これにて専属契約は

 俺――和泉敬斗は、意味がまったくわからなくてぎょっとしていた。右隣にいる警護対象のお嬢さまが、俺の軽口の途中で突然涙をぱたぱたと静かにこぼし始めたからだ。

「な、何っ。今度は何だっ。なんで泣く?」
「あ……あれっ?! なんで? ごめんなさい、涙なんて……」

 片手でグラスを持っているにもかかわらず、涙を拭おうとするお嬢さま。コラコラコラ、そんなことしたら化粧が崩れるだろうが、この考えなし。

「やめろやめろ、手で拭うな。ティッシュかなんか出すから待って」

 グラスを持っているせいで拭うものが取り出しにくい。あークソ、ジャケットの内ポケットになんか入れるんじゃなかった。とはいえ尻のポケットに入れたものをお嬢さまの顔に押し付けるのも気が引けるワケで。だったらやっぱり内ポケットが最適解か、と落ち着く。ここまで二秒と少し。
 棒立ちのお嬢さまへ「ちょっと持ってて」とグラスをなかば強引に渡してしまう。これで両手を塞いだ。
 続けてサッと取り出したのは、お嬢さまの専属メイドさんから預かったお嬢さまのハンカチ。これは高級なシルクのそれで、そんじょそこらのタオル地やら化学繊維だののそれとは違って、今まで触ったことのないような滑らかな心地がする。実際の値段など知りもしないのだが、財閥令嬢のハンカチなど確実に高級に違いないだろう? そんな高級であろうシルクハンカチをお嬢さまの頬へそっとあてがう。

「わあっ?! ああああのっ、じじじ自分で」
「結構でございますお任せください」

 棒読みでその申し出を却下。俺がやってやったほうが手早くて確実だからだ。
 陽はとっくに落ちているし、甲板照明の間隔が広いせいで薄暗がりだし、何より風の強さが予報よりも上回っているから髪がまとわりついてきて手元がよくわからない。なのにこのお嬢さまときたらどんどん俯いていく。
 だー、クソ、まどろっこしい。「失礼」と小さく断りを入れてから、左手でコイツの頬に触れて強制的に上向かせる。まったく、両方の目からきっちり涙を流しやがって。ファンデーションを乗せているところに筋ができちまうだろうが。

「で、何? 俺的にはテキトーな雑談だったんだけど、またプンスカする内容だった?」
「う、ううん。ききき急に、イズミさんとのことで思い出したことがあって、そ、そしたらその、罪悪感が、蘇りまして」

 びっくりしたように目を開いているお嬢さま。面白いくらいに視点が定まらない。下瞼にハンカチをあてがえば、お嬢さまは反射的にギュッと目を閉じてきた。あーあー、そういうことするとまた涙が流れてくるだろってのに。

「なんかバチバチにヤバいことやらかしてイズミさんに怒られたんか」
「違うっ、イズミさんの息子さんに悪いことしたなーって思ってたことがあったのっ」

 俺に? とハテナで手を止めて、ハンカチをそっと外す。ほぼ同時に目を開けるお嬢さま。バチリと視線がかち合う。すると小さく鼻を啜りながら視線が外れた。

「中学生までは、参観日とかあったじゃない。保護者が見に来てくれるやつ。あれでね、今日みたいに私の親が来られないときにね、いつもイズミさんが代わりに来てくれてたのよ」
「……ふーん」

 あぁ、よく知っている。忘れたことはない。それが一度や二度でなく、九年の間に何度もあったからだ。

「なのにね、息子さんのと私のが被ってること、何回もあったの」
「…………」
「イズミさんはお母さまからの言いつけで私を優先してくれてたけど、ホントは息子さんの参観日に行きたかったろうになーって。息子さんだって、ご自身のお母さまに見てほしかったろうなーって。そんなことに気がついたのが、二年前だったの。もう本当、どうして私、イズミさんと息子さんに気遣いのひとつもできなかったんだろうって思ったら……」
「次泣いたらガチで化粧ドロドロんなるぞ」

 俯いてうるうるとしているコイツに、わざとピシャリと冷たく言い放つ。しかも怖がらせるための低い声。ハッとしたように慌てて鼻を啜るお嬢さま。薄曇りの夜空を見上げて涙を零すまいとしている。

「アホか、ガキじゃあるまいし。いつまでもママが恋しいワケねーだろ」
「けど申し訳なくて、私」
「んなことまっっっっったく気にしてませーん。つーか忘れてたわそんなこと」

 いろいろと言いたげな顔をしているコイツへ背を向ける。いつまでもメソメソグジグジしているヤツを見続けていると腹が立つから。

「てか、そろそろ戻んねーと。代役とはいえ、鴨重グループのトップがいつまでも姿見えねぇと騒がれたりしてめんどくさくなるじゃん?」

 それまで外していたサングラスをかけ直してから、お嬢さまを向き直った。ボディガードモードへ頭を切り替えて、持たせたままだったグラスを二脚とも受け取る。グラスは既にカラなので、会場内をウロウロしている配膳人へさっさと返してしまえばいい。

「予報より風が強いようですし、あまりここに長居されては風邪をひいてしまわれます」

 さぁ、と船内へ戻るよう促すもなかなか動こうとしない。「お嬢さま」と声をかけたが返事もない。また頑固炸裂かよ、と俺も夜空へ静かな溜息をはく。
 落ち着け、俺。このまま無視して進んでしまったり強引に連れて行こうとしては、昼間となんら変わらない。しかし、さっきまで凛としていた『話しやすい彼女』は、こうなってしまうとなかなか戻ってこない。お嬢さまのご機嫌が戻るまで黙って待つしかないのだろうか。
 俺は性分的に、ただ楽しければそれでいいと考えるフシがある。恥やら外聞はあとまわし。俺の声が届く範囲の全員が楽しいと感じる雰囲気がもっとも心地いい。そういう空間を作りたいし、現に作り続けている。
 だからコイツが、その輪の数歩うしろでウジウジし続けている気持ちがわからない。むしろ心底歯痒くて、面倒くさい。気になるなら、用事があるなら、潔くパッとこちらへ入ってきたらいいだけなのに。きっと誰かが受け容れてくれるだろうに。
 そもそも、俺の構築したものに水を注してくることにもずっとイライラしている。なんだかぐちゃぐちゃと考えを巡らせているらしいが、そんなことをしているから瞬発性に欠けるんだ。それを俺はボクシングから学んだのだが、コイツはまさか知らないのだろうか。

「――和泉敬斗くん」

 なぜフルネーム? と、俯いているお嬢さまを見やる。

「ずっと、あなたから大切なお母さまを奪ってしまっていて、本当にごめんなさい」

 俯いていたはずの顔を上げた鴨重紗良の目には、もう涙は少しも残っていなかった。そしてそれを見た途端、なぜか胸の奥のほうがギクリとした。鼻呼吸をするもどうも浅くしか吸えない。
 気取られないようさり気なく視線を黒い水面へ移して、俺は鼻で嗤った。

「や、だからさぁ。それはたまたま母親がそういう内容の仕事だったからで。別に俺マジでなんとも思ってねーし。てかあんま何回も謝られても――」
「『小学生の和泉敬斗くん』に向けて言ってるの」

 その声になぜかびくっとして、肩に妙な力が入った。
 なぜだ? まさか、こんな女にビビっている? 中学三年間と去年のボクシングの地区大会で優勝し続けているこの俺が?

「こんなのただのエゴだし、パフォーマンスだって思われちゃうのもわかってる。けど、それでも、気付いたときにわだかまりをなくしたいの」

 はあ、本当にどうでもいい。ジメッとして重たい話はさっさと終わりにしたい。

「和泉くんはさ、私のこと嫌いだよね」
「……はい?」
「ていうか、鴨重の家を嫌ってる。『小さな和泉くん』にそういうことをずっと続けたから」

 図星を突かれ、公私の境界が揺らぐ。目を逸らさずまっすぐ立っているコイツを見て、「そうか」とようやくはっきりとした。

「一六歳の和泉くんが気にしてないのはわかったけど、六歳や七歳の和泉くんは絶対に嫌な想いをしたもの。大人の事情に振り回され続けたら、私なんか憎く想って当然だよ」

 四月に同じクラスで過ごすようになって以来、まだ二か月も経っていない。クラス内での会話だって、昼間のような連絡事項くらいしかしてきていない。ボディガードのときだって大した会話などしていない。むしろ今日の今が一番話をしているくらいだ。

「もう戻ってこない時間を取り戻させてあげることはできないけど、私も両親も、和泉くんのご家庭を蔑ろにしてたわけじゃないの。周りのひとたちが私たちに仕えて当然だなんて、一度も思ったことない。それだけはどうしても『今の和泉くん』に伝えたくて」

 なのにコイツは、そんな短期間で、俺でさえ気が付かなかった俺の深いところまで気にかけていた。つまりコイツには、他人(ひと)を見定める目があるということだ。普段面倒なことをぐちゃぐちゃ考えているのは、対象を表面的でなく深くまで見定めようと観察しているからだ。

「謝ることしかできなくて、本当にごめんなさい。腹立たしい相手のボディガードなんて、もう我慢してやらなくて大丈夫だから。自宅に戻ったら、私からそれとなく社長と奥さまに伝えておき――」
「――バーカ」

 あーあ。このご令嬢に傅くフリをして反撃のタイミングを図っていたというのに、台無しだ。

「始業式のときに言いましたよね、『仕事は仕事。学校は学校』だと。仕事のときは、わたくしもプライドを持って臨んでおります。まぁ、愛美さんと比べればド素人バイトくんですが」

 そこまで言って、肩の力をわずかに抜く。

「正直言えばさぁ、俺もアンタと一緒で、自分の親のメンツ潰さねーようにしてんのね。そういう『仕事』に、個人の好き嫌いなんか持ち込まねぇでしょ。むしろ俺のがアンタに嫌われてると思ってたんですけど?」
「ええっ、ど、どこで?!」
「仕事も学校も関係なく全然目ェ合わねぇから。始業式で釘刺したとき怖がらせたから、それで避けてたり素っ気ねーのかな、って。じゃあお互いに割り切った関係のがいいんだろーな? と思って」
「そ、それ言うなら和泉くんだって! わた、私が学校で話しかけたときだけ、いつも『スンッ……』てするじゃない」
「なんだ、スンて。なってねーよそんなん」
「なってるもん。それまでニコッてしてたのに、私が寄ったらスンッて冷たい目になるもん。だから嫌われてるって思ってたんだもんっ」
「んなこたねーだろ、別に何とも思ってねーんだから」
「じゃ、じゃあ今は?」
「はあ?」
「わだかまり、というか、小さい和泉くんは、私のこと、ちょっとだけでも許してくれる?」

 うぐ、と言葉に詰まる。コイツ、目線が合わないことを伝えた途端バッチリ合わせてきやがった。しかも切なげな上目遣い。今までやったことなかっただろ、こんなことッ。まぁコイツのことだから深い意味なんかないことはわかっているのだが。

「まぁ、顔も見たことないアンタに、たしかにずっとモヤついてはいたよ。だから無意識に冷たくなってたかも、とは反省しなくもない、かな」

 居心地が悪くてフイと顔を背ける。そうしてボソと吐露するのは、お嬢さまの言う「小さい和泉くん」の意見。
 本当なら「そんなもんわかるわけないだろ」と突き放してしまいたかった。しかし、お嬢さまの言っていることが不思議とじわりじわりとわかってきたせいで、返すべき言葉を自分の中に見つけてしまったのだ。

「でもなぁ、俺もオヤジも、そのおかげで出来るようになったこと結構あるんだよなぁ」
「お父、さま」
「俺のオヤジさぁ、それまで自分の世話すらままならなかったんだけど、俺の世話も家事も人並みにやれるようになったんだよ。アンタが気にしてた参観日は全部オヤジが来てくれてたし。なんならPTAとかやってたくらいだったし」

 左手の指を駆使してグラスを二脚とも持ち、空いた右手でもう一度サングラスを外す。

「たしかに母親とは休みの日に顔合わすくらいだったけど、俺はずっとオヤジといたワケで。そういうのもあってオヤジの下でずっとボクシングやれてたし、結果的に充実した今があるっつーか」

 感覚が『小さい和泉くん』から現在へと戻ってきた。再度フッと肩の力が抜ける。するとようやく視線を合わせられ、ほどなくして自然と頬が緩んだ。

「俺もゴメン。昔の悪いこと全部、なんでもアンタに押し付けてた」

 海風が抜けていく。なんだかスッとする。
 ずっと見ないようにしていたことと向き合ったからだろうか。一人だったなら感情を持て余していただろう、しかしむしろ爽やかな心地だ。

「今から改めてさぁ、公私どもども適当にやり直そっか」
「適……テキトー?」
「あー、だから。適度になかよく、とか、そんな感じ?」
「う、うんっ。じゃあ、もう『アンタ』って呼ばないでくれるっ?」

 ジリと一歩詰め寄ってくるお嬢さま。そんなにキラッキラした目で言うことではないと思うのだが。

「か、『かしこまりました、お嬢さま』」
「普段の和泉くんに言ってるんだけど」
「もー。わかったわかった。『鴨重さん』な」
「鴨重さん……まぁ、しょうがないか。じゃあ私、『敬斗くん』って呼んでいいっ?」
「べ、別に、好きに呼べば?」
「うんっ!」

 わあ、ニッコニコ。こんなことでこんなにも舞い上がってしまうか、普通?
 気をよくしたお嬢さまは、ようやく令嬢モードに戻り「行きましょう」と船内へ足を向けた。手早くサングラスをかけ直し、「かしこまりました、お嬢さま」と着いていく。
 結局、鴨重紗良のことはよくわからない。しかしよくわからないコイツのおかげで、俺は精神的に二歩も三歩も前進したような気がする。寝て起きてもこの気持ちが変わらなければ、お嬢さまの言う『わだかまり』とやらが本当に解消されてしまったということだろう。
 海風に煽られたショールの金糸がキラリと反射する。浅く振り返ったお嬢さまは照れたように笑っている。
 俺は彼女の代わりに、船内へのガラス戸を右手で引き開けた。