数日後の金曜日の放課後。
東京は梅雨入りし、朝からどんよりとした空模様だったが、昼過ぎからますます黒々とした雲が覆い始め、今にも雨が降りそうな気配。
「お待たせ」
昇降口で待ち合わせをしている入江に、俺は声をかけた。
あれから入江とは連絡先を交換し、週に二日、バイトが休みの火曜日と金曜日に、勉強を教えることになった。
だからこれから、入江の家に向かう予定。
「そう言えば、姉貴がめっちゃ喜んでました」
「……それはよかった」
前回の入江宅訪問の際に、ラフ画にサインを入れてプレゼントした。
入江のお姉さんは大学四年で、就活真っただ中らしいが、希望している会社が、倍率が高いとかで、かなり気が滅入っていたそうだ。
そんなある日、バイトをしているカフェで、いつも姉の部屋に飾ってあるポスターと瓜二つのイラスを描く人物が目の前に現れた。
それも、編集者と思われる人物に『泉先生』と呼ばれていたら、確信するだろう。
姉が推している絵師の〝泉紫雨〟が、バイト先に現れたのだと。
しかもそれが、……自分が通う高校の生徒会長だとわかったら……。
入江が俺に近づいてくる目的が、好奇心なのか、揶揄いなのかはわからない。
けれど、優等生で通っている俺が、まさかBLを主としたイラストを描いているなんて、誰が思うだろう。
だから、絶対にばらさないという約束で、週に二回、勉強を見ることになったのだ。
高校がある最寄駅から四駅。駅前には入江がバイトしているカフェがあり、その前を通りすぎて、大通りから一本裏手に入った路地を進んでいると、突然、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。
「先輩っ! 走りますよっ」
「お、おう」
俺は入江の後を追うように走り出した。
*
「ハァ……ハァ……ッ……」
「大丈夫ですか……?」
「……ん」
こいつ、足が長いのは伊達じゃない。
運動も得意な俺が、息切れするほど、入江の走るスピードに追いつかなかった。
なっ、なんなんだ、こいつは……。
「どうぞ、上がってください」
玄関のドアロックが解除され、入江が玄関内へと促す。
「お、お邪魔します」
「今、タオル持ってきますね」
入江はすぐさまタオルを取りに行った。
前回来た時も思ったが、本当にハイセンスなマンションだな。
玄関に靴を脱ぐのも忍びないと思うほど、ピカピカに磨かれた玄関ポーチ。
脇に置かれた観葉植物ですら、高級ホテルに飾られていそうな大ぶりの鉢植え。
はぁ……、マジで別世界だな。
「はい、先輩。着替えは俺の服を貸しますね」
「……悪いな」
上階にある入江の自室に向かうために螺旋階段を上がり始めた、その時。
「やっぱり、シャワーを浴びた方が」
「ッ……‼」
突然入江が振り返ったため、驚いて体が仰け反ってしまい、見事に体勢を崩した俺は、そのまま階段の下へと……。
……ん? あれ? どこも痛くないぞ?
「あっっっぶね……! どこも怪我ないっすか?」
「へ? ……あ、……うん」
「よかった~~」
濡れたワイシャツ越しに伝わる入江の体温。驚いた真剣な眼差し。
怪我がないとわかり、ホッと胸を撫で下ろした表情。
俺はそのどれもに、ドキドキしてしまった。
階段から落ちそうになった俺の体を、入江が間一髪のところで抱き留めてくれたらしい。
腰に伝わる腕の強さに、思わず顔に熱が集中する。
いや、これは不可抗力だ!
危険回避で助けてもらっただけ‼
「な、……何?」
じーっと見つめられすぎて、緊張してどもってしまう。
ってか、男に抱き留められて、動揺するって……なんでだよっ!
「先輩って、耳にほくろがあるんですね」
「……っ!」
いつもは少し長めの髪で辛うじて隠れている耳上部のほくろが、入江にバレたようだ。
小さい頃に、顔立ちがかわいいと周りに言われ、女の子みたいに少し髪を伸ばしていた時期があり、いつも髪を耳にかけていた。
成長するにつれて、周りから大人っぽいだの色っぽいだの言われて、恥ずかしくて隠すようになったのだけれど。
だから、耳のほくろを見られるのは、本当に嫌なのに……。
「もっ、もういいだろ。お、お前、い、いつも……きょ、距離感おかしいんだって……!」
無理やり引きはがすみたいに腕を突っ張って距離を取る。
「ああ、はいはい、すいませんね~」
腕がゆっくりと解かれ、手すりを摑もうとした瞬間、入江からふわっとシトラスの香りが鼻腔を掠めた。
勉強だって、俺が教えなくてもいいくらい、結構スイスイ解いてしまうし。
顔だって、男の俺が見てもイケメンだと思うし。
身長だって、俺より高くて。
その上、運動もできるって……。
え……、完璧な王子として優等生で頑張ってきた俺が、霞んで見えないか……?
それだけじゃない。
人には言えない秘密を握られ、俺がこいつに勝てる部分が何一つない。
「じゃんけん、しようぜ」
「は?」
「じゃんけん、ポン!」
いきなり〝じゃんけん〟だと言い出した俺に戸惑いつつも、俺の掛け声に条件反射で手を出した。
「なっ、なんでだぁ~!」
「意味わかんないっすよ」
「もう一回だ! じゃんけん、ポン!」
……負けた。
俺はじゃんけんですら、こいつに勝てないのか。
「お前、俺に恨みでもあんのか?」
「はぁ~? なんすか、それ。ってか、超めんどくさい人っすね」
「なっ……! おまっ……、また『めんどくさい』って言ったな!」
「マジで、めんどくさっ」
入江は「あほらし」と言いながらも、なぜが楽しそうに笑った。
「今、着替えを持ってくるんで、ここで待っててください」
螺旋階段の途中に置き去りにされ、軽快に駆け上がっていく入江を眺める。
……俺、何をこんなにムキになってんだか。
「ホントに、あほらし」
東京は梅雨入りし、朝からどんよりとした空模様だったが、昼過ぎからますます黒々とした雲が覆い始め、今にも雨が降りそうな気配。
「お待たせ」
昇降口で待ち合わせをしている入江に、俺は声をかけた。
あれから入江とは連絡先を交換し、週に二日、バイトが休みの火曜日と金曜日に、勉強を教えることになった。
だからこれから、入江の家に向かう予定。
「そう言えば、姉貴がめっちゃ喜んでました」
「……それはよかった」
前回の入江宅訪問の際に、ラフ画にサインを入れてプレゼントした。
入江のお姉さんは大学四年で、就活真っただ中らしいが、希望している会社が、倍率が高いとかで、かなり気が滅入っていたそうだ。
そんなある日、バイトをしているカフェで、いつも姉の部屋に飾ってあるポスターと瓜二つのイラスを描く人物が目の前に現れた。
それも、編集者と思われる人物に『泉先生』と呼ばれていたら、確信するだろう。
姉が推している絵師の〝泉紫雨〟が、バイト先に現れたのだと。
しかもそれが、……自分が通う高校の生徒会長だとわかったら……。
入江が俺に近づいてくる目的が、好奇心なのか、揶揄いなのかはわからない。
けれど、優等生で通っている俺が、まさかBLを主としたイラストを描いているなんて、誰が思うだろう。
だから、絶対にばらさないという約束で、週に二回、勉強を見ることになったのだ。
高校がある最寄駅から四駅。駅前には入江がバイトしているカフェがあり、その前を通りすぎて、大通りから一本裏手に入った路地を進んでいると、突然、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。
「先輩っ! 走りますよっ」
「お、おう」
俺は入江の後を追うように走り出した。
*
「ハァ……ハァ……ッ……」
「大丈夫ですか……?」
「……ん」
こいつ、足が長いのは伊達じゃない。
運動も得意な俺が、息切れするほど、入江の走るスピードに追いつかなかった。
なっ、なんなんだ、こいつは……。
「どうぞ、上がってください」
玄関のドアロックが解除され、入江が玄関内へと促す。
「お、お邪魔します」
「今、タオル持ってきますね」
入江はすぐさまタオルを取りに行った。
前回来た時も思ったが、本当にハイセンスなマンションだな。
玄関に靴を脱ぐのも忍びないと思うほど、ピカピカに磨かれた玄関ポーチ。
脇に置かれた観葉植物ですら、高級ホテルに飾られていそうな大ぶりの鉢植え。
はぁ……、マジで別世界だな。
「はい、先輩。着替えは俺の服を貸しますね」
「……悪いな」
上階にある入江の自室に向かうために螺旋階段を上がり始めた、その時。
「やっぱり、シャワーを浴びた方が」
「ッ……‼」
突然入江が振り返ったため、驚いて体が仰け反ってしまい、見事に体勢を崩した俺は、そのまま階段の下へと……。
……ん? あれ? どこも痛くないぞ?
「あっっっぶね……! どこも怪我ないっすか?」
「へ? ……あ、……うん」
「よかった~~」
濡れたワイシャツ越しに伝わる入江の体温。驚いた真剣な眼差し。
怪我がないとわかり、ホッと胸を撫で下ろした表情。
俺はそのどれもに、ドキドキしてしまった。
階段から落ちそうになった俺の体を、入江が間一髪のところで抱き留めてくれたらしい。
腰に伝わる腕の強さに、思わず顔に熱が集中する。
いや、これは不可抗力だ!
危険回避で助けてもらっただけ‼
「な、……何?」
じーっと見つめられすぎて、緊張してどもってしまう。
ってか、男に抱き留められて、動揺するって……なんでだよっ!
「先輩って、耳にほくろがあるんですね」
「……っ!」
いつもは少し長めの髪で辛うじて隠れている耳上部のほくろが、入江にバレたようだ。
小さい頃に、顔立ちがかわいいと周りに言われ、女の子みたいに少し髪を伸ばしていた時期があり、いつも髪を耳にかけていた。
成長するにつれて、周りから大人っぽいだの色っぽいだの言われて、恥ずかしくて隠すようになったのだけれど。
だから、耳のほくろを見られるのは、本当に嫌なのに……。
「もっ、もういいだろ。お、お前、い、いつも……きょ、距離感おかしいんだって……!」
無理やり引きはがすみたいに腕を突っ張って距離を取る。
「ああ、はいはい、すいませんね~」
腕がゆっくりと解かれ、手すりを摑もうとした瞬間、入江からふわっとシトラスの香りが鼻腔を掠めた。
勉強だって、俺が教えなくてもいいくらい、結構スイスイ解いてしまうし。
顔だって、男の俺が見てもイケメンだと思うし。
身長だって、俺より高くて。
その上、運動もできるって……。
え……、完璧な王子として優等生で頑張ってきた俺が、霞んで見えないか……?
それだけじゃない。
人には言えない秘密を握られ、俺がこいつに勝てる部分が何一つない。
「じゃんけん、しようぜ」
「は?」
「じゃんけん、ポン!」
いきなり〝じゃんけん〟だと言い出した俺に戸惑いつつも、俺の掛け声に条件反射で手を出した。
「なっ、なんでだぁ~!」
「意味わかんないっすよ」
「もう一回だ! じゃんけん、ポン!」
……負けた。
俺はじゃんけんですら、こいつに勝てないのか。
「お前、俺に恨みでもあんのか?」
「はぁ~? なんすか、それ。ってか、超めんどくさい人っすね」
「なっ……! おまっ……、また『めんどくさい』って言ったな!」
「マジで、めんどくさっ」
入江は「あほらし」と言いながらも、なぜが楽しそうに笑った。
「今、着替えを持ってくるんで、ここで待っててください」
螺旋階段の途中に置き去りにされ、軽快に駆け上がっていく入江を眺める。
……俺、何をこんなにムキになってんだか。
「ホントに、あほらし」
