彼にはカノジョがいるけれど

 私と赤池はクラスメイトであり、そして吹奏楽部で共にチューバを担当する部員だ。
 私が吹奏楽部に入ったことに深い理由はない。なんとなく、新しいことに挑戦してみたかったのだ。チューバを希望した理由も、なんとなく。でも、トランペットやフルートなどの花形の楽器よりもチューバは不人気で、希望はすんなりと通った。
 赤池は中学の頃からチューバをやっていた。
「兄貴がトロンボーンをやってたんだよね。俺はそれよりもデカい楽器にしようと思ったんだ」
 入部したての頃、チューバを選んだ理由について、赤池はにやりと笑ってそう答えた。当時の私は、まだ赤池のことを経験者の部員の一人としか認識していなかった。
 とりあえず吹けば音が鳴るリコーダーなんかと異なり、チューバなどの金管楽器は音を出すのにコツがいる。唇を振動させた音を響かせて音色を奏でる仕組みなので、他の楽器とはずいぶんと違うように感じた。
 金管楽器は技術がなければ音すら鳴らないので、最初は私を含めた未経験者はひたすら基礎練習に励んだ。
 そんな私たちを尻目に、チューバ経験者だった赤池は、平然と初見の楽譜を前にしてメロディーを奏でた。メロディーといっても、チューバのそれはブーという太い低音で地味なものだったが、演奏できるというだけで私にはとても羨ましかった。
 一年生のとき、私と赤池は別のクラスだった。でも帰宅する方向が同じだったので、部活が終わった後はよく一緒に帰った。
 あるとき、私は軽い気持ちで聞いた。
「赤池はどうしてそんなにチューバがうまいの?」
「別にうまくないでしょ」
 平然と謙遜してみせた赤池に対して、私はカチンときた。
「はあ? 何それ。私は音すら安定して出せないんだぞ」
「まあ、経験がある分、寒川よりはうまいかもな。でもさ、世の中にはすごい人なんていくらでもいるから」
 それは基準の問題だった。幼いころから音楽に慣れ親しんでいたという赤池にとって、うまい演奏というのはプロのそれのことだった。でも私にしてみれば、プロも中高生も等しく低音のブーだ。
「練習を続ければできるようになるよ。やればやるだけ身につくと思う。たとえ寒川でもな」
 赤池はそう言って笑った。
 その言葉は私に火を付けた。やってやる。赤池に並んで演奏できるまでになってやる。
 うちの吹奏楽部の活動は週四回。学校の備品であるチューバを持ち帰ることはできないので、私は一日も取りこぼさないように精力的に練習をこなした。

 ある日の練習が終わったとき、私は練習曲の楽譜を手にして赤池の前に立ちふさがった。
「これ、吹けるようになったの。ちょっと聞いてよ」
 すると赤池は呆れた顔をしていた。
「知ってるよ。同じパートで練習してるんだから」
「いいから」
 私は赤池を椅子に座らせた。とにかく赤池に聞いてもらいたかったのだ。
 私はチューバを座奏用のスタンドに置き(私には重すぎたのだ)、マウスピースに口をあてがった。緊張をどうにか抑え込みながら、鼻から息を吸って肺をいっぱいにする。そして唇を震わせて音を鳴らした。チューバの低音が響き、私の体をびりびりと震わせる。赤池は真剣な顔で私の演奏を聞いていた。
 そして、私は最後までつっかえることなく練習曲を演奏しきった。演奏が終わったとき、私は安心感に包まれ、思わず顔がほころんだ。
「やるじゃん」
 赤池の声が聞こえて、私は楽譜から顔を上げた。優しい笑顔がこちらに向けられていた。
「すっかり上達したな。さすが、音々っていう名前なだけある」
 彼の口から私の名前が出てくると、私の胸の中で高い音色が響いた気がした。チューバからは絶対に鳴らない音。
「……うん」
 自分でも驚くほどに弱々しい声で返事をした。
「練習頑張ってたもんな。よっしゃ、今日は特別にアイス一個おごってやるよ。コンビニ行こうぜ」
 赤池はそう言って立ち上がり、片付けを始めた。でも私はなんとなく動くことができなかった。椅子に座ったままぼうっとしている私を見て、赤池は不思議そうな顔をした。
「何してんの? 早く片付けなよ」
「……ごめん。すぐやる」
 ようやく立ち上がった私は、自分の胸にそっと手を当てた。胸の中では、まだ高い音色が響いていた。
 こちらに背を向けて帰り支度をする赤池の姿を見て、私は思った。
 きっと、アイスなんかじゃ足りない。
 私は、もっと赤池のことが欲しい。
 その日以降、私は部活の後に赤池と帰る時間をとても大切に過ごした。彼の声、彼の視線。彼のすべてが私の胸を温かくした。内心では赤池ともっと一緒にいたいと思っていたけれど、当時の私にはそれ以上どうすればいいのかわからなかった。
 とても幸せなのに、あと一歩足りない。私は日に日にそんな感覚が強まっていた。いつしか、自室にいながら赤池の声が脳内で聞こえてくるようになり、そういうときは枕に顔をうずめて叫んだ。

 そうこうしながら月日は過ぎ、私たちは二年生へと進級した。
 ここで大きな出来事があった。赤池と同じクラスになったのだ。部活のときしか会わなかった赤池と、教室でも声を交わせる。こんなに幸せなことはないと思った。さらにありがたいことに、私の席は後ろの方だった。赤池の背中を一日中眺められる特等席だ。
 そして、大きなニュースが飛び込んできた。学年で一番の美少女として知られている美羽が、春休み中に男子に告って交際を始めたというのだ。それは最初に女子からの噂として、次に男子の嘆く声として私の耳に入った。最終的に、それは赤池へのからかいという形で私の耳に入ってくるようになった。

 美羽が告って付き合い始めた相手は、赤池だった。