俺を潰したあの家に、キスで勝つ

 門が、開かなかった。
 学園を追われた翌朝、金の唐草が這うように装飾された屋敷の正門に、僕はひとり立ち尽くしていた。昨日までは執事がすぐに開けてくれた、僕の家だった場所だ。

 手の中の鍵が、冷たかった。

「……鍵が、合わない?」

 ポケットに入れていた小さな銀の鍵。それを差し込んでも、扉はまったく軋まない。まるで“もう僕の鍵じゃない”とでも言いたげに。

 数回、カチャリと音がして──それきり、沈黙。

 目の前にあるのに、扉が開かない。ただ、それだけのことが、こんなにも胸を苦しめるなんて。

 肌寒い風が、頬を撫でる。季節の変わり目の匂いが、鼻をかすめた。白い息を吐くにはまだ早い季節なのに、身体がやけに冷えるのは、気温のせいじゃなかった。

 誰かが通り過ぎていく。車の音、子どもの笑い声、門扉の外に広がる世界は、何も知らずに回り続けている。

 僕だけが、昨日に置いていかれたみたいだった。

 そうしているうちに、屋敷の脇門からスーツ姿の男が現れた。革鞄、黒縁眼鏡、金のバッジ。口元だけが笑っている。

「ご令息──いえ、失礼。もう“ルイ様”ではありませんね」

 男は口元だけが笑っていた。何の感情も持たない、氷のような瞳が僕を見下ろす。
 手の中の鍵が、ただの金属ではなく、何かを断ち切る“道具”のように思えた。

 男は鞄を開き、淡々とした口調で“現実”を読み上げた。

「お父上は、昨夜、急性の心疾患でお亡くなりに。すでに密葬は済ませております。そして、遺言により貴族爵位は剥奪、資産はすべて差し押さえ。本日をもって、あなたの戸籍は“除籍”されます」

 聞こえたはずの言葉が、意味をなさなかった。

 違う言語みたいだった。ただただ、耳をなでる音の波。

 いや──聞きたくなかっただけなのかもしれない。

「……僕は、昨日までこの家の人間だったのに」

「昨日まで、ですね」

 その男は一枚の鍵を差し出した。

「これは新しい鍵です。蔵の裏の、古い離れが空いています。今日中にそちらへ移動を」

「……捨てるなら、せめて静かに捨ててよ」

「ご安心を。これでも、最後の慈悲のつもりですので」

 男は一礼して立ち去った。門は、閉ざされたままだった。

 それでも僕は、すぐに背を向けることができなかった。

 体が動かなかった。指先だけが微かに震えていた。

 門の向こうでは、誰かがカーテンを閉じる音がした気がする。

 物音に過敏になって、背筋がびくりと震えた。

 心のどこかで、「誰かが来てくれる」ことを、まだ期待していたのだろう。

 けれど──誰も来なかった。

 どのくらい、そこに立っていたんだろう。

 鳩が空を渡るのを二度、見送った。雲の形がゆっくりと変わり、近くの並木道に落ちる影が少しずつ伸びていく。

 時間は、確かに流れていた。なのに、僕はこの屋敷の前で、ひとりだけ凍っていた。

 蔵の裏にある離れは、“住まい”と呼ぶにはあまりに寂れていた。

 雨漏りのする天井、カビ臭い畳、割れた障子。あるのは誰かが使い古したちゃぶ台と、埃の積もった布団。

 そこに、父の肖像画がぽつんと置かれていた。

「……どうして、ここに」

 裏返すと、マジックで書かれた太い字が目に入った。

『ルイの失敗は、家名の恥である。すべては、あの子のせいだ』

 筆跡は、父のものだった。

(──お父さん)

 思い出す。小さい頃、父が僕に言った。

「男の子の味覚は“苦味”から育つんだよ」

 カカオ90%のチョコレートをケーキにして、僕の誕生日にくれた。
 苦くて泣きそうになったのに、最後まで食べたら、父がくしゃっと笑ってくれた。

「ほらな、食べられたろ。お前は、きっと強くなる」

 ──その笑顔を、信じていた。

 信じたまま、壊れた。

 あの手は、僕を守るためではなかったのか?

 それなのに、あの文字はなんだ。

 “僕のせいだ”って?

 あの笑顔も、あの誕生日も、全部嘘だったのか。

 怒りとも、悲しみとも違う、名のない感情が胸を焼いた。

 喉の奥がつかえて、吐き出せないまま、涙だけがこぼれそうになった。

 でも、あの手はもう僕を撫でてくれない。

 むしろその手が、今の僕を“この家から切り捨てた”んだ。

 日が暮れて、街はネオンに沈み始めていた。

 所持金はゼロ。スマホも没収。財布も通帳も、全部、もう“別人の物”として奪われていた。

 コンビニで、店員に見下ろされながら唯一買えたのは、割引シールの貼られた塩むすび一個だけだった。

 駅前の公園で、自販機の光を背に、僕はベンチに座っていた。

 誰も僕に気づかない。けれど、それが妙に心地よくさえあった。

「……おにぎりって、ケーキに見えないかな」

 無理矢理笑って、袋から取り出す。てっぺんに、小さなロウソクを立てた。百均の拾い物。

 ライターはない。傍の喫煙所にいたおじさんが、黙って火を貸してくれた。

 ゆらりと火が灯る。あのときと同じ、でも、味のしない火。

「……おめでとう、自分。君は今日、自由になったんだってさ」

 そのときだった。

 背後に、誰かの気配を感じた。

 空気がわずかに変わる。風のないはずの木が、ひとつだけ揺れた気がした。

 目を向けた瞬間には、もう誰もいなかった。けれど──

「いた」

 そう確信していた。

 視線。影。沈黙のような気配。

 それは、遠く街路樹の根元に立つ、一人の“男”の輪郭。

 影の中で、ほんの一瞬だけ光が跳ねた。

 あれは、仮面……?

 ありえない。けど、なぜか確信していた。

 あれは偶然じゃない。“あいつ”は、ずっとそこにいたんだ。

 まるで、今日の僕がすべてを失うことを、知っていたかのように。

 顔は見えなかった。けれど、何かが僕に告げていた。

「ここから、始まるよ」

 僕には聞こえた。
 声にならないはずの“気配”が、確かに、そう囁いた。

 ──この夜を境に、すべてが動き出す。