彼にはカノジョがいるけれど

 お正月のリビングでは、テレビのお笑い番組がダラダラと流れていた。きっと面白いことを言っているはずなのに、私の心には少しも響かない。
 年末年始の休暇の間、私は青野さんのことを考え続けた。会社では恋愛的な行為ができなくとも、青野さんには会えた。でも、休みの間は会えない。
 今ごろ何をしているだろうか。車の運転が好きな青野さんのことだから、自家用車で実家に帰っているかもしれない。地方出身の青野さんの実家では、きっと男衆が酒を飲み、女衆が食事の用意をする前時代的な風習が残っているに違いない。いずれ私が妻となった際には、実家とは距離を取らせてもらおう。
 そうこうしながら三が日は過ぎ、新しい年の勤務が始まった。あけましておめでとうございます、などと定型の挨拶を交わすものの、私の気分はちっともめでたくない。青野さんとの日々が終わるタイムリミットが近づくばかりだ。

 年明け早々に、青野さんと一緒の出張があった。でも今回は日帰り。カーラジオをつけてからレンタカーのハンドルを握る青野さんはいつも通りに見える。私もいつものように助手席に座ったけど、内心は全く穏やかではなかった。
 車が走り出すと、私はすぐに口火を切った。
「奥さんとはどうですか」
「ああ……それね」
 青野さんはすぐには答えなかった。でも交差点でウィンカーを出して右折するところだったので、私は邪魔をしないように黙った。
 ようやく曲がり終えて直進になったので、私はもう一度聞いた。
「奥さんとはどうですか」
「まあ、すぐには難しいから、もうちょっと待ってよ」
 青野さんはそう言うとラジオの音量を上げた。まあ、これからクライアントに会うのだ。余計な話に耳を傾けたくはないのかもしれない。
 それに、青野さんの言うことも理解はできる。離婚というのはきっと簡単ではない。なかなか奥さんを納得させられないかもしれないし、慰謝料だって請求されるかもしれない。幸いなことに子どもはいないから、その点での心配はないけど。
 ラジオのパーソナリティの男性が、低い声でお便りを読み上げていた。
 えーでは、ラジオネーム・緑のエプロンさん。いつも楽しく聞いております。毎年お正月には夫婦でハワイへ行きます。ところが今年は妻がノロウイルスに感染してしまい、当日になって予定をキャンセルする羽目になってしまいました。おかげで妻は病床で寝正月でした。皆さんも体調にはお気を付けください。いやあ、それは大変でしたね。ノロウイルスってつらいんですよね。……。
 私は黙ってラジオのお便りを聞いていた。すべての原因は、青野さんに奥さんがいることだ。ノロウイルスでも何でもいい、事故や病気でいなくなってくれないものだろうか。
 私は右手をぎゅっと握りしめて呪いを込めた。そして、その手で青野さんの肩にそっと触れた。
「おい! 運転中だぞ!」
「……ごめんなさい」
 青野さんが声を荒げたので、私はしゅんとした声を作って謝った。
 もう、頼むよ青野さん。すべてはあなたにかかっているんだから。

 それから私たちは用事を終え、駐車場に停めてある車に戻った。まだ帰るには早いので、私たちの会社の支社に寄って少し仕事をしてから直帰する予定だ。
 でも、私は車を発進させる前に呼び止めた。
「待ってください青野さん」
「ん、何?」
 そして、私は助手席から青野さんの左手をつかんだ。青野さんは慌てて手を振りほどこうとしたけど、私の手はスッポンのようにしっかりと食らいついていた。
「ダメだよここでは……」
 ホテル以外の場所で青野さんに接触したのは初めてのことだった。おろおろとしながら周囲を見回す青野さんのことを私はなだめた。
「大丈夫です。誰もいません。私の手、冷たくてごめんなさい」
「いや、まあそれは平気だけど」
「私、年末年始もずっと青野さんのことを考えていたんです。会いたくて会いたくてしょうがなかったんです。だからこのくらいは許してください」
 すると青野さんの口からため息が漏れた。
「はいはい。五分したら行くよ?」
「それでいいです」
 私は手の神経すべてを使って青野さんを堪能した。私の指先が手のひらをなぞると、青野さんの指も少しだけ動いて私の手の甲に触れた。たったこれだけのことで、出発時にささくれ立った私の気持ちは穏やかになる。
 次にふさふさとした手の毛を弄んでいると、薬指の指輪に触れた。私はそれをぐいと押してみたものの、関節に引っかかってピクリとも動かなかった。私の胸の中で黒いものがどろりと流れるのを感じた。
 それを打ち消したくて、私は青野さんの手を引っ張って自分の太ももに誘った。青野さんはその手をじっと見つめていた。ごつごつとした男らしい手が私の柔らかい部分に触れると、脳がとろけてしまいそうになった。
「もう五分だ」
 青野さんはそう言うと手をすぐに引っ込めた。そして車のサイドブレーキを下ろしてラジオの音量を上げると、私のシートベルトを確認せずにさっさと車を走らせた。
 私はシートベルトを締めてから、青野さんに触れられた太ももをそっと撫でた。そこにはまだ手の熱が残っているように感じられた。
 やっぱり私、幸せだ。この人と一緒にいられると、すごく幸せだ。
 支社に着くまでの間、私はうっとりとしながら自分の太ももに触れ続けた。

 支社で一仕事を終えた私たちは、レンタカーを返してから駅に向かった。
 私は無理を承知で聞いてみた。
「直帰するなら、ちょっとだけでも飲んでいきませんか?」
 青野さんは真顔で答えた。
「悪いけど、行かなきゃだから。次の新幹線の席を取ってあるんだよ。じゃあね」
 そしてあっという間に改札の中に消えて行ってしまった。
 私は大きなため息をついた。今は一月。こうやって一緒に出張できるのは、三月でおしまい。しっかり話し合おうと思っていたのに、青野さんにかわされてしまった。
 待つしかないのかなあ、離婚。
 でも、ちっともいいアイデアが思い浮かばない。仕方がないので、親へのお土産を買ってから私も新幹線に乗り込んだ。
 私は通路側の席に深く腰掛けて目を閉じた。
 しょうがない。私は私のできることをしよう。青野さんのお尻を叩き続けることだけだ。
 また明日、会社で会う。次はちょっと強めにチャットを送ってやろうかな。
 そんなことを考えているうちに、私はいつしか眠りに落ちていた。

 ところが次の日、青野さんは会社に来なかった。
 その翌日、またその翌日も、青野さんが会社に顔を出すことはなかった。