俺を潰したあの家に、キスで勝つ

 僕の心に、黒い薔薇が咲いた。

 学園を追われた日、夕陽に焼かれた金の髪は、まるで罪人の烙印だった。

 薔薇が咲くには、土と、水と、絶望が要るという。

 ――ならば、今の僕はきっと、咲く準備ができていた。


「霧峰ルイ。君の行為は、貴族の品位を貶めた。よって本日をもって、退学処分とする」
 淡々と読み上げる処分書の声。拍手喝采でも起きそうな空気の中で、唯一沈黙を守っていたのが――

 彼だった。

 真神ナオト。僕の初恋で、幼なじみで、今は僕を地に堕とした男。

「……ナオト、おまえ……」

 声は震えていた。心の奥底から湧き出る言葉は、形をなさずに崩れ落ちる。足元がぐらつく。世界が歪む。

 彼は立ち上がり、白い制服の裾を払って言った。

「下等な薔薇は、咲く場所を間違えたんだよ。ルイ」

 その瞬間、意識の奥にかすかに残っていた「希望」のようなものが砕けた。

 ――それは、幼い頃の記憶。

 夏の日差しの下、僕たちは庭の片隅で薔薇を育てていた。

「ルイ、こっち、こっち!」

 ナオトは笑っていた。泥のついた手を振りながら、僕を呼ぶ。

「薔薇って、すごいよな。トゲがあるのに、花はこんなに綺麗なんだから」

 その言葉を聞いたとき、幼い僕はただ無邪気に頷いた。けれど今になって思う。あれは「傷つくことを恐れるな」と言っていたのだろうか?それとも「弱い者は、美しさより痛みを知る」……そういう意味だったのだろうか?

 僕の指先に、ナオトがそっと触れる。

「ちゃんと育てれば、絶対に咲くさ」

――その言葉を信じていた。ずっと。

 なのに今、彼の声は、あまりにも冷たい。

 目の前のナオトは、過去の記憶とは別人のように遠い。

 僕の喉から、微かな言葉がこぼれる。

「……おまえ、忘れたのか……」

 しかし、ナオトは何も言わず、ただ背を向ける。

 沈む夕陽が、その姿を赤く染めていた。

 その瞬間、目の前が暗くなった。

 息が詰まった。まるで肺に釘を打たれたような感覚。喉の奥に熱いものが込み上げてくるが、吐き出せない。言葉にできない。

 ナオトの瞳は、冷たい。かつて僕に向けられた、柔らかな春風のような眼差しはもうない。

 幼い頃、僕たちは庭で一緒に薔薇を育てた。貴族の子供らしく、華やかなものに囲まれていたはずなのに、僕はそれよりもナオトの笑顔が好きだった。土を触る彼の手。泥に汚れながらも、どこか誇らしげに赤い花を眺める横顔。

 どこか遠い記憶。今、目の前にいる彼は、僕を見下ろしていた。薔薇を踏みにじるような声で。

 何が間違えたんだろう。僕はただ、彼の隣にいたかった。

◆  ◆  ◆

 僕が霧峰家に戻ると、すでに門は閉じられていた。

 空は深い灰色に染まっていた。六月の雨が、静かに降り続けている。屋敷の石造りの壁は濡れて暗くなり、門の鉄格子には冷たい滴が伝っていた。足元の石畳も、水を含んで鈍い輝きを放っている。

 門の前に立つ。雨がまつげを濡らし、視界がぼやける。
 門の中央に掲げられた家紋――かつては誇りだったそれが、今はただ冷たく僕を拒んでいるように見えた。

 門番は僕を見つめ、一瞬だけ憐れむような表情を見せた。だが、それも一瞬のことで、彼はすぐに屋敷の奥へと走った。

 しばらくして、母が現れた。

 雨の庭に現れた母の姿は、真珠の肌と黒曜石の瞳を持つ幻のようだった。

 母の瞳は、感情を滲ませたように揺れていた。雨の雫と区別がつかないほど、静かな涙が頬を伝っているように見えた。

「ルイ……あなた、どうして……」

 その声は、かすかに震えていた。決して感情を乱すことのなかった母が、言葉の続きを探している。

「どうしてあんな子と……」

 母は、そこで言葉を詰まらせた。雨音だけが響く。

 僕は息を止めて待った。返す言葉を持っていなかった。

 母は視線を逸らし、唇を噛みしめる。

「私は……あなたが戻ってくるのを、願っていたわ。でも、もう……」

 その声が途切れた。

「もう……?」

 問いかけた瞬間、母はぎゅっと拳を握りしめ、僕に背を向けた。

「……ルイ、この家の名前を、これ以上汚さないで。お願い。出ていきなさい」

 その言葉は、冷たい決断のようだった。でも、震えていたのを僕は見逃さなかった。

 僕の肩に、母の手がそっと触れる。

「雨が冷たいわ。風邪をひかないように……」

 そう言って、母はマントをかけた。けれど、その手は一瞬だけ、離れることを惜しんだように僕の肩に残った。

 僕は言葉を探した。でも、出てきたのはただ、かすれた声だった。

「……母さん……僕は……」

 母は首を振った。もうそれ以上、言葉は交わせなかった。

 それが、霧峰家で交わされた最後の会話だった。

 門が閉じられた。

 雨が降り続ける。冷たい雨だった。


 荷物も金も、何もない。貴族の証だった指輪さえも、門を出る前に取り上げられた。

 もう帰る場所はない……

 六月の冷たい雨、傘もなく、歩き出した石畳の道に、僕の足音だけが響く。

 街は灯りに包まれていた。なのに、僕の周囲だけが仄暗かった。

 誰もいない路地裏にたどり着いたとき、ようやく膝が崩れた。

 頬を伝うのは、雨だけじゃなかった。

 そして、僕の胸にひとつの言葉が蘇る――

 『下等な薔薇は、咲く場所を間違えたんだよ』

 その言葉が、深く、深く、胸に突き刺さっていた。

◆  ◆  ◆

 雨の夜。路地裏の隅、段ボールひとつの屋根の下で、僕はじっと寒さに耐えていた。

 掌をすり合わせても、もう指先は感覚がない。息を吐けば白く、シャツの襟はすでに濡れ、胸元まで冷えきっていた。

 誰も僕を見ない。誰も僕を気に留めない。この都市の片隅で、僕は誰でもないただの "存在しない者" になった。

 華やかな夜の街に、ネオンが灯る。だがその光は、僕の居場所には届かない。

 かつての学友の名前をひとり、またひとりと思い出す。僕を指さして笑った顔。見て見ぬふりをした目。ナオトの、冷たい声。

「咲く場所を間違えた……か……」

 呟いた声は、雨音にかき消された。

 僕は両膝を抱えた。全身が震える。けれど、それは寒さのせいだけじゃない。

 誰かにすがりたい。でも、誰もいない。
 名前を呼びたい。でも、その名を呼べば、もっと壊れてしまう気がした。

 夜は長い。
 そして、誰も来ない。

 孤独は、音もなく、確実に心を蝕んでいった。

◆  ◆  ◆

 ――そのときだった。

 足音がした。

 水たまりを踏みつける音。近づく影。

 僕は顔を上げた。

 街灯の逆光の中、傘を差した男が、静かにこちらを見下ろしていた。

「……君、貴族の子だろ」

 その声は、澄んでいて低く、どこか懐かしさを孕んでいた。

 男は無言でマントを脱ぐと、僕の肩に掛けた。

 マントは雨に濡れていたのに、なぜか微かに白薔薇の香りに似た、微かに甘い匂いがした。――どこかで嗅いだことのある、懐かしい香り。

「震えてる。寒かったろう」

「……あなた、誰……?」

 声がかすれた。喉が痛い。けれど、聞かずにはいられなかった。

「名乗るほどの人間じゃないさ。ただの……裏通りの亡霊さ」

 その言葉遣いには、どこか芝居がかった優雅さがあった。路地裏の浮浪者が使うには、あまりに場違いで。

 彼の笑みは、どこか痛みを知っている者のそれだった。

 ――それが、僕と彼の最初の出会いだった。