PANDORA・柩灯

 ――汐(うしお)の語りが終わると、中庭には静かな風が吹いた。

 幽泉堂の中庭には、穏やかな午後の光が落ちている。
 縁側には汐と椿姫(つばき)が並んで腰を下ろし、その少し前には咲樂(さくら)の車椅子が置かれていた。

 つい先ほどまで語られていたのは、汐の過去だった。
 自分が魂人になった経緯だけを、開陳した。
 汐は悲劇として語ったわけではなかった。

 まるで昔読んだ本の内容でも話すように、静かに事実だけを並べていた。
 それでも聞く側にとっては、あまりにも重い話だった。

「……そんな……」

 椿姫(つばき)が両手で膝を握る。
 紅玉の瞳が痛ましげに揺れていた。

「汐は何も悪くないのに、酷いわ」

 その声には、本気の悲しみが滲んでいた。
 咲樂はそんな椿姫を見つめる。
 まるで自分のことのように傷付いている。
 彼女は出会った時からずっと、優しい人だった。

 だからこそ咲樂は少しだけ困ったように笑い、汐へ視線を向ける。
 汐もまた、同じような顔をしていた。
 青紫と桃色の瞳が合う。
 それから肩を竦め、小さく笑った。

「そんな顔しないで」

 柔らかな声だった。

「ご覧の通り、僕は今けっこう充実してるからね」

 椿姫が顔を上げる。
 汐は縁側から中庭を見渡した。
 吹き込む風と、上から射し込む仄かな太陽の光。
 従業員たちの話し声や生活音。

「毎日薬とか香水とか、好きな物作って、好きな仕事して、家族で暮らせてる」

 その言葉にも表情にも嘘はなく、本心から毎日を楽しんでいる人のものだった。

「上にいたら、幽泉堂もなかっただろうし」

 その言葉に、椿姫ははっと息を呑んだ。
 数秒後、勢いよく身を乗り出す。

「そうだわ……!」

 咲樂は少し目を丸くした。

「幽泉堂がないのは困っちゃう!」

 椿姫は真剣な顔で続ける。

「幽泉堂がなかったら、きっと汐や咲樂とも出会わなかったものね!」

 先ほどまで沈んでいた表情が嘘のようで、汐は思わず吹き出しそうになる。

「僕と椿姫は公家の夜会で会ったかもよ」

「はっ……!」

 椿姫の目が丸くなる。

「それもそうかも!」

 納得したかと思えば、すぐに首を振った。

「でもきっと咲樂には会えなかったわ!」

 真面目に考え込み、真面目に結論を出し、また慌てる。
 その様子があまりにも忙しくて、咲樂は堪えきれずに笑った。

「ふふっ」

 椿姫が振り向く。

「咲樂?」

「椿姫ったら、本当に素直で可愛い」

 言われた本人はきょとんとし、瞬きを二度ほど繰り返す。

「え?」

 それから少しだけ頬を染めた。

「……うふふっ」

 嬉しそうに笑う。

「なんだか褒められちゃった」

 その反応まで真っ直ぐで、汐も妹を慈しむように目を細める。

「うん、可愛い」

 さらりと言う。
 咲樂もまた頷いた。

「ね」

 兄と姉のような二人から続けて肯定され、椿姫はますます嬉しそうになった。

「二人ともたくさん褒めてくれるから、嬉しい!」

 彼女の笑顔に、咲樂は胸の奥が少し温かくなる。
 椿姫はいつもこうだ。
 誰かの言葉を疑わない。
 好意を好意のまま受け取る。
 だから周囲まで明るくなる。
 汐も同じことを考えていたのか、穏やかな目で椿姫を見ていた。

 中庭へ柔らかな陽射しが降り注ぐ。
 本来なら交わることのなかったはずの人々が、今はこうして同じ場所で笑っている。

 不思議な縁だ、と咲樂は思った。
 もし誰か一人でも違う道を歩いていたなら、この景色は存在しなかっただろう。

 自分が火々里に拾われなければ。
 汐が柩送りにならなければ。
 椿姫が幽泉堂へ来なければ。
 この時間は生まれなかった。
 咲樂は空のない、地下の天井を見上げる。

 地上と地下。
 本来は遠く隔てられた世界なのに。
 今だけは、その境界が少し曖昧になった気がした。



 ◆ ◆ ◆



 夜の幽泉堂は、宿泊客や食事のためにやってくる客で、更に賑わう。

 食堂には柔らかな灯りが灯(とも)され、調味料や湯気の香りが漂い、活気に溢れている。

 一足先に仕事を終えた咲樂は、車椅子に座ったまま食堂の卓につき、向かい側では椿姫が夕食の最後の一口を幸せそうに頬張っていた。

「それでね、尊(みこと)がこの前――」

 案の定、話題は尊だった。
 咲樂は湯呑みを両手で包みながら、微笑ましく耳を傾ける。
 椿姫の話は尽きることがない。

 今日は何を話した、どんな顔をした、どんな言葉を掛けてくれた――そんな些細な出来事を、まるで宝物を並べるようにひとつひとつ語っていく。
 その様子を見ているだけで、聞いている側まで楽しい気持ちになってしまう。

 そうしていると、食堂の入り口に大きな男の影が見えた。
 火々里(かがり)だった。

「おう」

 火々里が咲樂と椿姫に気付き、短く挨拶をしながら椅子を引く。
 仕事帰りらしく少し疲れた顔をしていたが、それもいつも通りだった。

「火々里!」

 椿姫がぱっと顔を輝かせる。

「聞いてちょうだい! 今日ね、尊が――」

「またかよ」

 火々里は呆れたように言いながらも席につくも、面白そうに口の端は上がっている。

 その態度はぶっきらぼうだったが、席を立って逃げないあたり、聞く気はあるのだろう。

 すると、その時だった。

 一人の従業員が盆を持って配膳にやってくる。

「あたしも参加したいです〜っ!」

 悲鳴にも似た声と共に現れたのは、瑚杜(こもり)だった。

 和服を膝上までの短さで着付け、可愛らしい前掛けを揺らす。
 大きな盆を抱えたまま、今にも泣きそうな顔をしていた。

「みんなだけ楽しそうなのずるいです〜!」

 火々里が運ばれてきた酒を飲みながら鼻で笑う。

「仕事しろ」

「してますぅ!」

 瑚杜(こもり)は配膳を終えると、恨めしそうに皆を見回した。
 ちょうどその時、帳場の方から汐が姿を見せる。

「どうしたの?」

「みんな楽しそうなんですぅ……」

 瑚杜(こもり)がしょんぼりと肩を落とす。
 それから、甘えるように上目で汐のことを見つめた。
 ぱちぱちと、化粧をした睫毛を何度も瞬かせて。

 汐は食堂の様子を見渡してから、少し考えるように首を傾げた。

「こっち手空いたし、瑚杜(こもり)あがっても大丈夫だよ」

「本当ですか!?」

 一瞬で顔が輝いた。

「うん。日頃の行いが良いから特別」

「やったぁ〜!」

 瑚杜(こもり)は盆を抱えたまま飛び跳ねそうになる。
 そして急いで他の卓の食器を片付けると、厨房へと持っていった。
 まるで子どもみたいだった。

「汐はまだなの?」

 椿姫が不満そうに唇を尖らせる。

「たくさん相談したいことあるのに」

「僕?」

 汐は目を瞬いた。

「ええ! 恋の相談と言えば、汐だものっ」

 けれど汐は苦笑する。

「僕は今日夜勤だからねぇ」

「そうなのね……」

「残念だけど、また今度聞くよ」

 そう言い残し汐は仕事へ戻っていき、代わりに、前掛けを外した瑚杜(こもり)が嬉々として三人の卓にやってきた。

 自分で用意したまかないも盆に乗せている。
 丼皿に様々なおかずを投入した、豪快な夜食である。

「お疲れさま、瑚杜(こもり)」

「はい! 咲樂さんもお疲れさまでした!」

「頑張った瑚杜(こもり)に、この甘味をあげるわ!」

 椿姫が杏仁豆腐とスプーンを瑚杜(こもり)の前に置き、頬を上げて胸を張る。

「えぇ〜いいのぉ? ありがとう椿姫ちゃん!」

 酒を飲みながら、火々里は両手を合わせて喜ぶ少女を横目に見て、丼に視線を移す。

「……相変わらず犬の餌みてぇなの作るな」

「意外と美味しいんですよぉ? 咲樂さんも美味しいって食べてくれますもん」

「咲樂は胃に入れば何でもいいだろ」

「ちゃ、ちゃんと美味しかったもの」

 咲樂が心外そうに言うと、瑚杜(こもり)は「ほらぁ!」と勝ち誇ったように顎を上げるけれど、それでも火々里は呆れたように酒を煽る。

「咲樂の味覚はあんまり信用ならねぇだろ」

「失礼ね」

「咲樂さんは舌まで優しいんですよぉ」

「それ褒めてんのか?」

 いつものようなやり取りに、食卓の空気が和やかに揺れる。

 椿姫はそんな三人の会話を楽しそうに眺めていたが、不意に何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。

「ねえねえ!」

 椿姫が忙しなく三人の顔を見渡す。
 その様子だけで、誰の話を始めるのか三人には分かっていた。

「一、二、三……四ヶ月後! 瑞花祭(ずいかさい)でしょう?」

「ああ」

 火々里が頷いた。

「今年こそ尊と行きたいの!」

 まるで今から祭り当日が待ちきれないとでも言うように、その声は弾んでいた。

「瑞花祭(ずいかさい)って……まだ夏なのに、椿姫ちゃん気が早いねぇ」

 瑚杜(こもり)が丼をすくいながら、思い出したように言う。

「尊の奴、忙しいからな。急に誘っても捕まらねぇんだよ。去年は椿姫が風邪ひいて流れたし」

「そうなの!」

 椿姫は両手で頬を押さえた。

「楽しみにしてたのに行けなかったの〜!」

 その時の悔しさを思い出したのか、眉尻が下がる。
 しかしすぐにぱっと顔を上げた。

「今年こそ、咲樂にも桃飴(ももあめ)を買ってくるわ!」

「ふふ、ありがとう」

 咲樂は柔らかく笑う。

「でもあまり気を遣わないで楽しんできてね」

「いやよ。買ってくるったら買ってくるわ!」

 椿姫はきっぱりと即答した。

「絶対に咲樂に食べさせたいの! 桃好きだったでしょう? とっても美味しいんだから!」

 その表情があまりにも真剣で、咲樂は思わず笑ってしまった。
 どうやら本気らしい。

「そうだわ、瑚杜(こもり)は行かないの?」

 次いで椿姫が尋ねると、瑚杜(こもり)は苦い顔をして、盛大に首を振った。

「いやいや、瑞花祭(ずいかさい)こそ幽泉堂の繁忙期だから、従業員総出で迎え撃つの!」

 拳を握り締める。

「去年も大忙しでてんやわんやでしたよね、咲樂さん」

「そうね」

 咲樂は懐かしそうに、去年の冬を思い出す。

「あれは凄かったわ。汐ですら最後くたくただったもの」

「汐さん回らないところ全部に入るから、休憩なしでしたもんねぇ……」

 瑚杜(こもり)が遠い目をする。
 その光景は容易に想像できた。
 忙しくなればなるほど、汐は自分を後回しにして働いてしまう。

「まあ……」

 椿姫がしゅんと眉を下げた。

「汐、可哀想」

 そしてすぐに顔を上げる。

「汐にも何かお土産買ってくるわ。もちろん瑚杜(こもり)にもね!」

「ありがとう〜椿姫ちゃん!」

 瑚杜(こもり)が感激したように椿姫に抱きつき、それを咲樂が微笑ましく見守る。
 ふい、と桃色の目が火々里に流れた。

「火々里は? 行かないの?」

「あー……」

 火々里は湯呑みを傾けた。

「屋台飯買いに行くくらいだな。晩飯用の」

「ええっ?」

 椿姫が目を丸くする。

「雪花火(ゆきはなび)見ないの?」

「興味ない。あれ虫だろ」

 熱弁する椿姫に対し、火々里はどこまでも淡白だった。

「雪花火ってなぁに? 椿姫は好きなの?」

 聞き慣れない言葉だった。
 首を傾げると、椿姫と瑚杜(こもり)が同時に反応した。

「咲樂さん知らないんですか!?」

「え、ええ。地上のことはあんまり知らなくて」

 少し気後れしながら答える。

「勿体ないわ!」

 椿姫は机を叩かんばかりの勢いだった。

「雪花火っていうのはね!」

 身を乗り出しながら説明する。

「瑞花祭(ずいかさい)の期間に、真っ白の蝶が一斉に孵化して空を舞うの!」

 大きな瞳がきらきらと輝いていた。

「それが花火みたいで、とってもとっても、とーっても綺麗なの!」

「恋人たちでそれを見るんだよねぇ〜!」

 瑚杜(こもり)が羨ましそうに両手を重ねて、うっとりと言う。

「羨ましい〜!」

 うら若き乙女の二人にとっては、恋に関連する行事は特別なものなのだろう。

「へえ、そうなの。素敵ね」

 咲樂は素直に感心した。
 けれど蝶というもの自体、あまり馴染みがない。

「あ、咲樂さん興味ないな」

「そ、そんなことないわ」

 慌てて否定する。

「ただ、蝶もあんまりぴんとこないから」

「確かに」

 椿姫が頷く。

「柩で蝶って、見たことないわ」

「餌がねぇからな」

 火々里が答えた。

「太陽もねぇし」

 咲樂は納得する。
 地上では当たり前に存在するものでも、地下では見られないものが多い。
 そう考えると、自分の知らない景色は、気が遠くなるほどたくさんあるのだろう。

 椿姫は少し残念そうな顔をするが、すぐに微笑む。

「でも、本当に綺麗なのよ?」

 優しく言った。

「いつか咲樂にも見せてあげたいわ。虫取り網で捕まえられるのかしら?」

「やめとけ」

 火々里が即座に返す。

「蚊でギャーギャー騒ぐ奴が何言ってんだ」

「雪白蝶(ゆきしろちょう)は綺麗だからいいの!」

「同じ虫だろ」

「違うの!」

 食堂に笑い声が広がる。
 わあわあと騒ぐ椿姫。
 楽しそうに笑う瑚杜(こもり)。
 ぶっきらぼうでも、機嫌の良さそうな火々里。
 そんな三人を見ながら、咲樂は静かに目を細めた。

 賑やかな声が心地よかった。
 地下の夜は長い。
 けれど、その暗さを少しも感じない。
 まるで小さな灯火が集まって、周囲を温めているようだった。

 ふと視線を上げる。

 食堂の外、帳場の方にいる汐と目が合う。
 咲樂たちの卓を見て、小さく笑った。

 楽しそうだね、と言うような穏やかな微笑みだった。

 咲樂もまた、そっと目を細めた。
 騒がしい会話はまだ続いている。

 瑞花祭(ずいかさい)のこと、雪花火のこと、尊のこと。

 夜はまだ長く、仲間たちの笑い声は、しばらく幽泉堂の食堂に響き続けていた。