夜辺家の使者は、相変わらず礼儀正しい。
威圧的でもなければ高圧的でもない。
だからこそ厄介だった。
乱暴な人間なら断りやすい。
けれど彼は違う。
こちらが嫌悪を向ける隙もないほど、誠実な態度を崩さない。
男は帳場の前へ立つ。
周囲に他人がいないことを確認してから、静かに口を開いた。
「本日も少々、お時間をいただけますでしょうか」
咲樂は無意識に、小さく息を吐いた。
「……お話だけなら」
「ありがとうございます」
男は頭を下げた。
その姿に悪意は見えない。
男は少し言葉を選ぶような間を置いてから続ける。
「以前からお伝えしております通り、夜辺家には未だ言遣いが誕生しておりません」
公家の事情は、咲樂にはどこか遠い世界の話に思えたが、彼らにとって言遣いの存在は、家名と同じほど、大切なのだろう。
一族同士で争うほどに。
「依月家の血統は、本来なら絶えてはならないものです」
咲樂は黙って聞く。
既に聞かされた話だった。
「ましてや、かつては五大宗家の一角でした」
依月家。
かつての、薬師地区の宗家。
そして汐の生家。
一族の争いによって没落し、今は分家だった夜辺家が宗家となっている。
だが言遣いは生まれていない。
だから彼らは、元宗家の血を求めている。
ただそれだけの話だった。
「我々も長年、汐様へお願いを続けて参りました」
男は言う。
「適齢期の女性をご紹介したこともございます」
咲樂はその話を知っていた。
ある時から、汐が上等な身なりの男性や若い女性と幽泉堂の外で話している姿を、何度か見掛けていた。
何気なく誰なのかと聞いてみると、はぐらかされた。
はぐらかされた時点で、それ以上聞いてほしくない話なのだと察した。
以来、咲樂も話さなくなった。
汐があの食えない笑顔のまま、全員を帰したことも、なんとなく分かっていた。
「ですが汐様のお考えは変わらない」
男は微かに目を伏せた。
「我々としても、家を存続させる責務がございます」
咲樂の指先が帳簿の端をそっと握る。
男はしばらく沈黙した後、静かに本題を口にした。
「あなた様からも汐様へ、我々に協力するようご助言いただけませんか」
やはりその言葉だった。
咲樂は俯き、胸の奥が少し重くなる。
「……どうして、わたしが……」
声は思ったより小さかった。
「汐様は、咲樂さんからのお言葉なら耳を傾けるでしょう」
「……そんなことありません」
何でも受け入れてくれそうに見えて、その実、汐の冷静で理知的な横顔が脳裏に浮かぶ。
「彼は、自分で決めたことを、わたしに言われたからって、変えたりしません」
それはただの事実だった。
汐は優しく、人の話にも耳を傾ける、誠実な人だ。
だが最後に決めるのは彼自身だ。
誰かに流される人ではない。
だからこそ、多くの人が彼を信頼する。
男は咲樂を静かに見つめた。
感情を読み取ろうとしているようにも見えた。
「つまるところ……あなたは、関与しないと?」
ほんの少しだけ、圧が滲み、咲樂は唇を結んだ。
心の中に、微かな罪悪感が生まれる。
夜辺家にも事情はある。
彼らが悪人ではないことも分かる。
けれど。だからといって。
汐の人生を左右する話へ、自分が口を出していいはずがなかった。
それだけは絶対に違う。
「はい。できません」
咲樂は臆することなく、きっぱりと口にした。
しばらくの沈黙が流れ、遠くで従業員たちと瑚杜の笑い声が聞こえた。
厨房からは出汁の香りが漂ってくる。
幽泉堂の日常だけが、変わらずそこにあった。
汐が築き上げた日々を、壊されたくない。
やがて男は小さく頷いた。
「そうですか」
その声に怒りはなかった。
失望もない。
ただ、予想していた返答を受け取った者の静けさだけがあった。
男は帽子を手に取り、一礼する。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
そして静かに踵を返した。
暖簾が揺れ、男の姿が見えなくなる。
再び静寂が戻っても、咲樂はしばらくその場から動けなかった。
帳簿の文字が目に入らない。
胸の奥がざわついている。
汐は何も話さない。
夜辺家のことも、地上での出来事も。
自分の過去さえ、必要以上には語らない。
しかし、その穏やかな笑顔の裏で、どれだけ同じやり取りを繰り返してきたのだろう。
何年も、何度も、同胞からの懇願を断り続けてきたのだろうか。
咲樂はふと中庭を見る。
地上は曇りなのだろうか。
日差しはなかった。
胸のどこかが落ち着かない。
まるで遠くで雷鳴が鳴り始めたような不安に、咲樂は無意識に、髪の先をぎゅっと握った。
午後もだいぶ傾いた頃。
幽泉堂の暖簾が揺れた。
物販棚の整理をしていた咲樂の肩がぴくりと動く。
聞き慣れた足音だった。
汐だ。
大きな荷袋を肩に提げ、いつも通り穏やかな顔で店へ入ってくる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
咲樂はなるべく自然に答えたけれど、その直後。
汐の目が、ほんの僅かに細められる。
咲樂はそれを見逃さなかった。
汐は荷物を下ろしながら店内をさり気なく見渡す。
物販棚。帳場。出入口。廊下。
一見すると何も見ていないような顔だった。
だが咲樂は知っている。
この人は見ている。
全部。
匂いも、音も、空気も。
誰も気付かないような違和感さえ。
だから咲樂は慌てて車椅子を動かした。
棚を見て、帳場を見て、また棚を見る。
そんな自分に気付いて、余計に落ち着かなくなった
ただ、何かしていれば自然に見える気がした。
そんな咲樂の様子を、汐は黙って見ていた。
そして。
「うろうろしてどうしたの」
穏やかな声だった。
「変わったことでもあった?」
咲樂の心臓が跳ねる。
「え?」
「さっきからずっとうろうろしてる」
青紫の瞳が向けられる。
優しいのに逃げ場がない。
咲樂は視線を逸らしながら言った。
「ううん。お店落ち着いてるし、整理しようかと思って」
「……そう」
たったそれだけの短い返事だが、咲樂には分かった。
気付いている。汐はもう気付いている。
買い出し品を片付ける手つきはいつも通りなのに、その瞳だけが静かに考え込んでいるように見えた。
咲樂は胸の奥が少しだけ重くなる。
隠し事など向いていない。
それでも、汐自身が状況を恐らく把握しており、あえて何も語らないのだから、自分が何かを言うべきではない気がした。
◆ ◆ ◆
その夜。
幽泉堂の営業が落ち着き、表の暖簾を下ろしてしばらく、汐は外壁に凭れて、ただ夜の奥をじっと見ていた。
地上人で賑わう大通りも静まり、ぽつぽつと行灯だけが光っている。
その灯りの下を、目当ての男が歩いてきた。
夜辺家の使者だった。
今日で、会うのは何度目になるだろう。
男と目が合い、汐はもたれた壁から歩き出し、間をとった真正面で立ち止まった。
弧を描く唇。
しかしその瞳は少しも笑っていなかった。
男は軽く会釈する。
「汐様、夜分遅く失礼いたします」
幽泉堂の暖簾を下ろすような夜に来て、全くその通りだ。
思わず汐もため息をつく。
「夜辺家も、随分熱心ですね」
静かな声が、夜に溶ける。
「ですが、お話なら以前から何度もしております」
「ええ」
男は頷いた。
「ですが当主は――」
「お断りします」
言葉を遮る。
声音は穏やかなまま。
けれど一切の余地がなかった。
「私の意思は変わりません」
男は沈黙する。
汐は続けた。
「それと」
その瞬間、空気が変わる。
柔らかかった声から温度が消えた。
「彼女に関わらないでください」
男の眉が僅かに動く。
「無論、他の従業員にもです」
夜辺家の使者は何も言わない。
ただ汐を見つめている。
汐も視線を逸らさない。
「今後、私以外の者と取引をしたと分かれば」
一拍、置いたあとに、冷たい沈黙が落ちる。
「二度とお会いすることもできません」
怒鳴ったわけでもない。
脅したわけでもない。
それなのに、男はやはり、目の前の青年が依月家の血を引く者なのだと確信した。
穏やかで、柔らかくて、滅多に怒らない。
しかし本質は公家だ。
決めたことを曲げない。
必要なら情も切り捨てる。
そんな冷徹さが、その一言にはあった。
「……お気持ちが変わることは、今後ともない、ということでしょうか」
「ええ」
汐はどこまでも優しい物腰だったけれど、最後まで目は笑わなかった。
使者もそれ以上は何も言わず、地上へと帰っていった。
足音が完全に聞こえなくなるまで、汐はその背中を見送った。
冷えた夜風が地上から吹き込む。
そして誰もいなくなった店の前で、小さく息を吐いた。
「まったく……」
困ったように、頬に垂れる横髪をかき上げた。
今日の昼。
買い出しに行ったふりをしていたことなど、咲樂は知らない。
使者と咲樂の会話も、咲樂が自分を庇おうとしていたことも、全部聞いていた。
だからこそ、これ以上は放置できないと踏んだ。
夜辺家が、咲樂に接触した。
彼女を巻き込もうとしている。
そんな面倒事を、一人で抱え込もうとしたことを少し叱りたくなってしまった。
けれど、その怒りより先に浮かぶのは別の感情だった。
心配。ただ、それだけだった。
汐は幽泉堂を見上げる。
守りたい場所がある。
咲樂だけではない。
守りたい人たちがたくさんいる。
だから、地上が何度手を伸ばしてきても、もう二度と譲るつもりはなかった。
──だが、その頃。
夜辺家の屋敷では、今回の報告を受けた当主が一人、考え込んでいた。
使者だけでは動かない。
説得も通じない。
ならば次は別の手を打つしかない。
依月汐という男を動かすために。
その視線は、ある一枚の資料の上へ落ちていた。
そこに記されていた名を見つめながら、夜辺家当主はゆっくりと目を細める。
──“戸籍再編成承認”。
その文字を見つめて、ただただ満足そうに。
威圧的でもなければ高圧的でもない。
だからこそ厄介だった。
乱暴な人間なら断りやすい。
けれど彼は違う。
こちらが嫌悪を向ける隙もないほど、誠実な態度を崩さない。
男は帳場の前へ立つ。
周囲に他人がいないことを確認してから、静かに口を開いた。
「本日も少々、お時間をいただけますでしょうか」
咲樂は無意識に、小さく息を吐いた。
「……お話だけなら」
「ありがとうございます」
男は頭を下げた。
その姿に悪意は見えない。
男は少し言葉を選ぶような間を置いてから続ける。
「以前からお伝えしております通り、夜辺家には未だ言遣いが誕生しておりません」
公家の事情は、咲樂にはどこか遠い世界の話に思えたが、彼らにとって言遣いの存在は、家名と同じほど、大切なのだろう。
一族同士で争うほどに。
「依月家の血統は、本来なら絶えてはならないものです」
咲樂は黙って聞く。
既に聞かされた話だった。
「ましてや、かつては五大宗家の一角でした」
依月家。
かつての、薬師地区の宗家。
そして汐の生家。
一族の争いによって没落し、今は分家だった夜辺家が宗家となっている。
だが言遣いは生まれていない。
だから彼らは、元宗家の血を求めている。
ただそれだけの話だった。
「我々も長年、汐様へお願いを続けて参りました」
男は言う。
「適齢期の女性をご紹介したこともございます」
咲樂はその話を知っていた。
ある時から、汐が上等な身なりの男性や若い女性と幽泉堂の外で話している姿を、何度か見掛けていた。
何気なく誰なのかと聞いてみると、はぐらかされた。
はぐらかされた時点で、それ以上聞いてほしくない話なのだと察した。
以来、咲樂も話さなくなった。
汐があの食えない笑顔のまま、全員を帰したことも、なんとなく分かっていた。
「ですが汐様のお考えは変わらない」
男は微かに目を伏せた。
「我々としても、家を存続させる責務がございます」
咲樂の指先が帳簿の端をそっと握る。
男はしばらく沈黙した後、静かに本題を口にした。
「あなた様からも汐様へ、我々に協力するようご助言いただけませんか」
やはりその言葉だった。
咲樂は俯き、胸の奥が少し重くなる。
「……どうして、わたしが……」
声は思ったより小さかった。
「汐様は、咲樂さんからのお言葉なら耳を傾けるでしょう」
「……そんなことありません」
何でも受け入れてくれそうに見えて、その実、汐の冷静で理知的な横顔が脳裏に浮かぶ。
「彼は、自分で決めたことを、わたしに言われたからって、変えたりしません」
それはただの事実だった。
汐は優しく、人の話にも耳を傾ける、誠実な人だ。
だが最後に決めるのは彼自身だ。
誰かに流される人ではない。
だからこそ、多くの人が彼を信頼する。
男は咲樂を静かに見つめた。
感情を読み取ろうとしているようにも見えた。
「つまるところ……あなたは、関与しないと?」
ほんの少しだけ、圧が滲み、咲樂は唇を結んだ。
心の中に、微かな罪悪感が生まれる。
夜辺家にも事情はある。
彼らが悪人ではないことも分かる。
けれど。だからといって。
汐の人生を左右する話へ、自分が口を出していいはずがなかった。
それだけは絶対に違う。
「はい。できません」
咲樂は臆することなく、きっぱりと口にした。
しばらくの沈黙が流れ、遠くで従業員たちと瑚杜の笑い声が聞こえた。
厨房からは出汁の香りが漂ってくる。
幽泉堂の日常だけが、変わらずそこにあった。
汐が築き上げた日々を、壊されたくない。
やがて男は小さく頷いた。
「そうですか」
その声に怒りはなかった。
失望もない。
ただ、予想していた返答を受け取った者の静けさだけがあった。
男は帽子を手に取り、一礼する。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
そして静かに踵を返した。
暖簾が揺れ、男の姿が見えなくなる。
再び静寂が戻っても、咲樂はしばらくその場から動けなかった。
帳簿の文字が目に入らない。
胸の奥がざわついている。
汐は何も話さない。
夜辺家のことも、地上での出来事も。
自分の過去さえ、必要以上には語らない。
しかし、その穏やかな笑顔の裏で、どれだけ同じやり取りを繰り返してきたのだろう。
何年も、何度も、同胞からの懇願を断り続けてきたのだろうか。
咲樂はふと中庭を見る。
地上は曇りなのだろうか。
日差しはなかった。
胸のどこかが落ち着かない。
まるで遠くで雷鳴が鳴り始めたような不安に、咲樂は無意識に、髪の先をぎゅっと握った。
午後もだいぶ傾いた頃。
幽泉堂の暖簾が揺れた。
物販棚の整理をしていた咲樂の肩がぴくりと動く。
聞き慣れた足音だった。
汐だ。
大きな荷袋を肩に提げ、いつも通り穏やかな顔で店へ入ってくる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
咲樂はなるべく自然に答えたけれど、その直後。
汐の目が、ほんの僅かに細められる。
咲樂はそれを見逃さなかった。
汐は荷物を下ろしながら店内をさり気なく見渡す。
物販棚。帳場。出入口。廊下。
一見すると何も見ていないような顔だった。
だが咲樂は知っている。
この人は見ている。
全部。
匂いも、音も、空気も。
誰も気付かないような違和感さえ。
だから咲樂は慌てて車椅子を動かした。
棚を見て、帳場を見て、また棚を見る。
そんな自分に気付いて、余計に落ち着かなくなった
ただ、何かしていれば自然に見える気がした。
そんな咲樂の様子を、汐は黙って見ていた。
そして。
「うろうろしてどうしたの」
穏やかな声だった。
「変わったことでもあった?」
咲樂の心臓が跳ねる。
「え?」
「さっきからずっとうろうろしてる」
青紫の瞳が向けられる。
優しいのに逃げ場がない。
咲樂は視線を逸らしながら言った。
「ううん。お店落ち着いてるし、整理しようかと思って」
「……そう」
たったそれだけの短い返事だが、咲樂には分かった。
気付いている。汐はもう気付いている。
買い出し品を片付ける手つきはいつも通りなのに、その瞳だけが静かに考え込んでいるように見えた。
咲樂は胸の奥が少しだけ重くなる。
隠し事など向いていない。
それでも、汐自身が状況を恐らく把握しており、あえて何も語らないのだから、自分が何かを言うべきではない気がした。
◆ ◆ ◆
その夜。
幽泉堂の営業が落ち着き、表の暖簾を下ろしてしばらく、汐は外壁に凭れて、ただ夜の奥をじっと見ていた。
地上人で賑わう大通りも静まり、ぽつぽつと行灯だけが光っている。
その灯りの下を、目当ての男が歩いてきた。
夜辺家の使者だった。
今日で、会うのは何度目になるだろう。
男と目が合い、汐はもたれた壁から歩き出し、間をとった真正面で立ち止まった。
弧を描く唇。
しかしその瞳は少しも笑っていなかった。
男は軽く会釈する。
「汐様、夜分遅く失礼いたします」
幽泉堂の暖簾を下ろすような夜に来て、全くその通りだ。
思わず汐もため息をつく。
「夜辺家も、随分熱心ですね」
静かな声が、夜に溶ける。
「ですが、お話なら以前から何度もしております」
「ええ」
男は頷いた。
「ですが当主は――」
「お断りします」
言葉を遮る。
声音は穏やかなまま。
けれど一切の余地がなかった。
「私の意思は変わりません」
男は沈黙する。
汐は続けた。
「それと」
その瞬間、空気が変わる。
柔らかかった声から温度が消えた。
「彼女に関わらないでください」
男の眉が僅かに動く。
「無論、他の従業員にもです」
夜辺家の使者は何も言わない。
ただ汐を見つめている。
汐も視線を逸らさない。
「今後、私以外の者と取引をしたと分かれば」
一拍、置いたあとに、冷たい沈黙が落ちる。
「二度とお会いすることもできません」
怒鳴ったわけでもない。
脅したわけでもない。
それなのに、男はやはり、目の前の青年が依月家の血を引く者なのだと確信した。
穏やかで、柔らかくて、滅多に怒らない。
しかし本質は公家だ。
決めたことを曲げない。
必要なら情も切り捨てる。
そんな冷徹さが、その一言にはあった。
「……お気持ちが変わることは、今後ともない、ということでしょうか」
「ええ」
汐はどこまでも優しい物腰だったけれど、最後まで目は笑わなかった。
使者もそれ以上は何も言わず、地上へと帰っていった。
足音が完全に聞こえなくなるまで、汐はその背中を見送った。
冷えた夜風が地上から吹き込む。
そして誰もいなくなった店の前で、小さく息を吐いた。
「まったく……」
困ったように、頬に垂れる横髪をかき上げた。
今日の昼。
買い出しに行ったふりをしていたことなど、咲樂は知らない。
使者と咲樂の会話も、咲樂が自分を庇おうとしていたことも、全部聞いていた。
だからこそ、これ以上は放置できないと踏んだ。
夜辺家が、咲樂に接触した。
彼女を巻き込もうとしている。
そんな面倒事を、一人で抱え込もうとしたことを少し叱りたくなってしまった。
けれど、その怒りより先に浮かぶのは別の感情だった。
心配。ただ、それだけだった。
汐は幽泉堂を見上げる。
守りたい場所がある。
咲樂だけではない。
守りたい人たちがたくさんいる。
だから、地上が何度手を伸ばしてきても、もう二度と譲るつもりはなかった。
──だが、その頃。
夜辺家の屋敷では、今回の報告を受けた当主が一人、考え込んでいた。
使者だけでは動かない。
説得も通じない。
ならば次は別の手を打つしかない。
依月汐という男を動かすために。
その視線は、ある一枚の資料の上へ落ちていた。
そこに記されていた名を見つめながら、夜辺家当主はゆっくりと目を細める。
──“戸籍再編成承認”。
その文字を見つめて、ただただ満足そうに。

