PANDORA・柩灯

 体が重い。
 瞼が重い。
 頭の中に白い霧がかかっていた。
 遠くで誰かが話している。
 言葉が聞こえる。
 けれど意味は分からない。
 夢の続きみたいだった。
 浮かぶ。
 沈む。
 また浮かぶ。
 意識が定まらない。

 何度目かに目を開いた時、白い天井が見えた。
 知らない場所だった。
 どこだろう。
 そう思う。
 でもその先が続かない。
 考えるだけで疲れてしまう。

「……咲樂」

 声がした。
 優しい声だった。
 咲樂はゆっくり視線を向ける。
 濃紺色が見えた。
 誰だろう。
 少し考える。
 少し時間がかかる。

「……し、お……」

 ようやく名前が出てきた。
 汐が息を吐く。
 安心したような顔だった。

「うん……」

 手を握られる。
 温かい。
 咲樂はそれだけで満足してしまった。
 もう眠かった。
 再び目を閉じようとした時だった。

「起きたか」

 火々里の声だ。
 白衣姿がぼやけた視界に映る。
 赤い瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。

「自分の名前、言えるか」

 火々里は短く言う。
 自分の名前。名前を言わなければ。
 とてつもなく重い唇を、どうにか開く。

「さ、く……ら」

 喉が、張り付いていた。
 砂を飲み込んだような不快さが、気持ち悪かった。
 水を飲みたい。
 顔に出ていたのか、そばにいた汐がすぐに火々里のもとへ行き、何やらごそごそと棚を漁ってから戻ってきた。

「飲める?」

 吸い口の付いた透明な容器を口元に差し出される。
 微かに口を開ければ、汐が水を飲ませてくれた。
 乾いた喉が潤い、胸が幾分かすっきりとして軽くなる。

 それから火々里は血圧計を確認した。
 脈を取る。
 瞳孔を見る。
 初めて見る、真剣な医者の顔だった。
 しばらく無言で確認したあと、小さく息を吐く。

「よし」

 その一言で、汐が顔を上げた。

「どう?」

「移送できる」

 病室が静かになる。
 咲樂だけが意味を理解できなかった。
 移送。
 何の話だろう。
 ぼんやりした頭では分からない。

「もう?」

 汐が眉を寄せるが、火々里は頷いた。

「ああ」

 声は低かった。

「地下の人間は入院なんかさせてもらえねぇ」

 悔しさを押し殺した声だった。

「朝のうちに地下へ戻す」

 咲樂は話についていけない。
 ただ、地下という単語だけが耳に残る。
 地下。
 柩地区。
 孤児院。
 幽泉堂。
 もやがかかった頭に自分の家が浮かぶ。

「……かえ、るの……?」

 無意識に呟く。
 火々里は少しだけ表情を緩めた。

「ああ」

 短く答える。

「帰るぞ」

 その言葉と共に、頭を優しく撫でられて、咲樂は安心した。

 帰れる。
 それならいい。
 何も分からないままでも、汐もいる。
 火々里もいる。
 だから大丈夫だと思った。

 再び眠気が押し寄せてくる。
 重い瞼が閉じる。
 最後に聞こえたのは、二人の会話だった。

「孤児院の部屋、空きあったっけな」

「……きっと空けてくれるよ」

「……そうだな。あとは、車椅子か」

 ――車椅子。

 その言葉の意味を、この時の咲樂は、まだ理解していなかった。

 他の職員が出勤する前に病院を発つべく、火々里は院内の担架を持ち出し、尊と協力して咲樂を移送した。

 輸血後、一睡もしなかった汐の顔色は悪く、気を抜けば倒れそうだったが、息を切らしながらもちゃんと自分の足で柩地区まで下りる。

 長い洞窟と階段を下る揺れで、咲樂が時折呻き声を上げて、寒そうにかけられた毛布の中で震えていた。
 まだ冬は訪れていないのに、咲樂にとっては、何故か酷く寒かった。

 孤児院に着くと、尊はすぐに「やることがある」と言い、汐や火々里が礼を言う暇もなくすぐさままた地上へと戻っていった。

 玄関での物音で、朝から食事の準備をしていた職員の女性たちが、顔を青くして集まってきた。

「か、火々里、あんた、これ……」

「……シュンたちに聞いたけど……地上の男がやったのかい?」

 昨日、元気な姿で孤児院にやって来た少女の変わり果てた姿に、女たちは怒りを顕わにする。
 泣きながら帰ってきた子ども達、幽泉堂の鉄太(てった)と一緒に戻ってきたシュン。
 女たちも、できる範囲で咲樂を探していた。

「……ごめん、僕が」

「──部屋、貸してくれ。しばらくそこを病室にしたい」

 汐が口を開いた瞬間、火々里が遮るように声を被せる。

「できれば水場から遠い部屋が良い。カビとか生えてないところ。綺麗に掃除してくれ」

 青紫の瞳が、疲れた色を滲ませて目の前の大きな背中を見た。

「わ、わかった、ちょっと待ってて」

 女たちは急いで奥の部屋へ向かう。
 すると汐が靴を脱ぎ、そのあとを追おうとした。

「おい待て。お前も動くな。座れ。ぶっ倒れるぞ」

「少しなら平気──」

「座れ」

 有無を言わせない声だった。
 汐が何か言い返そうとして口を開く。

「でも」

「座れ」

 火々里は低く、もう一度だけ繰り返した。
 そして汐は押し黙り、観念したように近くの長椅子へ腰を下ろした。
 その瞬間だった。

「っ……」

 視界が揺れた。
 今まで張り詰めていたものが、一気に切れたような感覚だった。
 自分でも驚くほど身体に力が入らない。
 指先が冷たい。
 頭も重い。
 火々里が溜め息を吐く。

「ほら見ろ」

「……平気だよ」

「平気な奴はそんな顔しねぇんだよ」

 反論できなかった。
 自分でも分かっていた。
 限界だった。
 輸血で血を抜いた。
 一睡もしていない。
 昨夜からまともに食事もとっていない。
 それでも咲樂から離れる気になれなかった。
 もし目を離した瞬間に消えてしまったら。
 そんな考えが頭から離れない。

 火々里は担架の傍に膝をついてから、眠ったままの咲樂の額に触れた。
 微かに熱があったが、呼吸は安定している。
 それを確認してから、汐を一瞥した。

「俺が見てるから、もう休め」

「でも」

「汐」

 呼ばれて顔を上げる。
 赤い瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。

「お前が倒れたら、咲樂は自分のせいにするぞ」

 汐は言葉を失った。
 火々里は続ける。

「お前まで患者になるな」

 厳しい言い方だった。
 けれど責める響きはない。
 むしろ心配しているのが分かって、俯いて拳を握る。

「……分かった」

 小さな声に、火々里はようやく頷く。
 その時、奥の廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。

「空いたよ!」

 孤児院の女性職員が駆けてくる。

「一番奥の部屋! 急いで掃除した!」

「助かる」

 火々里は礼を言い、女と一緒に担架の取っ手を持ち上げた。
 眠る咲樂の顔は青白い。
 昨日まで笑っていた少女とは思えないほど弱々しい。
 女たちも言葉を失う。
 誰もが胸を痛めていた。
 火々里は慎重に担架を運びながら、ぽつりと言った。

「絶対に治す」

 誰に聞かせるでもない。
 自分自身への誓いだった。
 その背中を見ながら、汐は静かに目を閉じる。
 安心したからではない。
 疲労が限界だった。
 ほんの数秒だけ。
 そう思ったのに、気付けばそのまま意識が沈みそうになっていた。



 ◆ ◆ ◆



 次に咲樂が目覚めた時、懐かしい木目の天井が視界に広がった。
 木の匂い、行燈の明かり、昼か夜かも分からない世界。

「……ぅ」

 声は、やはりすんなりとは出なかった。
 けれど、ここが地上ではないことだけは分かる。
 孤児院だ。
 ぼんやりとそう思った。
 少しだけ首を動かす。
 近くの背の低い机には薬瓶や包帯が並べられている。
 壁にもたれた火々里が本を読んでいた。
 その姿を見て、咲樂はほっと息を吐く。

「……かが、り」

 掠れた声に、火々里はすぐに顔を上げた。
 本を閉じ、近付いてくる足音が聞こえた。

「水飲むか」

 咲樂は小さく頷く。
 体を少し起こされる。
 コップを口元に当てられ、ゆっくり水を飲んだ。
 冷たい。
 それだけで少し意識がはっきりする。
 火々里は顔色を確認しながら言った。

「気分は」

「……かがり、が……たすけて、くれたの……?」

 その問いに、逞しい肩が揺れる。

 咲樂は、思い出す。

 以前、茉莉花(まつりか)を渡してきた男が、子どもたちを見て「柩の子なら、消えても誰もわからないね」と微笑んだこと。

 絶対に近づいてはならないと言われていた遊郭の裏手に連れていかれて、体の震えが止まらなかったこと。

 痛かった。怖かった。
 ここで死ぬのだと何度も考えて、考えるうちに意識が遠のいていった。

 今も体が鉛のように重く、経験したことのない怠さと悪寒に身震いがしたけれど、もうここは安全だ。

「……いいや。お前を助けたのは、汐だ」

「……うしお……?」

「ああ。シュンが汐を呼んだ」

 そうだ、シュン。
 あの子が男に強く押されて、転んでしまったのだ。

「しゅん、は」

「無事だ。膝擦りむいただけだから、すぐ治る」

「……よかった」

 数回、言葉を交わしただけなのに、また瞼が重くなってきた。
 息が続かず、肩で呼吸をする。

 火々里に支えられて、僅かに起き上がって、不意に咲樂の視線が目の前に向いた。

 何故か、高く上げられた両足が見えた。
 脚の下には折り畳まれた布団が敷かれてある。

 異様に寒く、震えているのに、毛布は膝から上にしか掛けられておらず、襦袢から露出した両脚は包帯で埋め尽くされていた。

 ふと、違和感を覚えた。
 何かがおかしい。
 痛い。
 でも、それだけじゃない。
 足首から先が妙に遠い。
 そんな感覚。

「……?」

 無意識に足を動かそうとする。
 だが思ったように動かない。
 力が入らない。
 重い。
 変だ。
 足がある。
 見えている。
 自分の身体なのに、自分の身体じゃないみたいだった。

「……かが、り」

 不安そうな声だった。
 火々里はすぐに気付く。
 咲樂の視線が脚へ向いていることに。

「足、か」

 咲樂は小さく頷いた。

「……へん」

「そうか」

 火々里は静かに襦袢の裾をめくった。
 そして包帯越しの足先に触れる。

「ここ、分かるか」

 足の甲を軽く押される。 咲樂は少し考えてから頷いた。

「……わかる」

 火々里は今度は足の指先を触った。

「これは」

「……わかる」

 反応を確認するように何度か場所を変える。
 そして最後に言った。

「足の指、動かしてみろ」

 咲樂は命令通りに力を入れる。

 動け。
 動いて。

 だが、指はほとんど動かなかった。
 微かに震えただけだった。
 咲樂は目を見開き、もう一度力を入れる。
 動かない。
 何度やっても同じだった。

「……あれ」

小さな声が漏れる。

「……あれ?」

 胸がざわついて呼吸が浅くなる。
 どうして。
 どうして動かないの。

「火々里……」

 震える声だった。
 火々里はしばらく黙っていた。
 医者の顔をして、そして静かに告げる。

「咲樂」

 赤い瞳が真っ直ぐこちらを見る。

「お前の脚はかなり酷い状態だった」

 咲樂は息を呑む。

「骨も筋肉も神経も傷付いてる」

 部屋は静かだった。

「今は……しばらくは、自分の力で立つことはできない」

 その言葉が落ちる。
 咲樂は意味を理解するまで数秒かかった。

 立てない。
 自分が、立てない。

「……え」

 かすれた声が漏れる。

「でも」

 理解できない。理解したくない。

「だって……」

 足はある。ここにある。
 なのに。

「悪い。俺の、力不足だった」

 火々里がはっきりと、言葉にする。
 支えられた肩に、僅かに力が入った。

「俺の腕じゃ、治せなかった」

 言い淀みなく、目を逸らすこともなく、逃れようもない事実を突きつけられる。
 火々里はいつも、弱さなど、微塵も感じさせない。
 それは今日も同じだった。

「でも、治療はする。リハビリもやる。手術できる医者も探す。だから待ってくれ」

 上手く彼の言葉を噛み砕けない。
 きっと諦めないと言ってくれているのだろう。

 けれど、そんなことよりも、咲樂には目の前の兄の方が気になってしまった。

 ──火々里が、傷ついている。

 自分のせいで、傷ついている。

 声も表情も空気感にも悲しみはない。
 しかし、火々里は責任感が強い人だ。
 咲樂も彼が手術を生業とする医者でないことは、知っている。
 だからこの足を治せないことも、自然だった。

 あの時、確かに死ぬと思ったが、今自分は生きている。
 汐と火々里が助けてくれたからだ。

 本当は誰よりも優しい人が、怪我を治せなかったせいで、傷ついている。

 咲樂はそれに耐えられず、重い口角を一生懸命、できる限りの力で持ち上げた。

「……ん。わか、った」

 咲樂は微笑む。
 本当は上手く笑えていないのかもしれない。
 唇は震えているし、顔にも力が入らない。
 それでも笑おうとした。

 火々里は悪くない。
 謝る必要なんてない。
 助けてくれた。
 今生きている。
 それだけで十分だと伝えたかった。
 だから、大丈夫だよ、と。
 そう言いたかった。

 けれど。

「……っ」

 火々里の表情が歪んだ。
 咲樂は見間違いかと思い、瞠目する。

 火々里はいつだって強い。

 幼い頃、魂人の大人に殴られて大怪我をしても。
 どれだけ尊厳を踏みにじられても。
 決して取り乱さず、精悍な眼差しを失わなかった。
 柩地区の誰よりも頼もしくて、誰よりも大きな背中だった。
 そんな火々里が、今、苦しそうな顔をしている。

「笑うな」

 声が、掠れていた。
 咲樂は息を詰める。

「頼むから」

 火々里は俯く。
 布団の上で握った拳が、微かに震えていた。

「頼むから、泣いてくれよ」

 静かな部屋に、その声だけが落ちた。
 行燈の灯が揺れる。
 遠くから子ども達が廊下を走る音が聞こえた。
 なのにこの部屋だけが、別の世界みたいに静かだった。

「怒ってもいい」

 火々里は言う。

「恨んでもいい」

 咲樂は何も言えずに、燃えるように赤い髪をじっと見つめた。

「なんでだって喚いてもいい」

 火々里は顔を上げない。
 まるで咲樂の目を見る資格がないとでも思っているように。

「けど」

 そこで初めて言葉が途切れる。
 長い沈黙が落ちた。

「頼むから、笑うな……っ」

 絞り出すような声だった。

「そんな顔されたら」

 火々里は唇を噛む。

「どうすりゃいいか、分かんねぇだろ」

 「泣かないで」と口に出しそうになるほど、悲哀と怒りに満ちた姿を目の当たりにして、咲樂の思考がやっと廻り出す。

 治せなかったと自分を責める火々里。
 汐の気遣わしげな表情。
 思うように動かない脚。

 ──もう、歩けない。

 その事実が胸に落ちた瞬間、今まで遠かった現実が、急に近付いてきた。
 視線が自然と脚へ落ちる。

 立てない。
 歩けない。
 走れない。
 もう昨日の自分と同じ身体ではない。

 その事実が今更になって、ゆっくりと、けれど確実に心の奥へ染み込んでくる。
 冷たい水が肺を満たしていくみたいに、息が苦しくなる。
 喉が詰まる。

「……やだ」

 声が漏れた。
 咲樂自身も驚くほど小さな声だった。
 火々里が顔を上げる。
 赤い瞳と目が合った。
 その瞬間、堪えていたものが決壊した。

「やだ……」

 ぽろり、と涙が頬を伝う。
 熱いものが、次から次へと溢れてくる。

「やだよぉ……」

 震える声。
 子どもみたいな泣き声だった。

 歩きたい。
 みんなと一緒に。
 子ども達を追いかけて。
 汐と街を歩いて。
 幽泉堂で働いて。
 また当たり前に笑いたかった。
 それがもう出来ないかもしれない。
 その恐怖が、今になって咲樂を飲み込んだ。

 どうしてわたしが。
 詮方無い問いに、答えはない。

 火々里は何も言わなかった。
 ただ泣きじゃくる咲樂の頭を、大きな手で静かに撫で続けた。
 医者としてではない。
 兄として、ただひたすらに。

 何度も、何度も。



 ◆ ◆ ◆



 あれから、およそ三ヶ月が過ぎていた。

 秋だった空気はすっかり初春の気温に変わり、地上から激しい風邪が地下に吹き込んできた。
 咲樂の世界は、あの日からほとんど変わらない。

 朝、目を覚ます。
 出勤前の火々里が診察をする。
 天井を見る。
 運んでもらったご飯を食べる。
 薬を飲む。
 火々里が派遣した看護師の少女が体を拭いてくれる。
 店を抜けて、汐が会いに来る。
 また天井を見る。
 姉たちが代わる代わる世話をしてくれる。
 出勤後の火々里がまた診察に来る。
 そのまま火々里は孤児院に駐在する。

 そんな毎日だった。
 痛みは日によって違った。
 眠れないほど痛む日もあれば、驚くほど何も感じない日もある。

 けれど痛くない日は痛くない日で苦しかった。

 自分だけ楽をしているような気がした。
 みんなが自分のために時間を使ってくれている。
 なのに自分は寝台の上にいるだけだ。
 足が痛まない日は、その事実ばかりが頭に浮かんだ。
 申し訳なかった。
 ひどく、どうしようもなく、申し訳なかった。

 食事を運んでもらえば、「ありがとう」

 身体を拭いてもらえば、「ありがとう」

 着替えを手伝ってもらえば、「ありがとう」

 何度も何度も頭を下げた。
 言葉にしなければならない。
 感謝してもしきれない。
 自分はただ迷惑をかけるだけの存在になってしまったのかもしれないと、静かな部屋で考える。

 けれど、感謝を口にするたびに、胸のどこかが少しずつ重くなっていく。

 ありがとう。
 ごめんなさい。
 ありがとう。
 ごめんなさい。
 いつの間にか、その二つの言葉はほとんど同じ意味になっていた。

 ある日の夜、汐がやってきた。
 彼の目の下の隈が消えることは、この三ヶ月でなかった。
 咲樂は慌てて起き上がり、頭を下げる。

「……いつも、ごめんね」

 汐は眉を下げた。
 最近、その顔をよくする。

「謝らなくていいよ」

「でも……」

「謝らなくていい」

 静かだったが、少しだけその語気は強かった。
 汐は部屋の隅に置かれた車椅子を見て、それから咲樂を見た。
 少し迷うように視線を伏せてから、口を開く。

「咲樂」

「うん……?」

「火々里が、そろそろ帰ってもいいって」

 一度言葉が途切れる。

「幽泉堂に、帰ってこない?」

 咲樂は瞬きをした。
 意味が分からなかった。

「……え?」

「孤児院も君の家だけど」

 汐は続ける。

「今の家は、あそこでしょ?」

 咲樂は何も言えなかった。
 汐の声だけが静かに部屋へ落ちる。

「廊下も広いから、車椅子でも動きやすいし、中庭は比較的空気も綺麗だろ?」

「……」

「それに僕もずっといる」

 まるで当たり前のことを話すような口調だった。
 特別な提案ではない。
 当然そうするつもりだったみたいに。

「だから」

 青紫の瞳が真っ直ぐ向く。
 小さな子どもに言い聞かせるように、優しく、一言一言、丁寧に話してくれる。

「帰っておいで」

 咲樂は俯いた。
 胸の奥がじわりと熱くなる。
 嬉しかった。本当に嬉しかった。
 けれど同時に苦しかった。

 幽泉堂はみんなの家であり、仕事場だ。
 そこへ自分が行けば負担になる。
 迷惑になる。
 足手まといになる。
 そんな考えばかりが先に浮かんでしまう。

 分かっていたのに、咲樂はどうしても、首を横には振れない。

「……よろしく、お願いします」

 それしか言えなかった。
 涙は出なかった。
 泣く資格などないと思った。
 助けてもらって。
 生かしてもらって。
 居場所まで与えてもらって。
 そんな自分が泣くのは、あまりにも贅沢な気がした。
 邪魔になると理解しているのに、どうしてもあそこへ帰りたかった。

 だから咲樂はただ深く頭を下げた。
 額が布団につくほど深く。長く長く。
 汐はその姿を見つめながら、苦しそうに目を伏せた。

 帰りたい。
 あの家へ。
 みんなのいる場所へ。

 けれど同時に思う。

 自分は、あそこで何ができるのだろう。
 働けない。
 稼げない。
 守られるだけの人間になった自分に、居場所などあるのだろうか。

 帰ってきても良い場所など、あったのだろうか。