俺を潰したあの家に、キスで勝つ

 夜の街は、まるで僕の存在を拒んでいた。

 人が多いのに、誰の目にも映っていない。
 誰もが、僕のことを「見て見ぬふり」するのが、こんなに刺さるなんて。

 通り過ぎるスーツ姿の男が、僕のそばをすり抜けるとき、ほんのわずかに鼻をひくつかせた。
 振り返りもせず、まるで僕が“空気より下等なもの”みたいに扱われるのが、滑稽で、情けなくて、痛かった。

 香水の香り、紙袋のこすれる音、誰かが笑っている声。
 そのすべてが、今の僕には遠い世界のものだった。

 街灯の下、影だけが長く伸びている。

 僕の影は、誰にも踏まれない。
 でも、それは優しさなんかじゃなかった。ただの“無関心”だった。

 気づかれたくないのに、誰かに気づいてほしかった。

 その矛盾が、胸の奥で渦を巻いていた。

 駅ビルの電光掲示板が、「終電」の文字を表示している。
 赤く点滅する光が、どこか警告のようで、目を逸らした。

 路肩に止まっていたタクシーの運転手と目が合った。
 でも、次の瞬間には視線を切られていた。まるで「乗る気がないなら見るな」と言われたようで、惨めな気持ちになる。

 ベンチを見つけた。でも、座れなかった。

 濡れていたのは、雨のせいなのか、誰かが吐いたものなのか、見分けがつかない。
 手を伸ばせば、ほんの少し楽になれるかもしれないのに、それすら拒まれている気がして。

 疲れていた。足が棒のようだった。
 何も食べていない。喉も乾いていた。けれど、誰かに『助けて』と声を上げ、見知らぬ人の憐憫を乞うほど、僕のプライドは落ちていなかった。それだけが、僕をこの地面に押しとどめていた。

 それだけが、僕をこの地面に押しとどめていた。

 スマホはない。財布もない。名前も、家も、もう、ない。

 このまま消えれば、たぶん、誰も気づかない。
 それでも──死ぬつもりは、なかった。

 ただ、眠りたかった。

 どこか、誰にも見られない場所で、丸くなって、眠りたかった。

◆ ◆ ◆

 ようやく見つけた路地裏は、誰もいなかった。

 濡れた段ボールと、黒いゴミ袋が無造作に積まれている。
 腐った果物のにおい。誰かが吐いたまま放置された酒の匂い。
 それらすべてが混ざった空気が、鼻を刺した。

 でも、不思議と、ここが一番“安全”に思えた。

 壁にもたれた。膝を抱えた。

 冷たいコンクリートの感触が、服越しにじわりと伝わってくる。
 まるで地面ごと、自分の存在を押し潰してくるようだった。

 胃が、きゅう、と鳴った。

 空腹の痛みは、飢餓というより“確認”だった。
 ――ああ、僕はまだ、生きているんだな。

 さっき見かけたファミレスの看板を、今さらになって思い出す。
 厨房から漏れてきたカレーの香り。ジュウと鳴る鉄板の音。
 あれだけで、唾液が出そうになった自分が、嫌だった。

 物乞いみたいな自分を、見たくなかった。

 それでも、空腹は正直だった。

 唇を噛む。痛みで気を紛らわせたくて。

 特に、右手の甲が赤く腫れている。……昨日、ナオトに突き飛ばされたとき、石畳にぶつけたのだろう。
 乾いていない傷が、じんじんと熱を持って主張している。

 僕の“過去”が、今も皮膚の下にこびりついて離れないような気がした。

 ああ……ここが、僕の終着点かもしれない。

 名もない、夜の片隅。

 ゴミ袋の隙間に、しおれた花が落ちていた。
 枯れて、踏み潰されて、色も香りも失った小さな薔薇。

 それが、自分の姿に見えて、笑ってしまった。

 そんな僕に、誰かが声をかけてくるはずもない。

 目を閉じた。いや、閉じようとした。

 そのときだった。

 ──誰かの気配。

かすかに、足音。

 でも、革靴の硬質な音ではない。
 もっと静かで、濡れた路面をすべるような、異質なリズム。

 反射的に身をすくめる。喉が音を立てた。
 息を殺して、肩を抱え込むようにして、気配が去るのを待った。

 ──違う。

 止まった。

 足音は、僕の目の前で、ぴたりと止まった。

「……薔薇が、こんなところで咲くとはね」

 その声は、低く、よく通るのに、不思議と耳に優しかった。

 顔を上げると、そこには──
 ひとりの男が、街灯の逆光に包まれて立っていた。

 銀の仮面。黒いロングコート。
 手袋をした手が、ポケットからゆるやかに抜けていく。

 美しかった。
 けれど、それは人間の“整った顔”ではなく、異物としての美しさだった。

 仮面の下の表情は読めない。
 でも、なぜか“微笑んでいる”とわかった。

「君、何をしてるの? こんな夜に。こんな場所で」

 意味のない質問。

 答える義務もなかった。

 でも、口が勝手に反応した。

「……関係ないでしょ」

 声が、かすれていた。

 それを聞いて、男はわずかに目を細め──くすりと笑った。

 まるで、僕の強がりを見透かしているかのように。

「関係、大ありだよ。君は“商品”になりうるからね」

「……は?」

 意味が、わからなかった。
 でも、ぞっとした。

 それは言葉のせいじゃない。
 この男が、“それを本気で言っている”と、直感したからだった。

「僕は、そういう商売をしてる。
 君を、売る。代わりに……君の“誇り”を、買い取ってあげようか?」

 ぞわり、と背筋に鳥肌が立った。

 この男は危険だ。
 逃げようとした。

 でも、足に力が入らなかった。

 疲れ果てた身体は、もはや命令に従う意思を持たない。
 それを見て、男はゆっくりとしゃがみ込み、僕と同じ目線になった。

 銀の仮面が、ほんの数センチ先にある。
 目の奥を見透かすような、冷たい視線。

「君が望むなら、何にだってなれるよ。
 人形でも、ペットでも、料理人でも……恋人でも」

 囁くように、言葉が滑り込んできた。
 耳の奥が、熱を持つ。

「その代わり──君の“誇り”を、僕に預けてくれる?」

 背筋に、ぞくりとしたものが走った。
 それは恐怖ではなく……惹かれるような、危うさだった。

 気づけば、彼の手が、僕の頬に触れていた。
 手袋越しのくせに、ぬくもりだけは妙に確かで。

 そのまま、指が顎を持ち上げる。

 キスの距離。

 息が、混ざる。

 唇が──触れるかと思った、その瞬間。

 彼は、すっと身を引いた。

「やめておこう。
 君の“初めて”は、もう少し値打ちがついてからにする」

「……なに、それ」

 口に出した声が、震えていた。

「契約だよ。君と僕の、“最初の取引”」

 そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。
 まるで、この夜の“シナリオ”を最初から知っていたかのように。

 差し出された手を、僕は見つめた。

 その手を取れば、きっともう、戻れない。

 でも──

 この手しか、僕には残されていなかった。

 そのぬくもりが、意外なほど優しくて、僕は抗うことができなかった。

「立って、ルイ」

 どうして、僕の名前を──?

 そう思ったときには、僕の身体は、もうその手を取っていた。