大学を卒業した私は、大手のIT系企業に新入社員として入社した。入社後の研修期間は半年近くもあり、いつまでも学生のような気分で月給を受け取り続けた。うちの会社だけかもしれないけど、大手って箱入りなんだな。
秋になってようやく、フロントSEとして全国の独立行政法人に対するシステムの導入を担当する部署に配属された。とは言えいきなりプロジェクトマネージャーを任されるようなことはなく、入社二年目までは見習い扱いだと説明された。同じ部署の男性の先輩である青野さんが私の教育係となり、二人で関西地区を担当することになった。
全体的に四十代の社員ばかりのこの部署において、青野さんは三十代と比較的若い方だった。その若さゆえに、教育係などの本来の業務ではない仕事を押し付けられている様子がうかがえた。
勤務地は首都圏であるものの、クライアントである独立行政法人は全国に点在する。そのため、必然的に国内出張の多い業務だった。私たちも何度も新幹線で関西へ行った。最初の出張は旅行気分で、駅のエスカレーターで右側に人が立っている様子に驚いたり、あちこちから聞こえる関西弁にちょっとだけ辟易したり、同居する親へのお土産を長々と選んで青野さんにたしなめられたりした。でもそんなのは最初だけで、何度も新幹線に乗るうちに関西への新鮮味はあっという間に薄れ、第二の勤務地だと感じるようになった。
「この仕事では、気力よりも体力のほうが重要だから」
これは私が青野さんから最初に教わったことだ。地方出張が多いから、体を使うということかな、と思った。それは半分だけ正解だった。
会社の定時は五時だ。でもその時間に帰ろうとする社員は、うちの部署には誰もいない。「うちの定時は九時だと思ってね」とか「八時を過ぎると電話がかかってこなくなって集中できるんだよね」とか。そんな先輩社員たちの言葉を聞いて、入る会社を間違えた、と心底思った。思ったはずだったのに、私はいつの間にかそれに順応していた。そっか、私って社畜体質だったんだ。
でも、それは決して楽なわけではなかった。朝起きて、電車に揺られて、夜まで仕事をして、また電車に乗って。帰宅してすぐに親が作ってくれた夕飯を胃に入れてから、さくっと入浴。後はもう疲労困憊ですぐに寝る。若さにあふれているはずの私の体力はじわじわと削られていった。
ところで、青野さんはああ言っていたものの、その体力を支えるのは気力だと思う。
朝からどんなに疲弊していても、私は出社しようと体に鞭を打つ。なぜなら、そのモチベーションが会社にあるからだ。
この部署に配属されてから、私は何となく誰よりも早く出社していた。そして、二番目に出社してくる社員の挨拶を待った。
「おはようございまーす」
青野さんの声が聞こえた。彼の出社も早い。私は背筋を伸ばして振り向き、挨拶を返した。
「おはようございますぅ」
うっかり感情が乗ってしまい、ちょっと高い声が出た。
そう。私のモチベーションは青野さんだった。
「寒川さんおはよう。今日もあっついね。早く冬にならないかな」
青野さんはそう言って私の隣の席に座り、うちわでぱたぱたと扇ぎ始めた。甘い柔軟剤の香りが漂い、私の鼻をくすぐった。
「そうですね。私も冬の方が好きです」
「そうそう、発注用の資料、早めに用意してね。営業がまたうるさくてさ。事前チェックするから」
「はい」
こんな普段の会話だけで、私の心身は回復してしまう。さて、今日も一日、頑張ろう。
私の教育係である青野さんは、とても頼れる先輩だった。右も左もわからない私に対して、わかりやすく仕事の流れを教えてくれた。仕事の感覚がつかめずにミスをする私をさっとフォローしてくれた。私を甘やかすことはないものの、決して人前では叱責せず、私の成長を促そうとしてくれる。
それだけでも充分に素敵なのだけれど、私にとって決定的だったのは客先での出来事だった。
配属されたばかりのころ、青野さんにくっついて客先へ行った。駅から遠く離れた事務所まで、青野さんの運転するレンタカーでやって来たのだ。
「新人の寒川です。よろしくお願いいたします」
当たり障りのない挨拶をすると、先方の細目の課長が私のことを上から下まで舐めるように見た。そしてにやりと笑って言った。
「へえ……青野さんやるねえ。ついこないだまで女子大生だった、ぴちぴちの子を連れてきて。なあ」
なあ、と呼びかけられた先方の部下たちは、課長に合わせるように笑みを浮かべた。
途端に、ぎゅっと内臓が搾られるような不快感を覚えた。私はどちらかと言えばずっと地味な女子で、年上の男性から性的に形容されることに全く慣れていなかった。
今日はこれから、持参した書類の説明を私がすることになっている。でも、ショックを受けた私は手が震え、書類を配る気力を失っていた。
「お言葉ですが」
突然、青野さんが口を開いた。私も先方の課長もハッとして青野さんを見た。
「うちの社員に対してそういった物言いは控えていただけますか」
明らかに年上であろう相手に対して、青野さんはきっぱりとした口調でそう言った。
「ああ、いや、失礼しました……」
先方の課長はバツが悪そうに小さく謝罪した。青野さんが対処してくれたおかげで、私は少しだけ気が晴れた。
結局、その日は書類の説明まで全部青野さんがやってくれた。帰り際に青野さんは苦々しい顔で毒づいた。
「マジであの課長クソだな」
バッサリと言い切ってくれたおかげで、私もすっかり溜飲が下がった。
「本当にひどかったですね」
「あいつ、陰でジャバ・ザ・ハットって呼ばれてるの」
私は課長の風貌を思い出した。それは容姿を揶揄するひどいあだ名だったけど、私はつい吹き出してしまった。
「だからいつかは姫に殺される運命なんだよ。寒川さん、これからいろんな客と会うと思うけどさ、変なやつに屈しないように気を付けてね」
青野さんに笑顔を向けられると、世界が明るくなった。
「わかりました」
胸の鼓動が速まるのを感じながら、私は青野さんを見つめた。
私は、心を奪われた。
この人に、ずうっとついていきたい。心からそう思ったのだ。
「じゃ、帰ろうか」
青野さんがレンタカーのキーを取り出すと、薬指の指輪がきらりと光った。その輝きを避けるべく、私はそっと目を閉じた。
秋になってようやく、フロントSEとして全国の独立行政法人に対するシステムの導入を担当する部署に配属された。とは言えいきなりプロジェクトマネージャーを任されるようなことはなく、入社二年目までは見習い扱いだと説明された。同じ部署の男性の先輩である青野さんが私の教育係となり、二人で関西地区を担当することになった。
全体的に四十代の社員ばかりのこの部署において、青野さんは三十代と比較的若い方だった。その若さゆえに、教育係などの本来の業務ではない仕事を押し付けられている様子がうかがえた。
勤務地は首都圏であるものの、クライアントである独立行政法人は全国に点在する。そのため、必然的に国内出張の多い業務だった。私たちも何度も新幹線で関西へ行った。最初の出張は旅行気分で、駅のエスカレーターで右側に人が立っている様子に驚いたり、あちこちから聞こえる関西弁にちょっとだけ辟易したり、同居する親へのお土産を長々と選んで青野さんにたしなめられたりした。でもそんなのは最初だけで、何度も新幹線に乗るうちに関西への新鮮味はあっという間に薄れ、第二の勤務地だと感じるようになった。
「この仕事では、気力よりも体力のほうが重要だから」
これは私が青野さんから最初に教わったことだ。地方出張が多いから、体を使うということかな、と思った。それは半分だけ正解だった。
会社の定時は五時だ。でもその時間に帰ろうとする社員は、うちの部署には誰もいない。「うちの定時は九時だと思ってね」とか「八時を過ぎると電話がかかってこなくなって集中できるんだよね」とか。そんな先輩社員たちの言葉を聞いて、入る会社を間違えた、と心底思った。思ったはずだったのに、私はいつの間にかそれに順応していた。そっか、私って社畜体質だったんだ。
でも、それは決して楽なわけではなかった。朝起きて、電車に揺られて、夜まで仕事をして、また電車に乗って。帰宅してすぐに親が作ってくれた夕飯を胃に入れてから、さくっと入浴。後はもう疲労困憊ですぐに寝る。若さにあふれているはずの私の体力はじわじわと削られていった。
ところで、青野さんはああ言っていたものの、その体力を支えるのは気力だと思う。
朝からどんなに疲弊していても、私は出社しようと体に鞭を打つ。なぜなら、そのモチベーションが会社にあるからだ。
この部署に配属されてから、私は何となく誰よりも早く出社していた。そして、二番目に出社してくる社員の挨拶を待った。
「おはようございまーす」
青野さんの声が聞こえた。彼の出社も早い。私は背筋を伸ばして振り向き、挨拶を返した。
「おはようございますぅ」
うっかり感情が乗ってしまい、ちょっと高い声が出た。
そう。私のモチベーションは青野さんだった。
「寒川さんおはよう。今日もあっついね。早く冬にならないかな」
青野さんはそう言って私の隣の席に座り、うちわでぱたぱたと扇ぎ始めた。甘い柔軟剤の香りが漂い、私の鼻をくすぐった。
「そうですね。私も冬の方が好きです」
「そうそう、発注用の資料、早めに用意してね。営業がまたうるさくてさ。事前チェックするから」
「はい」
こんな普段の会話だけで、私の心身は回復してしまう。さて、今日も一日、頑張ろう。
私の教育係である青野さんは、とても頼れる先輩だった。右も左もわからない私に対して、わかりやすく仕事の流れを教えてくれた。仕事の感覚がつかめずにミスをする私をさっとフォローしてくれた。私を甘やかすことはないものの、決して人前では叱責せず、私の成長を促そうとしてくれる。
それだけでも充分に素敵なのだけれど、私にとって決定的だったのは客先での出来事だった。
配属されたばかりのころ、青野さんにくっついて客先へ行った。駅から遠く離れた事務所まで、青野さんの運転するレンタカーでやって来たのだ。
「新人の寒川です。よろしくお願いいたします」
当たり障りのない挨拶をすると、先方の細目の課長が私のことを上から下まで舐めるように見た。そしてにやりと笑って言った。
「へえ……青野さんやるねえ。ついこないだまで女子大生だった、ぴちぴちの子を連れてきて。なあ」
なあ、と呼びかけられた先方の部下たちは、課長に合わせるように笑みを浮かべた。
途端に、ぎゅっと内臓が搾られるような不快感を覚えた。私はどちらかと言えばずっと地味な女子で、年上の男性から性的に形容されることに全く慣れていなかった。
今日はこれから、持参した書類の説明を私がすることになっている。でも、ショックを受けた私は手が震え、書類を配る気力を失っていた。
「お言葉ですが」
突然、青野さんが口を開いた。私も先方の課長もハッとして青野さんを見た。
「うちの社員に対してそういった物言いは控えていただけますか」
明らかに年上であろう相手に対して、青野さんはきっぱりとした口調でそう言った。
「ああ、いや、失礼しました……」
先方の課長はバツが悪そうに小さく謝罪した。青野さんが対処してくれたおかげで、私は少しだけ気が晴れた。
結局、その日は書類の説明まで全部青野さんがやってくれた。帰り際に青野さんは苦々しい顔で毒づいた。
「マジであの課長クソだな」
バッサリと言い切ってくれたおかげで、私もすっかり溜飲が下がった。
「本当にひどかったですね」
「あいつ、陰でジャバ・ザ・ハットって呼ばれてるの」
私は課長の風貌を思い出した。それは容姿を揶揄するひどいあだ名だったけど、私はつい吹き出してしまった。
「だからいつかは姫に殺される運命なんだよ。寒川さん、これからいろんな客と会うと思うけどさ、変なやつに屈しないように気を付けてね」
青野さんに笑顔を向けられると、世界が明るくなった。
「わかりました」
胸の鼓動が速まるのを感じながら、私は青野さんを見つめた。
私は、心を奪われた。
この人に、ずうっとついていきたい。心からそう思ったのだ。
「じゃ、帰ろうか」
青野さんがレンタカーのキーを取り出すと、薬指の指輪がきらりと光った。その輝きを避けるべく、私はそっと目を閉じた。



