彼にはカノジョがいるけれど

 漫画をいろいろと物色した私たちは、結局何も買わずに書店を後にした。
 外に出ると、都会の喧騒が私たちを迎えた。私は脳を働かせて、事前にシミュレーションしていた次の展開を再確認した。
 そして緊張を悟られないようにしながら聞いた。
「まだ時間あるよね?」
「おう」
「ちょっと座りたくない?」
「だな」
「あの、カラオケとか、どう?」
 思わず声が上ずりそうになった。
 カラオケボックス。狭い部屋で、二人きり。比較的メジャーな遊び場でありながら、未成年が安全に下心を発揮できる最強の選択肢だと思う。
 赤池は私に心を開いてくれていると思う。だから、この提案に乗ってくれる可能性はそれなりにあると踏んでいた。
 カラオケボックスで、いったい何をする? 私の胸の中で、下心という下心がパンパンに膨れあがっていた。
 一瞬だけ、赤池の視線が揺れた気がした。
「ああ……カラオケね……」
 私は次の言葉を待った。ところが。
「悪い。俺さあ、歌はダメなんだよね。カフェとかでよくね?」
 私の心はあっという間にへなへなとしぼんでしまった。
「うん……そうね。いいよ」
 さらに赤池にリードを奪われる展開になってしまい、わたしは戸惑いながら赤池に並んでカフェへ向かった。
 
 カフェに着くと、レジから伸びるお客さんの列に驚いた。運よく先に席を確保できた私たちは、ハンカチを置いてからレジに向かう列に並んだ。
 ここは人気のチェーン店だけど、私はカフェになじみがない。普段、私が芽論や赤池と寄るお店は、フライドポテトやコーラが提供されるようなところだ。
「私、ここ初めて来た」
「え、マジ?」
 私が何の気なしに放った言葉に、赤池は随分と驚いていた。
「女子の方がこういう店は好きだと思ってた」
「そんなの人によるでしょ」
 私はムッとした。その「女子」って、誰をイメージして言ってる?
 怒っても仕方がないので、私はスマホでメニューを見た。ドリンクメニューがビバレッジと表記されているのを見て、また少しだけイラッとした。しかも、どれもこれも舌を噛みそうな長いカタカナの飲み物ばかりだ。こんな店が好きな女、ろくな奴じゃないと思う。
 かといって、この店内でミルクやココアといったシンプルすぎる名前を口に出すのも気が引ける。アウェーの空気をひしひしと感じながら、私は間を取って抹茶ラテを注文した。
 赤池はマンゴーティー。そのおしゃれなチョイスには意外性があり、私の中の赤池の株が一つ上がった。
 席に着いた私たちは、他愛もない会話を交わした。学校のこと、部活のこと。それはもちろん楽しいんだけれど、これでは普段の放課後と大差がない。
 もしも、これがカラオケボックスだったら。普段はできないような、あれやこれやが待っていたかもしれないのに。
 私は赤池の手を見つめた。少し色黒で、男らしい指毛の生えた手。ふと、私は思いついたアイデアを実践した。
「ねえ、男子ってさあ、あんまり占いとかに興味ないよね」
「そうだな。俺はこれっぽっちも興味ない。女子は好きだよな、血液型の話とか」
「私さあ、手相が見れるんだ。赤池のこと、見てあげるよ」
 生命線、運命線、あと頭脳線とか? だいたい長けりゃいいんでしょ、多分。
「手相?」
「うん。ほら、手を出して」
 私が促すと、赤池はおずおずと右手を差し出した。
 私は鼻息が荒くならないように気を付けながら、赤池の右手に両手をそっと添えた。しまった、先に手汗くらい拭くべきだった。そう思ったがもう遅く、私の両手は彼の手をじっとりと包み込んでいた。
 私は人差し指で彼の手のひらをなぞった。
「これが生命線」
 そう言ってから、ちらりと赤池の表情を窺った。
 赤池は目を見開いて、口を真一文字に結んでいた。そして私の視線に気が付き、彼もちらりと視線を上げた。
 熱い視線が交わると、私の脳髄は甘い蜜で満たされたようだった。私は視線を外さないまま、彼の生命線を人差し指でゆっくりと往復させた。
 すると、赤池の手が閉じて私の手を握った。予期せぬ反応に驚き、私はその手に視線を向けなおした。私の手が、彼のごつごつとした手に食べられているように見えた。
 あまりの衝撃に汗が噴き出た。全身が熱せられたバターのようにとろけていくような感覚に陥る。もうこのまま死ぬんじゃないかな、私。
 ところが、それに水を差すように、テーブルに置かれた赤池のスマホが鳴った。とろけたままで画面を見ると、そこには美羽からのメッセージが通知されていた。
 それを合図に赤池の手はぱっと離れ、スマホを勢いよく取った。そして手で口を覆いながらスマホを操作し始めた。
 美羽に遮られても、私の興奮が収まることはなかった。もちろん、あの時間がもっと続けばよかったのにとは思ったが、それでも私には充分すぎるほどの衝撃だった。
 まさか、美羽って、いつもこんなことをしてるのかな。そう思ったら、美羽のことがとても大人であるように感じられた。あの子は私よりもずっと先を行ってる。やっぱり美羽は、すごい。
「あの、そろそろ、行く?」
 赤池が遠慮がちに尋ねてきた。
「ん……そうだね」
 息が整ってきた私もそれに同意し、残っていた抹茶ラテを一気に飲み干した。