白律庁の、局長室。
尊は朝一番に回ってきた書類に、群青色の瞳を泳がせた。
書類の内容を読み終えると、すぐに白律庁内にある火々里の診察室へ行って、知らせる。
「――汐の戸籍が、夜辺家に再編成された」
「……は?」
診察時間まで、いつも医学書を読んだり、研究をする大きな背中が、振り向いた。
「……白律庁を通さず、直接議会に申請したんだ。俺が却下すると分かっていたんだろう」
白律庁局長の尊と汐が友人関係であることは、公家間では周知されている。
尊は汐が地上に未練がないことを知っている。
汐はこの数年間で、有り得ない迅速さで、地下の広い範囲で影響力を持つようになった。
遊郭一極だった地下の権力構造を、たった数年で割った男が、汐だった。
地獄を自分にとっての都に変えたそんな彼が、今更地上に戻りたがる理由はゼロにも等しいだろう。
火々里は突然の報せに瞠目したあと、何も言わずに尊をじっと見た。
どうするんだと、言外に問うている。
「……地下の治安維持は汐にしか任せられない」
尊の冷静な一言が、白く清潔な診察室に落ちた。
「彼が地上に行けば、おそらく柩地区はまた荒れる。今は汐の名前が抑止力になっているからな」
──数年前。
あの地下で起きた、痛ましい事件のあと、尊はあらゆる部署と公家に根回しをした。
汐の殺人罪を消すべく、事件を“公家二名が柩地区での違法遊興中に失踪”として処理した。
二人の魂人が、血塗れで地上に出てきたことを多くの者が目撃した。
公家の二人が柩地区に下りて以来、行方不明になった。
白律庁と公家が行った情報統制の裏側を、上層部は、見て見ぬふりをしているだけだ。
汐が公家を何らかの形で消した。
汐はその気になれば公家に手を掛ける。
そして、白律庁と公家は彼を守る。
意図せずに生まれた構造が、汐という人物の重要性を高めた。
「現に汐が地下で自警組織の設立を促してから、事件発生率は下がっている」
夜辺家が議会へ主張した通り、当時八歳だった汐に、依月《よつき》家崩壊の罪を背負わせたことは、理不尽極まりなかった。
優秀な彼を地下に留めておく理由も、特にない。
しかし、物事はそんなに単純ではない。
「……」
黙りこくった火々里に、尊は眉根を寄せる。
「……火々里は、なにか思うところはないのか?」
「……あるに決まってんだろ」
医学書を広げた机に、聴診器を置き、頬杖をつく。
その姿は心配していると言うよりも、不貞腐れているようだった。
「議会の決定は、俺ごときでは覆らねぇ。多分お前でも無理だ」
「そうだ。だから父に直接話をする。宰相に話が通れば」
「いいや、駄目だ」
火々里の厳しい声に、尊は言葉を切る。
カーテンの隙間から、二人の間を遮るように朝日が差し込んでいた。
「ただでさえお前は保守派に嫌われてる。特に今回は公家の問題だ。公家は保守派が多い。下手に首突っ込んだら、そのうち消されるぞ」
火々里が真剣に話す時は、正しいことが多かった。
だからこそ尊は火々里を誰よりも、自分よりも信頼している。
尊とて、理解している。
柩地区改革派の自分の立場の危うさくらい。
しかしながら、右腕の忠告を無視して、独り善がりに行動を起こすべきではないことも、分かっている。
自分が崩れれば、信じて白律庁に入ってくれた火々里を、部下を、巻き込んでしまう。
「……分かった。他の方法を考える」
「分かってんのかよそれ……。とにかく、もうちょっと様子見たっていいだろ」
まるで、自分に言い聞かせているように見えた。
イライラしている医者など、患者は怖がるに違いない。
尊は今は静観すべきだと結論付けながらも、自身が持つ手札を冷静に俯瞰した。
◆ ◆ ◆
「──以上、天煌五大議会の議決に基づき、本日をもって、汐殿の身分再編成は承認されました」
まだ、暖簾を出してもいない朝。
皆が開店準備をしている最中に、彼らが来た。
「これにより、汐殿は夜辺家当主・夜辺和雅殿の戸籍へ正式に編入されます」
帳場にいた咲樂、汐。
異変に気付いて厨房から出てきた従業員たち。
偶然通りかかった瑚杜。
全員が、書状を読み上げる役人の男から目を逸らせなかった。
「また同時に、魂人区分は解除され、市民権、相続権、婚姻権、その他、これに付随する諸権利が回復されます」
咲樂は、天と地がひっくり返ったかのような、一方的で、横暴な宣告に戸惑い、汐を見上げた。
夜色の髪に隠れて、その横顔は見えない。
「長年にわたり保留となっていた案件ではありますが、此度の決定は、極めて喜ばしいものと認識しております」
“喜ばしい”。
咲樂は、聞き捨てならない言葉に下唇を噛み、膝の上で手を握り締める。
「──謹んで、ご報告申し上げます」
若い役人は、心の底から祝福している笑みを浮かべ、そう締め括った。
帳場が、しんと静まり返る。
誰も何も言えなかった。
魂人であった汐が、戸籍を得られた。
堂々と地上で暮らしていける。
表面だけ見れば、素晴らしいことには変わりないはずなのに、重い空気が満ちる。
それは、当の本人の汐が、怖いほど何も言わないからだった。
咲樂からではどのような顔をしているのか見えない。
しかし、後ろ姿を見ただけで、怒っていることが分かった。
唯一事情を知る者として、何か、何か言わなければ。
汐を助けなければ。
いつも傍で守ってくれるこの人に、返したい。
「あ、あの……っ」
「──天煌五大議会での最終決定で、お間違いないですか」
何かを言いかけた咲樂の声が、汐によって途切れた。
氷か冷水か、ここまで酷く冷たく、透明な声音を、初めて聞いた。
ようやく汐の怒気を感じ取った役人は、言葉を詰まらせて、狼狽しつつも、役割は見失わず背筋を伸ばす。
「はい。先程申し上げた通りです。本日早速、夜辺家にお連れするよう、賜っております」
「そ、そんな、今日って……」
だって汐は何も聞いていなかったはずなのに。
あまりにも独裁的すぎる。
とうとう我慢ならず、咲樂が車椅子の車輪を動かそうとした瞬間、汐が振り返った。
いつもと変わらない、優しい眼差しで、緩く弧を描く唇で。
「大丈夫。心配しないで」
咲樂は、何も言えなかった。
大丈夫なはずがないのに、何も言えなかった。
「ごめんね、咲樂。しばらくお店のこと、頼んだよ」
眉尻を下げて申し訳なさそうに告げると、汐はため息をついてから、肩の力を抜いて、役人と軍人へと足を踏み出す。
汐は従ったのではない。
ただ、この場で拒絶することが誰を危険に晒すのかを、誰よりも理解していた。
「う、汐さん……そんな」
瑚杜が小さく、ぽつりと呟いたそれすらも、もう遠くに聞こえた。
良い報せを伝えに来た風体なのに、まるで罪を犯した魂人を連行する場面にしか見えなかった。
汐が隣からいなくなるなんて、咲樂は考えたこともなかった。
こんな時でさえ、何もできない己の無力さに、改めて嫌気が差した。
いつも汐は助けてくれたのに。
手を伸ばすことも、役人に異議を唱えることも、できない。
汐の背中が正面玄関の暖簾の向こう側に消えていく。
まるで世界が音を立てて、傾いたように感じた。
幽泉堂という楽園から、支柱が居なくなった日のことだった。
◆ ◆ ◆
汐はそれから、三日経っても帰らなかった。
五日経っても音沙汰はない。
七日目になっても、幽泉堂の暖簾をくぐる姿はなかった。
火々里は国立病院を退職してから、白律庁に身を置いていた。
彼ならば、汐が今どうしているか、少しでも分かるのではないかと期待を込めて聞いてみたけれど、首を横に振られるだけだった。
毎日不安で堪らなかったが、汐に任せられた店を切り盛りして、咲樂は毎日朝から晩まで働いた。
あの日、副店主に選んでくれた期待に応えるために。
いつも助けられている分を少しでも返せるように。
真っ先にやらなければならなかったことは、汐が日常的に担っていた仕事の割り振りだった。
特に地上への買い出しは、誰にでもできることではない。
そんな時、とても頼りになったのが瑚杜だった。
彼女は実は、幽泉堂に住んではいるが、地上にきちんと戸籍がある地上人だ。
諸々の事情があって、瑚杜の商い札も数年前に発行していたため、買い出しを任せた。
鉄太も、接客は苦手だとやりたがらない方ではあったけれど、緊急事態ともなれば、咲樂と交代で帳場に立ってくれた。
それから咲樂自身も、車椅子でもできる範囲で他の業務を手伝った。
もうこのまま汐が帰ってこないのではないかと、不安そうにする従業員も当然いた。
汐の抜けた穴はあまりにも大きかった。
仕事だけではない。精神的な穴が、何よりも大きかったのだ。
彼がここにいれば、皆が安心できた。
自分も汐に寄り掛かる側だったのだと、骨身に染みて実感した。
分かっていたのに、分かっていなかった。
自分は、汐の力になれない人間だった。
何をしていても、汐が心配で仕方がなかった。
夜辺家が安易に暴力や暴言に走ることはないと予想できたが、それでも、不安を拭えるはずがなかった。
ちゃんと大切に扱われているのだろうか。
「瑚杜、じゃあ、お願いね。白律庁の局長さんよ」
「わかりました。えと……あの眼鏡の、椿姫ちゃんの旦那さんですね」
「そうだけど……まだ旦那さんじゃないわ」
瑚杜が一通の手紙を大切に持って、こんな時にもおどけるものだから、思わず咲樂の口元も綻んだ。
しかし。
「……ごめんなさい。あたし、こんなことしかできなくって……咲樂さん、毎日遅くまで頑張ってるのに」
大きな瞳が翳り、睫毛がふっと下を向く。
咲樂は慌てて両手も首も横に振って、否定した。
「な、何言ってるの。買い出しは瑚杜にしか頼めないことなのよ? あなただって、毎日一緒に頑張ってくれてるじゃない」
瑚杜の綺麗な目が行灯を受けて反射した。
次にぶんぶんと顔を振って、両頬を叩く。
「めそめそしていたらダメですね! 汐さんが帰ってきて、幽泉堂が潰れてたら洒落になりませんから!」
行ってきます! と元気よく出て行く後ろ姿を見送り、揺れる帯が見えなくなった時、咲樂はため息をついた。
(……わたしじゃ、みんなのこと、安心させてあげられない)
胸の奥が、ちり、と焼け付くように、僅かな痛みが走った。
汐は頭が良くて、要領が良くて、周りをよく見ていて、体力があって、度胸もあって。
彼ひとりがいれば何とでもなると、皆どこかで思っていた。
汐がいなくなって七日、これからどうなるのかと見えない不安が蔓延する前に。
そして、汐が今無事でいるのか確かめるために、咲樂は動き出す。
◆ ◆ ◆
汐がいなくなって、九日目。
皆がまだ寝静まる夜明け前、咲樂はひとり、寝台から抜け身支度を始めた。
車椅子の背もたれに潰されないよう、前側で帯を結び、形を整える。
鏡台で化粧をして、髪の毛を梳かせば、準備完了だ。
咲樂は予め書いておいたメモを、厨房の冷蔵庫に貼って頷く。
孤児院から一緒にやってきた鉄太が、毎朝、ここを必ず見るからだ。
彼ならば、帳場をある程度は任せられるし、汐からの信頼も厚く、もちろん咲樂も頼りにしていた。
万一にも誰かを起こしてしまわないよう、慎重に車輪を回して、幽泉堂の正面玄関から出れば、黒い着物が視界に入った。
「おはよう、尊」
こっそりと、内緒話をする声で挨拶する。
すると、空気を読んだ彼からも同じトーンで返ってきた。
慎重に玄関を閉めて施錠し、改めて尊と向き合う。
灯りを受けて、灰色の髪が橙色に染まったように見える。
レンズの奥にある、聡明な瞳が、静かに頷いた。
汐がいなくなってから今日で九日目。
議会からも、夜辺家からも、正式な報告は一つもなかった。
「──行こうか。夜辺《よるべ》家へ」
咲樂は関所を通過するための商い札をぎゅっと握り締める。
今日初めて、これを使う。
初めて、自分の意志で、地上へ行く。
汐を、取り戻すために。
「ええ。お願い」
尊は朝一番に回ってきた書類に、群青色の瞳を泳がせた。
書類の内容を読み終えると、すぐに白律庁内にある火々里の診察室へ行って、知らせる。
「――汐の戸籍が、夜辺家に再編成された」
「……は?」
診察時間まで、いつも医学書を読んだり、研究をする大きな背中が、振り向いた。
「……白律庁を通さず、直接議会に申請したんだ。俺が却下すると分かっていたんだろう」
白律庁局長の尊と汐が友人関係であることは、公家間では周知されている。
尊は汐が地上に未練がないことを知っている。
汐はこの数年間で、有り得ない迅速さで、地下の広い範囲で影響力を持つようになった。
遊郭一極だった地下の権力構造を、たった数年で割った男が、汐だった。
地獄を自分にとっての都に変えたそんな彼が、今更地上に戻りたがる理由はゼロにも等しいだろう。
火々里は突然の報せに瞠目したあと、何も言わずに尊をじっと見た。
どうするんだと、言外に問うている。
「……地下の治安維持は汐にしか任せられない」
尊の冷静な一言が、白く清潔な診察室に落ちた。
「彼が地上に行けば、おそらく柩地区はまた荒れる。今は汐の名前が抑止力になっているからな」
──数年前。
あの地下で起きた、痛ましい事件のあと、尊はあらゆる部署と公家に根回しをした。
汐の殺人罪を消すべく、事件を“公家二名が柩地区での違法遊興中に失踪”として処理した。
二人の魂人が、血塗れで地上に出てきたことを多くの者が目撃した。
公家の二人が柩地区に下りて以来、行方不明になった。
白律庁と公家が行った情報統制の裏側を、上層部は、見て見ぬふりをしているだけだ。
汐が公家を何らかの形で消した。
汐はその気になれば公家に手を掛ける。
そして、白律庁と公家は彼を守る。
意図せずに生まれた構造が、汐という人物の重要性を高めた。
「現に汐が地下で自警組織の設立を促してから、事件発生率は下がっている」
夜辺家が議会へ主張した通り、当時八歳だった汐に、依月《よつき》家崩壊の罪を背負わせたことは、理不尽極まりなかった。
優秀な彼を地下に留めておく理由も、特にない。
しかし、物事はそんなに単純ではない。
「……」
黙りこくった火々里に、尊は眉根を寄せる。
「……火々里は、なにか思うところはないのか?」
「……あるに決まってんだろ」
医学書を広げた机に、聴診器を置き、頬杖をつく。
その姿は心配していると言うよりも、不貞腐れているようだった。
「議会の決定は、俺ごときでは覆らねぇ。多分お前でも無理だ」
「そうだ。だから父に直接話をする。宰相に話が通れば」
「いいや、駄目だ」
火々里の厳しい声に、尊は言葉を切る。
カーテンの隙間から、二人の間を遮るように朝日が差し込んでいた。
「ただでさえお前は保守派に嫌われてる。特に今回は公家の問題だ。公家は保守派が多い。下手に首突っ込んだら、そのうち消されるぞ」
火々里が真剣に話す時は、正しいことが多かった。
だからこそ尊は火々里を誰よりも、自分よりも信頼している。
尊とて、理解している。
柩地区改革派の自分の立場の危うさくらい。
しかしながら、右腕の忠告を無視して、独り善がりに行動を起こすべきではないことも、分かっている。
自分が崩れれば、信じて白律庁に入ってくれた火々里を、部下を、巻き込んでしまう。
「……分かった。他の方法を考える」
「分かってんのかよそれ……。とにかく、もうちょっと様子見たっていいだろ」
まるで、自分に言い聞かせているように見えた。
イライラしている医者など、患者は怖がるに違いない。
尊は今は静観すべきだと結論付けながらも、自身が持つ手札を冷静に俯瞰した。
◆ ◆ ◆
「──以上、天煌五大議会の議決に基づき、本日をもって、汐殿の身分再編成は承認されました」
まだ、暖簾を出してもいない朝。
皆が開店準備をしている最中に、彼らが来た。
「これにより、汐殿は夜辺家当主・夜辺和雅殿の戸籍へ正式に編入されます」
帳場にいた咲樂、汐。
異変に気付いて厨房から出てきた従業員たち。
偶然通りかかった瑚杜。
全員が、書状を読み上げる役人の男から目を逸らせなかった。
「また同時に、魂人区分は解除され、市民権、相続権、婚姻権、その他、これに付随する諸権利が回復されます」
咲樂は、天と地がひっくり返ったかのような、一方的で、横暴な宣告に戸惑い、汐を見上げた。
夜色の髪に隠れて、その横顔は見えない。
「長年にわたり保留となっていた案件ではありますが、此度の決定は、極めて喜ばしいものと認識しております」
“喜ばしい”。
咲樂は、聞き捨てならない言葉に下唇を噛み、膝の上で手を握り締める。
「──謹んで、ご報告申し上げます」
若い役人は、心の底から祝福している笑みを浮かべ、そう締め括った。
帳場が、しんと静まり返る。
誰も何も言えなかった。
魂人であった汐が、戸籍を得られた。
堂々と地上で暮らしていける。
表面だけ見れば、素晴らしいことには変わりないはずなのに、重い空気が満ちる。
それは、当の本人の汐が、怖いほど何も言わないからだった。
咲樂からではどのような顔をしているのか見えない。
しかし、後ろ姿を見ただけで、怒っていることが分かった。
唯一事情を知る者として、何か、何か言わなければ。
汐を助けなければ。
いつも傍で守ってくれるこの人に、返したい。
「あ、あの……っ」
「──天煌五大議会での最終決定で、お間違いないですか」
何かを言いかけた咲樂の声が、汐によって途切れた。
氷か冷水か、ここまで酷く冷たく、透明な声音を、初めて聞いた。
ようやく汐の怒気を感じ取った役人は、言葉を詰まらせて、狼狽しつつも、役割は見失わず背筋を伸ばす。
「はい。先程申し上げた通りです。本日早速、夜辺家にお連れするよう、賜っております」
「そ、そんな、今日って……」
だって汐は何も聞いていなかったはずなのに。
あまりにも独裁的すぎる。
とうとう我慢ならず、咲樂が車椅子の車輪を動かそうとした瞬間、汐が振り返った。
いつもと変わらない、優しい眼差しで、緩く弧を描く唇で。
「大丈夫。心配しないで」
咲樂は、何も言えなかった。
大丈夫なはずがないのに、何も言えなかった。
「ごめんね、咲樂。しばらくお店のこと、頼んだよ」
眉尻を下げて申し訳なさそうに告げると、汐はため息をついてから、肩の力を抜いて、役人と軍人へと足を踏み出す。
汐は従ったのではない。
ただ、この場で拒絶することが誰を危険に晒すのかを、誰よりも理解していた。
「う、汐さん……そんな」
瑚杜が小さく、ぽつりと呟いたそれすらも、もう遠くに聞こえた。
良い報せを伝えに来た風体なのに、まるで罪を犯した魂人を連行する場面にしか見えなかった。
汐が隣からいなくなるなんて、咲樂は考えたこともなかった。
こんな時でさえ、何もできない己の無力さに、改めて嫌気が差した。
いつも汐は助けてくれたのに。
手を伸ばすことも、役人に異議を唱えることも、できない。
汐の背中が正面玄関の暖簾の向こう側に消えていく。
まるで世界が音を立てて、傾いたように感じた。
幽泉堂という楽園から、支柱が居なくなった日のことだった。
◆ ◆ ◆
汐はそれから、三日経っても帰らなかった。
五日経っても音沙汰はない。
七日目になっても、幽泉堂の暖簾をくぐる姿はなかった。
火々里は国立病院を退職してから、白律庁に身を置いていた。
彼ならば、汐が今どうしているか、少しでも分かるのではないかと期待を込めて聞いてみたけれど、首を横に振られるだけだった。
毎日不安で堪らなかったが、汐に任せられた店を切り盛りして、咲樂は毎日朝から晩まで働いた。
あの日、副店主に選んでくれた期待に応えるために。
いつも助けられている分を少しでも返せるように。
真っ先にやらなければならなかったことは、汐が日常的に担っていた仕事の割り振りだった。
特に地上への買い出しは、誰にでもできることではない。
そんな時、とても頼りになったのが瑚杜だった。
彼女は実は、幽泉堂に住んではいるが、地上にきちんと戸籍がある地上人だ。
諸々の事情があって、瑚杜の商い札も数年前に発行していたため、買い出しを任せた。
鉄太も、接客は苦手だとやりたがらない方ではあったけれど、緊急事態ともなれば、咲樂と交代で帳場に立ってくれた。
それから咲樂自身も、車椅子でもできる範囲で他の業務を手伝った。
もうこのまま汐が帰ってこないのではないかと、不安そうにする従業員も当然いた。
汐の抜けた穴はあまりにも大きかった。
仕事だけではない。精神的な穴が、何よりも大きかったのだ。
彼がここにいれば、皆が安心できた。
自分も汐に寄り掛かる側だったのだと、骨身に染みて実感した。
分かっていたのに、分かっていなかった。
自分は、汐の力になれない人間だった。
何をしていても、汐が心配で仕方がなかった。
夜辺家が安易に暴力や暴言に走ることはないと予想できたが、それでも、不安を拭えるはずがなかった。
ちゃんと大切に扱われているのだろうか。
「瑚杜、じゃあ、お願いね。白律庁の局長さんよ」
「わかりました。えと……あの眼鏡の、椿姫ちゃんの旦那さんですね」
「そうだけど……まだ旦那さんじゃないわ」
瑚杜が一通の手紙を大切に持って、こんな時にもおどけるものだから、思わず咲樂の口元も綻んだ。
しかし。
「……ごめんなさい。あたし、こんなことしかできなくって……咲樂さん、毎日遅くまで頑張ってるのに」
大きな瞳が翳り、睫毛がふっと下を向く。
咲樂は慌てて両手も首も横に振って、否定した。
「な、何言ってるの。買い出しは瑚杜にしか頼めないことなのよ? あなただって、毎日一緒に頑張ってくれてるじゃない」
瑚杜の綺麗な目が行灯を受けて反射した。
次にぶんぶんと顔を振って、両頬を叩く。
「めそめそしていたらダメですね! 汐さんが帰ってきて、幽泉堂が潰れてたら洒落になりませんから!」
行ってきます! と元気よく出て行く後ろ姿を見送り、揺れる帯が見えなくなった時、咲樂はため息をついた。
(……わたしじゃ、みんなのこと、安心させてあげられない)
胸の奥が、ちり、と焼け付くように、僅かな痛みが走った。
汐は頭が良くて、要領が良くて、周りをよく見ていて、体力があって、度胸もあって。
彼ひとりがいれば何とでもなると、皆どこかで思っていた。
汐がいなくなって七日、これからどうなるのかと見えない不安が蔓延する前に。
そして、汐が今無事でいるのか確かめるために、咲樂は動き出す。
◆ ◆ ◆
汐がいなくなって、九日目。
皆がまだ寝静まる夜明け前、咲樂はひとり、寝台から抜け身支度を始めた。
車椅子の背もたれに潰されないよう、前側で帯を結び、形を整える。
鏡台で化粧をして、髪の毛を梳かせば、準備完了だ。
咲樂は予め書いておいたメモを、厨房の冷蔵庫に貼って頷く。
孤児院から一緒にやってきた鉄太が、毎朝、ここを必ず見るからだ。
彼ならば、帳場をある程度は任せられるし、汐からの信頼も厚く、もちろん咲樂も頼りにしていた。
万一にも誰かを起こしてしまわないよう、慎重に車輪を回して、幽泉堂の正面玄関から出れば、黒い着物が視界に入った。
「おはよう、尊」
こっそりと、内緒話をする声で挨拶する。
すると、空気を読んだ彼からも同じトーンで返ってきた。
慎重に玄関を閉めて施錠し、改めて尊と向き合う。
灯りを受けて、灰色の髪が橙色に染まったように見える。
レンズの奥にある、聡明な瞳が、静かに頷いた。
汐がいなくなってから今日で九日目。
議会からも、夜辺家からも、正式な報告は一つもなかった。
「──行こうか。夜辺《よるべ》家へ」
咲樂は関所を通過するための商い札をぎゅっと握り締める。
今日初めて、これを使う。
初めて、自分の意志で、地上へ行く。
汐を、取り戻すために。
「ええ。お願い」

