これにて専属契約は

 スポーツが好きだ。思いどおりに動けたら楽しいし、ルール内で切磋琢磨して互いに技術を深めていくのも魅力的だ。だから、たとえ授業の試合だとしても手を抜かずに全力で楽しむのが、俺――和泉敬斗の信条のひとつとして在る。
 ひさびさにバスケ部のダイキから三点奪取(スリーポイント)を奪えて、形勢逆転。いい気分で試合再開。からの、こっちボールで畳みかけようとしたそのときだった。

「ゴメン、避けてぇ!」

 バレーボールをやっている女子のコートから上がったそのひと声が、やけに鮮明に耳に入って集中がブツン。「まさかだよな」と思いつつ振り返れば、そのまさかのはるか上をいかれていた。
 誰かがアタックしたバレーボールが見事に鴨重紗良へ直撃していた。しかもこともあろうか、その顔面へだ。
 一気に全身から血の気が引く。途端に、すべてがスローモーションで見え始める。
 顔面に当たったバレーボールが中空を舞う。尻もちをつくように崩れ落ちるアイツへ、その両隣にいた尾藤と遠藤がすかさず手を延べ、膝をつき、懸命に声をかける。「ギリ大丈夫だろう」などと見切りをつける間もなく、アイツの鼻からツウと鮮血がひと筋流れ出て、仰向けに崩れていくところをしっかりと見てしまった。

「……あのドジッ」

 最短距離を全速力で走り抜く。おおよそ約三〇メートル。
 すかさず尾藤と遠藤の間に割り入って「鴨重?」と小さく声をかけた。ダメだ、瞼が半分落ちている。うっすらと脳震盪(のうしんとう)を起こしてしまったのだろう。わかるぞ、その感覚。今まさに景色がぼやけているに違いない。
 両脇の二人へ「ティッシュある?」と訊ねたものの、苦々しく首を振られて断念。周りに訊ね直すか迷ったものの、さっさと保健室へ向かってしまったほうがお嬢さまの羞恥心を抱かせずに済むだろうなぁ。

「俺汗かいてっけど、ちょっと我慢して『ください』」

 俺が一秒たりとも余計な諸々を気にせずに済む方法――それは、この場だけ『お嬢さま専属ボディガード』の仮面を被ること。ギャラリーが集まりつつある今、一応周囲に聞かれないようにお嬢さまの耳元だけでもボディガードモードで接したほうが賢明だ。
 お嬢さまの膝の下へと脇の下へ腕を突っ込み、くわんくわんしているであろう頭を揺らさないよう気を配りながら身体を抱え起こす。
 瞬間、周りから悲鳴に似たどよめきとヒューヒューなどの冷やかしが。仕方ねぇだろうが、こうなりゃ直接抱えて運んでいくしかないんだから!

「……けーと?」
「は、『はい、お嬢さま』」

 よかった。とりあえず意識はある。細く俺を呼ぶその声が、俺の羞恥心を責任感できちんと砕いてくれる。

「『移動いたします。ただちに怪我の有無を確認いたしますのでしっかりとわたくしにおつかまりください』。なぁ、尾藤と遠藤。あと頼むわ」
「え?」
「ちょ、和泉くんっ?」

 お嬢さまに声をかけたあと、俺とコイツの諸事情を既に知っているであろう『お嬢さまの大事なご友人ら』へ一方的にそう告げて、ダッシュ。体育館の出入口である引き戸がたまたま半分開いていたことと、何よりお嬢さまの立ち位置が出入口に近い場所で助かった。
 お嬢さまを抱えたままの駆け足でスルリと体育館から抜け出る。頭を心配して程なくして立ち止まり、すると体育館の中が男女関係なくキャーキャーわあわあと尚更湧いてしまった。クソ、おもしろがりやがって。しかも悪いことに「ときめきだ! あれクッソときめきだわ!」だのと叫び散らかしているチッヒーの声が聴こえたんだが。無駄に騒ぐな、あのアホ! 絶対にあとでぶん殴ってやる。
 背中でそれらを気まずく聴きながらお嬢さまを覗くと、俺の胸元を心もとなく握ったまま完全に目を閉じていた。血色がさほど変わらないことは安心材料だが、ともかく保健室へ向かわなければ。
 誰もいない階段をそっと駆け上がり、二階の保健室へ到着。どうにか引き戸を開け放つも、担当の先生が不在でがっくり。マジかよ、勘弁して。
 しかし完全空室だったので、手近のベッドへお嬢さまを横たえる。なぜかこのベッドがリクライニング付きだったため、上半身に三〇度程度の傾斜をつけてやり、急いでティッシュを持ってきて血を拭う。傾斜をつけるのはもちろん流れ出ている血の逆流を防ぐためだ。
 ……いや、乾いたまま拭いては肌を傷めてしまうな。そう思い直し、窓の近くにある蛇口を捻ってわずかにティッシュを濡らし、鼻や口の周りの血を拭っていく。粗方拭えたところでティッシュを小さく丸めた鼻栓を詰めようとしたものの、「いや待てよ」と再び固まった。
 鼻血が出ているとはいえ、女の子、まして俺が仕えているお嬢さまだぞ? そんな彼女の鼻に、一方的に鼻栓なんかを詰めてもいいのか? そんな顔面を、いくらなんでも俺であれ『他人』に見られたくはないのでは?
 いやいや、考えるまでもない。怪我をしたんだぞコイツは。応急処置をしてやるためにわざわざここへ連れてきたのだろうが。脳震盪を起こして気を失ってしまったというのに、今更「鼻栓の顔を見られてしまっては可哀想」だのと迷っている場合ではないだろう!
 脳内会議時間約三秒。一応「失礼いたします」と申し訳なさ全開で、血の出ている方の穴へティッシュ栓を挿し込む。鼻栓は極力小さくしてやった。これならいくらか見た目がマシだろう。ただ、栓が小さい分交換頻度を増やさなければならないが。
 手早く残りの血汚れを拭いきり、「このまま見られ続けていても嫌がるよな」と背を向ける。あ、俺の胸のところにもコイツの血が付いてしまったか。まぁ仕方がない。ティーシャツに血が垂れるなんてボクシングをしていればままあることだ。それに、このくらいなら洗い慣れている。
 すかさずそれを脱ぎ、窓辺の蛇口から細く水を出し、こちらも応急処置の手洗い。本当はお湯がいいし、廃油石鹸とか練り歯みがき粉なんかで落とすのがベストなんだけどな。
 そんなどうでもいいことを考えながら、放ったらかしにしてきてしまったバスケの試合を思い出した。
 授業とはいえ、白熱している試合を中途半端に放り出すなど今までは絶対にありえなかった。目の前の試合(ゲーム)にとことん集中していただろうし、自分と、声が届く範囲のみんなが楽しければそれでよかったから。
 でも変わったんだ。昨晩、お嬢さまと過去の遺恨について詳(つまび)らかに話せたことで、俺自身の認知が追いつかないほど、そして挙げきれないほど俺の感情が変化している。……まぁ、具体的にどこがどうと言えるほど言語化はできていないが。
 洗い流したところを絞って脱水。着られそうにはないので、腕に引っ掛けてお嬢さまのもとへ戻り、鼻栓を変えてやる。「もう何度か変えてやらなければならんだろうな」と思っていたら、そろりそろりとお嬢さまが目を開けた。

「『お気付きになりましたか、お嬢さま?』」
「…………」

 声をかけるも反応がない。しかし、じっと俺を見ている。
 とろんとした目元、ぷっくりと柔らかそうな唇、首元の後れ毛――どうにか目を逸らさずに堪(こら)えるが、エーシンが言っていた総評を思い出してしまい、あえなく撃沈。咳払いで顔を逸らす。
 クソ、たしかにコイツは顔が整っているな。美人だのかわいいだのと囃し立てられていたことにも今なら頷けて……あ、いやいや俺は何を。

「ここ、どこ」
「ほ……『学校の保健室でございます。お嬢さまは授業中にお怪我をなされまして、わたくしがお連れいたしました』」
「そー、なん……えっ?! そっ、そうなのっ?!」
「あっバカ、急に起き上がるな。まだ血ィ止まってねぇんだからっ」

 ようやく焦点が合ってひと安心。反射的に無茶ができるほど問題はなさそうだ。ベッドの傾斜へ背を沈め直させながら、意識確認のための会話を続ける。

「どこも変じゃないか? 揺れてる感じするとか。頭ガーンなったら結構グラグラするからな。ちょっとでも変だったり不安ならすぐ言えよ?」
「だだだ大丈……ってそれよりどうしてそのっ、敬斗くんはじょ、上半身を」
「あーこれ? ちょっと洗ったから脱いだだけ」
「『洗った』? ごめんなさい、私、結局何があったのかよく覚えてなくて」
「『はい。お嬢さまは先程お顔にバレーボールを受けられました。それによって恐らく軽い脳震盪を起こされまして、一時的に意識が朦朧となさっておりましたので、僭越ながらわたくしが抱えてこちらまでお連れした次第です。このあとわたくしからこの事態についてご自宅へ連絡させていただきまして、すぐに医療班をお呼びいたしますので、お嬢さまはこのまま――』」
「そっ、そこまでしなくていいっ!」

 半分声が裏返ったお嬢さま。まるでピンクの極太マーカーで顔面を塗りつぶしたみたいに真っ赤になっている。まぁそうよな、「顔にボールぶつけられて気絶」なんてマヌケをやらかしたんだ。普通は恥ずかしいよな。

「もしかして、『敬斗くんが抱えて』ってことは、その」
「あーそれね。教室戻ったら絶対ワーキャー言われるだろうな。なるべく鴨重がぶっ倒れた姿がギャラリーの目に晒されないようにさっさと抱えてさっさと出てきたんだけど、チッヒーがなぁ……やたら騒いじまってたんだよなぁ」
「チッヒーって、近井(ちかい)くん?」
「そ。でも周りにうるさくされるの鴨重がイヤだろ? だから安心して、ちゃんとぶん殴って黙らしとくから」
「だ、ダメだよそんなのっ。敬斗くんがぶん殴ったら近井くんが病院送りになるよっ」
「ブハッ! アホか。本気でぶん殴るわけじゃねーよ。肩パンくらい。軽い感じのやつ。ほんとにアンタはなんでも額面どおりに受け取るのなぁ」
「……『アンタ』?」
「あっいや……お、『失礼いたしました、お嬢さま』」

 くす、と小さく笑う鴨重。あ、コイツ、雑談が弾むとこんなふうに笑うのか。たしかに上品だな、仕草のひとつひとつが周りと一線を画しているのがよくわかる。

「そ、そういえばそろそろ変えといたほうがいいと思うんだけど、自分でやる?」
「え、何を?」
「や、その……鼻の」
「鼻?」

 先にぐるんと背を向ける。数拍おいて、お嬢さまの驚愕の声が上がる。

「ごごご『ご安心くださいお嬢さまが鼻血を出されたことはご友人の尾藤さまと遠藤さまとわたくししか見ておりません』っ」
「待って待って違う違う! 私鼻血出たことなくて、これどうしたらいいかわかんないっ!」
「え、そゆこと? あの、俺、見ても平気? 一応お嬢さまが鼻にティッシュ詰めてるわけだし?」
「しょーがないでしょ止血のためなんだもんっ! わあーどーしよーう! 詰め物引っ張ったらね、なんか血の塊がズルッてぇ! たすけてぇ!」

 コイツ……絶対後で冷静になってから「鼻にティッシュを詰めた顔を見られた」だのと喚き散らかすんだろうな。
 自身の側頭部をワシャワシャと掻きながら、俺は「ハイハイ」と溜息混じりにお嬢さまを向き直る。手早く栓を交換。血溜まりが出たってことはもうすぐ止まるだろう。

「ねぇー、手にもついちゃったぁ……」
「『あちらの水道ですぐに洗い落としましょう。歩けますか?』」
「うん」
「あー、『お召しのティーシャツにも少し付いてしまわれましたね。後程お嬢さまの制服を持ってまいりますので、今しばらくご辛抱ください』」
「あの。敬斗くんが脱いでるのって、私の血が付いて汚れちゃったから?」
「そうだけど気にすんな。『お嬢さまをお抱えした際にたまたま付着しただけですので問題ございません』」

 またシュンとさせてしまった。船首甲板のときと同じだ。きっと俺に気を遣っているのだろうが、本当に気にしなくていいのに。
 ひとまず手を洗わせてやろう。身を起こしたりベッドから離れる際もずっと手を貸し続ける。立ち眩みも歩行にも問題はなさそうだが、やはりまだシュンとしている。

「鴨重さぁ、なんでバレー見てたはずなのにボール顔にぶつけたんだよ? 不注意すぎねぇ?」

 手に付いていた血の汚れなんか大した量ではない。さっさと洗い終えて一人でベッドへ戻ろうとする鴨重へそう訊ねると、なぜかぎこちなく脚を止めた。

「だ、だって、その。バレーを見てたわけじゃ、なかったから」
「え、なに。バスケ見てたの?」
「そっ、そーだけど? 盛り上がってたしね、みんな。でも私は――」

 まぁそうだな、と顎に手をやる。突然、お嬢さまがぐるんと俺を向き直ってぎくり。
 さっき以上に真っ赤になった顔。きゅっと眉間が寄っているし……え、なんだよ。どんな感情でそんな顔してんの?

「――私は敬斗くんを、見てた、から」