二時限目の体育は、二クラス合同かつ男女別の授業内容。バスケットコート四面分の広い体育館を半分にして、男子はバスケットボールを、女子はバレーボールをしなさいとのこと。
「すんごい声援……」
体育館が割れんばかりの黄色い歓声に思わず苦笑いがこぼれた私――鴨重紗良。
体育の授業はいつもこうなる。新学期が始まってからまたいちだんとボリュームが増している気がする。我を忘れてキャーキャー言えるみんなの熱気はすごいし、それぞれにキャーキャー言える相手がいるのも不思議なくらいすごいことだと思う。
だから、女子のバレーボールは半分以上がそっちのけ状態。みんなゲーム参加中の男の子たちに釘付けだから。かくいう私も、今はゲーム参加外ということもあって他の女の子たちに混ざって……というか、流れで端の方に立ってバスケの試合を眺めている。
視線の先は、もちろん敬斗くん。二コートあるうちの左側。私の位置から敬斗くんのゲームを見るのは少し遠い。でも、私がジロジロ見ていることもあまり本人に気付かれたくはない。恥ずかしくなってしまって、次のお仕事のときに支障が出かねないから。
「はあ……」
そもそも、敬斗くんの運動神経は並外れている。実は彼、ボクシングだけがすごいわけではない。
彼は何のスポーツをやらせてもそつなくこなす。そして部員でもないのに立ち回りが上手くて、場の流れを読み解くのも早いみたい。スポーツの詳しいことをよくわからない私ですらそう思うのだから、かなり味方から重宝されて、それ以上に敵陣には煙たがられるわけ。
だから目立つ。もとの性格やビジュアルも相まって、事あるごとにどんどんファンが増えていく。だからこのキャーキャーの半数は和泉敬斗へ注がれていると言っても過言ではない。
「また誰かに何か言われた?」
そうして背後から頭をポンポンしてきたのは、紅夏。慌てて振り返って「な、何がっ?」と訊ね返す。
「盛大に溜息ついてたから。なんかツラかったかと思って」
「ち、違うよ、大丈夫。最近は平和だよ。何も言われてない。いい意味で、その、放っとかれてる感じ?」
えへへ、と笑ってみせるも、紅夏は「そうか」とどこか寂しそうな顔をした。
「推しが人気者で悩ましいんだよねぇ、紗良は」
私の左腕に絡まるようにして、えみりがひっついてきた。
「変に人気あるとさぁ、近付くだけでやっかまれちゃうじゃん? うまくいかないよねぇ。紗良だって頑張りたいのにね」
「あ、でも私はさ、お仕事あれば話ができるようになったから」
敬斗くんへの気持ちのことは、冷静に状況を見てじっくり一歩ずつ距離を詰めたい。私は何事も自分からグイグイいけるわけではないから、今回も慌てず落ち着いて接していきたいと思っている。まあ、たまにはスピード勝負のときもあるかもしれないけれど、それは絶対に今ではないもの。
「それに近付きすぎると私、ほらその、すぐ照れちゃうというか、ねっ。むしろ和泉くんが眩しすぎていつもこっちの情緒がやられるというか……」
「さっきもちょっと喋っただけで結構わたわたしてたもんな」
ブフッと紅夏が思い出し笑い。もー、と頬を膨らます私。
「ほらほらご覧なさいなお嬢さま。あなたの護衛人がボールキープしてらっしゃいましてよ?」
えみりに茶化されながらもそちらを向けば、短い声援をたくさん受けている敬斗くんが見えた。
ボールを受けた敬斗くんへ、バスケ部が二人もマークについている。ゴールリングへはわずかにまだ遠い位置。はたしてパスコースを塞がれているのか、移動選択肢を狭められているのか。ボール競技の苦手な私に細かいことはわからない。
それでも、敬斗くんは動揺するどころか毅然としてるように見えた。背中しか見えないのになんとなくわかってしまう。きっと今、和泉敬斗は落ち着いている。場馴れした相手二人を前にしても平然とできる胆力があるだなんて。さすがすぎる。
ふと、まばたきの速度で敬斗くんは体勢を変えた。
手にしていたボールをひたいのその先へ掲げる。かと思えば、それは大きく弧を描いてゴールリングへ向かっていく。
全員の注目が中空のボールへ注がれている。固唾を呑むギャラリーと、味方陣営と、焦燥にかられる敵陣営。
果てに、わずかな擦れ合う音を立てて、敬斗くんの放ったボールは見事にネットをすり抜けて地に落ちた。
「ほ、ほわぁ……」
そ、その位置から決められちゃうの? ゴールを?
私の思考とひとときの静寂を遮って、こっち側――つまりバレーボールのコートからもとんでもなく甲高い歓声と極彩色のハートマークが上がった。うう、わかる。正直あれに混ざりたい。私もキャアーってはしゃぎたい! だってはちゃめちゃにカッコよかったもん、今の!
「うへぇ、三点奪取決めちゃったよ。和泉すげぇー」
「さすがだねぇ。そりゃああんなの『自分たちの部活に』って必死に引き込もうとするよねぇ」
紅夏とえみりが私を挟んでわざわざそう口にする。じたばたとその場で足を踏み鳴らしたい気持ちをどうにか抑えながら、顔を両手で覆ってガクガクとたくさん縦に振った。
そう。実は放課後になると『和泉敬斗争奪戦』が教室内外で毎日繰り広げられている。どこも即戦力として、敬斗くんに力を貸してほしいから。
「ま、渦中の和泉はそれらぜーんぶ煙に巻いて、実家のボクシングジムでトレーニング三昧ですけどね」
「加えてご令嬢の護衛任務もございますしねぇ、紗良ご令嬢?」
じっくり噛み締めているよ、自分の役得旨味成分を。
「にしてもなかなか目が合わないねぇ。和泉くん、紗良のこと見失ってるのかなぁ? こっち向けぇー、こっちむけぇー」
えみりが敬斗くんへ念まがいの視線を送る。あわわわ、そんなことしなくていいのに! 私はただ、自然体の和泉敬斗を観察できたらそれでいいんだから!
彼の満面の笑み。そこからのハイタッチ。走る姿。汗を拭う腕。七分丈に捲り上げたジャージの先のふくらはぎ――そういう、制服からは絶対に見えない好きな人の『男性性』を垣間見て、顔が緩まないわけもなく。
昨日の船上パーティのとき、あの大きな掌で頬を掴まれたことを思い出す。
無理矢理上を向かされたかと思えば敬斗くんの顔も近くて、それが真顔気味で、周りも薄暗くて、本当に本当にドキドキしたの。それが『ボディガード』として私の涙を拭うためだとわかってはいたけれど、なんとなくその、状況というか行動というか、まるでキスの手前の瞬間を想起してしまうじゃない?! あの距離にいた自分が嘘みたいで、でも本当のことで、なのに敬斗くんは私をそんな目では見ていないから浮かれた先から虚しくて。
「近いけど、私はまだまだ遠いんだよ」
小さくひとりごちたそれが二人に聞こえたかはわからない。いや、聞こえてなくていい、だって私自身に言い聞かせたのだもの。
輝かしい和泉敬斗の後頭部へ、私はあらゆる邪念を絡めた溜め息をもうひとつだけ小さく吐き出した――そのとき。
「ゴメン、避けてぇ!」
後方――真面目にバレーボールの試合をやっている誰かの注意喚起の声が、たまたままっすぐ耳に入った。振り返ろうと、左隣のえみり側から首を回し始めた、瞬間。
ボカンッと激しい痛みが頭に刺さった。どうやら、ものすごく速いボールが眉間や鼻筋付近にクリーンヒットしてしまったみたい。
目の前でチカチカする星。鼻の奥の苦みばしった痛覚。失くなっていく平衡感覚――それらに耐えられず、尻もちをつくようにペシャンとへたり込んでしまった。
「さっ、紗良!」
「ちょ、ダイジョブ紗良?!」
紅夏とえみりに顔を覗かれているのに、二人の声がとても遠くから聴こえる。とにかく、すぐに「大丈夫」とひと言発して笑っておかなければ。二人に心配はかけたくない。
なのにおかしいの。全然立てない。頭ではわかっているのに、本当に一ミリも動けない。
ダメだ、このままじゃ。私がいつまでもこうしていたら、変に注目を浴びて大事になってしまう。そんなのは恥ずかしい。あらゆる方向から冷ややかな目で見られたり、「またオジョーサマが目立ちたいから」だのと揶揄されたりする。それで私、またツラい想いをするんだ。
「――鴨重」
「う、ん」
だんだん周りの音が静かになっていく。意思とは逆に瞼が下がっていくし、指先も冷たくなってしまったし、踏ん張ろうとすればするほど力が抜けていく。どうやら肩が床についてしまったみたい。いつの間にか仰向けになってしまったのかな。
わちゃあ。もしかしてこれ、保健室へ行ったほうがいいレベルのハナシ? 一人で行けるかなぁ、紅夏とえみりに手伝ってもらう? いや、二人には頼れない。私と一緒にいたら二人だって変なこと言われてしまう――。
「俺汗かいてっけど、ちょっと我慢して『ください』」
ふと、右の耳元でかけられた男声。聞き覚えしかないそれに注意を向けると、それまで背中で感じていた床の感触がなくなった。
ええと……どういうことか全然わからない。目も耳もさだかでないし、頭もうまく働いていないもの。
ただ、私に声をかけた人が誰なのかだけははっきりとわかった。
「……けーと?」
「はい、お嬢さま」
よかった。いつの間にか『敬斗』が来てくれた。
ちょっと大袈裟かもしれないけれど、ちゃんと危機に反応して、私の身を案じて来てくれたんだ。
「『移動いたします。ただちに怪我の有無を確認いたしますのでしっかりとわたくしにおつかまりください』」
もう全部あとまわしでいいや。きっと敬斗がなんとかしてくれるもの。
たまたま間近に触れたティーシャツ生地をできうる限りの力で握った私は、ようやくの想いで鼻から息を吸った。
するとふわりとイズミさんのあの優しい匂いがして、懐かしさのあまりそれに甘えたくなってしまった。いまだにジンジンしている目頭をその匂いに埋めた私は、そこで意識を保とうと頑張るのをやめた。
「すんごい声援……」
体育館が割れんばかりの黄色い歓声に思わず苦笑いがこぼれた私――鴨重紗良。
体育の授業はいつもこうなる。新学期が始まってからまたいちだんとボリュームが増している気がする。我を忘れてキャーキャー言えるみんなの熱気はすごいし、それぞれにキャーキャー言える相手がいるのも不思議なくらいすごいことだと思う。
だから、女子のバレーボールは半分以上がそっちのけ状態。みんなゲーム参加中の男の子たちに釘付けだから。かくいう私も、今はゲーム参加外ということもあって他の女の子たちに混ざって……というか、流れで端の方に立ってバスケの試合を眺めている。
視線の先は、もちろん敬斗くん。二コートあるうちの左側。私の位置から敬斗くんのゲームを見るのは少し遠い。でも、私がジロジロ見ていることもあまり本人に気付かれたくはない。恥ずかしくなってしまって、次のお仕事のときに支障が出かねないから。
「はあ……」
そもそも、敬斗くんの運動神経は並外れている。実は彼、ボクシングだけがすごいわけではない。
彼は何のスポーツをやらせてもそつなくこなす。そして部員でもないのに立ち回りが上手くて、場の流れを読み解くのも早いみたい。スポーツの詳しいことをよくわからない私ですらそう思うのだから、かなり味方から重宝されて、それ以上に敵陣には煙たがられるわけ。
だから目立つ。もとの性格やビジュアルも相まって、事あるごとにどんどんファンが増えていく。だからこのキャーキャーの半数は和泉敬斗へ注がれていると言っても過言ではない。
「また誰かに何か言われた?」
そうして背後から頭をポンポンしてきたのは、紅夏。慌てて振り返って「な、何がっ?」と訊ね返す。
「盛大に溜息ついてたから。なんかツラかったかと思って」
「ち、違うよ、大丈夫。最近は平和だよ。何も言われてない。いい意味で、その、放っとかれてる感じ?」
えへへ、と笑ってみせるも、紅夏は「そうか」とどこか寂しそうな顔をした。
「推しが人気者で悩ましいんだよねぇ、紗良は」
私の左腕に絡まるようにして、えみりがひっついてきた。
「変に人気あるとさぁ、近付くだけでやっかまれちゃうじゃん? うまくいかないよねぇ。紗良だって頑張りたいのにね」
「あ、でも私はさ、お仕事あれば話ができるようになったから」
敬斗くんへの気持ちのことは、冷静に状況を見てじっくり一歩ずつ距離を詰めたい。私は何事も自分からグイグイいけるわけではないから、今回も慌てず落ち着いて接していきたいと思っている。まあ、たまにはスピード勝負のときもあるかもしれないけれど、それは絶対に今ではないもの。
「それに近付きすぎると私、ほらその、すぐ照れちゃうというか、ねっ。むしろ和泉くんが眩しすぎていつもこっちの情緒がやられるというか……」
「さっきもちょっと喋っただけで結構わたわたしてたもんな」
ブフッと紅夏が思い出し笑い。もー、と頬を膨らます私。
「ほらほらご覧なさいなお嬢さま。あなたの護衛人がボールキープしてらっしゃいましてよ?」
えみりに茶化されながらもそちらを向けば、短い声援をたくさん受けている敬斗くんが見えた。
ボールを受けた敬斗くんへ、バスケ部が二人もマークについている。ゴールリングへはわずかにまだ遠い位置。はたしてパスコースを塞がれているのか、移動選択肢を狭められているのか。ボール競技の苦手な私に細かいことはわからない。
それでも、敬斗くんは動揺するどころか毅然としてるように見えた。背中しか見えないのになんとなくわかってしまう。きっと今、和泉敬斗は落ち着いている。場馴れした相手二人を前にしても平然とできる胆力があるだなんて。さすがすぎる。
ふと、まばたきの速度で敬斗くんは体勢を変えた。
手にしていたボールをひたいのその先へ掲げる。かと思えば、それは大きく弧を描いてゴールリングへ向かっていく。
全員の注目が中空のボールへ注がれている。固唾を呑むギャラリーと、味方陣営と、焦燥にかられる敵陣営。
果てに、わずかな擦れ合う音を立てて、敬斗くんの放ったボールは見事にネットをすり抜けて地に落ちた。
「ほ、ほわぁ……」
そ、その位置から決められちゃうの? ゴールを?
私の思考とひとときの静寂を遮って、こっち側――つまりバレーボールのコートからもとんでもなく甲高い歓声と極彩色のハートマークが上がった。うう、わかる。正直あれに混ざりたい。私もキャアーってはしゃぎたい! だってはちゃめちゃにカッコよかったもん、今の!
「うへぇ、三点奪取決めちゃったよ。和泉すげぇー」
「さすがだねぇ。そりゃああんなの『自分たちの部活に』って必死に引き込もうとするよねぇ」
紅夏とえみりが私を挟んでわざわざそう口にする。じたばたとその場で足を踏み鳴らしたい気持ちをどうにか抑えながら、顔を両手で覆ってガクガクとたくさん縦に振った。
そう。実は放課後になると『和泉敬斗争奪戦』が教室内外で毎日繰り広げられている。どこも即戦力として、敬斗くんに力を貸してほしいから。
「ま、渦中の和泉はそれらぜーんぶ煙に巻いて、実家のボクシングジムでトレーニング三昧ですけどね」
「加えてご令嬢の護衛任務もございますしねぇ、紗良ご令嬢?」
じっくり噛み締めているよ、自分の役得旨味成分を。
「にしてもなかなか目が合わないねぇ。和泉くん、紗良のこと見失ってるのかなぁ? こっち向けぇー、こっちむけぇー」
えみりが敬斗くんへ念まがいの視線を送る。あわわわ、そんなことしなくていいのに! 私はただ、自然体の和泉敬斗を観察できたらそれでいいんだから!
彼の満面の笑み。そこからのハイタッチ。走る姿。汗を拭う腕。七分丈に捲り上げたジャージの先のふくらはぎ――そういう、制服からは絶対に見えない好きな人の『男性性』を垣間見て、顔が緩まないわけもなく。
昨日の船上パーティのとき、あの大きな掌で頬を掴まれたことを思い出す。
無理矢理上を向かされたかと思えば敬斗くんの顔も近くて、それが真顔気味で、周りも薄暗くて、本当に本当にドキドキしたの。それが『ボディガード』として私の涙を拭うためだとわかってはいたけれど、なんとなくその、状況というか行動というか、まるでキスの手前の瞬間を想起してしまうじゃない?! あの距離にいた自分が嘘みたいで、でも本当のことで、なのに敬斗くんは私をそんな目では見ていないから浮かれた先から虚しくて。
「近いけど、私はまだまだ遠いんだよ」
小さくひとりごちたそれが二人に聞こえたかはわからない。いや、聞こえてなくていい、だって私自身に言い聞かせたのだもの。
輝かしい和泉敬斗の後頭部へ、私はあらゆる邪念を絡めた溜め息をもうひとつだけ小さく吐き出した――そのとき。
「ゴメン、避けてぇ!」
後方――真面目にバレーボールの試合をやっている誰かの注意喚起の声が、たまたままっすぐ耳に入った。振り返ろうと、左隣のえみり側から首を回し始めた、瞬間。
ボカンッと激しい痛みが頭に刺さった。どうやら、ものすごく速いボールが眉間や鼻筋付近にクリーンヒットしてしまったみたい。
目の前でチカチカする星。鼻の奥の苦みばしった痛覚。失くなっていく平衡感覚――それらに耐えられず、尻もちをつくようにペシャンとへたり込んでしまった。
「さっ、紗良!」
「ちょ、ダイジョブ紗良?!」
紅夏とえみりに顔を覗かれているのに、二人の声がとても遠くから聴こえる。とにかく、すぐに「大丈夫」とひと言発して笑っておかなければ。二人に心配はかけたくない。
なのにおかしいの。全然立てない。頭ではわかっているのに、本当に一ミリも動けない。
ダメだ、このままじゃ。私がいつまでもこうしていたら、変に注目を浴びて大事になってしまう。そんなのは恥ずかしい。あらゆる方向から冷ややかな目で見られたり、「またオジョーサマが目立ちたいから」だのと揶揄されたりする。それで私、またツラい想いをするんだ。
「――鴨重」
「う、ん」
だんだん周りの音が静かになっていく。意思とは逆に瞼が下がっていくし、指先も冷たくなってしまったし、踏ん張ろうとすればするほど力が抜けていく。どうやら肩が床についてしまったみたい。いつの間にか仰向けになってしまったのかな。
わちゃあ。もしかしてこれ、保健室へ行ったほうがいいレベルのハナシ? 一人で行けるかなぁ、紅夏とえみりに手伝ってもらう? いや、二人には頼れない。私と一緒にいたら二人だって変なこと言われてしまう――。
「俺汗かいてっけど、ちょっと我慢して『ください』」
ふと、右の耳元でかけられた男声。聞き覚えしかないそれに注意を向けると、それまで背中で感じていた床の感触がなくなった。
ええと……どういうことか全然わからない。目も耳もさだかでないし、頭もうまく働いていないもの。
ただ、私に声をかけた人が誰なのかだけははっきりとわかった。
「……けーと?」
「はい、お嬢さま」
よかった。いつの間にか『敬斗』が来てくれた。
ちょっと大袈裟かもしれないけれど、ちゃんと危機に反応して、私の身を案じて来てくれたんだ。
「『移動いたします。ただちに怪我の有無を確認いたしますのでしっかりとわたくしにおつかまりください』」
もう全部あとまわしでいいや。きっと敬斗がなんとかしてくれるもの。
たまたま間近に触れたティーシャツ生地をできうる限りの力で握った私は、ようやくの想いで鼻から息を吸った。
するとふわりとイズミさんのあの優しい匂いがして、懐かしさのあまりそれに甘えたくなってしまった。いまだにジンジンしている目頭をその匂いに埋めた私は、そこで意識を保とうと頑張るのをやめた。

