キーボードの音が響くオフィスで、私は眉間にしわを寄せながら細かいエクセルの資料と格闘していた。視界の端で、うちの課長が歩いてくるのが見えた。私は気にせずにエクセルを編集していたが、課長は私の横で立ち止まった。
「寒川さん」
課長に呼ばれた私はパソコンから視線を外した。
「はい」
「今からちょっといい?」
「え、はい」
すると、課長は何も説明せずに歩き始めた。私も慌ててメモ帳とペンを手に取って後を追った。
課長はある会議室をノックし、ドアを開けて中に入った。なんだかよくわからなかった私は、少しだけ背中を丸めて一緒に入った。
そこには四人の社員が並んで座っていた。全員、知らない顔だ。何の打ち合わせなのかを推し量ろうとしたが、ちっともピンと来ない。
「寒川さんはそこに座って」と、課長がテーブルの真ん中に位置する椅子を指した。
ということは、きっと私に関する話だ。そろそろ新人教育期間も終わるし、そのための面談だろうか。
言われた通りにおずおずと椅子に座ると、課長は私の横の椅子に座った。
四人の社員のうち、鋭い目をした一人が話し始めた。その人は人事部だと名乗った。ということは、やっぱり教育期間の話? それとも昇進とか?
「寒川さん。来てもらったのは青野さんの件です」
人事部員の口から青野さんの名前が飛び出し、私の心臓は止まりそうになった。全身から汗が噴き出る。
まさか、バレたのか。不倫関係が。そんな、どうしよう。青野さんのキャリアに傷が付くかも。もちろん私もそうだけど、まだ新人だから青野さんに比べれば傷は浅いだろう。
私が出目金みたいに目を丸くして口をぱくぱくさせていると、人事は鋭い視線をこちらに向けたまま話を続けた。
「青野さんは会社を休んでいますよね。その理由に心当たりはありますか?」
「え、いいえ……」
人事の目が、ぎろりとこちらを睨んだ。私は思わず首をすくめた。
「青野さんはあなたからのセクシュアルハラスメント被害を告発しました。青野さんはその心労で休んでいます」
きっぱりと、人事はそう言い放った。でも私は少しも理解できずにきょとんとした。私が、セクハラ?
「では確認させてください。あなたは出張先で、既婚者である青野さんに対して性的な接触の要求を繰り返していませんでしたか?」
人事からそう問われて、私は出張のことを振り返った。もう不倫のことは筒抜けなんだろうか。脇が汗でびしょびしょになるのを感じながら、私は慎重に説明した。
「あのですね、それは、その、お互いの合意の上です……」
「なるほど。それを証明できるものはありますか?」
人事に問われて、私はまた考えを巡らせた。しかし、何も思いつかない。
「いいえ……」
「そうですか。では次です。あなたは社内チャットで、青野さんに対して執拗に離婚を要求しましたね。これはチャットのログとスクリーンショットから確認が取れています」
私は息を飲んだ。じゃんじゃん送ってたのは事実だけど、それがセクハラ? 私は深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、机の下で握りこぶしを作った。これは闘わないと。
私は震える声で言った。
「確かに送りましたが……それは正当なものです」
「と言うと?」
「青野さんは今の奥さんと別れる予定だと言っていました」
「なるほど。それを証明できるものはありますか?」
「……いいえ」
青野さんとのこの手のやりとりは全て口頭だった。記録なんて何もない。
いや、待てよ……! 私は興奮してまくし立てた。
「あ! こないだ! 出張先でレンタカーに乗ったので、そのドライブレコーダーに会話が残っているかもしれません!」
すると、人事の眉がぴくりと動いた。
「なるほど。わかりました。では次です」
ところがあっさりと話を終えられてしまい、私は唇を噛んだ。
「寒川さん、あなたは社内で青野さんに執拗に付きまとっていましたね。これは他の社員からも証言が取れています」
私はまた自分を顧みた。いや、そもそも隣の席だし……と思ったものの、青野さんが給湯室へコーヒーを入れに行った際に、これを機にと押しかけて雑談をしたことは何度もあった。
「それは、その……はい……」
そこに弁解の余地はなかった。ちらりと横目で課長の顔を見たら、無表情で机を見つめていた。
でも、相思相愛だったから。給湯室で親密にするなんて何もおかしくないはず。そう言いたかったけど、また証拠を求められるのが目に見えたのでやめた。
人事の鋭い目がきらりと光った。
「では、あなたへの処分をお伝えします」
処分という重たい言葉を聞いたら思わず背筋が伸び、恐ろしくて顔をしかめた。
「まず、被害者である青野さんとの距離を取るために、あなたには地方の支社へ異動してもらいます」
「え……」
私は目の前が真っ暗になった。それは死刑宣告に近い処分だった。青野さんとの、距離を……?
「なお、ハラスメント事案そのものへの処分については、本日のヒアリング結果も踏まえて後日最終決定となります」
「えっと……それって、懲戒とかそういったものでしょうか」
「まあ、平たく言えばそうです」
頭の中で足元が崩れる音が響いた。社会人になってから二年目で、懲戒……⁉
私は魂が抜けたような顔で天井を仰いだ。どうしてこうなった……。
「こちらからの話は以上です。何か質問などはありますか?」
そこで、私はふっと湧いた疑問を口にした。
「ところで……青野さんの処分はどうなりますか」
「え?」
人事は眉をひそめ、他の社員と目配せしてから言った。
「寒川さんの異動に合わせて職場復帰する予定です」
それは少しだけ私を安心させた。よかった。青野さんは無事だ。
「……わかりました。私からも以上です」
重い空気を身にまとったまま、私と課長は会議室を出た。そして私たちは死んだような顔を見合わせた。
「あの、課長……ご迷惑をおかけしてすみません……」
「まったく、ね……」
今にも死にそうな課長は、どうにか片方の口角を上げて苦笑いを作った。
「そうだ寒川さん、ちょっとお願いがあるんだ」
「はい?」
「青野さんに早く復帰してほしいから、異動日よりも前から有給で休んでくれないかな。その、できれば明日から」
「えええ……?」
それはいくらなんでも理不尽ではないか。私は抗議の目を向けた。
「あのね。新人であるあなたのせいで、優秀な青野さんの仕事がストップしているの。会社にとってどっちがより重要なのか、わかるよね?」
ぐうの音も出なかった。
「でも、明日からってのは早すぎませんか? 業務の引継ぎとか……」
「あなたの仕事は教育係である青野さんが把握しているはずでしょ」
私はまた閉口した。まったくもってその通りだ。
「今から席に戻ったら、進行中のクライアントとのやり取りを全部私に送っておいて。それが終わったら席を片付けていいから」
「え、片付け……」
「段ボール箱にまとめておいてくれればいいよ。後はこっちで異動先に送っておくから」
課長はまるで全部決まっていたかのように次々と指示を出した。逃げ道は少しもない。
自席に戻った私は、言われた通りに課長へメールを送り、段ボール箱に荷物を詰め始めた。
周りからの視線が痛い。ひそひそと話す声も聞こえる気がする。私はそれらをなるべく無視したが、こらえきれずに内臓がぞわぞわと不快にうごめいた。
言いたい。
これは、違うんだと。
私たちは、結ばれるはずだったんだと。
でも、人事にあれだけ追及された後だ。そんなことは言えるはずもなかった。
デスクの片付けが終わった私は、課長に付き添われて会社を出た。
私は振り返ってオフィスビルを見上げた。すると冷たい冬の風が吹き、思わず目を細めた。乾燥で割れた唇の痛みを感じながら、私は青野さんと過ごした日々を思い出した。
私に仕事を教えてくれて、悪質なクライアントから守ってくれた。二人で他愛のない雑談をいくらでもした。そして私からの愛を受け止めてくれて、出張先では体を重ねた。
それがなぜ、セクハラなどと断じられなければならないのか。
私はスマホを開いた。メッセージアプリには、青野さんとのやり取りの履歴が残っている。青野さんの指示で、そこには業務連絡以外のやり取りを残していなかった。
『好きです』
私はその文字を入力してから消した。これまでにも同じことを何度もしてきた。
スマホの画面が滲んでよく見えない。私の目から流れ落ちた涙は、アスファルトに吸い込まれてすぐに消えた。
ああ。
好きになった。それだけだったはずなのに。
「寒川さん」
課長に呼ばれた私はパソコンから視線を外した。
「はい」
「今からちょっといい?」
「え、はい」
すると、課長は何も説明せずに歩き始めた。私も慌ててメモ帳とペンを手に取って後を追った。
課長はある会議室をノックし、ドアを開けて中に入った。なんだかよくわからなかった私は、少しだけ背中を丸めて一緒に入った。
そこには四人の社員が並んで座っていた。全員、知らない顔だ。何の打ち合わせなのかを推し量ろうとしたが、ちっともピンと来ない。
「寒川さんはそこに座って」と、課長がテーブルの真ん中に位置する椅子を指した。
ということは、きっと私に関する話だ。そろそろ新人教育期間も終わるし、そのための面談だろうか。
言われた通りにおずおずと椅子に座ると、課長は私の横の椅子に座った。
四人の社員のうち、鋭い目をした一人が話し始めた。その人は人事部だと名乗った。ということは、やっぱり教育期間の話? それとも昇進とか?
「寒川さん。来てもらったのは青野さんの件です」
人事部員の口から青野さんの名前が飛び出し、私の心臓は止まりそうになった。全身から汗が噴き出る。
まさか、バレたのか。不倫関係が。そんな、どうしよう。青野さんのキャリアに傷が付くかも。もちろん私もそうだけど、まだ新人だから青野さんに比べれば傷は浅いだろう。
私が出目金みたいに目を丸くして口をぱくぱくさせていると、人事は鋭い視線をこちらに向けたまま話を続けた。
「青野さんは会社を休んでいますよね。その理由に心当たりはありますか?」
「え、いいえ……」
人事の目が、ぎろりとこちらを睨んだ。私は思わず首をすくめた。
「青野さんはあなたからのセクシュアルハラスメント被害を告発しました。青野さんはその心労で休んでいます」
きっぱりと、人事はそう言い放った。でも私は少しも理解できずにきょとんとした。私が、セクハラ?
「では確認させてください。あなたは出張先で、既婚者である青野さんに対して性的な接触の要求を繰り返していませんでしたか?」
人事からそう問われて、私は出張のことを振り返った。もう不倫のことは筒抜けなんだろうか。脇が汗でびしょびしょになるのを感じながら、私は慎重に説明した。
「あのですね、それは、その、お互いの合意の上です……」
「なるほど。それを証明できるものはありますか?」
人事に問われて、私はまた考えを巡らせた。しかし、何も思いつかない。
「いいえ……」
「そうですか。では次です。あなたは社内チャットで、青野さんに対して執拗に離婚を要求しましたね。これはチャットのログとスクリーンショットから確認が取れています」
私は息を飲んだ。じゃんじゃん送ってたのは事実だけど、それがセクハラ? 私は深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、机の下で握りこぶしを作った。これは闘わないと。
私は震える声で言った。
「確かに送りましたが……それは正当なものです」
「と言うと?」
「青野さんは今の奥さんと別れる予定だと言っていました」
「なるほど。それを証明できるものはありますか?」
「……いいえ」
青野さんとのこの手のやりとりは全て口頭だった。記録なんて何もない。
いや、待てよ……! 私は興奮してまくし立てた。
「あ! こないだ! 出張先でレンタカーに乗ったので、そのドライブレコーダーに会話が残っているかもしれません!」
すると、人事の眉がぴくりと動いた。
「なるほど。わかりました。では次です」
ところがあっさりと話を終えられてしまい、私は唇を噛んだ。
「寒川さん、あなたは社内で青野さんに執拗に付きまとっていましたね。これは他の社員からも証言が取れています」
私はまた自分を顧みた。いや、そもそも隣の席だし……と思ったものの、青野さんが給湯室へコーヒーを入れに行った際に、これを機にと押しかけて雑談をしたことは何度もあった。
「それは、その……はい……」
そこに弁解の余地はなかった。ちらりと横目で課長の顔を見たら、無表情で机を見つめていた。
でも、相思相愛だったから。給湯室で親密にするなんて何もおかしくないはず。そう言いたかったけど、また証拠を求められるのが目に見えたのでやめた。
人事の鋭い目がきらりと光った。
「では、あなたへの処分をお伝えします」
処分という重たい言葉を聞いたら思わず背筋が伸び、恐ろしくて顔をしかめた。
「まず、被害者である青野さんとの距離を取るために、あなたには地方の支社へ異動してもらいます」
「え……」
私は目の前が真っ暗になった。それは死刑宣告に近い処分だった。青野さんとの、距離を……?
「なお、ハラスメント事案そのものへの処分については、本日のヒアリング結果も踏まえて後日最終決定となります」
「えっと……それって、懲戒とかそういったものでしょうか」
「まあ、平たく言えばそうです」
頭の中で足元が崩れる音が響いた。社会人になってから二年目で、懲戒……⁉
私は魂が抜けたような顔で天井を仰いだ。どうしてこうなった……。
「こちらからの話は以上です。何か質問などはありますか?」
そこで、私はふっと湧いた疑問を口にした。
「ところで……青野さんの処分はどうなりますか」
「え?」
人事は眉をひそめ、他の社員と目配せしてから言った。
「寒川さんの異動に合わせて職場復帰する予定です」
それは少しだけ私を安心させた。よかった。青野さんは無事だ。
「……わかりました。私からも以上です」
重い空気を身にまとったまま、私と課長は会議室を出た。そして私たちは死んだような顔を見合わせた。
「あの、課長……ご迷惑をおかけしてすみません……」
「まったく、ね……」
今にも死にそうな課長は、どうにか片方の口角を上げて苦笑いを作った。
「そうだ寒川さん、ちょっとお願いがあるんだ」
「はい?」
「青野さんに早く復帰してほしいから、異動日よりも前から有給で休んでくれないかな。その、できれば明日から」
「えええ……?」
それはいくらなんでも理不尽ではないか。私は抗議の目を向けた。
「あのね。新人であるあなたのせいで、優秀な青野さんの仕事がストップしているの。会社にとってどっちがより重要なのか、わかるよね?」
ぐうの音も出なかった。
「でも、明日からってのは早すぎませんか? 業務の引継ぎとか……」
「あなたの仕事は教育係である青野さんが把握しているはずでしょ」
私はまた閉口した。まったくもってその通りだ。
「今から席に戻ったら、進行中のクライアントとのやり取りを全部私に送っておいて。それが終わったら席を片付けていいから」
「え、片付け……」
「段ボール箱にまとめておいてくれればいいよ。後はこっちで異動先に送っておくから」
課長はまるで全部決まっていたかのように次々と指示を出した。逃げ道は少しもない。
自席に戻った私は、言われた通りに課長へメールを送り、段ボール箱に荷物を詰め始めた。
周りからの視線が痛い。ひそひそと話す声も聞こえる気がする。私はそれらをなるべく無視したが、こらえきれずに内臓がぞわぞわと不快にうごめいた。
言いたい。
これは、違うんだと。
私たちは、結ばれるはずだったんだと。
でも、人事にあれだけ追及された後だ。そんなことは言えるはずもなかった。
デスクの片付けが終わった私は、課長に付き添われて会社を出た。
私は振り返ってオフィスビルを見上げた。すると冷たい冬の風が吹き、思わず目を細めた。乾燥で割れた唇の痛みを感じながら、私は青野さんと過ごした日々を思い出した。
私に仕事を教えてくれて、悪質なクライアントから守ってくれた。二人で他愛のない雑談をいくらでもした。そして私からの愛を受け止めてくれて、出張先では体を重ねた。
それがなぜ、セクハラなどと断じられなければならないのか。
私はスマホを開いた。メッセージアプリには、青野さんとのやり取りの履歴が残っている。青野さんの指示で、そこには業務連絡以外のやり取りを残していなかった。
『好きです』
私はその文字を入力してから消した。これまでにも同じことを何度もしてきた。
スマホの画面が滲んでよく見えない。私の目から流れ落ちた涙は、アスファルトに吸い込まれてすぐに消えた。
ああ。
好きになった。それだけだったはずなのに。



