※この話には性暴行未遂およびトラウマのフラッシュバック描写があります。
時系列:咲樂・汐→19歳
瑚杜→15歳
幽泉堂に復帰してからしばらくの間、咲樂の仕事は針仕事だけだった。
客室の座布団や掛け布団の繕い。
暖簾の補修。
従業員たちの着物のほつれ直し。
車椅子でもできる仕事を、汐は選んで任せてくれていた。
けれど、咲樂は時折思うのだ。
――本当に、それだけでいいのだろうか。
幽泉堂にはそれなりに従業員がいる。
皆、それぞれの持ち場で忙しく働いていた。
足の傷もすっかり塞がり、車椅子の生活にも慣れた。
ならば自分も、もう少し役に立てるのではないか。
そう考えた咲樂は、日帰り用の客室清掃を手伝うようになった。
時間がかかっても構わない仕事だった。
寝台も浴室もなく、机を拭き、湯呑みを片付けたり、比較的軽い清掃だった。
咲樂にとっては一部屋終えるだけでも大変だったが、苦ではない。
綺麗になった部屋を見ると、少しだけ胸を張れる気がした。
汐も最初は足のことを考えて反対した。
だが、咲樂が何度も頼み込み、火々里が「軽作業なら座りっぱなしよりいい」と言ったこともあって許可されたのだ。
だから、この日もいつも通りだった。
日帰り客たちが帰っていく、二十時頃。
咲樂は一人で客室を掃除していた。
窓を開け、布巾で机を拭く。
外からは柩地区に遊びに来た人達や商人の声が聞こえてくる。
昨日よりも早く終わらせられるように急ぎつつも、穏やかな時間だった。
そのせいか、背後で戸が開く音に気付くのが遅れた。
「おや」
男の声だった。
咲樂は振り返り、無意識に体が強ばった。
特別その人が駄目だったわけではない。
ずっと部屋に籠っていたため、地上人を目の前にするのは、あの事件以来初めてだった。
(……ちゃんと、ちゃんと笑顔をつくらないと)
部屋がどこか分からず、迷っているのかもしれない。
湧き上がる恐怖心を押さえつけて、目尻を意図的に下げる。
口角が、上手く上がっていないかもしれない。
「何か、お困りですか?」
努めて柔らかく尋ねると、男は戸口にもたれたまま咲樂を眺めた。
年の頃は三十代半ばほどだろうか。
着ている物は上等で、商人らしい派手さがある。
「いや、困っているというほどじゃない。忘れ物をした気がしてね」
「そうでしたか」
咲樂は胸を撫で下ろした。
それならば話は簡単だ。
「お探しいたしますね」
「いや、その前に」
男の視線が咲樂へ向く。
じっと、品定めするように。
その視線に、咲樂の背筋がぞわりと粟立った。
「君、帳場にいた子だろう?」
「え……?」
「前に見たことがある」
咲樂は曖昧に微笑む。
「そうかもしれません」
「へえ」
男は感心したように頷いた。
「近くで見ると本当に綺麗だな」
咲樂の指先が僅かに強張る。
「い、いえ……そんなことは」
男の粘つく視線の居心地の悪さに、顔が引き攣りながらも、早く帰って欲しいと願ったが、男がこの部屋に一歩踏み入れた。
その瞬間に、咲樂は反射的に車輪へ手を掛けた。
嫌な空気が充満して、酸素が薄くなった気がする。
「そうだ、今からまた部屋借りるからさ、おいでよ」
「え……」
「その分、ちゃんと礼も渡すし」
何が。
何の話をしているのだろう。
当たり前のように、まるで良いことのように提案してくる声音の明るさが、恐ろしい。
「申し訳ありません」
声が震えないよう気を付けながら答える。
「幽泉堂では従業員によるそういった接待は行っておりません」
「固いなあ」
「申し訳ございません」
「少しくらいいいじゃないか」
「……規則、ですので」
男の笑顔が薄くなった。
「規則?」
「は、はい」
「誰の規則だ?」
「お店、の……」
「店?」
男は鼻で笑った。
「魂人風情が偉そうに」
ぞくりとした。
空気が変わる。
今までの軽薄な雰囲気が消えていた。
「お客様」
咲樂は車椅子を後退させようとする。
「申し訳ありませんが、お引き取りを――」
「断るのか?」
低い声だった。
咲樂の肩が震える。
「……申し訳、ございません」
謝る以外、何をすればいいのか、分からない。
「おかしいな」
男は首を傾げた。
「魂人に拒否権なんてあったか?」
咲樂の顔から血の気が引く。
逃げたい。
けれど身体が動かない。
一歩。
また一歩。
距離が縮まる。
「あ、の……」
男の手が腕を掴んだ。
「っ!」
強い力だった。
咲樂が振り払おうとしたその瞬間、男の顔が歪んだ。
何度となく見てきた。
逆らうはずがないと思い込んでいた相手に歯向かわれて、尊厳に傷がつき、憤った表情だった。
「魂人の分際で!」
怒鳴り声と共に腕が引かれる。
車椅子が大きく傾いた。
次の瞬間には床へ投げ出されていた。
大きな物音と共に肩を強く打ち、息が詰まる。
「ぅ……っ」
痛い。
立てない。
逃げられない。
男の下駄の音が近付く。
床の上を這おうとした腕を、着物の上から遠慮なく踏み付けられた。
激痛が走る。
その痛みが、ある記憶を呼び起こした。
暗い路地。
土に染み付いた汚臭。
逃げられない場所。
押さえ付けられる身体。
笑い声。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
十七歳の秋。
あの日。
忘れたくても忘れられない恐怖が、鮮明なまま蘇る。
呼吸ができない。
視界が滲む。
男が何か言っている。
けれど聞こえない。
耳鳴りだけが響いていた。
次は、腕が駄目になるかもしれない。
次こそ、殺されるかもしれない。
そう思った。
理屈ではなく、本能だった。
男の手が着物の衿を掴む。
咲樂の身体は完全に強張っていた。
抵抗しなければ。
逃げなければ。
そう思うのに動けない。
声も出ない。
涙だけが、意志とは関係なく次々と零れていく。
心の中では何度もやめてと叫んでいるのに、喉はひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
その時だった。
「――なに、してるんですか……?」
すぐ向こうの戸口から、聞き慣れた声がした。
瑚杜の、中性的な声だった。
いつもより清掃を終えるのが遅いことを、不思議に思ったのだろう。
一瞬だった。
│瑚杜《こもり》の声が、一瞬固まったように途切れた。
次の瞬間。
「何、してるんですか!!」
悲鳴にも似た怒声が響いて、男が振り返る。
「は?」
「離してください!!」
瑚杜は部屋へ飛び込み、自分より大きな男に掴みかかった。
「この人に! 触らないでください!」
体格差などまるでないかのように、男の首根っこを掴みその勢いのまま、咲樂から剥がして床に引き倒した。
まさか子どもに力負けするとは露にも思わなかったのだろう。
男は呆気にとられる。
「な……っ、なんだこのガキ……!」
暴れる男をうつ伏せにして、瑚杜は両腕を背中側に拘束したまま、奥歯を歯噛みする。
「お前……! 地上人にこんなことして、どうなるか分かってんのか!」
その細い腕からは考えられない力が、男の腕を捻りあげる。
遠くから、ばたばたと複数の足音が聞こえてきた。
「はあ……っ? あたしは魂人じゃないんで、あなたを殴っても死刑になりませんけど!」
瑚杜のただならぬ怒声を聞き付けて、廊下の向こうから従業員たちが駆けてきた。
「どうした!?」
先頭だった鉄太が部屋へ飛び込んだ瞬間、状況を理解して顔色を変えた。
床に蹲って、震えている咲樂。乱れた着物。
その傍で、小さな瑚杜に押さえ付けられている男。
「てめぇ……!」
鉄太の顔が、一気に怒りに染まる。
商人の男は、集まってきた男手に、ようやく自分の立場が悪いことに気付いたらしい。
「ち、違う! 俺は――」
「違わねぇだろうが!」
鉄太が憤りのままに胸倉を掴み上げようとする。
だが、その時。
「鉄太」
静かな声で、部屋の空気が変わる。
誰もが反射的に動きを止めて、その人に振り向く。
汐が立っていた。
いつも通りの微笑みはなかったけれど、ただひとりだけ、凪いだ水のように落ち着いていた。
「手は上げないで。絶対に」
魂人は喧嘩っ早い男が比較的多かったが、汐の佇まいや声や視線には、不思議と人を従わせる力がある。
「ちっ……分かったよ」
今にも殴りかかりそうだった鉄太も、渋々だが、一歩引き下がった。
「うん、ありがとう」
床で、震えながら蹲る咲樂。
身を守るようにして縮こまっていた。
桃色の着物についた下駄の痕も、汐は見逃さない。
夜のように冷たく沈んだ瞳が、部屋の中を一度だけ見渡す。
男は思わず息を呑む。
汐は何も言わなかった。
怒鳴りもしない。殴りもしない。
それなのに、男の額から冷や汗が流れ落ちた。
「瑚杜」
「は、はい」
「君は怪我してない?」
「だ、大丈夫です」
「そっか、良かった。ありがとうね。鉄太と一緒に、その人、廊下で見ててもらえる?」
「わかりました! ほら! 立ってください! 逃げたら承知しませんよ!」
瑚杜は雑に商人の衿を掴んで、引き摺るようにして廊下に連れていく。
その間もひっきりなしに文句や罵倒が飛んできたが、汐は見向きもしなかった。
扉が閉まったのを確認して、咲樂の傍へ膝をつく。
「咲樂」
返事はない。呼吸が浅かった。
豊かな髪の毛で顔は見えないけれど、過呼吸であることはすぐに分かる。
汐の胸の奥で何かが軋む。
「咲樂」
もう一度呼ぶ。
「もう大丈夫だよ」
穏やかな声だった。
「もう誰も君を傷つけないよ」
肩がびくりと震える。
反応はあった。
「咲樂」
蹲った顔が、そうっと床から上がる。
濡れた瞼と頬が見えた。
は、は、と肩と背中が短い呼吸に合わせて上下している。
がたがたと震えている全身が、どれほど恐ろしかったのかを伝える。
「大丈夫。もう誰もいないよ」
汐は咲樂の目の前の床を、トントンと指先で叩いた。
咲樂の焦点がそこで定まり、恐る恐る、汐を見上げた。
桃色の瞳がゆっくりと揺れ、ようやく汐を捉える。
「……うし、お……」
掠れた声だった。
「うん。もう大丈夫だよ。ゆっくり呼吸して」
見上げれば、いつもと変わらない汐の微笑があった。
咲樂はその顔を見つめる。
ゆっくりと息を吐く。
強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていく。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……っ」
喉の奥が震えた。
ぽろぽろと零れ落ちる雫は止まらない。
「ごめ……なさ……っ」
掠れた声が落ちた。
震える唇から、謝罪だけが繰り返し零れる。
「ごめんなさい……っ」
汐は首を横に振った。
「謝らなくていい」
即答だった。
「君は何も悪くない」
怒りも責める色もなく、ただ事実を告げる声だった。
「悪いのは君じゃない。……分かるよね?」
咲樂は答えられなかった。
唇だけが小さく震え、伏せた睫毛の先から雫が落ちる。
十七歳のあの日から、恐怖に襲われるたび、自分を責める癖だけは消えなかった。
汐もそれ以上、何も言わなかった。
抱き締めようとも、手を伸ばそうともせず、ただ静かに傍にいる。
咲樂が、自分で一歩を選べる距離を守るように。
◆ ◆ ◆
「――離せ! このっ、馬鹿力が……!」
「うるさいんですよ! 大人しくしててください!」
「瑚杜、鉄太、任せちゃってごめんね。ありがとう」
回廊で言い合う声が、背の高い天井まで反響していた。
まだ咲樂がいる客室の扉を最後まで閉めて、外側から施錠すると、汐は泰然とした足取りで、男と距離を詰めた。
「二人は仕事に戻って。あとは僕が対応する」
その言葉に、商人の男の肩が跳ねた。
「……大丈夫ですか? あたし、一緒にいますよ」
「瑚杜、行くぞ。汐なら平気だ」
鉄太は短く言うと、瑚杜の背中をやや強引に押していく。
二人の後ろ姿が見えなくなった。
その途端、汐が一つ瞬きをして、空気が一段と重くなった。
吸い込まれそうな夜の目が、狩りをする猛禽類のように、じっと男を見据える。
「さて、お客様」
「ま、待て! 誤解だ!」
男が咄嗟に手のひらを突き出して、汐と距離を取ろうとする。
今にも獲物に飛びかかる、背を低くした豹に見えたからだ。
「誤解、ですか。一体どのような?」
「ちょっと脅かしただけだ! あの女が驚いて、勝手に車椅子から落ちたんだよっ」
どうしてそのような見え透いた嘘をつくのか、甚だ疑問でしかない。
無様だ。
「……勘違いなさらないでください。私はあなたを罰したいわけではございません。その資格ももちろん、持ち合わせていない。そうでしょう?」
汐のやけに下手に出た態度に、男は目に見えて活気を取り戻し、思い出したようにそうだと頷いた。
「そ、そもそも、お前たちは魂人だ! 地上人の俺にこんな扱いとは、議会が聞けばどう思うか」
「ええ。私も所詮魂人です」
男は鼻で笑った。
「だったら分かるだろう。俺をどうこうできる立場じゃない」
「もちろんです」
汐はあっさり頷いた。
その反応が予想外だったのか、男は一瞬言葉に詰まる。
「私は法も制度も動かせませんし、お客様を裁く権利もありません」
「そうだ。……分かればいいんだよ」
男の肩から力が抜けた。
しかし汐は続ける。
「ただ、少し残念ですね」
「……何がだ」
「あなたのお名前を知ってしまったことです」
男の顔が曇る。
汐は穏やかに微笑んでいた。
「宿帳がありますから。お仕事も分かります。もちろんお住まいも。調べれば、ご家族も」
男の喉がごくりと鳴った。
「それが何だ」
「いえ」
そう言って少し視線を上げた。
「確か――大和商会の方でしたよね」
男の表情が固まる。
「最近、勢いのあるお店だと聞いています」
静かな沈黙。
汐は相手の反応を確認するようなこともしない。
ただ事実を並べているだけだった。
「羨ましい限りです」
「……何が言いたい」
男の声が、わずかに震える。
汐は少しだけ考えるような顔をした。
「別に何も」
「嘘をつけ」
「本当に」
微笑みは崩れない。
「私はただ、お客様の商売が長く続けばいいなと思っているだけですよ」
男は返事ができないが、構わず汐は続ける。
「商売は大変ですからね」
「……」
「信用というものは、積むのは何年もかかりますが、崩れる時は一瞬です 」
男の額に汗が浮かぶ。
「ですが、それは私には関係のない話です」
汐は穏やかに、冷たい色の瞳を細めた。
「私は魂人ですから」
その言葉が、なぜか恐ろしかった。
何かするとは言っていない。
脅迫もしていない。
それなのに。
目の前の青年は、自分の名前も商売も取引先も把握している。
そして柩地区の人脈の中心にいる。
男はようやく理解した。
この男は権力者ではない。
だが、権力者たちと普通に話せる人間なのだ。
「……」
「ですので、ご安心ください」
汐は最後にそう言った。
「私はお客様に何もしません」
一拍置く。
「ただ、次から当店のご利用はお断りいたします」
男の顔が引き攣った。
「それだけです」
汐は柔らかく一礼し、それ以上は何も言わない。
何も言わないからこそ、男は理解してしまった。
もし今後どこかで自分の評判が落ちても。
取引先の態度が変わっても。
紹介が途絶えても。
それは汐が何かしたからではない。
自分が蒔いた種が実っただけなのだと。
◆ ◆ ◆
翌日の夜になっても、咲樂は部屋から出られなかった。
夕食もほとんど手を付けられず、火々里から処方された薬だけを飲んで横になっていた。
身体の痛みは大したことはない。
肩の打撲も、腕の痣も、数日もすれば治るだろう。
足もなんともなかった。
けれど心は違った。
目を閉じれば、あの男の顔が浮かぶ。
腕を掴まれた感触。
床へ投げ出された衝撃。
耳元で響いた怒鳴り声。
そして、十七歳の、秋の記憶。
ようやく少しずつ遠ざかっていた悪夢が、無理やり引き摺り出されたようだった。
あの時、もっと上手く断れたのではないか。
もっと早く逃げられたのではないか。
自分が無知で、弱いからではないか。
そんな過去に対する考えが、勝手に浮かんでしまう。
ぼんやりと天井を見つめていると、戸を叩く控えめな音が聞こえた。
「咲樂、起きてる?」
聞き慣れた声に、咲樂は身を起こす。
「……うん。どうぞ」
「入るね」
戸が静かに開いた。
汐は部屋へ入ると、すぐには近寄らなかった。
寝台の傍まで来るのではなく、少し距離を置いた場所にある椅子へ腰掛ける。
自然と視線の高さが揃った。
まるで診察をする火々里のようだ、と咲樂は思った。
「少し話せる?」
「うん」
小さく頷く。
すると胸の奥に沈めていた感情が、ふいに浮かび上がってきた。
「あの……ごめん、なさい……迷惑かけて……」
汐はすぐに首を振った。
「迷惑じゃないよ。君が謝る必要はない」
「うん……」
咲樂は膝の上へ視線を落とす。
それでも申し訳なさは消えなかった。
自分が清掃をやりたいと言ったから。
みんなを心配させたから。
自分の軽率な行動のせいで、瑚杜や鉄太も、もしかすると怪我をしていたかもしれない。
そんな考えが頭の中を巡っていた。
しばし沈黙が落ちたけれど、汐は話を急がずに、そのまま黙る。
やがてゆったりと口を開く。
「今日は、仕事の話をしに来たんだ」
咲樂はぱっと顔を上げる。
「……え?」
「従業員の安全を守るのも、経営者の仕事だからね」
責める響きはどこにもなく、薬の調合について話す時と同じ口調だ。
「それぞれに適した役割を考え直そうと思って」
青紫色の目が、にこりと優しく細まった。
「咲樂には、清掃じゃなくて帳場を任せたい」
「帳場?」
咲樂は思わず聞き返した。
それは予想していなかった言葉だった。
少し前に、以前と同じように帳場に立ちたいと願ったが、その時の汐は首を縦に振らなかった。
「でも前に、危ないからって……」
「そうなんだけどね」
汐は少しだけ苦笑し、視線が行灯の灯りへ向けられる。
何かを整理するような間があった。
実際に、帳場にいた頃の咲樂は評判が良かった。
客受けも良かった。良すぎるほどに。
好意を向ける客も少なくなく、咲樂の足を奪った男も、その一人だった。
何度も帳場で顔を合わせ、勝手に親しみを抱き、勘違いを膨らませた。
だから汐は、目立つ場所から遠ざけようと考えていたのだ。
結果は違った。
人の目が届かない場所に一人にしてしまったことが、今回の事件に繋がっている。
「清掃みたいに密室で一人になるより、人目がある場所の方が安全なんじゃないかって、考え直したんだ」
今の咲樂は、何かあっても簡単には逃げられない。
遠ざけるのではなく、誰かの目の届く範囲にいてもらえば良いのだと結論づけた。
「昼間の帳場は咲楽が主体。夜や繁忙帯は僕。その間は補佐をお願いしたい」
咲樂はその言葉を反芻する。
清掃から外れるが、帳場へ戻る。
それは追い出しではなかった。
ちゃんと、仕事として差し出されている。
「やる」
考える隙もなく、言葉は驚くほど自然に出た。
「やるわ」
「即答だね?」
もう少しちゃんと考えて欲しい、と汐の顔に書いてある気がしたが、「だって」と咲樂は零す。
役に立てるなら嬉しかった。
少しずつでもいいから、昔の自分に戻っていきたかった。
それだけだった。
すると汐が続ける。
「あとは、経理もお願いしたいな」
「……経理」
今度はさすがに即答はできず、つい目を逸らす。
数字、帳簿、計算。
咲樂が昔から苦手としているものばかりだ。
汐と火々里の高度な会話についていけず、よく拗ねていたくらいなのだ。
それを思い出したのか、汐は案の定という顔で笑った。
「慣れたら難しくないよ」
「……」
「ちゃんと教えるし、最初は僕も確認する」
幽泉堂の売上や皆の給料に直結する、重大な仕事だ。
本当は少し怖い。
でも。
「……やる」
結局そう答えるしかなく、汐は肩を揺らした。
「うん。そう言うと思った」
「だって、わたしにやれることがあるなら、頑張らないと」
「えらいえらい」
そしてふと思い出したように尋ねる。
「算盤は?」
今度こそ咲樂は固まり、汐がいる反対側の壁へと顔を背けた。
沈黙。
答えなくても態度に全部出ていて、汐はとうとう吹き出す。
「あははっ」
久しぶりに聞く、心底楽しそうな笑い声のはずなのに、悔しくなって片方の頬を無意識に膨らませる。
「大丈夫だよ。僕がちゃんと教える」
「……馬鹿だって思ってる?」
「思ってないよ」
笑いながら否定するその様子につられて、咲樂の頬が、少しだけ緩んだ。
昨日から初めてだった。
やっと、肩の力が抜けた。
咲樂が小さく息を吐いてから、ぽつりと零れた。
「……汐、忙しいのに……いろいろ時間取らせちゃって、ごめんね」
咲樂が瞼を伏せると、汐は片眉を下げて苦笑した。
「だから謝らないで」
優しい声だったけれど、今度は少しだけ強い。
「経理はさすがに他の人に任せられないし」
それから肩を竦める。
「咲樂がやってくれたら、僕の負担も減るんだよ」
「……」
「僕が楽したいだけ」
咲樂はしばらく彼を見つめた。
その表情はいつも通りだった。
無理をしている顔でもない。
同情している顔でもない。
ただ、咲樂が気に病まないように言葉を選んでいる。
そんな表情だった。
その上手すぎる優しさが、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
昨日からずっと張り詰めていた心が、少しだけほどけた。
昔から、この人はこうだった。
「……ありがとう」
今度こそ素直な礼が帰ってきて、汐が満足そうに頷いた。
「こちらこそ。一緒に頑張ろうね」
昨日の恐怖も、十七歳の記憶も、消えない。
きっと、一生忘れることもない、死ぬまで連れ添っていく傷だ。
それでも。
ここでなら、きっと上手く呼吸ができる。
時系列:咲樂・汐→19歳
瑚杜→15歳
幽泉堂に復帰してからしばらくの間、咲樂の仕事は針仕事だけだった。
客室の座布団や掛け布団の繕い。
暖簾の補修。
従業員たちの着物のほつれ直し。
車椅子でもできる仕事を、汐は選んで任せてくれていた。
けれど、咲樂は時折思うのだ。
――本当に、それだけでいいのだろうか。
幽泉堂にはそれなりに従業員がいる。
皆、それぞれの持ち場で忙しく働いていた。
足の傷もすっかり塞がり、車椅子の生活にも慣れた。
ならば自分も、もう少し役に立てるのではないか。
そう考えた咲樂は、日帰り用の客室清掃を手伝うようになった。
時間がかかっても構わない仕事だった。
寝台も浴室もなく、机を拭き、湯呑みを片付けたり、比較的軽い清掃だった。
咲樂にとっては一部屋終えるだけでも大変だったが、苦ではない。
綺麗になった部屋を見ると、少しだけ胸を張れる気がした。
汐も最初は足のことを考えて反対した。
だが、咲樂が何度も頼み込み、火々里が「軽作業なら座りっぱなしよりいい」と言ったこともあって許可されたのだ。
だから、この日もいつも通りだった。
日帰り客たちが帰っていく、二十時頃。
咲樂は一人で客室を掃除していた。
窓を開け、布巾で机を拭く。
外からは柩地区に遊びに来た人達や商人の声が聞こえてくる。
昨日よりも早く終わらせられるように急ぎつつも、穏やかな時間だった。
そのせいか、背後で戸が開く音に気付くのが遅れた。
「おや」
男の声だった。
咲樂は振り返り、無意識に体が強ばった。
特別その人が駄目だったわけではない。
ずっと部屋に籠っていたため、地上人を目の前にするのは、あの事件以来初めてだった。
(……ちゃんと、ちゃんと笑顔をつくらないと)
部屋がどこか分からず、迷っているのかもしれない。
湧き上がる恐怖心を押さえつけて、目尻を意図的に下げる。
口角が、上手く上がっていないかもしれない。
「何か、お困りですか?」
努めて柔らかく尋ねると、男は戸口にもたれたまま咲樂を眺めた。
年の頃は三十代半ばほどだろうか。
着ている物は上等で、商人らしい派手さがある。
「いや、困っているというほどじゃない。忘れ物をした気がしてね」
「そうでしたか」
咲樂は胸を撫で下ろした。
それならば話は簡単だ。
「お探しいたしますね」
「いや、その前に」
男の視線が咲樂へ向く。
じっと、品定めするように。
その視線に、咲樂の背筋がぞわりと粟立った。
「君、帳場にいた子だろう?」
「え……?」
「前に見たことがある」
咲樂は曖昧に微笑む。
「そうかもしれません」
「へえ」
男は感心したように頷いた。
「近くで見ると本当に綺麗だな」
咲樂の指先が僅かに強張る。
「い、いえ……そんなことは」
男の粘つく視線の居心地の悪さに、顔が引き攣りながらも、早く帰って欲しいと願ったが、男がこの部屋に一歩踏み入れた。
その瞬間に、咲樂は反射的に車輪へ手を掛けた。
嫌な空気が充満して、酸素が薄くなった気がする。
「そうだ、今からまた部屋借りるからさ、おいでよ」
「え……」
「その分、ちゃんと礼も渡すし」
何が。
何の話をしているのだろう。
当たり前のように、まるで良いことのように提案してくる声音の明るさが、恐ろしい。
「申し訳ありません」
声が震えないよう気を付けながら答える。
「幽泉堂では従業員によるそういった接待は行っておりません」
「固いなあ」
「申し訳ございません」
「少しくらいいいじゃないか」
「……規則、ですので」
男の笑顔が薄くなった。
「規則?」
「は、はい」
「誰の規則だ?」
「お店、の……」
「店?」
男は鼻で笑った。
「魂人風情が偉そうに」
ぞくりとした。
空気が変わる。
今までの軽薄な雰囲気が消えていた。
「お客様」
咲樂は車椅子を後退させようとする。
「申し訳ありませんが、お引き取りを――」
「断るのか?」
低い声だった。
咲樂の肩が震える。
「……申し訳、ございません」
謝る以外、何をすればいいのか、分からない。
「おかしいな」
男は首を傾げた。
「魂人に拒否権なんてあったか?」
咲樂の顔から血の気が引く。
逃げたい。
けれど身体が動かない。
一歩。
また一歩。
距離が縮まる。
「あ、の……」
男の手が腕を掴んだ。
「っ!」
強い力だった。
咲樂が振り払おうとしたその瞬間、男の顔が歪んだ。
何度となく見てきた。
逆らうはずがないと思い込んでいた相手に歯向かわれて、尊厳に傷がつき、憤った表情だった。
「魂人の分際で!」
怒鳴り声と共に腕が引かれる。
車椅子が大きく傾いた。
次の瞬間には床へ投げ出されていた。
大きな物音と共に肩を強く打ち、息が詰まる。
「ぅ……っ」
痛い。
立てない。
逃げられない。
男の下駄の音が近付く。
床の上を這おうとした腕を、着物の上から遠慮なく踏み付けられた。
激痛が走る。
その痛みが、ある記憶を呼び起こした。
暗い路地。
土に染み付いた汚臭。
逃げられない場所。
押さえ付けられる身体。
笑い声。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
十七歳の秋。
あの日。
忘れたくても忘れられない恐怖が、鮮明なまま蘇る。
呼吸ができない。
視界が滲む。
男が何か言っている。
けれど聞こえない。
耳鳴りだけが響いていた。
次は、腕が駄目になるかもしれない。
次こそ、殺されるかもしれない。
そう思った。
理屈ではなく、本能だった。
男の手が着物の衿を掴む。
咲樂の身体は完全に強張っていた。
抵抗しなければ。
逃げなければ。
そう思うのに動けない。
声も出ない。
涙だけが、意志とは関係なく次々と零れていく。
心の中では何度もやめてと叫んでいるのに、喉はひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
その時だった。
「――なに、してるんですか……?」
すぐ向こうの戸口から、聞き慣れた声がした。
瑚杜の、中性的な声だった。
いつもより清掃を終えるのが遅いことを、不思議に思ったのだろう。
一瞬だった。
│瑚杜《こもり》の声が、一瞬固まったように途切れた。
次の瞬間。
「何、してるんですか!!」
悲鳴にも似た怒声が響いて、男が振り返る。
「は?」
「離してください!!」
瑚杜は部屋へ飛び込み、自分より大きな男に掴みかかった。
「この人に! 触らないでください!」
体格差などまるでないかのように、男の首根っこを掴みその勢いのまま、咲樂から剥がして床に引き倒した。
まさか子どもに力負けするとは露にも思わなかったのだろう。
男は呆気にとられる。
「な……っ、なんだこのガキ……!」
暴れる男をうつ伏せにして、瑚杜は両腕を背中側に拘束したまま、奥歯を歯噛みする。
「お前……! 地上人にこんなことして、どうなるか分かってんのか!」
その細い腕からは考えられない力が、男の腕を捻りあげる。
遠くから、ばたばたと複数の足音が聞こえてきた。
「はあ……っ? あたしは魂人じゃないんで、あなたを殴っても死刑になりませんけど!」
瑚杜のただならぬ怒声を聞き付けて、廊下の向こうから従業員たちが駆けてきた。
「どうした!?」
先頭だった鉄太が部屋へ飛び込んだ瞬間、状況を理解して顔色を変えた。
床に蹲って、震えている咲樂。乱れた着物。
その傍で、小さな瑚杜に押さえ付けられている男。
「てめぇ……!」
鉄太の顔が、一気に怒りに染まる。
商人の男は、集まってきた男手に、ようやく自分の立場が悪いことに気付いたらしい。
「ち、違う! 俺は――」
「違わねぇだろうが!」
鉄太が憤りのままに胸倉を掴み上げようとする。
だが、その時。
「鉄太」
静かな声で、部屋の空気が変わる。
誰もが反射的に動きを止めて、その人に振り向く。
汐が立っていた。
いつも通りの微笑みはなかったけれど、ただひとりだけ、凪いだ水のように落ち着いていた。
「手は上げないで。絶対に」
魂人は喧嘩っ早い男が比較的多かったが、汐の佇まいや声や視線には、不思議と人を従わせる力がある。
「ちっ……分かったよ」
今にも殴りかかりそうだった鉄太も、渋々だが、一歩引き下がった。
「うん、ありがとう」
床で、震えながら蹲る咲樂。
身を守るようにして縮こまっていた。
桃色の着物についた下駄の痕も、汐は見逃さない。
夜のように冷たく沈んだ瞳が、部屋の中を一度だけ見渡す。
男は思わず息を呑む。
汐は何も言わなかった。
怒鳴りもしない。殴りもしない。
それなのに、男の額から冷や汗が流れ落ちた。
「瑚杜」
「は、はい」
「君は怪我してない?」
「だ、大丈夫です」
「そっか、良かった。ありがとうね。鉄太と一緒に、その人、廊下で見ててもらえる?」
「わかりました! ほら! 立ってください! 逃げたら承知しませんよ!」
瑚杜は雑に商人の衿を掴んで、引き摺るようにして廊下に連れていく。
その間もひっきりなしに文句や罵倒が飛んできたが、汐は見向きもしなかった。
扉が閉まったのを確認して、咲樂の傍へ膝をつく。
「咲樂」
返事はない。呼吸が浅かった。
豊かな髪の毛で顔は見えないけれど、過呼吸であることはすぐに分かる。
汐の胸の奥で何かが軋む。
「咲樂」
もう一度呼ぶ。
「もう大丈夫だよ」
穏やかな声だった。
「もう誰も君を傷つけないよ」
肩がびくりと震える。
反応はあった。
「咲樂」
蹲った顔が、そうっと床から上がる。
濡れた瞼と頬が見えた。
は、は、と肩と背中が短い呼吸に合わせて上下している。
がたがたと震えている全身が、どれほど恐ろしかったのかを伝える。
「大丈夫。もう誰もいないよ」
汐は咲樂の目の前の床を、トントンと指先で叩いた。
咲樂の焦点がそこで定まり、恐る恐る、汐を見上げた。
桃色の瞳がゆっくりと揺れ、ようやく汐を捉える。
「……うし、お……」
掠れた声だった。
「うん。もう大丈夫だよ。ゆっくり呼吸して」
見上げれば、いつもと変わらない汐の微笑があった。
咲樂はその顔を見つめる。
ゆっくりと息を吐く。
強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていく。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……っ」
喉の奥が震えた。
ぽろぽろと零れ落ちる雫は止まらない。
「ごめ……なさ……っ」
掠れた声が落ちた。
震える唇から、謝罪だけが繰り返し零れる。
「ごめんなさい……っ」
汐は首を横に振った。
「謝らなくていい」
即答だった。
「君は何も悪くない」
怒りも責める色もなく、ただ事実を告げる声だった。
「悪いのは君じゃない。……分かるよね?」
咲樂は答えられなかった。
唇だけが小さく震え、伏せた睫毛の先から雫が落ちる。
十七歳のあの日から、恐怖に襲われるたび、自分を責める癖だけは消えなかった。
汐もそれ以上、何も言わなかった。
抱き締めようとも、手を伸ばそうともせず、ただ静かに傍にいる。
咲樂が、自分で一歩を選べる距離を守るように。
◆ ◆ ◆
「――離せ! このっ、馬鹿力が……!」
「うるさいんですよ! 大人しくしててください!」
「瑚杜、鉄太、任せちゃってごめんね。ありがとう」
回廊で言い合う声が、背の高い天井まで反響していた。
まだ咲樂がいる客室の扉を最後まで閉めて、外側から施錠すると、汐は泰然とした足取りで、男と距離を詰めた。
「二人は仕事に戻って。あとは僕が対応する」
その言葉に、商人の男の肩が跳ねた。
「……大丈夫ですか? あたし、一緒にいますよ」
「瑚杜、行くぞ。汐なら平気だ」
鉄太は短く言うと、瑚杜の背中をやや強引に押していく。
二人の後ろ姿が見えなくなった。
その途端、汐が一つ瞬きをして、空気が一段と重くなった。
吸い込まれそうな夜の目が、狩りをする猛禽類のように、じっと男を見据える。
「さて、お客様」
「ま、待て! 誤解だ!」
男が咄嗟に手のひらを突き出して、汐と距離を取ろうとする。
今にも獲物に飛びかかる、背を低くした豹に見えたからだ。
「誤解、ですか。一体どのような?」
「ちょっと脅かしただけだ! あの女が驚いて、勝手に車椅子から落ちたんだよっ」
どうしてそのような見え透いた嘘をつくのか、甚だ疑問でしかない。
無様だ。
「……勘違いなさらないでください。私はあなたを罰したいわけではございません。その資格ももちろん、持ち合わせていない。そうでしょう?」
汐のやけに下手に出た態度に、男は目に見えて活気を取り戻し、思い出したようにそうだと頷いた。
「そ、そもそも、お前たちは魂人だ! 地上人の俺にこんな扱いとは、議会が聞けばどう思うか」
「ええ。私も所詮魂人です」
男は鼻で笑った。
「だったら分かるだろう。俺をどうこうできる立場じゃない」
「もちろんです」
汐はあっさり頷いた。
その反応が予想外だったのか、男は一瞬言葉に詰まる。
「私は法も制度も動かせませんし、お客様を裁く権利もありません」
「そうだ。……分かればいいんだよ」
男の肩から力が抜けた。
しかし汐は続ける。
「ただ、少し残念ですね」
「……何がだ」
「あなたのお名前を知ってしまったことです」
男の顔が曇る。
汐は穏やかに微笑んでいた。
「宿帳がありますから。お仕事も分かります。もちろんお住まいも。調べれば、ご家族も」
男の喉がごくりと鳴った。
「それが何だ」
「いえ」
そう言って少し視線を上げた。
「確か――大和商会の方でしたよね」
男の表情が固まる。
「最近、勢いのあるお店だと聞いています」
静かな沈黙。
汐は相手の反応を確認するようなこともしない。
ただ事実を並べているだけだった。
「羨ましい限りです」
「……何が言いたい」
男の声が、わずかに震える。
汐は少しだけ考えるような顔をした。
「別に何も」
「嘘をつけ」
「本当に」
微笑みは崩れない。
「私はただ、お客様の商売が長く続けばいいなと思っているだけですよ」
男は返事ができないが、構わず汐は続ける。
「商売は大変ですからね」
「……」
「信用というものは、積むのは何年もかかりますが、崩れる時は一瞬です 」
男の額に汗が浮かぶ。
「ですが、それは私には関係のない話です」
汐は穏やかに、冷たい色の瞳を細めた。
「私は魂人ですから」
その言葉が、なぜか恐ろしかった。
何かするとは言っていない。
脅迫もしていない。
それなのに。
目の前の青年は、自分の名前も商売も取引先も把握している。
そして柩地区の人脈の中心にいる。
男はようやく理解した。
この男は権力者ではない。
だが、権力者たちと普通に話せる人間なのだ。
「……」
「ですので、ご安心ください」
汐は最後にそう言った。
「私はお客様に何もしません」
一拍置く。
「ただ、次から当店のご利用はお断りいたします」
男の顔が引き攣った。
「それだけです」
汐は柔らかく一礼し、それ以上は何も言わない。
何も言わないからこそ、男は理解してしまった。
もし今後どこかで自分の評判が落ちても。
取引先の態度が変わっても。
紹介が途絶えても。
それは汐が何かしたからではない。
自分が蒔いた種が実っただけなのだと。
◆ ◆ ◆
翌日の夜になっても、咲樂は部屋から出られなかった。
夕食もほとんど手を付けられず、火々里から処方された薬だけを飲んで横になっていた。
身体の痛みは大したことはない。
肩の打撲も、腕の痣も、数日もすれば治るだろう。
足もなんともなかった。
けれど心は違った。
目を閉じれば、あの男の顔が浮かぶ。
腕を掴まれた感触。
床へ投げ出された衝撃。
耳元で響いた怒鳴り声。
そして、十七歳の、秋の記憶。
ようやく少しずつ遠ざかっていた悪夢が、無理やり引き摺り出されたようだった。
あの時、もっと上手く断れたのではないか。
もっと早く逃げられたのではないか。
自分が無知で、弱いからではないか。
そんな過去に対する考えが、勝手に浮かんでしまう。
ぼんやりと天井を見つめていると、戸を叩く控えめな音が聞こえた。
「咲樂、起きてる?」
聞き慣れた声に、咲樂は身を起こす。
「……うん。どうぞ」
「入るね」
戸が静かに開いた。
汐は部屋へ入ると、すぐには近寄らなかった。
寝台の傍まで来るのではなく、少し距離を置いた場所にある椅子へ腰掛ける。
自然と視線の高さが揃った。
まるで診察をする火々里のようだ、と咲樂は思った。
「少し話せる?」
「うん」
小さく頷く。
すると胸の奥に沈めていた感情が、ふいに浮かび上がってきた。
「あの……ごめん、なさい……迷惑かけて……」
汐はすぐに首を振った。
「迷惑じゃないよ。君が謝る必要はない」
「うん……」
咲樂は膝の上へ視線を落とす。
それでも申し訳なさは消えなかった。
自分が清掃をやりたいと言ったから。
みんなを心配させたから。
自分の軽率な行動のせいで、瑚杜や鉄太も、もしかすると怪我をしていたかもしれない。
そんな考えが頭の中を巡っていた。
しばし沈黙が落ちたけれど、汐は話を急がずに、そのまま黙る。
やがてゆったりと口を開く。
「今日は、仕事の話をしに来たんだ」
咲樂はぱっと顔を上げる。
「……え?」
「従業員の安全を守るのも、経営者の仕事だからね」
責める響きはどこにもなく、薬の調合について話す時と同じ口調だ。
「それぞれに適した役割を考え直そうと思って」
青紫色の目が、にこりと優しく細まった。
「咲樂には、清掃じゃなくて帳場を任せたい」
「帳場?」
咲樂は思わず聞き返した。
それは予想していなかった言葉だった。
少し前に、以前と同じように帳場に立ちたいと願ったが、その時の汐は首を縦に振らなかった。
「でも前に、危ないからって……」
「そうなんだけどね」
汐は少しだけ苦笑し、視線が行灯の灯りへ向けられる。
何かを整理するような間があった。
実際に、帳場にいた頃の咲樂は評判が良かった。
客受けも良かった。良すぎるほどに。
好意を向ける客も少なくなく、咲樂の足を奪った男も、その一人だった。
何度も帳場で顔を合わせ、勝手に親しみを抱き、勘違いを膨らませた。
だから汐は、目立つ場所から遠ざけようと考えていたのだ。
結果は違った。
人の目が届かない場所に一人にしてしまったことが、今回の事件に繋がっている。
「清掃みたいに密室で一人になるより、人目がある場所の方が安全なんじゃないかって、考え直したんだ」
今の咲樂は、何かあっても簡単には逃げられない。
遠ざけるのではなく、誰かの目の届く範囲にいてもらえば良いのだと結論づけた。
「昼間の帳場は咲楽が主体。夜や繁忙帯は僕。その間は補佐をお願いしたい」
咲樂はその言葉を反芻する。
清掃から外れるが、帳場へ戻る。
それは追い出しではなかった。
ちゃんと、仕事として差し出されている。
「やる」
考える隙もなく、言葉は驚くほど自然に出た。
「やるわ」
「即答だね?」
もう少しちゃんと考えて欲しい、と汐の顔に書いてある気がしたが、「だって」と咲樂は零す。
役に立てるなら嬉しかった。
少しずつでもいいから、昔の自分に戻っていきたかった。
それだけだった。
すると汐が続ける。
「あとは、経理もお願いしたいな」
「……経理」
今度はさすがに即答はできず、つい目を逸らす。
数字、帳簿、計算。
咲樂が昔から苦手としているものばかりだ。
汐と火々里の高度な会話についていけず、よく拗ねていたくらいなのだ。
それを思い出したのか、汐は案の定という顔で笑った。
「慣れたら難しくないよ」
「……」
「ちゃんと教えるし、最初は僕も確認する」
幽泉堂の売上や皆の給料に直結する、重大な仕事だ。
本当は少し怖い。
でも。
「……やる」
結局そう答えるしかなく、汐は肩を揺らした。
「うん。そう言うと思った」
「だって、わたしにやれることがあるなら、頑張らないと」
「えらいえらい」
そしてふと思い出したように尋ねる。
「算盤は?」
今度こそ咲樂は固まり、汐がいる反対側の壁へと顔を背けた。
沈黙。
答えなくても態度に全部出ていて、汐はとうとう吹き出す。
「あははっ」
久しぶりに聞く、心底楽しそうな笑い声のはずなのに、悔しくなって片方の頬を無意識に膨らませる。
「大丈夫だよ。僕がちゃんと教える」
「……馬鹿だって思ってる?」
「思ってないよ」
笑いながら否定するその様子につられて、咲樂の頬が、少しだけ緩んだ。
昨日から初めてだった。
やっと、肩の力が抜けた。
咲樂が小さく息を吐いてから、ぽつりと零れた。
「……汐、忙しいのに……いろいろ時間取らせちゃって、ごめんね」
咲樂が瞼を伏せると、汐は片眉を下げて苦笑した。
「だから謝らないで」
優しい声だったけれど、今度は少しだけ強い。
「経理はさすがに他の人に任せられないし」
それから肩を竦める。
「咲樂がやってくれたら、僕の負担も減るんだよ」
「……」
「僕が楽したいだけ」
咲樂はしばらく彼を見つめた。
その表情はいつも通りだった。
無理をしている顔でもない。
同情している顔でもない。
ただ、咲樂が気に病まないように言葉を選んでいる。
そんな表情だった。
その上手すぎる優しさが、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
昨日からずっと張り詰めていた心が、少しだけほどけた。
昔から、この人はこうだった。
「……ありがとう」
今度こそ素直な礼が帰ってきて、汐が満足そうに頷いた。
「こちらこそ。一緒に頑張ろうね」
昨日の恐怖も、十七歳の記憶も、消えない。
きっと、一生忘れることもない、死ぬまで連れ添っていく傷だ。
それでも。
ここでなら、きっと上手く呼吸ができる。

