彼にはカノジョがいるけれど

 ミドに抱かれて以降、月に一、二回ほど『今日の夜どう?』と誘われるようになった。最高かよ……。
 そして、毎回私は迷わずにOKと返信する。そんな日は本当に幸せに過ごすことができて、いつもよりも講義に集中できる。
 なお、初回こそ狼と化したミドにされるがままだったものの、二回目以降は私も意思表示をしながら体を重ねるようにしている。やっぱり対等な関係じゃないとね。
 そして、ミドは私の言うことを受け入れてくれる。だから本当は紳士なんだと思う。野性的なのもいいけど、こういうところもめっちゃ好き。
 
 ある日の朝、近所の紫陽花が綺麗に咲いていることに気が付いた。その曖昧な美しさを前にして、私は期待せずにはいられなかった。
 今日はいいこと、きっとある。
 そんな予感は見事に的中し、私のスマホにミドからのお誘いメッセージが来た。
 私は胸にスマホを抱いた。
「ねえ芽論」
「いちいち報告しなくていいよ。キモいから」
「……はい」 
 講義が終わった私は、いつものようにミドと校門前で落ち合った。
 そして仲よく電車に乗ってミドの家へ行った。中に入ると、ミドはすぐに私を求めて抱きしめてきた。
「がっつきすぎ」
 私は微笑みながら、それをやんわりと制した。
 お風呂場へ行き、シャワーを浴びて体の汗を流してから、ミドがいつも貸してくれる部屋着を身にまとう。ついでに襟を引っ張って顔をうずめ、鼻からすうっと息を吸い込んだ。わずかな部屋干しの匂いの奥に、ミドの肉体の気配を感じた。
 なんか、生きてるな、って感じ。私も、ミドも。
 部屋に戻ると、ミドはベッドに腰掛けて待っていた。近づくと、手をつかんで引き寄せられた。私の体がミドに覆いかぶさる。
 そして二人の熱い視線が交わると、まるで磁石のように吸い寄せられて唇を合わせた。
 この瞬間が、すごく好き。二人の境界線が曖昧になり、心も体も一つになっている感覚。
 キスや愛撫にしばらく酔いしれていると、ミドの手が焦れたように私の服の裾をつかんだ。私はそれに身を委ねて両手を上げた。すると何の抵抗もなく部屋着がするりと脱げ、私の下着姿が露わになる。
「綺麗だね」
 そのたった一言が私を虜にする。ドーパミンとかエンドルフィンとか、その手の脳内物質がじゃんじゃんと放出されて、興奮と幸福でいっぱいになる。
 ミドの唇が私の首すじに狙いを定めた。ああ、今は完全に狼だ。どうぞ、召し上がれ。
 
 ピンポーン。
 
 無粋なチャイムの音が部屋に響き、私たちはわずかに硬直した。はあ、と不満げなため息がミドから漏れ、そのまま立ち上がった。
 私も小さく嘆息する。こういうの、マジで萎えるなあ……。
 ミドはインターホンの画面を見た。すると即座にこちらに振り向き、ものすごい勢いでベッドに飛び戻ってきた。そして内緒話をするような声で言った。
「音々さんこっち来て……!」
 青い顔をしたミドは下着姿の私の腕をつかんで立たせた。そして混乱する私を洗面所に連れてきた。
「ああもうここじゃダメだ……」
 ミドは独り言を言ったのち、真っ暗な風呂場の扉を開けて私をそこに押し込んだ。
「絶対に静かにしてて」
 そう言い残し、ミドはガチャンと風呂場の扉を閉めた。
 え、嘘でしょ? 明かりくらいつけてよ……。
 仕方なく浴槽の縁に腰掛けると、ショーツが濡れてしまった。さっきここでシャワーを浴びてたから。
 お尻の冷たさを感じながら、自分の身に何が起きたのかを理解しようとした。
 ……考えるまでもないか。私は自分でも驚くほど冷静だった。
 でも、念のために風呂場の外に耳をそばだてた。ミドが来客を家に上げ、玄関で話す声が聞こえた。
「いやあ、その、出張じゃ、なかったっけ?」という情けない声はミド。
「予定がなくなったって、メッセージを送ったけど」
 こちらは知らない女性の声だ。
「ねえこれ誰の靴?」
 女性の鋭い声が飛んだ。
 私は息を飲んだ。自分が履いてきた紫色のスニーカーは、明らかにミドのものよりも小さいはずだ。
「ああ、それね、妹」
「男きょうだいしかいないって言ってなかったっけ?」
 ミドの雑な言い訳はあっさりと切り捨てられ、沈黙がおとずれた。
 私は、以前見たホラーゲームの実況動画を思い出した。大きなお屋敷の中でモンスターから逃げ回り、ピンチの際にはクローゼットに隠れてやり過ごす。隠れている際には、外の様子は気配しかわからない。
 そして、隠れていることがモンスターにバレた場合は、クローゼットの扉を開けられて、殺される。ゲームオーバー。
 そんなことを考えるくらいには落ち着いていたものの、ホラーだと思うと恐怖心が増した。
 カチャリ、と洗面所の扉の音がした。風呂場の扉のすりガラス越しに、廊下の明かりが差し込むのが見える。
 はい、ゲームオーバー。頭の中にはこの言葉しか浮かばない。あれ、もしかして私、殺される?
 ガチャリ。あっけなく風呂場の扉は開かれた。パチン、と明かりが点くと、一瞬だけ目がくらんだ。
 明るくなった風呂場で、下着姿で浴槽に腰掛ける私。私を見下ろす女性。女性は鬼の形相だ。
 その女性に会うのは初めてだった。でも、私には誰なのかすぐにわかった。だって、以前に写真で見たことがある。
 与那嶺さんだ。
 私の目の前に、ミドの彼女である与那嶺さんが現れた。
 そして何度も言うように、私は下着姿。
 もう、ね。終わってる、としか言いようがないよね……。
 座ったままでは具合が悪いと思い、私は沈鬱な気持ちで立ち上がった。この世の終わりみたいな顔をした私と、般若の面みたいな顔をした与那嶺さんが向かい合う。
 刹那、私の顔が吹き飛んだ。一瞬遅れて左頬に痛みを感じてよろける。与那嶺さんの右手が私の頬を張ったのだ。
「やめろフウカ‼」
 ミドが慌てて与那嶺さんの腕をつかむ。
「この女のせいでしょ‼」
「いいから落ち着いて‼」
「いやああ‼」
 痛む頬を押さえながら、私は騒ぎ立てる二人をまるで他人事のように見つめた。