彼にはカノジョがいるけれど

 今日は朝から雨だった。
 私は比較的、登校する時間が早い。まだ人がまばらで静かな教室で、私は雨音に耳を傾けながら赤池が来るのを待った。
「おはよー」
 登校してきた芽論が挨拶をしてきた。
「おはよー」
 私もいつも通りに軽い挨拶を返す。芽論は私のことをじろじろと見ながら私の席まで来た。
「雨マジで最悪なんだけど」
「ほんとそれ」
 そしていつも通り、他愛のない会話を始めた。芽論は私の週末のデートに対して思うところがあるのかもしれないけど、少なくとも教室ではそれを口にすることはなさそうだ。他のクラスメイトもいるし。
 一人、また一人と生徒が登校するたびに、教室は湿気の匂いで満ちていく。私は芽論とのおしゃべりを続けつつ、目、耳、鼻の神経を集中させて赤池の気配を感じ取ろうとした。
「おっす」
 ギュンと耳の奥が反応した。それは赤池の声だった。私はもう芽論のことなんかどうでもよくて、完全に赤池の方に顔を向けた。
 見ると、赤池と美羽が並んで教室に入ったところだった。いつもの光景。彼らは、わざわざ示し合わせて一緒に登校している。
 赤池は少しもこちらを見なかった。そりゃそうだ。結局、芽論が言ってたことはまったくの正論で、美羽の前では赤池は浮気男でしかないのだ。
 こないだのデートのこと、赤池はどう思ってるんだろう。スマホのメッセージで聞くこともできたけど、そんなのはいくらでも取り繕える。私は生身の赤池の反応が見たい。
 すると、美羽と目が合った。やべ、と思って、すぐに瞬きをしてから目を逸らした。
 芽論は靴の裏にへばり付いたゴミを見るような目で私を見ていた。そしてこそっと囁いた。
「教室では変な動きするなよ?」
 私は小さく頷いた。
 
 放課後になると、私は赤池に声をかけた。
「部活行こう」
「お? おん」
 赤池は上ずった声で返事をした。目が泳いで、露骨に動揺している。
 その様子を見たら私も動揺してしまった。
 マジか。赤池、私のことめっちゃ意識してるでしょ……。
 私はその日の練習を精力的にこなした。部活が終われば、今日も勉強会だ。そこで、デートの答え合わせをする。目的があると人は頑張れるのだ。
 そして、あわよくば、チュ、チューも……。
 私はチューバを握る手に力を込めた。「チューバ」担当の私たちが「チュー」をするのって、もう運命なんじゃない? って、オヤジギャグすぎるか……。
 
 練習と片付けを終えた私たちは、しとしとと降る雨の中をいつものように並んで歩いた。
 そしていつものハンバーガー店の席に着き、数学の教科書を出そうとしたときに、赤池はそれを制した。
「ちょっと、話したいことがあるんだ」
 赤池が真剣な面持ちで言うので、私は背筋を伸ばした。
「あのさ……これまで、こうやって勉強を教えてくれたじゃん?」
「うん」
「で、その、本当に感謝してる」
「それは、どうも」
 話の行き先が見えなくて、私は赤池の目を見つめた。彼の表情は真剣そのもので、熱い視線を交わし合う雰囲気ではなかった。
 赤池は小さく深呼吸してから言った。
「あの……寒川」
「うん」
「これからは勉強は自分でやろうと思ってるんだ」
「……うん?」
 ……自分で?
 それってさあ……! 私は自分の頭の回転の速さを呪う暇もなく、口から言葉が飛び出した。
「ちょっと待ってよ。自分で? 赤池の成績が上がったのは私と一緒にやってたからじゃん……?」
 私の声は震えていた。
 すると、赤池は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「だから、その……感謝はしてるよ。でも、これ以上寒川に迷惑をかけたくないし」
「迷惑⁉ そんな! 私はやりたくてやってるの。私は勉強が得意なの。こんなのなんてことないんだよ」
「寒川」
 赤池は諭すように冷静な声で言った。その声は私の胸に刺さるようだった。
「わかってくれよ」
「わかんないよっ……!」
 私はかぶりを振った。
「寒川」
 赤池の冷たい声は、また私を刺した。
「じゃあ本当のことを言うと……もうやめてほしいんだ」
 世界がぐにゃりと歪んだ。赤池が何を言っているのか、私には理解できなかった。
「俺はこれ以上、美羽のことを裏切れないから」
 彼は相変わらず真剣な顔だった。
「赤池……」
 そう言われてしまっては、もうどうしようもない。私は膝の上で手をぎゅっと握った。
「これも返す」
 赤池は、私があげたイヤリングを財布から取り出してテーブルに置いた。
「俺と寒川は、ただのクラスメイト。ただの部活仲間。特別なことは何もなかった。……そういうことにさせてほしい」
 赤池の言葉のひとつひとつが私を刺した。どんどん血の気が引いていく。
 赤池は続けた。
「ズルいこと言ってるのはわかってるんだけど……俺にはもう無理だよ。あと念のために言うけど、美羽に何かしようとか思うなよ。これは俺の問題だから」
 私は声を震わせた。
「……ねえ」
「ん?」
「私たちって、いい雰囲気だったよね」
 赤池は答えなかった。私はその沈黙を肯定だと認識した。
 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。互いに目を合わせない。呼吸をするたびに、重苦しい空気が肺に流れ込んだ。
 先に沈黙を破ったのは私だった。
「……あのさ」
「うん」
「最後にひとつだけ……お願いを聞いてくれない?」
「え、うん」
 もう、取り繕っても意味がない。私は胸に手を当てた。手のひらに激しい鼓動が伝わってくる。
 私は甘えた声を振り絞った。
「あの……私と、チューしてほしいな」
 言った途端、達成感から全身がゾワッと震えた。言ったぞ。私の思いの丈。
 はあ、と聞こえるほどのため息が赤池から漏れた。
「寒川」
 赤池は私を哀れむような目で見ていた。
「そういうの、やめた方がいいと思うよ」
 私は思わずひゅっと息を飲んだ。まったく思いがけない赤池の言葉に、心臓が止まった気がした。
「悪いけど、俺もう行くね」
 赤池はそう言い残して立ち上がり、ゆっくりと店内を後にした。
 ぽつんと一人取り残された私はテーブルに目をやった。赤池の飲み残したウーロン茶の紙コップがある。
 私はそれを手に取り、ストローを咥えた。一口吸うと、それは赤池の唇の味がした気がした。
 それから私は涙が止まらなかった。