「――誰か来た?」
汐の穏やかな問いに、咲樂の肩がぴくりと震えた。
彼女の微笑みは崩れない。
それでも、呼吸だけが一拍止まった。
花の香りの奥に残る白檀。
床板に入り込んだ砂。
汐は、何も見ていないはずだった。
時は半刻前に遡る――。
――昼の光が、白く石畳を照らしていた。
どこかで、夏風に攫われた風鈴の音が鳴っている。
眩しいくらい、地上は明るい。
地下で暮らす者には、その光は眩しすぎる。
汐は、店の仕込みに必要な荷を軽く持ち直し、関所へ向かった。
山肌を切り開いて造られた巨大な門の周りは、昼間でも薄暗かった。
「通行証」
無愛想な短い声に、汐は木札を差し出した。
門番は札を見るなり、露骨に顔をしかめる。
焼印を見たからだ。
地下の人間を示す印──“魂人”という焼印文字を。
男は何も言わず顎をしゃくる。
「……通れ」
「どうも」
汐はいつものように笑った。
柔らかく、人当たりの良い笑みだが、男は笑い返さない。
その横で警備をしていた、もう一人の線の細い軍人と目が合う。
「今日も警備お疲れさま」
彼は返事をしなかった。
代わりに、冷たい碧眼で汐をひと睨みして、そのまま視線を逸らす。
汐は苦笑した。
「つれないなあ」
呑気さが目立つように呟いてから、関所を潜った。
途端、空気が変わる。
湿った岩の匂い。
地下水。
火。
長い階段が、暗闇の奥へ続いている。
等間隔に並ぶ行灯だけが、その道を不安定に照らしていた。
地上の光は、途中から届かない。
靴音を響かせながら、汐は下っていく。
地下都市──柩地区は、薄暗かった。
橙色の行灯だけが岩肌を照らし、夜を生きる街だ。
「おかえり、汐」
「今日は早いじゃねぇか」
「ただいま」
短く返しながら歩いていくと、一際華やかな灯りが見えてきた。
地下の夜を掬い上げたように、そこだけが明るかった。
黒塗りの外壁が、幾重にも連なる行灯に照らされている。
――幽泉堂だった。
まるで暗い地下に咲いた大輪の花みたいだと、汐は昔から思っている。
自然と目を細めながら、暖簾へ手を伸ばす。
その瞬間。
ふわりと香りが鼻を掠めるのは、出汁。
温泉、酒、馴染んだ匂い。
その奥。
ほんの僅かに混じる違和感。
地下では決して嗅ぐことのない、白檀。
汐の指先が止まる。
一秒だけ黙り込み、それから何事もなかったように暖簾をくぐった。
暖かな光が、視界いっぱいに広がる。
行灯の灯り。
賑わう食堂。
行き交う従業員たち。
そして帳場に、一人の女がいた。
車椅子に腰掛け、算盤を弾いている。
真っ先に目が向いたのは、その人だった。
雪に朝焼けを溶かしたみたいな、淡い桃色の髪。
伏し目がちな横顔は、人形のように整っていた。
地下の喧騒から切り取られたみたいに、彼女の周囲だけ穏やかだった。
ふと、その睫毛が持ち上がる。
桃色の瞳が汐を映すと、女の顔がほんの少し綻んだ。
それだけで、空気が柔らかくなる。
「ただいま、咲樂」
女は目を細める。
「おかえりなさい、汐」
荷物を抱えたまま帳場へ歩み寄ると、咲樂は帳簿を閉じる。
「目当てのものは買えた?」
出掛けるたびに交わす会話。変わらない日常。
「買えたよ。君が言ってた材料もね」
そう答えると、咲樂の顔が明るくなる。
「ほんと? 良かった。ありがとう」
その笑顔を見るのが好きだった。
だからこそ、その直後に感じた違和感も見逃さなかった。
視線を落とす。
帳場の床。
木目の隙間に、微かに砂が残っていた。
外から持ち込まれたものだろう。
それから、香り。
咲樂から漂う香水の匂いが、少しだけ強い。
必死にかき消そうとしている花の香りの奥に、白檀が漂っていた。
汐はいつもと変わらない、何気ない調子で尋ねた。
「……誰か来た?」
責めるでもなく、探るでもなく、ただ気付いたことを確認するような声。
咲樂は一瞬だけ目を瞬かせる。
「え?」
考えている間は、ほんの僅かだった。
「ううん。……あ、道を尋ねてきた人なら来たかな」
そう言って穏やかに、美しく微笑む。
だから汐も、それ以上は聞かなかった。
「……そう」
小さく頷いてから、もう少しだけ踏み込んでみる。
「君が香水つけてるの珍しいね」
咲樂が少し肩を揺らした。
「気に入ってくれた?」
「うん。試作品だし、宣伝になるかなって」
物販品として、汐が数日かけて調香した商品だ。
「良かった」
汐はにこりと笑う。
「咲樂に似合うと思ったんだけど、ぴったりだね」
桃色の髪と瞳に、花の香り。
本当に驚くほど似合っていた。
咲樂は少し照れたように笑うが、やはりどこかぎこちなく見えた。
「ふふ、絶対売れるわね」
「うん」
汐も口角を上げて、それ以上は追及しなかった。
そして荷物を持ち直す。
「じゃあ僕、仕込み手伝ってくるね」
「ええ」
咲樂が頷くと、汐は厨房へ向かった。
廊下の先へ汐の姿が消え、足音が遠ざかる。やがて聞こえなくなった。
その途端だった。
「はぁ……」
咲樂は大きく息を吐き、肩から力が抜けた。
頬を両手で押さえる。
まだ少し熱い。
やっぱり気付いていた。
砂にも、香りにも。
何かあったことくらいは、きっと分かっている。
「……やっぱりバレたかしら?」
先ほどここで交わされた会話を思い出す。
地上の男の穏やかな言葉。
神経質に整えられた身なり。
咲樂は萌黄色の帯の隙間から名刺を取り出した。
行灯の灯りに照らされた名を見て、静かに目を伏せる。
彼に知られたくなかった。
余計な負担を背負わせたくなかった。
あの悲劇を、思い出して欲しくなかった。

