彼にはカノジョがいるけれど

 夜七時。青野さんからメッセージが来た。
『仕事終わった。コンビニ行く?』
 まったく……もう。夕方まで仕事とか言って、七時は完全に夜でしょ。私は心の中で毒づいたものの、すぐに尻尾を振って返信を送った。
『行きます!』
 既に持参したジャージに着替えていた私はさっと部屋を出て、ホテルの一階に併設されたコンビニで青野さんと合流した。
「お疲れ様ですぅ」
「ん、お疲れ」
 ワイシャツにスラックスという仕事着のまま、青野さんは愉快そうな顔で現れた。私も口角が上がりすぎないように気を付けて笑顔を向けた。
 青野さんは珍しそうに私の姿を見た。普段の宿泊出張の場合は、外で食事を終えてから部屋に戻ってジャージに着替える。だから、この姿を青野さんに見せたのは今回が初めてだ。
「部屋着、持ってくる派なんだね」
「はい、備え付けのやつは好きじゃなくて」
 特に東横インのルームウェアは好きじゃない。白いシンプルなワンピースタイプで、いかにも寝間着だ。寝るだけならいいかもしれないけど、それで部屋の外に出るのはためらわれる。
 私たちはそれぞれ、好きな弁当やお酒を買い込んだ。私はハイボール。青野さんはビール。
 そして二人でエレベーターに乗り込み、私の部屋ではないフロアで降りた。
 ビニール袋をガサガサと鳴らしながら、私は青野さんの後ろを緊張しながらついていった。ビジネスホテルの廊下をうろつく人はいないので、誰ともすれ違うことはない。でも、私は誰かに見てほしかった。今から青野さんの部屋でお酒を飲む私を。
 青野さんはある部屋の前で立ち止まった。カードキーをかざすと、かちゃりと鍵が開いた。
「はいどうぞ」
 そう青野さんに促されて、私は中に入った。そこは私の部屋と何ら変わりのないシングルの客室だった。明るい壁紙、壁付けのテーブル、一脚の椅子。 
 私たちは買い込んだお酒などを狭いテーブルに広げた。でも椅子は一つしかない。
「座っていいよ」
 私がキョロキョロしたことに気が付いたのか、青野さんは椅子を譲ってくれた。
「ありがとうございます」
 私が椅子に座ると、青野さんはベッドに腰掛けた。……私もそっちがよかったな。
「じゃあ飲もうぜ。お疲れー」
「お疲れ様ですぅ」
 缶のプルタブをプシッと開け、ハイボールを一口だけ胃に流す。炭酸とアルコールが私の内臓を刺激し、気持ちをさらに高揚させた。
 でも、私はとにかく空腹だったので、ひとまず買ってきた唐揚げ弁当をがつがつと食べた。唐揚げとハイボールは本当に合う。
 私たちはこれまでと同じように楽しくお酒を飲んだ。少し酔いが回っていることもあり、普段の雑談に加えて上司に対する愚痴なども混ざる。でも、そこまでは普段のお酒の席と変わらない。
 その空気を変えたのは青野さんの言葉だった。
「そういえばさあ、寒川さんって、モテるでしょ」
 想像していなかった質問が飛んできて、私は思わずむせた。
「んん! い、いや、全然ですよ。モテとは無縁の地味な女子です」
「そうなの? でも寒川さんって人との距離が近いでしょ。今日もこうやって部屋飲みなんかしてさ。男子を勘違いさせる無自覚なモテ女だったんじゃないの?」
 青野さんはにやりと笑って私をからかった。
「違いますよー。誰にでもこういうことするわけじゃないです」
「ふーん」
 青野さんは何かを考える顔をしてから缶ビールを一口飲んだ。少し赤らんだ顔で、ふう、とアルコール混じりの吐息を漏らした。
「寒川さん、ひとつ聞いていい?」
「はい」
「あの、前から思ってたんだけどさあ……」
「はい」
「そのう……これ、嫌だったら嫌って言ってほしいんだけど」
「はい」
 何かが始まる予感がして、私は唾をごくりと飲み込んだ。
「寒川さんって俺のことどう思ってる?」
 スッと急所を刺すような一言に、私は目を見開いた。心臓の暴れる音が聞こえる。
 私の気持ちがバレてる。いや、ちっとも隠していなかったという自覚はあるけど。
 職場では誰よりも明るい挨拶を返した。給湯室にコーヒーを入れに行くタイミングを狙って雑談をした。私の面倒を見ながら自分の業務をこなす大変さに、労いのメッセージカードを渡した。
 そして極めつけはこの部屋飲みだ。部屋に上がり込んで、誰にでもこういうことするわけじゃないって、もう答えを言っているようなものだよね。
 それでも、私は直接的なことは言えなかった。行動はできるけど、それを口に出すというのは別の勇気がいる。
 私は顔を赤らめつつ、曖昧な返事でごまかした。
「まあ、その、そういうあれですよ……」
「寒川さん」
 青野さんの声のトーンが変わった。優しさと厳しさを合わせた声。仕事の時のそれだ。
「行間を読ませるようなメールは書くなって教えたよね?」
「……はい。認識の齟齬が発生すると困るので」
 自らの教えをきちんと口にした私を見て、青野さんは嬉しそうな顔をした。
「そうだな。じゃあ、どうぞ」
 酔っているせいか、胸の鼓動がいつも以上に激しく耳の中で響いた。私は唇を震わせながら言った。
「私は……青野さんのことが、ずっと、好きです……」
 一度しゃべりだすと、後はもう止まらなかった。
「仕事に対する情熱とか、クライアントに物おじしない姿勢とか、青野さんの全部が好きです。今日だって、青野さんと一週間も一緒に仕事ができるって思って、楽しみでしょうがなかったんです。少しでも一緒にいたいのに、今日は飲みに行かないとか言われて、すごくショックだったんですけど、逆に部屋飲みならもっと親密になれるかな、なんて思って、そのう……」
「待った待った」
 青野さんは苦笑いを浮かべて、手のひらをこちらに向けて制した。
「ちょっと想像以上だったな」
「す、すみません……」
 しまった……。これは引かれたかも。
 でも、青野さんは優しく微笑んだ。
「こっち来る?」
 そう言って、腰掛けたベッドをぽんぽんと叩いた。私はそこに甘い蜜があるように錯覚した。猛烈な香りで私をおびき寄せる蜜。
 私は椅子から立ち上がり、とと、と軽やかな二歩でベッドまで行くと、ストンと青野さんの横に座った。
「いいの?」
 青野さんの柔らかな声が耳をくすぐる。
「はい」
 私はそう答えるとともに、青野さんに肩を預けることでも了承を示した。
 青野さんの腕が私の腰を抱いた。私も腕を伸ばして青野さんの腰に手を添えると、汗ばんだワイシャツ越しに脂肪と体温を感じた。私たちは静かに互いの体温を伝え合った。
 私は反対の手を伸ばし、青野さんの胸をなぞった。思ったよりも柔らかい。ちょっと運動不足なんじゃないかな。私は声に出さずに小さく笑った。
 すると、青野さんの手が私の腕をつかんだ。グッと引き寄せられると、私の目の前に青野さんの顔があった。
 東横インの照明は明るい。夜になって少し伸びた髭の一本一本までよく見えた。
 私は目を閉じた。すると、すぐに唇をふさがれ、ビールの苦みが私の舌に伝わってきた。
 
 こうして、私たちは新人と教育係から、男女の関係に一歩踏み出すことになった。