私――鴨重紗良は、登校まもなく非常にマズいことになっていた。
「おはよ、鴨重さん」
まず、教室の自分の席に座って文庫本を広げたばかりの私のもとに、隣のクラスの遠藤さんが立った。なぜか不敵な笑みを浮かべている。私は反射的に、小さいながらも挨拶を返した。
「なぁなぁ。何、さっきの距離?」
遠藤さんの背後を通り、私の目の前に立ったのは尾藤さん。そう言いながらダンと机に右手をつき、笑顔も見せずに私を見下ろしている。
「何がどうなったら昨日の今日で、和泉とあんなに距離縮まるん?」
尾藤さんの粗雑な口調に、私はビクリとして縮こまる。
「べ、別にそんな、大して縮まってない、とは思う、けど」
「わかったぁ。そそのかしたんでしょー。昨日のなんやらのパーティのときに」
遠藤さんは優しい口調なのに目が笑っていない。
「そっ、そそのかしてなんかっ! ちょっと普段より、きちんと話ができたくらいで」
「ほー? かなり込み入った話だったんだ?」
「急に仲良くなるくらいの話ってなんだろーう? わたし全っ然わかんなーい」
「や、特にそんな詳らかにしとくような内容じゃない、といいますか」
「えー、なに。ウチらに隠し事かよ、紗良お嬢さま?」
「そーだそーだぁ。親友だと思ってたのにねぇ。ヒドぉい」
なかなか二人の追撃がおさまらない。返す言葉を必死に探すも、下顎がカタカタと震えて声が出なくなってしまった。続く硬直状態が怖い。こんなに二人から睨まれたことなんて、今までに一度も――
「……ふぇ、もうやめてよぅ。またドッキリでしょ、これ?」
やっと喉から出たのは白旗。途端にふにゃりと情けなく顔面が崩れて、すると尾藤さんも遠藤さんも笑いを吹き出した。
「はっはっは、いやー、大正解! さすがに紗良も慣れてきたねぇ」
大きく笑う尾藤さん――もとい、紅夏。
「きゃーん、悪ノリしてごめんねぇ! わたしがギュッてしてよしよししてあげるから許してぇ! よしよしぃ。もー、ホントにかわいいなぁ、紗良は」
両腕を伸ばして私の頭を胸に抱く遠藤さん――もとい、えみり。
途端に緊張がとけて、私は「もーっ」と頬を膨らませた。
「なに今の! すんごい圧。意味わかんないっ。ただでさえまだクラスに馴染めてないんだからっ。ヤだった。今のホントにヤだった!」
「わかった、わかったから。マジでゴメンってぇ、落ち着けよ。ウチらただ紗良がふにゃってなるの見たかったんだよ」
「うんうん。心細そうにしてる紗良って超かわいいんだもぉん」
むぎゅぎゅとえみりに抱きしめられる。温かくて柔らかくて大きくて甘い匂いがして……だから少し罪悪感。
二人と私は去年一年間同じクラスだった。入学当初、選択授業の席が近かったところから仲良くなり、以来何かと三人で行動することが多い。
家柄やら鴨重の名のせいで周りから腫れ物に触るみたいに接されることが多いけれど、紅夏とえみりは初めから違った。きちんと私の本質を見てくれる。二人にそうしてもらえるからこそ、私らしく高校生活を送れていると言ったっていいくらい。
そして、私だけクラスが離れてしまった今でもこうして心配して来てくれる。今日はなぜだか悪ノリが過ぎるけれど。
「それで? ドッキリしようって言い出したのはどっち?」
どうせ発案者は紅夏だろう。真正面に立っている紅夏を見上げると、脱色したがっている長い黒髪をかき上げて意地悪く笑った。
「やだな。アタシじゃなくてえみりだから」
「そうでぇす、今回はわたしだよん」
語尾にハートマークが見えるえみり。もうっ、と彼女の腕の中からジロリ。
「だって紅夏が、『二人の様子がおもしろいかも』って言うからぁ。そんなふうに言われたら気になるでしょー? で、どうせ訊くなら紗良に百面相してもらおうとおもって!」
「百面相って……」
「ガッコ着くまで、あなたがたの真後ろ歩いてたんだけどね、アタシ。気付かなかっただろ」
「ええっ? だったら声かけてくれたらよかったのに」
「ムリムリ。紗良が推しと並んで歩いてんのにわざわざ邪魔できねーでしょ」
紅夏がチラと一瞥したのは、教室のうしろでやっぱり人集りの中心にいる和泉くん――もとい、敬斗くん。つられて振り返ると、楽しそうに会話をしつつじゃれ合いながら笑う男の子たちが目に入った。囲うように女の子も何人か混ざっている。もし私もあの中に入れていたのなら、男の子が怖くない私になっていたのだろうか。
はたと気が付いたのは、敬斗くんの遠い視線が一瞬だけ私とかち合ったような気がしたから。途端に向き直って、えみりの腕の中に収まり直す。危ない危ない、あの空間だけやたらと眩しすぎる。あんなの太陽直視と変わらない。だから『もしも』なんて想像してしまうのよ。
「でさ? 真ん前歩いてる二人がずっと視界に入ってくるわけじゃん。だから観察すんじゃん。そしたらなーんかいつもより距離が近そうに見えたしさ、じゃあ昨日の『仕事』で進展あったのかなーってなるじゃん?」
ひとつずつ道を辿り直す紅夏。ニヤァと笑って「へーえー?」私を揺するえみり。
「昨日何があったのォ? 推しに警護されている役得お嬢さま?」
実は気のおけない仲の二人にだけ、敬斗くんが私の専属ボディガードを担ってくれていることは伝えてある。二人は周囲に他言しないし、それで何かしら害が出る心配もいらない。
観念して、えみりの拘束からそっと抜け出した私。散々躊躇った後に、とても小さな声で告げる。
「ちょっとその、長年抱えてたわだかまりを、解消したといいますか」
「わだかまり?」
「なに、そんなに前から接点あったの?」
「直接はないよ。だけど、実は――」
カクカクシカジカでして、と極力端的にまとめつつ話を進めると、紅夏は腕組みをしてニヤニヤし始め、えみりは頬に手を当てて「ヒャアー!」と声にならない声をあげた。
「強ぉい! 紗良、強運だよぉー、やったねぇ!」
「アレじゃね? もはや親公認みたいなもんだってことっしょ」
「ちっ、違うよ、そんなわけないでしょ! あとふたりとも声が大きいっ。もう少し静かに」
「わかりやすく赤くなっちゃってんじゃん。えみり、撫でまわせ」
「きゃわいい、きゃわいいっ。今日も髪の毛いい匂いするしぃ! 紗良かわいいー!」
えみりの柔らかい手で優しく頭部を撫でられる。まるでペットかぬいぐるみになった気分。そう思う反面、これはこれで悪い気がしない不思議についつい黙り込む。
「――鴨重ちょっといい?」
不意にかけられた男声にびっくりして、まるで全身が跳ね上がるようだった。みんなで振り返るとそれがまさかの敬斗くん。すかさず「なに、和泉?」と紅夏が返す。
「ウチらの内緒話に混ざりたい感じ?」
「違うよ紅夏。和泉くんも紗良を撫で回したいんだよぅ」
「どっちも違いまーす。鴨重と目ェ合ったから、なんか困ってんのかと思って」
三人の注目が一気に集まる。ギクリとして身をこわばらせながら、つい敬斗くんを見つめ返してしまった。
今度は意識的に視線がかち合っている。敬斗くんはしかしなんでもないように「違った?」と加えてきた。昨日までとは違い、どちらかといえばもっとずっと穏やかさを感じる声色。
「困っ、困っては、ないです! 二人と、いろいろ話してただけ」
「マジ? けどさっき目ェ合ったじゃん?」
「ああああれは流れで、その、ちょっと後ろ向いたときに、たまたま合っただけ、というか」
「そなの? じゃあコレ絡まれてるわけじゃねーの?」
「人聞き悪いなぁ、和泉くぅん。わたしも紅夏も紗良のこと大好きなんだけど?」
えみりのよしよししていた手が、次第に髪を梳かしはじめる。これはこれで心地がいい。ウチのお手伝いさんにやってもらうときとは違う優しさが沁みてくる。
「ダイジョブだよ、和泉。アンタの大事なお嬢さまは、ウチらにとってもめちゃくちゃ大事なんだから」
紅夏が「なっ」と同調を求めながら、私の頬をほにほにとつついた。がくがくと頭を縦に振る。「そうなんだよ」と敬斗くんを見上げて訴える。
「へぇ? 今まで鴨重が誰かと喋ってんの見たことなかったから珍しーとは思ったんだけど、鴨重がそんな顔してんならマジでじゃれてただけか」
私を見て何かを納得したような敬斗くん。そもそも『そんな顔』ってどんな顔よ。そう思ってわずかに口をへの字に曲げたとき――。
「じゃあよかった」
ふわ、と和んだ敬斗くんの表情。ドキーッと私の心臓ごと貫かれて見事ノックアウト。そしてその場の時が止まる。
和泉敬斗が笑っている。とんでもなく優しい顔をして笑っている。いつも遠巻きに見るあの表情で、目の前の私に笑いかけている?!
な、なに、なんなの? たしかにわだかまりはなくなったかもしれないけれど、それにしたって唐突に距離を詰めてきすぎでは?! 一歩ずつ来てよ、どうしてゼロか一〇〇なの?! 唐突にギュンと来られたら私、教室で演っている『大人しくて物静かな鴨重さん』でいられなくなるじゃない!
「まぁ、マジでヤベーときはフツーに呼んでくれていいから。ちゃんと手は貸してやるし」
そう言うと、敬斗くんは「じゃあよかった」の顔のまま自席へ戻っていった。完全に彼が遠のくと、私は濁点をつけた「うっ」を洩らして机に突っ伏した。勢いのままゴンとおでこをぶつけてしまう。紅夏とえみりに心配されたけれど、ただただ痛かった……。
「ねーぇー紗良ぁ。思ったより相当距離縮んでるみたいだねぇ」
「このままもっと詳しく訊きたいとこ……なんだけど、残念時間切れ。えみり、もうチャイム鳴る」
紅夏の一言で現実へ引き戻った私は、ガバッと顔を上げた。
「ええ? もうそんな時間?! 寂しいよう」
「わたしも寂しーいー。紗良とずっと一緒にいたぁい!」
紅夏が私のおでこを心配してくれる横で、えみりに優しく頭を撫でられる。私、相当二人に甘やかされている気がしてきた。
「はいはい、ワガママ言わない。惜しいけどじゃあな、紗良」
「うん、二人ともありがと」
一度ニコッとしてから離れていく紅夏。
「またあとでねーっ! 体育は一緒だからねぇ!」
髪の毛を整え直してくれるえみり。ひらひらと手を振ってその後を追う。私も小さく振り返して、二人がすっかり見えなくなってから瞼を伏せた。
一抹の寂しさ。手元に用意したまま開かなかった文庫本を机の中へしまう。それから、机に打ち付けてしまったおでこをそっとさする。
私、マヌケな顔をしていたのではないだろうか。無防備で何もできないようなヤツだと思われてしまっていないだろうか。
でも、それでも、たとえそう思われていたとしても、善意で駆けつけてくれたその敬斗くんの気持ちが今はとても嬉しい。裏表抜きに、素直に彼の懇意を受け取れる。
敬斗くんが傍にいると緊張するし、恥ずかしさだって残っている。けれど、この短時間で安心感も加わった。まるでイズミさんが傍にいてくれているときのような、あの安心感。独りで何でもやらなくちゃと気を張り続けなくていい、この柔らかさ。
「『ちゃんと手は貸してやる』、か」
私へ向けてくれている敬斗くんの善意を、まずはその場で素直に受け取れる人間にならなくては――椅子の位置を正しながら、私はそう心に決めた。
「おはよ、鴨重さん」
まず、教室の自分の席に座って文庫本を広げたばかりの私のもとに、隣のクラスの遠藤さんが立った。なぜか不敵な笑みを浮かべている。私は反射的に、小さいながらも挨拶を返した。
「なぁなぁ。何、さっきの距離?」
遠藤さんの背後を通り、私の目の前に立ったのは尾藤さん。そう言いながらダンと机に右手をつき、笑顔も見せずに私を見下ろしている。
「何がどうなったら昨日の今日で、和泉とあんなに距離縮まるん?」
尾藤さんの粗雑な口調に、私はビクリとして縮こまる。
「べ、別にそんな、大して縮まってない、とは思う、けど」
「わかったぁ。そそのかしたんでしょー。昨日のなんやらのパーティのときに」
遠藤さんは優しい口調なのに目が笑っていない。
「そっ、そそのかしてなんかっ! ちょっと普段より、きちんと話ができたくらいで」
「ほー? かなり込み入った話だったんだ?」
「急に仲良くなるくらいの話ってなんだろーう? わたし全っ然わかんなーい」
「や、特にそんな詳らかにしとくような内容じゃない、といいますか」
「えー、なに。ウチらに隠し事かよ、紗良お嬢さま?」
「そーだそーだぁ。親友だと思ってたのにねぇ。ヒドぉい」
なかなか二人の追撃がおさまらない。返す言葉を必死に探すも、下顎がカタカタと震えて声が出なくなってしまった。続く硬直状態が怖い。こんなに二人から睨まれたことなんて、今までに一度も――
「……ふぇ、もうやめてよぅ。またドッキリでしょ、これ?」
やっと喉から出たのは白旗。途端にふにゃりと情けなく顔面が崩れて、すると尾藤さんも遠藤さんも笑いを吹き出した。
「はっはっは、いやー、大正解! さすがに紗良も慣れてきたねぇ」
大きく笑う尾藤さん――もとい、紅夏。
「きゃーん、悪ノリしてごめんねぇ! わたしがギュッてしてよしよししてあげるから許してぇ! よしよしぃ。もー、ホントにかわいいなぁ、紗良は」
両腕を伸ばして私の頭を胸に抱く遠藤さん――もとい、えみり。
途端に緊張がとけて、私は「もーっ」と頬を膨らませた。
「なに今の! すんごい圧。意味わかんないっ。ただでさえまだクラスに馴染めてないんだからっ。ヤだった。今のホントにヤだった!」
「わかった、わかったから。マジでゴメンってぇ、落ち着けよ。ウチらただ紗良がふにゃってなるの見たかったんだよ」
「うんうん。心細そうにしてる紗良って超かわいいんだもぉん」
むぎゅぎゅとえみりに抱きしめられる。温かくて柔らかくて大きくて甘い匂いがして……だから少し罪悪感。
二人と私は去年一年間同じクラスだった。入学当初、選択授業の席が近かったところから仲良くなり、以来何かと三人で行動することが多い。
家柄やら鴨重の名のせいで周りから腫れ物に触るみたいに接されることが多いけれど、紅夏とえみりは初めから違った。きちんと私の本質を見てくれる。二人にそうしてもらえるからこそ、私らしく高校生活を送れていると言ったっていいくらい。
そして、私だけクラスが離れてしまった今でもこうして心配して来てくれる。今日はなぜだか悪ノリが過ぎるけれど。
「それで? ドッキリしようって言い出したのはどっち?」
どうせ発案者は紅夏だろう。真正面に立っている紅夏を見上げると、脱色したがっている長い黒髪をかき上げて意地悪く笑った。
「やだな。アタシじゃなくてえみりだから」
「そうでぇす、今回はわたしだよん」
語尾にハートマークが見えるえみり。もうっ、と彼女の腕の中からジロリ。
「だって紅夏が、『二人の様子がおもしろいかも』って言うからぁ。そんなふうに言われたら気になるでしょー? で、どうせ訊くなら紗良に百面相してもらおうとおもって!」
「百面相って……」
「ガッコ着くまで、あなたがたの真後ろ歩いてたんだけどね、アタシ。気付かなかっただろ」
「ええっ? だったら声かけてくれたらよかったのに」
「ムリムリ。紗良が推しと並んで歩いてんのにわざわざ邪魔できねーでしょ」
紅夏がチラと一瞥したのは、教室のうしろでやっぱり人集りの中心にいる和泉くん――もとい、敬斗くん。つられて振り返ると、楽しそうに会話をしつつじゃれ合いながら笑う男の子たちが目に入った。囲うように女の子も何人か混ざっている。もし私もあの中に入れていたのなら、男の子が怖くない私になっていたのだろうか。
はたと気が付いたのは、敬斗くんの遠い視線が一瞬だけ私とかち合ったような気がしたから。途端に向き直って、えみりの腕の中に収まり直す。危ない危ない、あの空間だけやたらと眩しすぎる。あんなの太陽直視と変わらない。だから『もしも』なんて想像してしまうのよ。
「でさ? 真ん前歩いてる二人がずっと視界に入ってくるわけじゃん。だから観察すんじゃん。そしたらなーんかいつもより距離が近そうに見えたしさ、じゃあ昨日の『仕事』で進展あったのかなーってなるじゃん?」
ひとつずつ道を辿り直す紅夏。ニヤァと笑って「へーえー?」私を揺するえみり。
「昨日何があったのォ? 推しに警護されている役得お嬢さま?」
実は気のおけない仲の二人にだけ、敬斗くんが私の専属ボディガードを担ってくれていることは伝えてある。二人は周囲に他言しないし、それで何かしら害が出る心配もいらない。
観念して、えみりの拘束からそっと抜け出した私。散々躊躇った後に、とても小さな声で告げる。
「ちょっとその、長年抱えてたわだかまりを、解消したといいますか」
「わだかまり?」
「なに、そんなに前から接点あったの?」
「直接はないよ。だけど、実は――」
カクカクシカジカでして、と極力端的にまとめつつ話を進めると、紅夏は腕組みをしてニヤニヤし始め、えみりは頬に手を当てて「ヒャアー!」と声にならない声をあげた。
「強ぉい! 紗良、強運だよぉー、やったねぇ!」
「アレじゃね? もはや親公認みたいなもんだってことっしょ」
「ちっ、違うよ、そんなわけないでしょ! あとふたりとも声が大きいっ。もう少し静かに」
「わかりやすく赤くなっちゃってんじゃん。えみり、撫でまわせ」
「きゃわいい、きゃわいいっ。今日も髪の毛いい匂いするしぃ! 紗良かわいいー!」
えみりの柔らかい手で優しく頭部を撫でられる。まるでペットかぬいぐるみになった気分。そう思う反面、これはこれで悪い気がしない不思議についつい黙り込む。
「――鴨重ちょっといい?」
不意にかけられた男声にびっくりして、まるで全身が跳ね上がるようだった。みんなで振り返るとそれがまさかの敬斗くん。すかさず「なに、和泉?」と紅夏が返す。
「ウチらの内緒話に混ざりたい感じ?」
「違うよ紅夏。和泉くんも紗良を撫で回したいんだよぅ」
「どっちも違いまーす。鴨重と目ェ合ったから、なんか困ってんのかと思って」
三人の注目が一気に集まる。ギクリとして身をこわばらせながら、つい敬斗くんを見つめ返してしまった。
今度は意識的に視線がかち合っている。敬斗くんはしかしなんでもないように「違った?」と加えてきた。昨日までとは違い、どちらかといえばもっとずっと穏やかさを感じる声色。
「困っ、困っては、ないです! 二人と、いろいろ話してただけ」
「マジ? けどさっき目ェ合ったじゃん?」
「ああああれは流れで、その、ちょっと後ろ向いたときに、たまたま合っただけ、というか」
「そなの? じゃあコレ絡まれてるわけじゃねーの?」
「人聞き悪いなぁ、和泉くぅん。わたしも紅夏も紗良のこと大好きなんだけど?」
えみりのよしよししていた手が、次第に髪を梳かしはじめる。これはこれで心地がいい。ウチのお手伝いさんにやってもらうときとは違う優しさが沁みてくる。
「ダイジョブだよ、和泉。アンタの大事なお嬢さまは、ウチらにとってもめちゃくちゃ大事なんだから」
紅夏が「なっ」と同調を求めながら、私の頬をほにほにとつついた。がくがくと頭を縦に振る。「そうなんだよ」と敬斗くんを見上げて訴える。
「へぇ? 今まで鴨重が誰かと喋ってんの見たことなかったから珍しーとは思ったんだけど、鴨重がそんな顔してんならマジでじゃれてただけか」
私を見て何かを納得したような敬斗くん。そもそも『そんな顔』ってどんな顔よ。そう思ってわずかに口をへの字に曲げたとき――。
「じゃあよかった」
ふわ、と和んだ敬斗くんの表情。ドキーッと私の心臓ごと貫かれて見事ノックアウト。そしてその場の時が止まる。
和泉敬斗が笑っている。とんでもなく優しい顔をして笑っている。いつも遠巻きに見るあの表情で、目の前の私に笑いかけている?!
な、なに、なんなの? たしかにわだかまりはなくなったかもしれないけれど、それにしたって唐突に距離を詰めてきすぎでは?! 一歩ずつ来てよ、どうしてゼロか一〇〇なの?! 唐突にギュンと来られたら私、教室で演っている『大人しくて物静かな鴨重さん』でいられなくなるじゃない!
「まぁ、マジでヤベーときはフツーに呼んでくれていいから。ちゃんと手は貸してやるし」
そう言うと、敬斗くんは「じゃあよかった」の顔のまま自席へ戻っていった。完全に彼が遠のくと、私は濁点をつけた「うっ」を洩らして机に突っ伏した。勢いのままゴンとおでこをぶつけてしまう。紅夏とえみりに心配されたけれど、ただただ痛かった……。
「ねーぇー紗良ぁ。思ったより相当距離縮んでるみたいだねぇ」
「このままもっと詳しく訊きたいとこ……なんだけど、残念時間切れ。えみり、もうチャイム鳴る」
紅夏の一言で現実へ引き戻った私は、ガバッと顔を上げた。
「ええ? もうそんな時間?! 寂しいよう」
「わたしも寂しーいー。紗良とずっと一緒にいたぁい!」
紅夏が私のおでこを心配してくれる横で、えみりに優しく頭を撫でられる。私、相当二人に甘やかされている気がしてきた。
「はいはい、ワガママ言わない。惜しいけどじゃあな、紗良」
「うん、二人ともありがと」
一度ニコッとしてから離れていく紅夏。
「またあとでねーっ! 体育は一緒だからねぇ!」
髪の毛を整え直してくれるえみり。ひらひらと手を振ってその後を追う。私も小さく振り返して、二人がすっかり見えなくなってから瞼を伏せた。
一抹の寂しさ。手元に用意したまま開かなかった文庫本を机の中へしまう。それから、机に打ち付けてしまったおでこをそっとさする。
私、マヌケな顔をしていたのではないだろうか。無防備で何もできないようなヤツだと思われてしまっていないだろうか。
でも、それでも、たとえそう思われていたとしても、善意で駆けつけてくれたその敬斗くんの気持ちが今はとても嬉しい。裏表抜きに、素直に彼の懇意を受け取れる。
敬斗くんが傍にいると緊張するし、恥ずかしさだって残っている。けれど、この短時間で安心感も加わった。まるでイズミさんが傍にいてくれているときのような、あの安心感。独りで何でもやらなくちゃと気を張り続けなくていい、この柔らかさ。
「『ちゃんと手は貸してやる』、か」
私へ向けてくれている敬斗くんの善意を、まずはその場で素直に受け取れる人間にならなくては――椅子の位置を正しながら、私はそう心に決めた。

