PANDORA・柩灯

 数日後の夜だった。

 幽泉堂(ゆうせんどう)の営業も終わり、廊下から人の気配が消えた頃、今日も咲樂(さくら)は遅くまで針を動かしていた。
 布へ落ちる針先を見つめていると、控えめなノックの音が響いた。

「咲樂、起きてる?」

 声を聞いただけで、誰なのかすぐに分かった。

「うん」

 返事をすると、鍵と戸が開く。
 入ってきた汐(うしお)は、どこか考え事をしているような顔をしていた。
 咲樂は針を置く。

「……どうしたの?」

 汐は少しだけ迷うように視線を伏せ、それから口を開いた。
 考えがあると言っていたことの答えを提示されるのだと、何となく分かり、緊張が走る。

「仕事を頼みたいんだけど」

 ──仕事。

 思いもよらなかった言葉に、咲樂は瞬きをした。

「お仕事?」

「うん」

 汐は頷く。

「針仕事、お願いしたいんだ」

 その言葉に、咲樂の目が僅かに見開かれる。

「客室の浴衣の修繕と、暖簾の補修」

 汐は穏やかな声で続けた。

「急がなくていい。体調に合わせてやってくれればいいから」

 そして一拍置いてから、柔らかく微笑む。

「――幽泉堂の従業員として」

 その一言が、静かな部屋へ落ちた。
 咲樂はしばらく何も言えなかった。
 ただ、汐の顔を見つめる。
 冗談を言っている顔ではなかった。
 慰めようとしている顔でもない。

「……わたしに、できる?」

 ようやく零れた声は弱かった。
 汐は迷わず頷く。

「咲樂の腕前は、もうみんな知ってるよ」

 それは単なるお世辞ではない。
 幼い頃から、咲樂はずっと針を持ち、直して、作ってきた。
 趣味というには日常に溶け込み過ぎて見落としがちだが、地上の店に並んでいても遜色ない出来栄えだった。
 一針一針に癖がない。
 布を大切にする縫い方をする。

「君に頼みたいのは本当」

 咲樂は俯いた。
 絡めた指先が僅かに震えていた。

 汐はその様子を見ながら少しだけ間を置くと、そっと言葉にする。

「……本当は、桃源楼(とうげんろう)に行きたくないんだろう?」

 咲樂の肩が小さく跳ねた。

「……っ」

 答えられない。
 答えてしまえば、胸の奥に押し込めていた本音が溢れてしまいそうだった。
 だから唇を噛む。
 汐は責めなかった。

「絹代(きぬよ)さんのことは疑ってないよ」

 穏やかな声だった。

「きっと君を大事にしてくれると思う」

 その言葉には偽りがない。
 だからこそ、次の言葉にも重みがあった。

「でも、やっぱり、あそこは男と女の街だ」

 ずっと相手を尊重し続けてきた柔らかな声と眼差しが、すっと鋭くなった。

「咲樂が心から望むなら、僕も止められない。けど、そうじゃない」

 否定できなかった。
 桃源楼へ行こうと思った理由は、遊郭で働きたいからではない。
 助けてくれる人に返せる人間になりたかったからだ。
 誰かの負担になりたくなかったからだ。

「……僕のことを考えて、咲樂が気持ちを殺すなら」

 汐の声が少しだけ低くなる。

「僕は僕のことを、許せそうにない」

 穏やかに告げたその言葉は、重くのしかかってきたけれど、何故か嫌ではなかった。

「……もうここには、いたくない?」

 咲樂はゆっくり顔を上げた。
 視界が滲んでいる。
 涙で揺れる世界の向こうに、汐の姿があった。
 優しくて、困ったようで、真っ直ぐな目をしている。

「……ここに、いたい」

 掠れた声だった。
 それでも嘘ではなかった。
 ずっと言えなかった本音だった。

 幽泉堂にいたい。
 みんなの傍にいたい。
 本当は離れたくなんてなかった。

 その言葉を聞いた瞬間、汐の肩から力が抜けた。
 まるで長い間、息を止めていた人間がようやく呼吸を思い出したみたいに。

「……良かった」

 心から安堵したように、汐は目尻を下げた。

「……うん。じゃあ、ここにいてよ」

 従業員の足音も、客の笑い声も、自然と耳に入ってくる。
 そうだ、これを聞くことが、好きだった。

「一緒に頑張ろうって、お店開く時、約束したもんね」

 その言葉を聞いた瞬間、涙が一粒、頬に伝って、それから止まらなくなってしまった。
 けれど不思議だった。
 今度の涙は苦しくない。
 胸を締め付ける重さもない。
 ただ温かかった。

「……うん」

 小さく、しかし、しっかりと頷く。

「じゃあ明日、直して欲しいもの持ってくるね」

「わかった」

「繕い終わったら見せて。検品するから」

 真面目な顔で言われて、咲樂は思わず目を丸くした。

「……厳しいのね」

「従業員だから」

 その返事がおかしくて、咲樂は濡れた目尻のまま、少し笑った。
 汐もつられるように笑う。

 それは冬の夜だったけれど、不思議と寒くなかった。



 ◆ ◆ ◆



 翌日。
 地上は晴天らしく、岩肌の天井にある空気孔から、柩地区へ柔らかな光が落ちていた。

 支度を終えた咲樂は、帳場にいた汐へ声を掛けた。

「汐」

 宿帳へ目を落としていた汐が顔を上げる。

「どう……? 行けそう?」

 二人で一緒に桃源楼に行こうと約束をしていた。
 桃源楼の営業時間外である午前。
 汐は宿帳を閉じ、冬用の羽織と襟巻きを手に取って、帳場から出てきた。

「うん、行こう」

 それから二人は、桃源楼へ向かった。

 絹代が主に身を置く遊女屋へ着くと、すぐに奥の間に通される。
 朝の花街は、夜の賑やかさが嘘のように静かだった。

 香が焚かれており、甘く落ち着いた匂いが襖の向こうから漂ってくる。
 案内された部屋で待っていると、絹代が姿を見せた。
 咲樂の顔を見た瞬間、その結論を察したらしかった。

 何も聞かない。
 何も急かさない。

 ただ静かに茶器を並べ、二人の前へ湯気の立つ茶を置いた。
 茶の香りがふわりと広がる。
 咲樂は膝の上で手を重ね、そして、ゆっくりと顔を上げる。

「今日は、先日のお返事をさせていただこうと思って、来ました」

 もう下を向くのは、やめよう。

「……また前みたいに、幽泉堂で、働くことにします」

 声は静かだったが、迷いのない、凛としたものだった。

「あんなに素敵なお誘いを頂いたのに、本当にすみません」

 深く頭を下げる。
 畳へ落ちた視線の先で、自分の指先が僅かに震えているのが見えた。
 絹代はしばらく何も言わなかった。
 沈黙は長くも短くも感じられた。
 すると、彼女は小さく息を吐く。

「そうかい」

 責める声色ではない。

「残念だね」

 ただそれだけ言って、口の端を持ち上げた。

「お前さんが来てくれたら、更に繁盛しただろうにね」

 冗談めいた言い方に、咲樂は驚いたあと、ほんの少し苦笑する。
 それから絹代の視線が、隣に座る汐へと移る。

 商売人の目だった。
 何十年も人を見てきた人間だけが持つ視線。
 値踏みするようでいて、その実、本質を見抜こうとする目。

「きちんと、責任持てるのかい?」

 突然向けられた問いに、部屋の空気が少しだけ変わった。
 咲樂は思わず、横目で彼を見る。
 泰然として、大人びた横顔が、絹代の視線を真っ直ぐ受け止めている。
 そして、いつもの貼り付けられた仮面で、穏やかに微笑んだ。

「ええ、もちろん」

 その答えには迷いも、気負いもない。

「彼女がいなくなると、私も困りますから」

 絹代は黙り、しばらく汐の顔を見つめる。
 まるで品定めをするように。
 あるいは、何かを確かめるように。

 そして、

「……ふふ」

 小さく笑った。

「いけ好かない若造だと思ったら、なかなか可愛いところもあんじゃないか」

 汐が珍しく面食らった顔をする。

 普段なら何を言われても穏やかに受け流す汐が、今だけは本当に反応に困っているように見えた。

「女みたいな顔して、中々男だね」

 絹代の豪快な笑い声が響き、可笑しそうに肩が揺れていた。

「がんばんな」

「は、はい」

 返事が、一拍遅れた 。
 そんな汐の姿は本当に珍しくて、咲樂はその様子を見つめる。
 驚いた次の瞬間には、柔らかな笑みが自然と浮かんでいた。
 少しだけ胸の奥が温かかった。
 こんな顔をする汐を見るのは初めてだったから。

 咲樂は改めて絹代へ向き直ると、深く頭を下げた。

「あの、絹代さん」

 もう声も、手も、震えていない。

「本当に、ご心配ありがとうございました」

 頭を下げたまま続ける。

「またお店にも、遊びに来てください」

 絹代は茶を一口すすった。
 湯気がふわりと立つ。

「どうだろうねえ」

 どこか楽しそうな声だった。

「また咲樂のことが欲しくなったら、口説きにでも行こうかね」

「うちからの引き抜きは困りますよ」

 今度の汐は即座に返した。
 先ほどのような間はなく、穏やかな笑顔のまま応じる。
 絹代はその様子を見て、また小さく笑った。
 どこか満足そうだった。

「……行きな。仲良くやるんだよ」

「はい」

 咲樂はしっかり頷いた。
 その返事を聞くと、絹代はそれ以上何も言わずに、ただ静かに茶を飲みながら、二人を見送った。



 ◆ ◆ ◆



 桃源楼を出ると、昼の開店準備のために行燈の灯りが増え始めていた。
 大通りを豪華な花に見立てるように、飾り付けられていた。
 橙色の光が土道へ柔らかく落ち、柩地区独特の静かな賑わいを作っていた。

 歩けなくなって以来、初めての外出だった。
 まだ長距離を自走できるほどの体力がなく、途中から汐が車椅子を押してくれた。

 自分でできるからと、意地を張らなくてもいいのだと思えた。

 後ろに、汐がいる。
 たったそれだけで、咲樂は安堵して、胸が温まるような気がした。
 吐く息が白く、頬や鼻頭は冷たいのに。

「……汐」

「ん?」

「さっき、面食らってたね」

 車椅子を押す手が一瞬止まる。

「……食らってない」

 また、前へ進む。

「食らってたわ」

 汐は少しだけ眉を下げた。

「そんな顔してないよ」

「してた」

「してない」

「してたもの」

 子どものような言い合いだった。
 やがて汐は観念したように小さく息を吐く。

「……絹代さんは、なかなか手強い人だね」

 真面目な呟きがおかしくて、咲樂はくすりと笑った。

「そうね」

 それは心からの笑みだった。
 無理に作ったものではない。
 誰かを安心させるためでもない。
 ただ自然に零れた笑顔だった。
 行燈の光が、家路を示すように揺れる。
 二人はゆっくりと幽泉堂への道を進んだ。

 帰る場所はもう決まっている。

 その事実が、不思議なほど胸を軽くしていた。
 これまで焦りと不安で、何も見えなくなっていた。
 地上から吹き込む冬の風は冷たかったけれど、いつだって傍には汐がいてくれた。

 そんなことを、今更思い出した。

 だからだろうか。
 咲樂は久しぶりに、自分の未来を思い描くことができた。