PANDORA・柩灯

 柩(ひつぎ)地区の午後は、薄く滲んだ灰色の膜が街を覆っていた。

 美嶺(みね)が大通りを歩いていると、怒声が響く。

 足を止め、金髪を靡かせながら振り返った。

「いいから来い! 魂人(たまびと)だろお前!」

 次いで、小さな悲鳴。
 視線を向ければ、そこには柩地区の片隅にしてはやや上等な身なりの男に、少女が腕を掴まれている姿があった。

 白い肌と痩せた体から、少女が魂人であることは明白だ。
 男は公家の末端らしき服装を纏っている。
 地上から下りてきた者特有の、この土地の空気を上塗りするような、どこか浮いた仕草。

 彼は少女の腕を強く引き寄せながら、苛立ちを隠さない声で言った。

「いいから来い。少し付き合えと言っているだけだ」

 少女は必死に首を振っている。
 恐怖と羞恥と、そして諦めの入り混じった複雑な表情だった。
 その光景を見た瞬間、美嶺(みね)の中で何かがすっと冷えた。

 躊躇はなかった。

「その手を離しなさい」

 澄んだ声だった。
 だがその響きには、周囲の空気を一瞬で張り詰めさせるだけの鋭さがあった。

 男が振り返る。
 美嶺は一歩も退かず、その場に立っていた。

「何だお前は」

 男の声は侮蔑を含んでいたけれど、美嶺はまっすぐに彼を見据える。
 暗がりの地下を灯すような、眩い黄金色の髪と瞳は異質だ。

「彼女、嫌がってるわよ」

 少女は美嶺を見て、驚いたように瞠目していた。
 誰かに助けてもらえるとは思わなかった。
 そんな風に。

「嫌がっているから何だ? ここは柩(ひつぎ)だぞ」

 男の言葉には、土地に対する歪んだ当然が混じっていた。
 美嶺の細い眉が僅かに動く。

「だから?」

 短く、しかしはっきりと告げる。
 男はこめかみをぴくりと動かしながらも、鼻で笑った。

「偽善者が。地上の理屈をここに持ち込むな」

 美嶺はその言葉に、少しも揺らがなかった。

「理屈?」

 美嶺の口は止まらない。

「治外法権の地下でなら、女性に何でもできるのね。畜生以下だわ」

 その一言が、火種になった。

 男の手が少女から離れ、美嶺へと向く。
 周囲の空気がざわりと動いた。
 柩地区は、正義がそのまま通る場所ではない。
 その場に居合わせた誰もが、次に起こる面倒事を予感し、足早に通り過ぎる。

 美嶺は片足を一歩引き、片手を前に突き出し、静かに、それでいて妙な凄みのある型をとった。
 清廉な巫女装束が、武人の道着に見えるほどの覇気が、双眸に宿る。  

 だがその緊張は、さらに別の存在によって中断される。

「――そこまでにしとけ」

 怠そうな声音なのに、その一言で路地の空気がまた一段階変わった。
 振り返ると、赤毛の男が立っていた。

 大柄な体躯に、気怠さを少しだけ滲ませながらも、その眼差しだけは変わらず鋭い。
 彼は一歩前に出て、男と美嶺の間に自然に割って入る。

「騒ぎを大きくするな。ここは幽泉堂(ゆうせんどう)の縄張りだ」

 その一言で、男の表情が僅かに強張る。
 柩地区において、今の幽泉堂の名は単なる宿屋のそれではない。
 年月を経て、人脈を得て、ある種の均衡を保つ場として、一定の力を持っている。
 男は舌打ちをした。

「……覚えてろ」

 吐き捨てるように言い、そのまま去っていく。
 路地に静けさが戻る。
 少女はその場にへたり込み、肩を震わせていた。
 火々里はそれを一瞥した後しゃがみ、少女と目を合わせる。

「大丈夫か。怪我は?」

「だい、じょ……う、うぅっ」

 がたがたと体を震わせて泣き始めてしまった少女を見下ろし、美嶺は眉間に皺を寄せ、男が去った方角を、意味もなく睨みつける。

 怪我がないことを確認すると、美嶺と火々里(かがり)は少女を家まで送り届けた。
 一息つくと、火々里は美嶺へ視線を移す。

「お前な」

 その声には、呆れと僅かな苛立ちが混じっていた。

「勝手にうろうろすんじゃねぇよ。なんかあったら俺の責任なんだぞ」

「あなたがちゃんとついて来なかったんじゃない。それに、何かあっても自分で対処できるわ」

 肩にかかる長い髪を後ろへと払い除け、つんと顎を上げる。
 小生意気な仕草に、火々里は口角をひくつかせて「このガキ……」とつい零した。

「あのなぁ、お前はカンナギ島(とう)宗家嫡子様で、特別に白律庁(うち)で預かってんだよ。怪我でもされちゃ何言われっか分かんねぇの」

「はぁ……お医者さんに護衛を任せるなんて、それもそれでどうなの?」

「毎日あちこち行くお前のせいな? 俺だってなんでだよって思ってんだよ」

「今日は汐(うしお)に神楽を教わってたんだから、仕方ないじゃない。これは研修の一環よ」

 大通りにまた戻ると、地上の商人や公家が闊歩し、魂人が彼らの目に止まらないようにと、隅を歩いていた。
 魂人の街であるはずが、地上人に怯えて肩身を狭そうにしている光景。

「ここは、歪ね」

 清廉な声が、ぽつりと落ちる。

 十八歳になり、成人し、初めて島を出て、この国の光の部分を見た。
 都会も田舎も、島とはまるで違う文化だった。 多くが、美嶺に優しかった。
 女であっても“太陽の巫女様”と敬い、親切にしてくれた。
 庶民も、商人も、公家も、役人も、軍人も。

 しかし、地下に下りると世界は一変した。

 白い肌と、痩せた体、継ぎ接ぎが目立つ着物、手作りの草履。
 当たり前のように尊厳を踏みにじられる魂人と、人が変わったように搾取する地上人。

 あの車椅子の女性が、心ない言葉を投げられても、微笑んだままだったところを、遠目に見ていた。

「……強者が弱者を蹂躙するのが当たり前だなんて、どうかしてる」

 美嶺の声は淡々と、冷えていた。

「持てる者が与えなくて、どうするの」

 目の前の景色が、美嶺には受け入れられなかった。
 こんな世界は、正しくない。間違えていた。

「それはちがうだろ」

 だが、黙って聞いていた火々里が、不意に言った。
 どこか怒っているような語気に、美嶺は隣を、変わらぬ表情で見上げる。

「ちがう?」

 島でも、本土でも、誰かに否定されたことはなかった。
 皆が肯定し、称え、「あなたの言うとおり」だと持て囃した。

 けれどこの男は、今「ちがう」と否定した。

(……なにが、ちがうと言うの)

 自分が太陽の巫女と崇められる存在ならば、彼は炎そのものだと思った。

 パンドラの始祖が持つ炎のような、静けさと激しさを内包する人間だった。

「この地獄で、誰もが生きるために考えて、立ち回ってる」

 火々里は、行き交う魂人たちを真っ直ぐ見ている。
 精悍な横顔には、絶対的な矜恃が宿っているように見えた。

「――あいつらは別に、特別な弱者じゃない」

 その言葉に、美嶺の呼吸がわずかに止まる。

 宗家嫡子としての矜持であり、使命であり、正しさだった。

 弱きを守り、強きを挫く。

 幼い頃からそうしてきた。

 美嶺は宗家の嫡子で、言遣(ことつか)いで 、特別な力を持っていた。

 この世界の全てを持って生まれてきたからこそ、不条理を正していかなければならない。

 だと言うのに、男のたった一言が、彼女の中の何かを否定した。

 火々里はそれ以上言わずに、背を向ける。
 「帰るぞ」と言って去っていく背中には、迷いがなかった。
 彼の言葉の意味を理解できても、理屈は分からなかった。
 否定された理由も、納得できなかった。

 ただ、ふつふつと腹から苛立ちが湧いてきて、残された美嶺は、唇を噛む。
 指先が僅かに震えていた。
 怒りからだろうか。 初めてだった。

 自分の正しさが、誰かによって当然のように揺さぶられたのは。

(なんなの……私を誰だと思って……)

 救うべきだった。
 守るべきだった。
 そう信じてきた。
 なのに、何が違うというのか。

 火々里の言葉が、頭の中で反響する。

 ――あいつらは別に、特別な弱者じゃない。

 美嶺はその場に立ち尽くしたまま、小さく呟いた。

「……でも」

 声は掠れていた。

「でも、あんなの……放っておけなかったのよ……」

 それは誰に向けた言葉でもなかった。
 正しさでも、反論でもない。 ただ、初めて自分の輪郭が揺れた少女の、静かな矜持の揺らぎだった。



 ◆ ◆ ◆



 その頃。
 昼の幽泉堂の、帳場の奥。
 算盤の音が鳴り、廊下の向こうでは客室の掃除を終えた従業員たちが行き交っている。

 厨房からは出汁の香りが漂い、遠くで誰かが笑う声も聞こえた。

 咲樂(さくら)は帳場の一角で帳簿を整理していた。
 汐は朝から買い出しに行き、いつもと変わらない静かな時間だった。

 だからこそ、入口の暖簾を潜る音は、妙にはっきり耳へ届いた。

 咲樂は顔を上げる。
 現れたのは、一人の男だった。
 年の頃は五十前後だろうか。

 仕立ての良い濃紺の洋装に身を包み、手には上質な杖を持っている。
 地下の土埃が付くことすら拒むような磨き上げられた革靴が、幽泉堂の床板を静かに踏んだ。

 男は店内を見渡し、そして帳場にいる咲樂に視線が定まる。

 その瞬間、咲樂の肩が、わずかに強張った。

 覚えていた。
 忘れようにも忘れられない。

 数日前、幽泉堂を訪れた男だった。

 男は帽子を取り、胸元に抱える。
 そして深々と一礼した。
 所作は美しく、相手を威圧することもなければ、見下すこともない。
 むしろ礼儀正しい。

 それがより一層、咲樂を緊張させた。
 以前、この男から受け取った名刺のことを思い出す。
 そこに記されていた家名。

 ——夜辺(よるべ)家。

 地上における、五大宗家のひとつ。
 汐の生家でもある依月(よつき)家が没落した後、新たに宗家となった分家筋。

 かつて汐が生まれ育った世界と今を隔てる、向こう側にいる人々だった。

 男は静かに口を開く。

「……こんにちは。咲樂さん」

 上品で落ち着いた声だった。
 咲樂は引き攣りそうになる頬を、なんとか柔らげようとつとめた。

 心臓が少しだけ速くなる。

「……こんにちは」

 なんとか返事をする。 男は穏やかな表情のまま続けた。

「度重なる訪問をお許しください」

 形式通りの言葉。 けれどその瞳には、用件だけを果たしに来た者の静かな決意が宿っていた。 咲樂は無意識に周囲へ視線を向ける。 汐はいない。 昼の帳場には、自分しかいなかった。 男はそれを確認していたかのように、一歩だけ近付く。 距離を詰めるというより、他人に聞かれないための配慮だった。

「以前、お話した件について」

 咲樂の呼吸が止まる。 男は続ける。

「本日は、改めてご相談に参りました」

 その言葉に、まるで暗がりから伸びてきた冷たい手が、足首を掴んだような感覚がした。

「夜辺(よるべ)家当主からの、言伝です」

 外で風鈴が鳴った。 ちりん、と。 あまりにも涼やかな音だった。

 それなのに咲樂には、その音が何かの始まりを告げる鐘のように聞こえた。

 知らず知らずのうちに築いていた平穏へ、地上が再び手を伸ばしてきている。