい)、朝早くにすまない。来てくれて助かった」

 芽以(めい)──。

 尊や椿姫(つばき)からよく聞く、忘れて良いはずがない名前と、一つに結われた長い髪。

 咲樂ははっとして、慌てて頭を下げる。

「お、おはようございます」

 汐伝手に聞いた。
 十七歳の事件の際、芽以が病院まで連れて行ってくれたのだと。

 それからも何度か顔を合わせる機会はあったが、咲樂は芽以に会う度に、条件反射で大袈裟に頭を下げた。

 彼がいなければ、助かっていなかった。

「……おはようございます」

 帰ってきた声は、相変わらず無愛想で、淡々としている。
 それでも芽以は、咲樂にとっては恐怖の対象ではない。

「どうして葉山《はやま》さんが、いらっしゃるんですか……?」

 見慣れた黒い軍服ではなく、私服だろうか、和装だった。

「俺が頼んだ。歩いて薬師(やくし)地区は、さすがに骨が折れるからな」

「そ、そうなの……」

 相変わらず、何も知らずに、勢いだけで決めてしまった自分への恥ずかしさに、肩を縮こませる。
 尊は全てを察して手を回してくれている。

「俺たちは遠乗りしていた芽以と、たまたま出くわして、たまたま行く方向が一緒だっただけだ。公的な目的で夜辺家へ向かうわけではない」

 だから尊も芽以も、制服ではなく、私服を着ている。

「俺は咲樂に頼まれて夜辺家へ案内するだけ。白律庁(はくりつちょう)も、仁々樹(ににぎ)家も、無関係だ。もちろん軍警も葉山(はやま)家も」

「ああ。でなければ来てない」

「俺はただの、彼女の付き添いだ」

 誠実な双眸が、咲樂をじっと見る。
 咲樂が尊宛てに綴った手紙の内容を、反芻する。

 何もしてくれなくていい。
 巻き込むつもりはない。
 ただ夜辺家に連れて行って欲しい。

 咲樂の手紙はそれだけだった。

 しかし咲樂は知っている。
 尊がいるだけで、誰も不用意な真似ができないことを。

 夜辺家を悪だと断じるわけではない。
 けれども、汐を取り戻すためには、虎の威を借りる必要があると踏んだ。

 聡明な尊は、咲樂の隠れた本心も把握した上で来てくれている。

「そう。わたしの我儘に、尊は付き合ってくれただけ。友達として」

「友達か。光栄だ」

「……と、友達よね? わたしたち」

 言っておきながら、もしかして一方的な友情なのだろうかと自信がなくなり、小さく聞くと、尊は静かに笑う。

「友達だよ。汐も、君も」

 すぐに返された答えに、胸を撫で下ろし、咲樂も口角を僅かに上げた。



 ◆ ◆ ◆



 芽以(めい)が走らせる馬車に揺られているうちに、朝日が顔を出した。
 紫から青へ、世界が変わる。

 咲樂は暫く眩しそうに目を細めていたけれど、途中で耐えられなかったのか、瞼を伏せてじっとしていた。

 朝焼けに照らされると、魂人の肌の白さが浮き上がり、地上にいること自体が不自然に見えてしまう。
 こういう違和感が、容易に差別に繋がる単純な差異だった。

 咲樂を見ていると、柩地区を早く改革しなければならないと思わせられる。

 彼女らが安寧に過ごせるようになるには、一体どのくらいの時間と根気と、権威が必要なのかと考えると、途方もなかった。

 火々里(かがり)のように地獄から這い上がれる魂人。
 汐(うしお)のように地獄で立ち回れる魂人。
 咲樂のように地獄でも生きられる魂人。

 柩地区の全てを良くしたいなんて、偽善で綺麗事で、理想論なのだと馬鹿にされても、尊は止める気にはなれなかった。

「──芽以、ここでいい」

 まだ屋敷も見えない都心部の手前で馬車を止め、咲樂を地上に下ろして、車椅子に乗せる。
 御者台に座ったままこちらを見下ろす碧眼は、今日も分かりやすい。

「朝早くから申し訳なかったな。お前はこのまま、家に帰ってくれ。帰りは他の馬車を拾うよ」

「遠くまで、ありがとうございました」

 すかさず咲樂も頭を下げる。
 それを、芽以は一瞥してふいと目を逸らした。

「……白律庁(はくりつちょう)にも家にも、迷惑がかかることはしないつもりだから、あまり心配しなくていい」

 弟に言うような、宥める声音だった。

「……ふん。そんな心配はしていない。じゃあな」

 芽以が蹄の音を軽快に鳴らしながら去っていく。
 咲樂と顔を合わせる時、いつも素っ気ないけれど、彼は魂人《たまびと》だからと言って、地下を虐げる人柄ではなかった。

「尊のお友達は、みんな優しいわね」

「ああ。芽以は誤解されやすいけど、いい奴なんだ」

 そう言う尊の横顔は少し誇らしげで、嬉しそうだった。
 芽以の姿が見えなくなると、尊はゆっくりと歩き始めた。

「行こうか」

「うん」

 車椅子の車輪が、石畳を静かに転がる。
 移動中にそれなりの時間が経ち、薬師地区にはまばらに人が出ていた。
 店先で薬草を選別する老婆、不思議な形をした植物の朝露を採取する薬師、竹かごを背負った青年。

 軒先に吊るされた薬草が風に揺れ、その青々とした香りが朝の空気へ溶け込んでいた。
 乾燥させた薬草。
 香木。
 煎じ薬。
 汐からよく香る薬草の匂いが、街中に満ちていた。

「……いい匂い」

 尊は隣を歩きながら頷いた。

「薬師地区は朝が一番薬草の香りを感じられる。店が開けば、また違う匂いになるよ」

 咲樂は辺りを見回した。
 古い木造の町家が整然と並び、格子戸の向こうにはまだ灯りが残っている家もある。

 遠くで箒が石畳を掃く音だけが、静かな街へ響いていた。
 鳥が一羽、屋根から屋根へ飛び移る。
 自然の息遣いが、そこかしこに満ちていた。

「旅行者が多いって聞いていたけれど……」

「昼からだな」

 尊は穏やかに答える。

「昼を過ぎると、行商人や旅人で賑わう。今はまだ、この街の人間しか起きていないんだろう」

 誰もいないからこそ、この街本来の姿が見えるような気がした。
 穏やかで。
 静かで。
 どこか人を安心させる空気が流れている。

 まるで、街そのものが汐のようだと、咲樂は思う。

 汐が生まれ、八歳まで過ごした街。

 車輪は一定の音を立てながら進んでいく。
 やがて薬師地区の町並みは少しずつ途切れ始め、その先には格式ある屋敷が点在する一角が見え始めていた。

「この先が夜辺家の屋敷だ」

 尊の言葉に、咲樂はゆっくりと前を見据えた。
 遠くに見える屋敷は、朝靄の向こうでも分かるほど大きい。
 高い塀が長く続き、その向こうには幾重もの屋根が覗いていた。

 胸が、小さく軋む。

(怖い)

 会ったこともない人たち。
 汐を連れていった人たち。
 もし断られたら。
 もし追い返されたら。
 もし、もう二度と汐に会わせてもらえなかったら。
 そんな想像ばかりが頭を過ぎり、指先が震える。

 それでも。
 あの日、最後に見た汐の背中が脳裏へ浮かんだ。
 何も言わず、皆を安心させるように笑って。
 本当は権力に従いたくなかったはずだ。
 それでも振り返らずに夜辺家へ向かっていった。
 汐は、幽泉堂の家族たちを巻き込まないために行ったのだ。

 だったら今度は、自分が迎えに行かなければならない。
 怖くても、相手が宗家でも。
 そんな理由で諦められるほど、汐は軽い存在ではなかった。

 きっと汐は、すぐにでも帰りたいはずだから。

「……大丈夫か?」

 静かな問いに、咲樂はびくりと肩を震わせる。

「顔色があまり良くない」

 尊は責めるでも、急かすでもなく続けた。

「引き返しても、いいんだぞ」

 その一言は、逃げ道を用意するような優しさだった。
 きっと尊なら、何も聞かず地下まで送ってくれる。
 誰も責めない。
 瑚杜(こもり)も、鉄太(てった)も、他の面々も。
 咲樂はゆっくり息を吸う。
 震える手を、自分でも分かるくらい強く握り締めた。

「……ううん」

 首を横に振る。

「行くわ」

 小さな声だった。
 けれど、その瞳だけは真っ直ぐ前を向いていた。

「汐を、一人にしたくないから」

 尊は難しい顔で少し黙り込むと、ふっと肩の力を抜いて、小さく笑った。

「……正直、俺も少し緊張している」

「え?」

「誰でも宗家は怖いものだろう?」

 冗談めいた軽口に、咲樂は呆気にとられるも、すぐに尊と目を合わせて吹き出した。

 やがて二人は、大きな黒塗りの門の前へ辿り着く。
 太い柱には夜辺家の家紋が彫られ、重厚な門扉は簡単には人を寄せ付けない威厳を纏っていた。

 尊が門の脇に備えられた呼び鈴を鳴らす。
 しばらくすると、内側から足音が近付き、門が静かに開いた。
 現れたのは、四十代ほどの女中だった。
 淡い灰色の着物をきっちりと着込み、一分の隙もない所作で一礼する。

「お待たせいたしました」

 女中はまず尊へ視線を向け、それから咲樂へ、車椅子へと移した。

「お約束いただいております、柩地区の咲樂様でございますね」

「はい」

 咲樂は緊張で声が少し上擦った。

「当主より、お通しするよう申し付かっております。どうぞこちらへ」

 門が大きく開かれる。
 その先に入った瞬間、咲樂は思わず、無意識に感嘆した。

「……わあ……」

 あまりにも広かった。
 丁寧に刈り込まれた庭木や、色とりどりの花々。
 小さな池には澄んだ水が流れ、見たこともない鮮やかな魚がゆったりと泳いでいる。
 石畳はどこまでも真っ直ぐ伸び、その先には壮麗な屋敷が堂々と佇んでいた。

 地下では考えられないほど贅沢な空間だった。
 思わず辺りを見回す咲樂を見て、尊は小さく笑う。

「夜辺家は薬師地区の宗家だからな」

「お屋敷というより……お城みたい……」

 思わず漏れた本音に、尊も苦笑する。

「宗家によって色は違うが、夜辺家は一際綺麗な庭園なんだ」

 石畳を進むたび、屋敷はさらに大きく見えていく。
 やがて重厚な正面玄関の前まで案内されると、女中は静かに足を止めた。

 そして尊へ丁寧に頭を下げる。

「申し訳ございません」

 一拍置いて、穏やかに告げる。

「この先は、咲樂様しかお通しできません」

 その言葉に、咲樂の肩が小さく強張った。

「……理由をお伺いしても?」

 尊は淡々と問うけれど、怒っているわけではない。
 厳しく見える容貌のせいで、威圧感を感じて臆する者は多かった。
 しかし、夜辺家の女中は顔色一つ変えずに、薄らと口元に笑みをつくった。

「当主から、咲樂様以外の方がご一緒なら、今回のお約束はなかったことに……と預かっております」

 薄化粧を施した、清楚な微笑みだった。

「理由のほうは、恐れながらわたしくしは存じ上げません」

 この女中は何をしても崩れない。
 咲樂と尊は互いにそれを感じ取り、目配せをする。
 夜明けの空と同じ色の瞳が、咲樂の身を案じるように、一瞬だけ揺れた。

 それを受け取り、頷く。

「わかりました。わたし一人で、お邪魔いたします」

 咲樂の脳裏に、足を奪った地上人の存在がふっと浮かんだ。
 公家は彼女にとっては、恐怖の象徴だったけれど、尊や椿姫のような善良な公家もいる。

 汐の縁者もそうなのだと、信じたい。

「……平気なのか」

「ええ、心配しないで。お話するだけだもの」

 不安を払拭するように、無理矢理口角を上げて、明るい声で言う。

「君が出てくるまで、俺はここで待機している」

 尊の言葉は、咲樂に向けられたようでいて、その実、夜辺家へのものだった。

 無事に咲樂が出てくるまで、白律庁(はくりつちょう)の局長は帰らないという、意思表示だった。

 外には尊がいてくれる。
 こんなに心強いことはない。

 震えそうになる指先から、僅かに力が抜ける。

「ありがとう。行ってくるわね」

 汐と一緒に幽泉堂へ帰るため、車輪を押した。