これにて専属契約は

 俺――和泉敬斗は、朝のホームルームが終わってまもなくギクリとしていた。

「鴨重オジョーサマにわざわざ話しかけに行って、どしたん」

 前の席のエーシンがぐるんと身体ごと振り返り、いつもの間の抜けた顔でそう訊ねてきたから言葉に詰まった。動揺を出さないよう細心の注意を払いながら「まぁ、ちょっと」と視線を俯けてカバンをゴソゴソ。コイツの興味を別へ向けられる話題を探す。

「敬斗苦手だったよな? あのオジョーサマのこと」
「特になんもねーよ。話してみたら案外フツーだったし。それよかさぁ――」
「なんもねーとか言いつつよ」

 そうして後ろから歩み寄ってきたのはチッヒー。さっさと次の授業の準備を済ませたらしく、教科書などを小脇に抱え、ドヤ顔でエーシンの右横に立った。

「さっきはオレの話の腰折ってまでご令嬢のとこ行ってらっしゃいましたよね? あれは『なんもねー』にあたるかぁ?」

 見てたぞぅ、とニヤニヤしているチッヒーへ「ほお?」と不敵な笑みを向ける。

「いったい何を仰りたいのですかねぇ、キミは?」
「いやいや、どうってことでもないシンプルな話ですよ。なんかあったんだろ、と問うてるワケね、ハイ」
「だーから、なんもねぇって」
「昨日はプリント集めるとき怒らせてたっけ? で、さっきの親密な感じと、他と違う敬斗の態度……」
「フム、たしかに。そう並べられると『ん?』てなるなぁ」
「おい、エーシンも納得するな」
「別にいーじゃん、隠すなって。ご令嬢となんかあったんだろ? 言ってみろよう。ほれほれぇ」
「もーいいってぇ、マジでただちょっと喋っただけだろ。他となんも変わんねーじゃん」
「そりゃ喋んのはフツーだけどさ。オレが言いてぇのはそこじゃないんですよ。血相変えて輪ァ抜けてまでご令嬢に駆け寄ってったのが気になったワケよ」

 よく見ていやがる、とチッヒーの観察眼に溜息。そんなに露骨に血相を変えていたのだろうか、俺は。さすがに無自覚だ。
 ここまでずずいと詰め寄られて、しかしチッヒーのニヤニヤ顔にイラとしつつ冷たく睨み続ける俺。はたしてどこまで話すべきか。一切を言わないことが理想だが、こんなに名推理を披露されては回避が苦しい。
 いや、別にエーシンとチッヒーに限ったことではない。俺がボディガードをしていることは、実は周りの誰にも言っていない。どれだけ信用している友人だとしても簡単に吹聴しないのは、『怪しいヤツはどこに潜んでいるかわからない』という心得からきている。……まぁこれは、お嬢さまの前任ボディガードである俺の母親の受け売りというか、強制力の高い言いつけというか。
 どんな情報もどこから漏れるかわからない。とりとめのない雑談が思わぬ危機になってしまうことだって、きっとある。俺の軽率なオシャベリひとつで自分の首だけならまだしも、鴨重グループやお嬢さまの首まで絞めてしまっては大問題だ。

「親同士が知り合いだってわかって、そんでちょっと打ち解けたっていうか、単にそれだけ」

 ハァと深く溜息をついてから、そう小さく答えてやる。これくらいなら浅すぎず深すぎない情報だし、嘘でもない。
 ほお、とワクワクした表情で食いついたチッヒーとエーシン。そのテンションを切るため、取り出した教科書やらをわざと机の上でタンと整える。

「だから二人の考えてるよーなオモシロイことはマジでなんもねーの。つーワケで、これ以上変な詮索ナシでよろ」

 二人を交互に見ながら立ち上がると、どこか押され気味に「わ、わかった……」と納得してくれた。
 とりあえずひと安心、と思ったものの、しまった、マズい、雰囲気最悪。俺が真顔気味になってしまったからか、教科書を整えたときの音が意外と響いてしまったからか。ともかく、今の態度が『威圧している』と取られてしまったかもしれない。無理矢理にでも軌道修正しておかないと。

「つ、つーか! こんだけ鴨重のことで俺につっかかってくるってことは、ホントはチッヒーのが気にしてんじゃねーの?」
「はーあ? いやいやいや、どーしてそーなる!」
「あー、敬斗にとられたくないあまりに突撃しました的な?」
「違うから。マジで違うからっ。おいエーシンその顔やめて。ちょっと、マジでニヤニヤしないでっ」
「えー、なんだよー。チッヒーか敬斗におもろいこと始まってんのかと思ったのにぃ」

 二人のやり取りを見て「空気が戻ってよかった」と胸を撫で下ろす。しかしそろそろ教室を移動しておかなければ。

「けどさぁ、二人してそこまでガッツリ否定しなくてもよくね? 逆にあのコが不憫よ」

 おいエーシン、もういいだろこの話題。中腰になった俺はどうすればいい。

「だってさぁ、オジョーサマって美人とかわいいの間って感じじゃん? 大人しいし、温和っていうかさぁ。まぁお家柄がエグいから、付き合いたいとか以前に隣歩ける想像すらできないけど」
「あっわかる、オレもエーシンと同意見っ! だいたいさぁ、軽いノリで深入りしたら、マジもんの令嬢専属ボディガードが飛んできてバチボコにされそーじゃん? さすがにムリっしょ」

 もう手遅れだしそれは俺なんだよ。

「ほ、ほら、もーいいから移動すんぞ。チッヒーもエーシンも一限目どこ?」
「オレ世界史だから隣」
「敬斗と一緒で日本史。あ、時間ギリ?」
「ほらー、いつまでもエーシンが喋ってっからぁ」
「えーオレのせい? チッヒーが燃やした話題だろー?」
「バァカ、火種は敬斗くんですぅ」

 バタバタと教室を出ていくさなか、しかしなぜかどんどん思考が煮詰まっていく。あーもう、頭で考えることは得意じゃないっつーのに。
 たしかにエーシンが言うように、鴨重紗良の見た目はかなり整っている。ただ、今まではたとえ視界に入っても、背景の一部として見ていたフシがある。だから俺としてはずっと見目の秀麗さ以前の問題だった。
 確執がなくなった今、鴨重を一人の人間として認知し始めたからか、お嬢さまとして関わりを持ち始めたからなのかは不明だが、もうただの『景色』ではなくなっている。だからこうしてきちんと話題に出てみて初めて、目から鱗だと思った。鴨重紗良を恋愛対象として見る人間が存在していることと、何よりこんなに身近にそれを話題に出すヤツがいるということに。
 まぁ、冷静に考えてみれば「そりゃそう」なんだ。恐らく俺が特殊なだけで、鴨重紗良を既に認知していた人間は当たり前にいる。『鴨重』という名前はいくらでもきっかけになったろうし、クラスや行事で交流があれば彼女と会話もするだろう。そして、エーシンとチッヒーのように見目で認知して『そう考える』ヤツだって少なからず出てくるワケで。……『そう』ってのはつまり、アレだ。周りから、その……も、もっと生々しくて肉体的なことまで考えられる対象にもなっていてもおかしくはない、ということだ。
 明確にそれを認識した途端、それまで逆立っていた感情の一部分がぶるりと鳥肌を立てて氷点下まで冷え切った。そしてまもなく沸々とメラつき始め、静かに燃えたぎり、周りのすべてが『敵』に見えてきた……というのは言い過ぎかもしれないが、それと近しいものを感じて落ち着かなくなっていく。
 どこの誰かもわからないヤツの脳内で、既にお嬢さまがいいようにされていたというのか。別に他人の思考を規制したいなどとは思っていないが、たとえ妄想であってもお嬢さまが弄ばれるなど、俺が許せそうにない。
 アイツは、俺がちょっとばかし見直してしまうほど蔭でとんでもない努力をしているんだ。アホかと思うくらい生真面目だし、強がるわりには案外脆いし、すぐ泣くし、友達いねーし。なのに、恩義に厚くて誰より礼儀正しくて、当人さえ無自覚だった部分にまで気を揉んでしまう、どうしようもなく優しいヤツなんだ。
 そんなアイツのクソほど面倒な部分をカケラも知らない人間なんかに、アイツを好き勝手にさせておけるか。釣り合う男を見定めるときは、一流企業である鴨重グループの面接よりも更に厳しい審査が必要になってくるに違いない。絶対に俺もその末席で見定めてやる……というか俺が第一関門でもいい。俺をぶん殴れるならぶん殴ってみろくらいの気概だ。
 だいたい、ただのボディガードの俺がこんなことを考えているのは、アイツが普段からぼやーっとしているからなんだ。放っておいたらどうでもいいクズ男に簡単に引っかかった挙げ句ATMにされていても不思議ではないくらいぼやーっとしているのが悪い。
 そうだ、だからこそ俺がいる。ぼやーっとしているアイツのことは、実質俺しか護れない。社長と奥さまと、前任のボディガードである俺の母親の代わりとして、俺がもっとも近くにいる。それは、鴨重紗良を妙な視線や小穢い手から護ってやるためだろう。なにも怪我や事故だけではない、これからはそういった話題からもきっちり護ってやらなければ。
 あーもう、しょーがねぇなぁ。今から学校の中でも目を光らせておいてやるか。傅いてやらねぇとは言ったが、傅くのと護衛するのは別問題だしな。仕事のときのように常時べったりはしなくとも、せめてプライベート時は俺の視界の端に入れつつ気配で安否を確認してやるくらいどうってことはない。
 そうと決まればさっそく……と思ったのだが。

「……いなくね?」

 いつの間にか移動が済んでいた教室内をキョロキョロと見渡すも、鴨重の姿がない。
 しまった、一限目は選択式社会科だ。世界史、日本史、政治経済のどれかを選ぶことになっていて、鴨重は俺と違うものを選んでいたはず!
 あークソ、気持ち新たにと思ったのにこれかよ! 出鼻を挫かれた気分……と机に突っ伏す。

「ねぇー、エーシン」

 右隣に座っていたエーシンへコソコソと訊ねる。

「選択授業って、途中で変えられるっけ?」

 聞こえなかったのかと疑うくらい無言のエーシン。そのうちにゆっくりと俺を向き、稀に見る真顔で「敬斗お前、絶対マジでなんかあったろ」とだけ返してきた。