幽泉堂へ戻ってからも、咲樂の生活は誰かの手によって支えられていた。
朝になれば、汐が用意した食事が自室に運ばれてくる。
入浴の日には、汐が個人的に雇った女性や、あの看護師の少女が手伝ってくれた。
湯気の立つ浴室。
髪を洗われる感触。
身体を拭かれる手。
着替えを整えてもらう時間。
どれも優しかった。
誰も嫌な顔などしなかった。
面倒だと言われたこともない。
むしろ皆、咲樂が気を遣わないように笑ってくれる。
「今日は少し顔色がいいですね」
「髪、綺麗になりましたよ」
「焦らなくて大丈夫ですからね」
そんな言葉を掛けられるたびに、咲樂も笑った。
ありがとうございます、と。
何度も何度も頭を下げた。
けれど、優しさを受け取るたびに、胸の奥で何かが少しずつ沈んでいく。
まるで小石が一つずつ積み重なっていくみたいに。
最初は小さかった。
気付かないほど小さな重さだった。
それなのに、日を追うごとに確実に増えていく。
ある晩、食事を運んできた汐が、いつものように盆を机へ置いた。
夕食の盆を見て、咲樂は思わず目を見開く。
小さな皿の上に、照りのある肉が並んでいた。
「……これ」
「火々里が食べろって」
汐は当たり前のように言う。
「体を治すには栄養がいるからね」
咲樂は言葉を失った。
肉は高い。
祝い事でもなければ滅多に食卓へ上がらない。
一体誰が買ってくれたんだろう。
汐? 火々里? それとも幽泉堂のみんな?
自分は働いていない。
お金も稼いでいない。
何も返せていない。
なのに。
「……いただきます」
そう言うしかなかった。
箸を伸ばした肉は柔らかくて、美味しかった。
咲樂が好きな味付けだった。
美味しいと思ってしまったことが、少し苦しかった。
「……ありがとう」
「ううん」
汐は自然に返事をする。
まるで感謝されることなど、最初から求めていない、当たり前のものとして。
咲樂はその横顔を見つめた。
目の下には薄い隈があり、少し痩せた気もする。
忙しいはずだった。
咲樂が抜けた穴を埋めながら幽泉堂を切り盛りしているのだから。
それなのに、毎日来る。
食事を作り、必要な物を揃え、咲樂のために時間を使う。
自分の人生の一部を削るように、当たり前の顔で何も求めずに。
「……」
胸の奥が重かった。本当は嬉しいはずなのに。
帰りたかった場所に帰ってきた。
みんな優しい。
誰も責めない。
咲樂のために、一階の客室を、車椅子生活でも不便ないように用意してくれた。
それなのに、夜になると考えてしまう。
自分は何を返せるのだろう、と。
天井を見上げれば、行燈の灯がぼんやりと揺れていた。
足はまだ動かない。
仕事もできない。
稼ぐこともできない。
世話をされるだけの日々。
今日も、明日も、きっと明後日も。
静かな部屋の中で、咲樂はそっと毛布を握りしめた。
――このままじゃ、駄目だ。
その思いだけが、日に日に強くなっていった。
◆ ◆ ◆
足が動かなくなってから、半年が経とうとしていた。
結局、巡り合わせが悪く、咲樂の脚の手術を引き受けてくれる医者は、今日まで見つからなかった。
一度だけ柩地区にまで診察に来てくれた人がいたけれど、傷を負ってから日が経ちすぎていたこと、神経損傷も酷かったため、手術をしても回復は見込めないと宣告された。
火々里は「他の方法も考えてみる」と言った。
感謝すべきなのに、今の咲樂にとって、それすらも重かった。
もういい。もういい。
もう誰にも、自分に時間を割いて欲しくない。
ひどく我儘で、身勝手な願いを、日々嫌悪した。
部屋で裁縫をしていた時、戸を三度叩かれて、返事をする。
すると、汐が顔を覗かせる。
「どうしたの?」
「……今、絹代さんが来られてる。君の見舞いに」
「え? 絹代さんが?」
思ってもみなかった来訪に、桃色の目がぱちぱちと驚いて、咄嗟に髪の毛や着物はだらしなくないだろうかと、見下ろした。
おさげにした三つ編みが少しだけよれている気がしたが、「大丈夫だよ」と汐が苦笑したので、襟元だけ正した。
久しぶりに見た絹代は、何も変わらず、咲樂が座る車椅子を見ても、特別な反応はしなかった。
「なんだ、思ったより、元気そうじゃないか」
「ご無沙汰してます。絹代さんも、お元気そうで良かったです」
机を挟んだ向かい側の椅子に座ってもらい、広げた裁縫道具や材料を急いで綺麗に整えた。
「器用だねぇ。それ、髪飾りかい?」
布で花を模した飾りを見て、絹代が感心したように笑う。
「あ……まだ途中なんです。姉さんたちに渡そうと思って」
たくさん迷惑をかけたせめてもの礼に、咲樂が思いつくものは、これしかなかった。
まだ材料が足りないが、髪飾りにつける飾り花を、最近はずっと作っている。
「可愛いことするね。姉さんたちも喜ぶだろうさ」
「そうだと、いいんですけど」
こんなもので返せるとは、到底思えない。
咲樂は目尻を下げ、柔らかく微笑む。
卑屈な心を、誰にも見せないようにするために、随分し慣れた表情になった。
絹代はしばらく咲樂の顔を見ていた。
観察者の視線をこちらへ投げかけたきり、何も言わない。
咲樂は首を傾げる。
「絹代さん?」
「……随分上手くなったねぇ」
「え?」
「笑うのがさ」
道具をしまう咲樂の手が止まる。
絹代が頬杖をつき、指先で布の切れ端を摘んで遊ぶ。
「もっとあけすけな娘だった」
頬が僅かに強張った。
「大人の顔してる癖に、笑う時は子どもみたいになってね」
「そんなこと……」
「あるよ」
即座に返された。
「元から何でも我慢してるのは分かってたけどね。笑ってる時は、分かりやすい娘だったよ」
咲樂は何も言えなかった。
言葉が出てこない。
代わりに視線だけが膝の上へ落ちる。
「今のお前さんは違う」
静かな声だった。
「誰にでも良い顔してるんじゃないかい? ずっとやってると疲れるよ。自分も、周りも」
図星だった。
胸の奥が痛む。
咲樂は笑おうとした。
いつものように。
困らせないための笑顔で。
「いえ、そんな……」
笑えなかった。
そうだ、もう疲れたのだ。
笑うことも、謝ることも、これ以上考えることも。
部屋に沈黙が落ちても、絹代は急かさず、ただ待っていた。
咲樂は膝の上で指を握る。
細い指先が白くなる。
「……わた、し」
声が掠れた。
「みんなに、良くしてもらってるんです」
絹代は何も言わない。
「火々里も、汐も、姉さんたちも、幽泉堂のみんなも」
言葉にするたび、胸が痛んだ。
「みんな、優しいんです」
それは本心だった。
誰も責めない。
誰も嫌な顔をしない。
誰も見捨てない。
だから苦しい。
「なのに」
ぽつりと落ちた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「何も、返せないんです」
膝の上へ雫が落ちた。
いつ涙が零れたのか、自分でも分からなかった。
この涙が、宝石になれば良かったのに。
通りすがりの地上人に「泣いてみろよ」と、面白半分に揶揄われるだけの、何の役にもたたない血だった。
「働けない……お金も稼げない。ご飯も作れない」
震える息を吐く。
「みんなの時間ばっかり、奪ってる」
それが一番苦しかった。
命を助けてもらった。
居場所も与えてもらった。
それなのに。
「わたし」
唇が震える。
「どうしたらいいか、分からないんです」
絹代はしばらく黙っていた。
咲樂が涙を拭うのを待つように。
窓の外では、誰かの足音が聞こえる。
それが遠く感じた。
やがて絹代は、凛と背筋を伸ばす。
「単刀直入に言うよ」
低く、真っ直ぐなその声に、咲樂は顔を上げる。
絹代の鋭い目と、ただならぬ切り出しに、咲樂も涙を拭いて居住まいを正した。
「客の隣に座って、笑うだけでいい」
咲樂は瞬きをした。
「馴染みになっても、体は開かなくていい」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「芸事と教養は覚えてもらうけどね」
絹代は続ける。
「その条件で、太夫と同じ待遇で迎える」
咲樂は黙って、絹代を見つめる。
「どうだい」
行燈の灯だけが、ゆらゆらと揺れている。
「足のことも承知の上だよ」
絹代は淡々と言う。
「女は有り余るほどいるんだ。面倒は全部こちらで見る」
まるで特別なことではないように、最初から決めていたように、淀みなく差し出された提案だった。
咲樂の心の中で、何かがゆっくり動いた。
自分は普通には働けない。
それは嫌というほど分かっている。
今は一人で風呂にも入れない。
普通に立つこともできない。
できないことを数え始めれば、きりがなかった。
だから、もう働くことはできないのだと思っていた。
誰かに世話をされながら生きていくしかないのだと。
しかし、この条件なら──。
胸の奥が揺れた。
男性への恐怖は消えていない。
今でも夜になると思い出す。
あの日の声を。
痛みを。
血の匂いを。
無意識に指先が震えた。
だが、その震えよりも強く浮かんだ顔があった。
汐だった。
毎日部屋へ来てくれた。
疲れていても笑ってくれる。
何も求めない。
何も返してほしいと言わない。
だからこそ苦しかった。
汐の人生を、時間を、これ以上、自分のために使わせたくなかった。
火々里もそうだ。
姉たちもそうだ。
みんな、堪らなく優しい。
優しいから、自分が駄目になる。
唇を噛み、視線を落とした。
「……少し、考えさせてください」
絹代はすぐに頷いた。
「ああ、ゆっくり考えな」
そして立ち上がると、着物を手で払って整え、椅子をしまう。
ただの遣り手としてだけの温度ではない。
彼女の鋭い瞳の奥に、同じ柩地区を生きる女としての、慈悲が宿っていた。
「待ってるよ」
それ以上は何も言わなかった。
引き留めも、説得もせずに、ただ選択肢だけを置いていく。
それが絹代なりの優しさだった。
扉が閉まり、ひとりぼっちになった部屋で、咲樂は膝の上で握ったままだった手を見つめる。
細い指先が微かに震えていた。
考える時間は貰ったけれど、心は、ほとんど決まっていた。
もう誰かに支えられるだけの毎日には戻れない。
たとえ恐ろしくても。
知らない世界に身を置くとしても。
立てなくても、せめて、自分の力で生きていきたかった。
──数日後。
昼下がりの幽泉堂は静かだった。
最近、一人で車椅子に移乗できるようになり、咲樂は一階の自室から、幽泉堂の帳場へと向かった。
いつの間にか、一階のあらゆる段差には車椅子用の傾斜路が置かれていた。
帳場で帳簿を開いていた汐が、車輪の僅かな音に反応して、咲樂に振り向く。
「……汐。少し、お話があるの」
汐が、持っていた万年筆を置く。
「うん?」
「二人で」
その一言だけで、なんとなく重要な話なのだと分かった。
汐は帳簿を閉じる。
「……お店閉めてからでも平気?」
「うん。ごめんね、時間とらせて」
「全然。なるべくすぐに行くね」
言葉通り、帳場を閉める時間からそう経たずに、汐はやってきた。
「咲樂、入るよ」
戸を叩く音が優しく響く。
「うん」
汐はいつものように、咲樂から預かっていた合鍵で鍵を開ける。
咲樂は車椅子に座ったまま、針を置き、申し訳なさそうに微笑んだ。
「お疲れさま。ごめんなさい、疲れてるのに来てもらって」
「平気だよ」
汐は咲樂の向かいの椅子へ腰掛けた。
「今日は結構落ち着いてたから」
咲樂は小さく頷いたけれど、微笑むべきなのか分からずに黙った。
布を丁寧に畳み、裁縫道具を脇へ寄せると、両手を膝に下ろした。
しかし、なかなか言葉が出てこない。
沈黙が続いたが、汐が促す。
「……話って?」
咲樂の肩が僅かに跳ねて、小さく息を吸う。
胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すためのような深呼吸だった。
「……わたし」
声は静かで、消えてしまいそうなほど小さい。
「桃源楼《とうげんろう》で、働こうと思ってるの」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わる。
細い糸を両側から引っ張り合うような、張り詰めた空気。
咲樂は耐えられずに恐る恐る顔を上げた。
汐の表情は見慣れた穏やかなものではなく、驚いたように目を見開いている。
「……え」
ようやく漏れた声は掠れていた。
咲樂は慌てて言葉を続ける。
「絹代さんに、お話をいただいて」
説明しなければならない。
しかし、汐には誤解されたくないと焦るほど、言葉がまとまらなかった。
「桃源楼って……」
汐がぽつりと呟く。
「あそこは遊郭だよ……?」
戸惑いを隠しきれない声だった。
「君が、遊郭で働くことないだろ」
決して侮蔑ではない。
あんな目に遭って、何故遊郭に行こうとしているのか本気で分からないと、言葉の裏にあった。
「ち、ちがうの」
咲樂は必死に首を振る。
「絹代さんが、男の人とそういうことしなくていいからって」
言葉を選びながら続ける。
「座ってお話したり、芸事をするだけで、お給金を出すって言ってくださって……」
どう言えば、汐に納得してもらえるか、嫌な気持ちにさせないか考えるが、口下手な自分が嫌になる。
「わたしの足のことも、承知の上で、全部面倒を見るからって」
話し終えると、部屋は再び静まり返った。
汐は何も言わず、ただ咲樂を見ている。
その静寂さが怖くて、瞼が徐々に伏せられ、長い睫毛が影をつくった。
膝の上で重ねた白い指先に力が入る。
長い時間だった。
けれど実際には数秒だったのかもしれない。
「……僕じゃ、だめだった……?」
悲しげに零れたのは、咲樂を責める響きではなかった。
けれど、その一言は咲樂の胸を深く刺した。
「ちがっ……」
彼を傷つけてしまったのだと、すぐに理解した。
涙が流れていないだけで、泣いているような顔だった。
「ちがう……ちがうわ……」
否定したかった。
すぐに否定しなければと思った。
なのに喉が締め付けられて、言葉がうまく出てこない。
「わたしが、わたしがだめなの……」
視界が滲む。
「汐の、負担に……なりたくないの」
その言葉だけは、どうしても伝えなければならなかった。
「汐は、優しいから……」
声が震える。
「わたしのこと、見捨てられないでしょ……?」
唇が震えた。
「そんなの……わたしが、耐えられないの……」
ぽろりと涙が落ちる。
嗚咽はなく、ただ涙だけが頬を伝っていく。
「桃源楼なら……ちゃんと、お世話になる人に、お礼ができると思ったの」
掠れた声で続ける。
「こんな脚でも、いいって……」
息が震える。
「だから、ちゃんと……ちゃんと返せるって……」
言葉はそこで途切れて、もう続かなかった。
ありがとう、という言葉だけが積み重なっていく。
糸玉に似ていた。
最初は掌に収まるほど小さい。
けれど解けないまま巻き続ければ、やがて両腕でも抱えきれなくなる。
咲樂の胸の中にも、そんな糸の塊が静かに膨らんでいた。
返せないまま。
返せないまま。
ただ受け取るだけの日々だった。
そんなことを延々と考えてしまう自分自身も、嫌で仕方なかった。
周りのみんなへ失礼だと分かっていたから、尚更。
部屋には呼吸音だけが残る。
汐は黙っていた。
何を考えているのか分からない。
怒っているのだろうか。
呆れているのだろうか。
伏せられた青紫の瞳を見ていると、不安ばかりが膨らんでいく。
「……僕らは、家族なんだよ?」
感情を抑え込んだ、落ち着いた声だった。
「君を負担だとか、見捨てたいとか」
ゆっくり首が横に振られる。
その声音は穏やかだったが、どこか寂しそうにも聞こえた。
「そんなの、考えたこともなかったんだ」
胸が痛んだ。
自分は何を言っているのだろう。
この人はずっと変わらず優しかったのに。
それなのに、勝手に苦しんで、勝手に離れようとしている。
「……ごめん」
謝るのは自分の方のはずだった。
汐は、どこまでも優しかった。
捧げている、尽くしているという自覚もないまま。
「それが君を苦しめてたんだね」
どこまでも人の痛みに寄り添ってしまう人だった。
咲樂にとって、どこまでも都合が良い優しさだった。
何も言えなかった。
また一粒、涙が膝の上へ落ちる。
汐はしばらく考え込むように黙っていた。
薬の調合をする時や、帳簿をつけている時と同じ、真剣な表情に変わり、顔を上げる。
「でも、絹代さんへの返事は少し待って」
「……どう、して……」
「僕にも考えがあるから」
その言葉に、咲樂は目を見開いた。
何を考えているのかは分からないが、声には迷いがなかった。
「……汐」
「待ってて」
短い言葉だった。
それ以上は語らない。
有無を言わせない口調なのに、不思議と、その言葉には人を安心させる力があった。
咲樂はしばらく汐を見つめる。
そして小さく頷いた。
「……うん」
その夜は、それ以上この話をしなかった。
汐は戸口へ向かい手を掛けた時、不意にこちらを振り返る。
「咲樂」
「なに……?」
品のある口元が少しだけ笑った。
「もし僕らの立場が逆だったら……君も同じことをしてくれたと思うよ」
咲樂は目を丸くした。
思いもしなかった言葉だった。
「そうでしょ?」
幽泉堂の中庭に差し込む日差しのような、穏やかな笑顔が、今夜は少しだけ違って見えた。
戸が閉まり、再び静寂が部屋へ戻ると、咲樂は胸元へそっと手を当てた。
行燈の火が揺れ、部屋の隅へ長い影を落とす。
足が治ったわけではない。
明日の暮らしに答えが出たわけでもない。
桃源楼のことも、これからどう生きていくのかも、まだ何ひとつ決まっていない。
それでも。
胸の底へ沈み続けていた石が、ほんの少しだけ位置を変えた気がした。
水底に沈んでいたはずのものが、僅かに浮かび上がるような感覚だった。
半年前からずっと、自分の未来を考えるたびに息が詰まっていた。
けれど今夜だけは違った。
明日という言葉を思い浮かべても、心が潰れそうにはならなかった。
朝になれば、汐が用意した食事が自室に運ばれてくる。
入浴の日には、汐が個人的に雇った女性や、あの看護師の少女が手伝ってくれた。
湯気の立つ浴室。
髪を洗われる感触。
身体を拭かれる手。
着替えを整えてもらう時間。
どれも優しかった。
誰も嫌な顔などしなかった。
面倒だと言われたこともない。
むしろ皆、咲樂が気を遣わないように笑ってくれる。
「今日は少し顔色がいいですね」
「髪、綺麗になりましたよ」
「焦らなくて大丈夫ですからね」
そんな言葉を掛けられるたびに、咲樂も笑った。
ありがとうございます、と。
何度も何度も頭を下げた。
けれど、優しさを受け取るたびに、胸の奥で何かが少しずつ沈んでいく。
まるで小石が一つずつ積み重なっていくみたいに。
最初は小さかった。
気付かないほど小さな重さだった。
それなのに、日を追うごとに確実に増えていく。
ある晩、食事を運んできた汐が、いつものように盆を机へ置いた。
夕食の盆を見て、咲樂は思わず目を見開く。
小さな皿の上に、照りのある肉が並んでいた。
「……これ」
「火々里が食べろって」
汐は当たり前のように言う。
「体を治すには栄養がいるからね」
咲樂は言葉を失った。
肉は高い。
祝い事でもなければ滅多に食卓へ上がらない。
一体誰が買ってくれたんだろう。
汐? 火々里? それとも幽泉堂のみんな?
自分は働いていない。
お金も稼いでいない。
何も返せていない。
なのに。
「……いただきます」
そう言うしかなかった。
箸を伸ばした肉は柔らかくて、美味しかった。
咲樂が好きな味付けだった。
美味しいと思ってしまったことが、少し苦しかった。
「……ありがとう」
「ううん」
汐は自然に返事をする。
まるで感謝されることなど、最初から求めていない、当たり前のものとして。
咲樂はその横顔を見つめた。
目の下には薄い隈があり、少し痩せた気もする。
忙しいはずだった。
咲樂が抜けた穴を埋めながら幽泉堂を切り盛りしているのだから。
それなのに、毎日来る。
食事を作り、必要な物を揃え、咲樂のために時間を使う。
自分の人生の一部を削るように、当たり前の顔で何も求めずに。
「……」
胸の奥が重かった。本当は嬉しいはずなのに。
帰りたかった場所に帰ってきた。
みんな優しい。
誰も責めない。
咲樂のために、一階の客室を、車椅子生活でも不便ないように用意してくれた。
それなのに、夜になると考えてしまう。
自分は何を返せるのだろう、と。
天井を見上げれば、行燈の灯がぼんやりと揺れていた。
足はまだ動かない。
仕事もできない。
稼ぐこともできない。
世話をされるだけの日々。
今日も、明日も、きっと明後日も。
静かな部屋の中で、咲樂はそっと毛布を握りしめた。
――このままじゃ、駄目だ。
その思いだけが、日に日に強くなっていった。
◆ ◆ ◆
足が動かなくなってから、半年が経とうとしていた。
結局、巡り合わせが悪く、咲樂の脚の手術を引き受けてくれる医者は、今日まで見つからなかった。
一度だけ柩地区にまで診察に来てくれた人がいたけれど、傷を負ってから日が経ちすぎていたこと、神経損傷も酷かったため、手術をしても回復は見込めないと宣告された。
火々里は「他の方法も考えてみる」と言った。
感謝すべきなのに、今の咲樂にとって、それすらも重かった。
もういい。もういい。
もう誰にも、自分に時間を割いて欲しくない。
ひどく我儘で、身勝手な願いを、日々嫌悪した。
部屋で裁縫をしていた時、戸を三度叩かれて、返事をする。
すると、汐が顔を覗かせる。
「どうしたの?」
「……今、絹代さんが来られてる。君の見舞いに」
「え? 絹代さんが?」
思ってもみなかった来訪に、桃色の目がぱちぱちと驚いて、咄嗟に髪の毛や着物はだらしなくないだろうかと、見下ろした。
おさげにした三つ編みが少しだけよれている気がしたが、「大丈夫だよ」と汐が苦笑したので、襟元だけ正した。
久しぶりに見た絹代は、何も変わらず、咲樂が座る車椅子を見ても、特別な反応はしなかった。
「なんだ、思ったより、元気そうじゃないか」
「ご無沙汰してます。絹代さんも、お元気そうで良かったです」
机を挟んだ向かい側の椅子に座ってもらい、広げた裁縫道具や材料を急いで綺麗に整えた。
「器用だねぇ。それ、髪飾りかい?」
布で花を模した飾りを見て、絹代が感心したように笑う。
「あ……まだ途中なんです。姉さんたちに渡そうと思って」
たくさん迷惑をかけたせめてもの礼に、咲樂が思いつくものは、これしかなかった。
まだ材料が足りないが、髪飾りにつける飾り花を、最近はずっと作っている。
「可愛いことするね。姉さんたちも喜ぶだろうさ」
「そうだと、いいんですけど」
こんなもので返せるとは、到底思えない。
咲樂は目尻を下げ、柔らかく微笑む。
卑屈な心を、誰にも見せないようにするために、随分し慣れた表情になった。
絹代はしばらく咲樂の顔を見ていた。
観察者の視線をこちらへ投げかけたきり、何も言わない。
咲樂は首を傾げる。
「絹代さん?」
「……随分上手くなったねぇ」
「え?」
「笑うのがさ」
道具をしまう咲樂の手が止まる。
絹代が頬杖をつき、指先で布の切れ端を摘んで遊ぶ。
「もっとあけすけな娘だった」
頬が僅かに強張った。
「大人の顔してる癖に、笑う時は子どもみたいになってね」
「そんなこと……」
「あるよ」
即座に返された。
「元から何でも我慢してるのは分かってたけどね。笑ってる時は、分かりやすい娘だったよ」
咲樂は何も言えなかった。
言葉が出てこない。
代わりに視線だけが膝の上へ落ちる。
「今のお前さんは違う」
静かな声だった。
「誰にでも良い顔してるんじゃないかい? ずっとやってると疲れるよ。自分も、周りも」
図星だった。
胸の奥が痛む。
咲樂は笑おうとした。
いつものように。
困らせないための笑顔で。
「いえ、そんな……」
笑えなかった。
そうだ、もう疲れたのだ。
笑うことも、謝ることも、これ以上考えることも。
部屋に沈黙が落ちても、絹代は急かさず、ただ待っていた。
咲樂は膝の上で指を握る。
細い指先が白くなる。
「……わた、し」
声が掠れた。
「みんなに、良くしてもらってるんです」
絹代は何も言わない。
「火々里も、汐も、姉さんたちも、幽泉堂のみんなも」
言葉にするたび、胸が痛んだ。
「みんな、優しいんです」
それは本心だった。
誰も責めない。
誰も嫌な顔をしない。
誰も見捨てない。
だから苦しい。
「なのに」
ぽつりと落ちた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「何も、返せないんです」
膝の上へ雫が落ちた。
いつ涙が零れたのか、自分でも分からなかった。
この涙が、宝石になれば良かったのに。
通りすがりの地上人に「泣いてみろよ」と、面白半分に揶揄われるだけの、何の役にもたたない血だった。
「働けない……お金も稼げない。ご飯も作れない」
震える息を吐く。
「みんなの時間ばっかり、奪ってる」
それが一番苦しかった。
命を助けてもらった。
居場所も与えてもらった。
それなのに。
「わたし」
唇が震える。
「どうしたらいいか、分からないんです」
絹代はしばらく黙っていた。
咲樂が涙を拭うのを待つように。
窓の外では、誰かの足音が聞こえる。
それが遠く感じた。
やがて絹代は、凛と背筋を伸ばす。
「単刀直入に言うよ」
低く、真っ直ぐなその声に、咲樂は顔を上げる。
絹代の鋭い目と、ただならぬ切り出しに、咲樂も涙を拭いて居住まいを正した。
「客の隣に座って、笑うだけでいい」
咲樂は瞬きをした。
「馴染みになっても、体は開かなくていい」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「芸事と教養は覚えてもらうけどね」
絹代は続ける。
「その条件で、太夫と同じ待遇で迎える」
咲樂は黙って、絹代を見つめる。
「どうだい」
行燈の灯だけが、ゆらゆらと揺れている。
「足のことも承知の上だよ」
絹代は淡々と言う。
「女は有り余るほどいるんだ。面倒は全部こちらで見る」
まるで特別なことではないように、最初から決めていたように、淀みなく差し出された提案だった。
咲樂の心の中で、何かがゆっくり動いた。
自分は普通には働けない。
それは嫌というほど分かっている。
今は一人で風呂にも入れない。
普通に立つこともできない。
できないことを数え始めれば、きりがなかった。
だから、もう働くことはできないのだと思っていた。
誰かに世話をされながら生きていくしかないのだと。
しかし、この条件なら──。
胸の奥が揺れた。
男性への恐怖は消えていない。
今でも夜になると思い出す。
あの日の声を。
痛みを。
血の匂いを。
無意識に指先が震えた。
だが、その震えよりも強く浮かんだ顔があった。
汐だった。
毎日部屋へ来てくれた。
疲れていても笑ってくれる。
何も求めない。
何も返してほしいと言わない。
だからこそ苦しかった。
汐の人生を、時間を、これ以上、自分のために使わせたくなかった。
火々里もそうだ。
姉たちもそうだ。
みんな、堪らなく優しい。
優しいから、自分が駄目になる。
唇を噛み、視線を落とした。
「……少し、考えさせてください」
絹代はすぐに頷いた。
「ああ、ゆっくり考えな」
そして立ち上がると、着物を手で払って整え、椅子をしまう。
ただの遣り手としてだけの温度ではない。
彼女の鋭い瞳の奥に、同じ柩地区を生きる女としての、慈悲が宿っていた。
「待ってるよ」
それ以上は何も言わなかった。
引き留めも、説得もせずに、ただ選択肢だけを置いていく。
それが絹代なりの優しさだった。
扉が閉まり、ひとりぼっちになった部屋で、咲樂は膝の上で握ったままだった手を見つめる。
細い指先が微かに震えていた。
考える時間は貰ったけれど、心は、ほとんど決まっていた。
もう誰かに支えられるだけの毎日には戻れない。
たとえ恐ろしくても。
知らない世界に身を置くとしても。
立てなくても、せめて、自分の力で生きていきたかった。
──数日後。
昼下がりの幽泉堂は静かだった。
最近、一人で車椅子に移乗できるようになり、咲樂は一階の自室から、幽泉堂の帳場へと向かった。
いつの間にか、一階のあらゆる段差には車椅子用の傾斜路が置かれていた。
帳場で帳簿を開いていた汐が、車輪の僅かな音に反応して、咲樂に振り向く。
「……汐。少し、お話があるの」
汐が、持っていた万年筆を置く。
「うん?」
「二人で」
その一言だけで、なんとなく重要な話なのだと分かった。
汐は帳簿を閉じる。
「……お店閉めてからでも平気?」
「うん。ごめんね、時間とらせて」
「全然。なるべくすぐに行くね」
言葉通り、帳場を閉める時間からそう経たずに、汐はやってきた。
「咲樂、入るよ」
戸を叩く音が優しく響く。
「うん」
汐はいつものように、咲樂から預かっていた合鍵で鍵を開ける。
咲樂は車椅子に座ったまま、針を置き、申し訳なさそうに微笑んだ。
「お疲れさま。ごめんなさい、疲れてるのに来てもらって」
「平気だよ」
汐は咲樂の向かいの椅子へ腰掛けた。
「今日は結構落ち着いてたから」
咲樂は小さく頷いたけれど、微笑むべきなのか分からずに黙った。
布を丁寧に畳み、裁縫道具を脇へ寄せると、両手を膝に下ろした。
しかし、なかなか言葉が出てこない。
沈黙が続いたが、汐が促す。
「……話って?」
咲樂の肩が僅かに跳ねて、小さく息を吸う。
胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すためのような深呼吸だった。
「……わたし」
声は静かで、消えてしまいそうなほど小さい。
「桃源楼《とうげんろう》で、働こうと思ってるの」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わる。
細い糸を両側から引っ張り合うような、張り詰めた空気。
咲樂は耐えられずに恐る恐る顔を上げた。
汐の表情は見慣れた穏やかなものではなく、驚いたように目を見開いている。
「……え」
ようやく漏れた声は掠れていた。
咲樂は慌てて言葉を続ける。
「絹代さんに、お話をいただいて」
説明しなければならない。
しかし、汐には誤解されたくないと焦るほど、言葉がまとまらなかった。
「桃源楼って……」
汐がぽつりと呟く。
「あそこは遊郭だよ……?」
戸惑いを隠しきれない声だった。
「君が、遊郭で働くことないだろ」
決して侮蔑ではない。
あんな目に遭って、何故遊郭に行こうとしているのか本気で分からないと、言葉の裏にあった。
「ち、ちがうの」
咲樂は必死に首を振る。
「絹代さんが、男の人とそういうことしなくていいからって」
言葉を選びながら続ける。
「座ってお話したり、芸事をするだけで、お給金を出すって言ってくださって……」
どう言えば、汐に納得してもらえるか、嫌な気持ちにさせないか考えるが、口下手な自分が嫌になる。
「わたしの足のことも、承知の上で、全部面倒を見るからって」
話し終えると、部屋は再び静まり返った。
汐は何も言わず、ただ咲樂を見ている。
その静寂さが怖くて、瞼が徐々に伏せられ、長い睫毛が影をつくった。
膝の上で重ねた白い指先に力が入る。
長い時間だった。
けれど実際には数秒だったのかもしれない。
「……僕じゃ、だめだった……?」
悲しげに零れたのは、咲樂を責める響きではなかった。
けれど、その一言は咲樂の胸を深く刺した。
「ちがっ……」
彼を傷つけてしまったのだと、すぐに理解した。
涙が流れていないだけで、泣いているような顔だった。
「ちがう……ちがうわ……」
否定したかった。
すぐに否定しなければと思った。
なのに喉が締め付けられて、言葉がうまく出てこない。
「わたしが、わたしがだめなの……」
視界が滲む。
「汐の、負担に……なりたくないの」
その言葉だけは、どうしても伝えなければならなかった。
「汐は、優しいから……」
声が震える。
「わたしのこと、見捨てられないでしょ……?」
唇が震えた。
「そんなの……わたしが、耐えられないの……」
ぽろりと涙が落ちる。
嗚咽はなく、ただ涙だけが頬を伝っていく。
「桃源楼なら……ちゃんと、お世話になる人に、お礼ができると思ったの」
掠れた声で続ける。
「こんな脚でも、いいって……」
息が震える。
「だから、ちゃんと……ちゃんと返せるって……」
言葉はそこで途切れて、もう続かなかった。
ありがとう、という言葉だけが積み重なっていく。
糸玉に似ていた。
最初は掌に収まるほど小さい。
けれど解けないまま巻き続ければ、やがて両腕でも抱えきれなくなる。
咲樂の胸の中にも、そんな糸の塊が静かに膨らんでいた。
返せないまま。
返せないまま。
ただ受け取るだけの日々だった。
そんなことを延々と考えてしまう自分自身も、嫌で仕方なかった。
周りのみんなへ失礼だと分かっていたから、尚更。
部屋には呼吸音だけが残る。
汐は黙っていた。
何を考えているのか分からない。
怒っているのだろうか。
呆れているのだろうか。
伏せられた青紫の瞳を見ていると、不安ばかりが膨らんでいく。
「……僕らは、家族なんだよ?」
感情を抑え込んだ、落ち着いた声だった。
「君を負担だとか、見捨てたいとか」
ゆっくり首が横に振られる。
その声音は穏やかだったが、どこか寂しそうにも聞こえた。
「そんなの、考えたこともなかったんだ」
胸が痛んだ。
自分は何を言っているのだろう。
この人はずっと変わらず優しかったのに。
それなのに、勝手に苦しんで、勝手に離れようとしている。
「……ごめん」
謝るのは自分の方のはずだった。
汐は、どこまでも優しかった。
捧げている、尽くしているという自覚もないまま。
「それが君を苦しめてたんだね」
どこまでも人の痛みに寄り添ってしまう人だった。
咲樂にとって、どこまでも都合が良い優しさだった。
何も言えなかった。
また一粒、涙が膝の上へ落ちる。
汐はしばらく考え込むように黙っていた。
薬の調合をする時や、帳簿をつけている時と同じ、真剣な表情に変わり、顔を上げる。
「でも、絹代さんへの返事は少し待って」
「……どう、して……」
「僕にも考えがあるから」
その言葉に、咲樂は目を見開いた。
何を考えているのかは分からないが、声には迷いがなかった。
「……汐」
「待ってて」
短い言葉だった。
それ以上は語らない。
有無を言わせない口調なのに、不思議と、その言葉には人を安心させる力があった。
咲樂はしばらく汐を見つめる。
そして小さく頷いた。
「……うん」
その夜は、それ以上この話をしなかった。
汐は戸口へ向かい手を掛けた時、不意にこちらを振り返る。
「咲樂」
「なに……?」
品のある口元が少しだけ笑った。
「もし僕らの立場が逆だったら……君も同じことをしてくれたと思うよ」
咲樂は目を丸くした。
思いもしなかった言葉だった。
「そうでしょ?」
幽泉堂の中庭に差し込む日差しのような、穏やかな笑顔が、今夜は少しだけ違って見えた。
戸が閉まり、再び静寂が部屋へ戻ると、咲樂は胸元へそっと手を当てた。
行燈の火が揺れ、部屋の隅へ長い影を落とす。
足が治ったわけではない。
明日の暮らしに答えが出たわけでもない。
桃源楼のことも、これからどう生きていくのかも、まだ何ひとつ決まっていない。
それでも。
胸の底へ沈み続けていた石が、ほんの少しだけ位置を変えた気がした。
水底に沈んでいたはずのものが、僅かに浮かび上がるような感覚だった。
半年前からずっと、自分の未来を考えるたびに息が詰まっていた。
けれど今夜だけは違った。
明日という言葉を思い浮かべても、心が潰れそうにはならなかった。

