――汐の語りが終わると、中庭には静かな風が吹いた。
幽泉堂の中庭には、穏やかな午後の光が落ちている。
縁側には汐と椿姫が並んで腰を下ろし、その少し前には咲樂の車椅子が置かれていた。
つい先ほどまで語られていたのは、汐の過去だった。
自分が魂人になった経緯だけを、開陳した。
汐は悲劇として語ったわけではなかった。
まるで昔読んだ本の内容でも話すように、静かに事実だけを並べていた。
それでも聞く側にとっては、あまりにも重い話だった。
「……そんな……」
椿姫が両手で膝を握る。
紅玉の瞳が痛ましげに揺れていた。
「汐は何も悪くないのに、酷いわ」
その声には、本気の悲しみが滲んでいた。
咲樂はそんな椿姫を見つめる。
まるで自分のことのように傷付いている。
彼女は出会った時からずっと、優しい人だった。
だからこそ咲樂は少しだけ困ったように笑い、汐へ視線を向ける。
汐もまた、同じような顔をしていた。
青紫と桃色の瞳が合う。
それから肩を竦め、小さく笑った。
「そんな顔しないで」
柔らかな声だった。
「ご覧の通り、僕は今けっこう充実してるからね」
椿姫が顔を上げる。
汐は縁側から中庭を見渡した。
吹き込む風と、上から射し込む仄かな太陽の光。
従業員たちの話し声や生活音。
「毎日薬とか香水とか、好きな物作って、好きな仕事して、家族で暮らせてる」
その言葉にも表情にも嘘はなく、本心から毎日を楽しんでいる人のものだった。
「上にいたら、幽泉堂もなかっただろうし」
その言葉に、椿姫ははっと息を呑んだ。
数秒後、勢いよく身を乗り出す。
「そうだわ……!」
咲樂は少し目を丸くした。
「幽泉堂がないのは困っちゃう!」
椿姫は真剣な顔で続ける。
「幽泉堂がなかったら、きっと汐や咲樂とも出会わなかったものね!」
先ほどまで沈んでいた表情が嘘のようで、汐は思わず吹き出しそうになる。
「僕と椿姫は公家の夜会で会ったかもよ」
「はっ……!」
椿姫の目が丸くなる。
「それもそうかも!」
納得したかと思えば、すぐに首を振った。
「でもきっと咲樂には会えなかったわ!」
真面目に考え込み、真面目に結論を出し、また慌てる。
その様子があまりにも忙しくて、咲樂は堪えきれずに笑った。
「ふふっ」
椿姫が振り向く。
「咲樂?」
「椿姫ったら、本当に素直で可愛い」
言われた本人はきょとんとし、瞬きを二度ほど繰り返す。
「え?」
それから少しだけ頬を染めた。
「……うふふっ」
嬉しそうに笑う。
「なんだか褒められちゃった」
その反応まで真っ直ぐで、汐も妹を慈しむように目を細める。
「うん、可愛い」
さらりと言う。
咲樂もまた頷いた。
「ね」
兄と姉のような二人から続けて肯定され、椿姫はますます嬉しそうになった。
「二人ともたくさん褒めてくれるから、嬉しい!」
彼女の笑顔に、咲樂は胸の奥が少し温かくなる。
椿姫はいつもこうだ。
誰かの言葉を疑わない。
好意を好意のまま受け取る。
だから周囲まで明るくなる。
汐も同じことを考えていたのか、穏やかな目で椿姫を見ていた。
中庭へ柔らかな陽射しが降り注ぐ。
本来なら交わることのなかったはずの人々が、今はこうして同じ場所で笑っている。
不思議な縁だ、と咲樂は思った。
もし誰か一人でも違う道を歩いていたなら、この景色は存在しなかっただろう。
自分が火々里に拾われなければ。
汐が柩送りにならなければ。
椿姫が幽泉堂へ来なければ。
この時間は生まれなかった。
咲樂は空のない、地下の天井を見上げる。
地上と地下。
本来は遠く隔てられた世界なのに。
今だけは、その境界が少し曖昧になった気がした。
◆ ◆ ◆
夜の幽泉堂は、宿泊客や食事のためにやってくる客で、更に賑わう。
食堂には柔らかな灯りが灯され、調味料や湯気の香りが漂い、活気に溢れている。
一足先に仕事を終えた咲樂は、車椅子に座ったまま食堂の卓につき、向かい側では椿姫が夕食の最後の一口を幸せそうに頬張っていた。
「それでね、尊がこの前――」
案の定、話題は尊だった。
咲樂は湯呑みを両手で包みながら、微笑ましく耳を傾ける。
椿姫の話は尽きることがない。
今日は何を話した、どんな顔をした、どんな言葉を掛けてくれた――そんな些細な出来事を、まるで宝物を並べるようにひとつひとつ語っていく。
その様子を見ているだけで、聞いている側まで楽しい気持ちになってしまう。
そうしていると、食堂の入り口に大きな男の影が見えた。
火々里だった。
「おう」
火々里が咲樂と椿姫に気付き、短く挨拶をしながら椅子を引く。
仕事帰りらしく少し疲れた顔をしていたが、それもいつも通りだった。
「火々里!」
椿姫がぱっと顔を輝かせる。
「聞いてちょうだい! 今日ね、尊が――」
「またかよ」
火々里は呆れたように言いながらも席につくも、面白そうに口の端は上がっている。
その態度はぶっきらぼうだったが、席を立って逃げないあたり、聞く気はあるのだろう。
すると、その時だった。
一人の従業員が盆を持って配膳にやってくる。
「あたしも参加したいです〜っ!」
悲鳴にも似た声と共に現れたのは、瑚杜だった。
和服を膝上までの短さで着付け、可愛らしい前掛けを揺らす。
大きな盆を抱えたまま、今にも泣きそうな顔をしていた。
「みんなだけ楽しそうなのずるいです〜!」
火々里が運ばれてきた酒を飲みながら鼻で笑う。
「仕事しろ」
「してますぅ!」
瑚杜は配膳を終えると、恨めしそうに皆を見回した。
ちょうどその時、帳場の方から汐が姿を見せる。
「どうしたの?」
「みんな楽しそうなんですぅ……」
瑚杜がしょんぼりと肩を落とす。
それから、甘えるように上目で汐のことを見つめた。
ぱちぱちと、化粧をした睫毛を何度も瞬かせて。
汐は食堂の様子を見渡してから、少し考えるように首を傾げた。
「こっち手空いたし、瑚杜あがっても大丈夫だよ」
「本当ですか!?」
一瞬で顔が輝いた。
「うん。日頃の行いが良いから特別」
「やったぁ〜!」
瑚杜は盆を抱えたまま飛び跳ねそうになる。
そして急いで他の卓の食器を片付けると、厨房へと持っていった。
まるで子どもみたいだった。
「汐はまだなの?」
椿姫が不満そうに唇を尖らせる。
「たくさん相談したいことあるのに」
「僕?」
汐は目を瞬いた。
「ええ! 恋の相談と言えば、汐だものっ」
けれど汐は苦笑する。
「僕は今日夜勤だからねぇ」
「そうなのね……」
「残念だけど、また今度聞くよ」
そう言い残し汐は仕事へ戻っていき、代わりに、前掛けを外した瑚杜が嬉々として三人の卓にやってきた。
自分で用意したまかないも盆に乗せている。
丼皿に様々なおかずを投入した、豪快な夜食である。
「お疲れさま、瑚杜」
「はい! 咲樂さんもお疲れさまでした!」
「頑張った瑚杜に、この甘味をあげるわ!」
椿姫が杏仁豆腐とスプーンを瑚杜の前に置き、頬を上げて胸を張る。
「えぇ〜いいのぉ? ありがとう椿姫ちゃん!」
酒を飲みながら、火々里は両手を合わせて喜ぶ少女を横目に見て、丼に視線を移す。
「……相変わらず犬の餌みてぇなの作るな」
「意外と美味しいんですよぉ? 咲樂さんも美味しいって食べてくれますもん」
「咲樂は胃に入れば何でもいいだろ」
「ちゃ、ちゃんと美味しかったもの」
咲樂が心外そうに言うと、瑚杜は「ほらぁ!」と勝ち誇ったように顎を上げるけれど、それでも火々里は呆れたように酒を煽る。
「咲樂の味覚はあんまり信用ならねぇだろ」
「失礼ね」
「咲樂さんは舌まで優しいんですよぉ」
「それ褒めてんのか?」
いつものようなやり取りに、食卓の空気が和やかに揺れる。
椿姫はそんな三人の会話を楽しそうに眺めていたが、不意に何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
「ねえねえ!」
椿姫が忙しなく三人の顔を見渡す。
その様子だけで、誰の話を始めるのか三人には分かっていた。
「一、二、三……四ヶ月後! 瑞花祭でしょう?」
「ああ」
火々里が頷いた。
「今年こそ尊と行きたいの!」
まるで今から祭り当日が待ちきれないとでも言うように、その声は弾んでいた。
「瑞花祭って……まだ夏なのに、椿姫ちゃん気が早いねぇ」
瑚杜が丼をすくいながら、思い出したように言う。
「尊の奴、忙しいからな。急に誘っても捕まらねぇんだよ。去年は椿姫が風邪ひいて流れたし」
「そうなの!」
椿姫は両手で頬を押さえた。
「楽しみにしてたのに行けなかったの〜!」
その時の悔しさを思い出したのか、眉尻が下がる。
しかしすぐにぱっと顔を上げた。
「今年こそ、咲樂にも桃飴を買ってくるわ!」
「ふふ、ありがとう」
咲樂は柔らかく笑う。
「でもあまり気を遣わないで楽しんできてね」
「いやよ。買ってくるったら買ってくるわ!」
椿姫はきっぱりと即答した。
「絶対に咲樂に食べさせたいの! 桃好きだったでしょう? とっても美味しいんだから!」
その表情があまりにも真剣で、咲樂は思わず笑ってしまった。
どうやら本気らしい。
「そうだわ、瑚杜は行かないの?」
次いで椿姫が尋ねると、瑚杜は苦い顔をして、盛大に首を振った。
「いやいや、瑞花祭こそ幽泉堂の繁忙期だから、従業員総出で迎え撃つの!」
拳を握り締める。
「去年も大忙しでてんやわんやでしたよね、咲樂さん」
「そうね」
咲樂は懐かしそうに、去年の冬を思い出す。
「あれは凄かったわ。汐ですら最後くたくただったもの」
「汐さん回らないところ全部に入るから、休憩なしでしたもんねぇ……」
瑚杜が遠い目をする。
その光景は容易に想像できた。
忙しくなればなるほど、汐は自分を後回しにして働いてしまう。
「まあ……」
椿姫がしゅんと眉を下げた。
「汐、可哀想」
そしてすぐに顔を上げる。
「汐にも何かお土産買ってくるわ。もちろん瑚杜にもね!」
「ありがとう〜椿姫ちゃん!」
瑚杜が感激したように椿姫に抱きつき、それを咲樂が微笑ましく見守る。
ふい、と桃色の目が火々里に流れた。
「火々里は? 行かないの?」
「あー……」
火々里は湯呑みを傾けた。
「屋台飯買いに行くくらいだな。晩飯用の」
「ええっ?」
椿姫が目を丸くする。
「雪花火見ないの?」
「興味ない。あれ虫だろ」
熱弁する椿姫に対し、火々里はどこまでも淡白だった。
「雪花火ってなぁに? 椿姫は好きなの?」
聞き慣れない言葉だった。
首を傾げると、椿姫と瑚杜が同時に反応した。
「咲樂さん知らないんですか!?」
「え、ええ。地上のことはあんまり知らなくて」
少し気後れしながら答える。
「勿体ないわ!」
椿姫は机を叩かんばかりの勢いだった。
「雪花火っていうのはね!」
身を乗り出しながら説明する。
「瑞花祭の期間に、真っ白の蝶が一斉に孵化して空を舞うの!」
大きな瞳がきらきらと輝いていた。
「それが花火みたいで、とってもとっても、とーっても綺麗なの!」
「恋人たちでそれを見るんだよねぇ〜!」
瑚杜が羨ましそうに両手を重ねて、うっとりと言う。
「羨ましい〜!」
うら若き乙女の二人にとっては、恋に関連する行事は特別なものなのだろう。
「へえ、そうなの。素敵ね」
咲樂は素直に感心した。
けれど蝶というもの自体、あまり馴染みがない。
「あ、咲樂さん興味ないな」
「そ、そんなことないわ」
慌てて否定する。
「ただ、蝶もあんまりぴんとこないから」
「確かに」
椿姫が頷く。
「柩で蝶って、見たことないわ」
「餌がねぇからな」
火々里が答えた。
「太陽もねぇし」
咲樂は納得する。
地上では当たり前に存在するものでも、地下では見られないものが多い。
そう考えると、自分の知らない景色は、気が遠くなるほどたくさんあるのだろう。
椿姫は少し残念そうな顔をするが、すぐに微笑む。
「でも、本当に綺麗なのよ?」
優しく言った。
「いつか咲樂にも見せてあげたいわ。虫取り網で捕まえられるのかしら?」
「やめとけ」
火々里が即座に返す。
「蚊でギャーギャー騒ぐ奴が何言ってんだ」
「雪白蝶は綺麗だからいいの!」
「同じ虫だろ」
「違うの!」
食堂に笑い声が広がる。
わあわあと騒ぐ椿姫。
楽しそうに笑う瑚杜。
ぶっきらぼうでも、機嫌の良さそうな火々里。
そんな三人を見ながら、咲樂は静かに目を細めた。
賑やかな声が心地よかった。
地下の夜は長い。
けれど、その暗さを少しも感じない。
まるで小さな灯火が集まって、周囲を温めているようだった。
ふと視線を上げる。
食堂の外、帳場の方にいる汐と目が合う。
咲樂たちの卓を見て、小さく笑った。
楽しそうだね、と言うような穏やかな微笑みだった。
咲樂もまた、そっと目を細めた。
騒がしい会話はまだ続いている。
瑞花祭のこと、雪花火のこと、尊のこと。
夜はまだ長く、仲間たちの笑い声は、しばらく幽泉堂の食堂に響き続けていた。
幽泉堂の中庭には、穏やかな午後の光が落ちている。
縁側には汐と椿姫が並んで腰を下ろし、その少し前には咲樂の車椅子が置かれていた。
つい先ほどまで語られていたのは、汐の過去だった。
自分が魂人になった経緯だけを、開陳した。
汐は悲劇として語ったわけではなかった。
まるで昔読んだ本の内容でも話すように、静かに事実だけを並べていた。
それでも聞く側にとっては、あまりにも重い話だった。
「……そんな……」
椿姫が両手で膝を握る。
紅玉の瞳が痛ましげに揺れていた。
「汐は何も悪くないのに、酷いわ」
その声には、本気の悲しみが滲んでいた。
咲樂はそんな椿姫を見つめる。
まるで自分のことのように傷付いている。
彼女は出会った時からずっと、優しい人だった。
だからこそ咲樂は少しだけ困ったように笑い、汐へ視線を向ける。
汐もまた、同じような顔をしていた。
青紫と桃色の瞳が合う。
それから肩を竦め、小さく笑った。
「そんな顔しないで」
柔らかな声だった。
「ご覧の通り、僕は今けっこう充実してるからね」
椿姫が顔を上げる。
汐は縁側から中庭を見渡した。
吹き込む風と、上から射し込む仄かな太陽の光。
従業員たちの話し声や生活音。
「毎日薬とか香水とか、好きな物作って、好きな仕事して、家族で暮らせてる」
その言葉にも表情にも嘘はなく、本心から毎日を楽しんでいる人のものだった。
「上にいたら、幽泉堂もなかっただろうし」
その言葉に、椿姫ははっと息を呑んだ。
数秒後、勢いよく身を乗り出す。
「そうだわ……!」
咲樂は少し目を丸くした。
「幽泉堂がないのは困っちゃう!」
椿姫は真剣な顔で続ける。
「幽泉堂がなかったら、きっと汐や咲樂とも出会わなかったものね!」
先ほどまで沈んでいた表情が嘘のようで、汐は思わず吹き出しそうになる。
「僕と椿姫は公家の夜会で会ったかもよ」
「はっ……!」
椿姫の目が丸くなる。
「それもそうかも!」
納得したかと思えば、すぐに首を振った。
「でもきっと咲樂には会えなかったわ!」
真面目に考え込み、真面目に結論を出し、また慌てる。
その様子があまりにも忙しくて、咲樂は堪えきれずに笑った。
「ふふっ」
椿姫が振り向く。
「咲樂?」
「椿姫ったら、本当に素直で可愛い」
言われた本人はきょとんとし、瞬きを二度ほど繰り返す。
「え?」
それから少しだけ頬を染めた。
「……うふふっ」
嬉しそうに笑う。
「なんだか褒められちゃった」
その反応まで真っ直ぐで、汐も妹を慈しむように目を細める。
「うん、可愛い」
さらりと言う。
咲樂もまた頷いた。
「ね」
兄と姉のような二人から続けて肯定され、椿姫はますます嬉しそうになった。
「二人ともたくさん褒めてくれるから、嬉しい!」
彼女の笑顔に、咲樂は胸の奥が少し温かくなる。
椿姫はいつもこうだ。
誰かの言葉を疑わない。
好意を好意のまま受け取る。
だから周囲まで明るくなる。
汐も同じことを考えていたのか、穏やかな目で椿姫を見ていた。
中庭へ柔らかな陽射しが降り注ぐ。
本来なら交わることのなかったはずの人々が、今はこうして同じ場所で笑っている。
不思議な縁だ、と咲樂は思った。
もし誰か一人でも違う道を歩いていたなら、この景色は存在しなかっただろう。
自分が火々里に拾われなければ。
汐が柩送りにならなければ。
椿姫が幽泉堂へ来なければ。
この時間は生まれなかった。
咲樂は空のない、地下の天井を見上げる。
地上と地下。
本来は遠く隔てられた世界なのに。
今だけは、その境界が少し曖昧になった気がした。
◆ ◆ ◆
夜の幽泉堂は、宿泊客や食事のためにやってくる客で、更に賑わう。
食堂には柔らかな灯りが灯され、調味料や湯気の香りが漂い、活気に溢れている。
一足先に仕事を終えた咲樂は、車椅子に座ったまま食堂の卓につき、向かい側では椿姫が夕食の最後の一口を幸せそうに頬張っていた。
「それでね、尊がこの前――」
案の定、話題は尊だった。
咲樂は湯呑みを両手で包みながら、微笑ましく耳を傾ける。
椿姫の話は尽きることがない。
今日は何を話した、どんな顔をした、どんな言葉を掛けてくれた――そんな些細な出来事を、まるで宝物を並べるようにひとつひとつ語っていく。
その様子を見ているだけで、聞いている側まで楽しい気持ちになってしまう。
そうしていると、食堂の入り口に大きな男の影が見えた。
火々里だった。
「おう」
火々里が咲樂と椿姫に気付き、短く挨拶をしながら椅子を引く。
仕事帰りらしく少し疲れた顔をしていたが、それもいつも通りだった。
「火々里!」
椿姫がぱっと顔を輝かせる。
「聞いてちょうだい! 今日ね、尊が――」
「またかよ」
火々里は呆れたように言いながらも席につくも、面白そうに口の端は上がっている。
その態度はぶっきらぼうだったが、席を立って逃げないあたり、聞く気はあるのだろう。
すると、その時だった。
一人の従業員が盆を持って配膳にやってくる。
「あたしも参加したいです〜っ!」
悲鳴にも似た声と共に現れたのは、瑚杜だった。
和服を膝上までの短さで着付け、可愛らしい前掛けを揺らす。
大きな盆を抱えたまま、今にも泣きそうな顔をしていた。
「みんなだけ楽しそうなのずるいです〜!」
火々里が運ばれてきた酒を飲みながら鼻で笑う。
「仕事しろ」
「してますぅ!」
瑚杜は配膳を終えると、恨めしそうに皆を見回した。
ちょうどその時、帳場の方から汐が姿を見せる。
「どうしたの?」
「みんな楽しそうなんですぅ……」
瑚杜がしょんぼりと肩を落とす。
それから、甘えるように上目で汐のことを見つめた。
ぱちぱちと、化粧をした睫毛を何度も瞬かせて。
汐は食堂の様子を見渡してから、少し考えるように首を傾げた。
「こっち手空いたし、瑚杜あがっても大丈夫だよ」
「本当ですか!?」
一瞬で顔が輝いた。
「うん。日頃の行いが良いから特別」
「やったぁ〜!」
瑚杜は盆を抱えたまま飛び跳ねそうになる。
そして急いで他の卓の食器を片付けると、厨房へと持っていった。
まるで子どもみたいだった。
「汐はまだなの?」
椿姫が不満そうに唇を尖らせる。
「たくさん相談したいことあるのに」
「僕?」
汐は目を瞬いた。
「ええ! 恋の相談と言えば、汐だものっ」
けれど汐は苦笑する。
「僕は今日夜勤だからねぇ」
「そうなのね……」
「残念だけど、また今度聞くよ」
そう言い残し汐は仕事へ戻っていき、代わりに、前掛けを外した瑚杜が嬉々として三人の卓にやってきた。
自分で用意したまかないも盆に乗せている。
丼皿に様々なおかずを投入した、豪快な夜食である。
「お疲れさま、瑚杜」
「はい! 咲樂さんもお疲れさまでした!」
「頑張った瑚杜に、この甘味をあげるわ!」
椿姫が杏仁豆腐とスプーンを瑚杜の前に置き、頬を上げて胸を張る。
「えぇ〜いいのぉ? ありがとう椿姫ちゃん!」
酒を飲みながら、火々里は両手を合わせて喜ぶ少女を横目に見て、丼に視線を移す。
「……相変わらず犬の餌みてぇなの作るな」
「意外と美味しいんですよぉ? 咲樂さんも美味しいって食べてくれますもん」
「咲樂は胃に入れば何でもいいだろ」
「ちゃ、ちゃんと美味しかったもの」
咲樂が心外そうに言うと、瑚杜は「ほらぁ!」と勝ち誇ったように顎を上げるけれど、それでも火々里は呆れたように酒を煽る。
「咲樂の味覚はあんまり信用ならねぇだろ」
「失礼ね」
「咲樂さんは舌まで優しいんですよぉ」
「それ褒めてんのか?」
いつものようなやり取りに、食卓の空気が和やかに揺れる。
椿姫はそんな三人の会話を楽しそうに眺めていたが、不意に何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
「ねえねえ!」
椿姫が忙しなく三人の顔を見渡す。
その様子だけで、誰の話を始めるのか三人には分かっていた。
「一、二、三……四ヶ月後! 瑞花祭でしょう?」
「ああ」
火々里が頷いた。
「今年こそ尊と行きたいの!」
まるで今から祭り当日が待ちきれないとでも言うように、その声は弾んでいた。
「瑞花祭って……まだ夏なのに、椿姫ちゃん気が早いねぇ」
瑚杜が丼をすくいながら、思い出したように言う。
「尊の奴、忙しいからな。急に誘っても捕まらねぇんだよ。去年は椿姫が風邪ひいて流れたし」
「そうなの!」
椿姫は両手で頬を押さえた。
「楽しみにしてたのに行けなかったの〜!」
その時の悔しさを思い出したのか、眉尻が下がる。
しかしすぐにぱっと顔を上げた。
「今年こそ、咲樂にも桃飴を買ってくるわ!」
「ふふ、ありがとう」
咲樂は柔らかく笑う。
「でもあまり気を遣わないで楽しんできてね」
「いやよ。買ってくるったら買ってくるわ!」
椿姫はきっぱりと即答した。
「絶対に咲樂に食べさせたいの! 桃好きだったでしょう? とっても美味しいんだから!」
その表情があまりにも真剣で、咲樂は思わず笑ってしまった。
どうやら本気らしい。
「そうだわ、瑚杜は行かないの?」
次いで椿姫が尋ねると、瑚杜は苦い顔をして、盛大に首を振った。
「いやいや、瑞花祭こそ幽泉堂の繁忙期だから、従業員総出で迎え撃つの!」
拳を握り締める。
「去年も大忙しでてんやわんやでしたよね、咲樂さん」
「そうね」
咲樂は懐かしそうに、去年の冬を思い出す。
「あれは凄かったわ。汐ですら最後くたくただったもの」
「汐さん回らないところ全部に入るから、休憩なしでしたもんねぇ……」
瑚杜が遠い目をする。
その光景は容易に想像できた。
忙しくなればなるほど、汐は自分を後回しにして働いてしまう。
「まあ……」
椿姫がしゅんと眉を下げた。
「汐、可哀想」
そしてすぐに顔を上げる。
「汐にも何かお土産買ってくるわ。もちろん瑚杜にもね!」
「ありがとう〜椿姫ちゃん!」
瑚杜が感激したように椿姫に抱きつき、それを咲樂が微笑ましく見守る。
ふい、と桃色の目が火々里に流れた。
「火々里は? 行かないの?」
「あー……」
火々里は湯呑みを傾けた。
「屋台飯買いに行くくらいだな。晩飯用の」
「ええっ?」
椿姫が目を丸くする。
「雪花火見ないの?」
「興味ない。あれ虫だろ」
熱弁する椿姫に対し、火々里はどこまでも淡白だった。
「雪花火ってなぁに? 椿姫は好きなの?」
聞き慣れない言葉だった。
首を傾げると、椿姫と瑚杜が同時に反応した。
「咲樂さん知らないんですか!?」
「え、ええ。地上のことはあんまり知らなくて」
少し気後れしながら答える。
「勿体ないわ!」
椿姫は机を叩かんばかりの勢いだった。
「雪花火っていうのはね!」
身を乗り出しながら説明する。
「瑞花祭の期間に、真っ白の蝶が一斉に孵化して空を舞うの!」
大きな瞳がきらきらと輝いていた。
「それが花火みたいで、とってもとっても、とーっても綺麗なの!」
「恋人たちでそれを見るんだよねぇ〜!」
瑚杜が羨ましそうに両手を重ねて、うっとりと言う。
「羨ましい〜!」
うら若き乙女の二人にとっては、恋に関連する行事は特別なものなのだろう。
「へえ、そうなの。素敵ね」
咲樂は素直に感心した。
けれど蝶というもの自体、あまり馴染みがない。
「あ、咲樂さん興味ないな」
「そ、そんなことないわ」
慌てて否定する。
「ただ、蝶もあんまりぴんとこないから」
「確かに」
椿姫が頷く。
「柩で蝶って、見たことないわ」
「餌がねぇからな」
火々里が答えた。
「太陽もねぇし」
咲樂は納得する。
地上では当たり前に存在するものでも、地下では見られないものが多い。
そう考えると、自分の知らない景色は、気が遠くなるほどたくさんあるのだろう。
椿姫は少し残念そうな顔をするが、すぐに微笑む。
「でも、本当に綺麗なのよ?」
優しく言った。
「いつか咲樂にも見せてあげたいわ。虫取り網で捕まえられるのかしら?」
「やめとけ」
火々里が即座に返す。
「蚊でギャーギャー騒ぐ奴が何言ってんだ」
「雪白蝶は綺麗だからいいの!」
「同じ虫だろ」
「違うの!」
食堂に笑い声が広がる。
わあわあと騒ぐ椿姫。
楽しそうに笑う瑚杜。
ぶっきらぼうでも、機嫌の良さそうな火々里。
そんな三人を見ながら、咲樂は静かに目を細めた。
賑やかな声が心地よかった。
地下の夜は長い。
けれど、その暗さを少しも感じない。
まるで小さな灯火が集まって、周囲を温めているようだった。
ふと視線を上げる。
食堂の外、帳場の方にいる汐と目が合う。
咲樂たちの卓を見て、小さく笑った。
楽しそうだね、と言うような穏やかな微笑みだった。
咲樂もまた、そっと目を細めた。
騒がしい会話はまだ続いている。
瑞花祭のこと、雪花火のこと、尊のこと。
夜はまだ長く、仲間たちの笑い声は、しばらく幽泉堂の食堂に響き続けていた。

