これにて専属契約は

 私――鴨重紗良が静かにガラス戸を押し開けて出た先は、船の遊歩デッキ。通路として使われていることもあって、既に数組が海風に当たっている。
 実は、この人たちがガラス戸から出入りしている姿を、ご挨拶の合間に何度も見かけた。だから挨拶まわりが終わったら絶対に飲み物を持って出てやろう、と狙っていた。
 涼んでいる人たちに見つからないよう、静かにガラス戸を閉め、誰もいないスペースを探しにコソコソと歩いて行く。二歩後ろから、グラスを二脚持った敬斗が周囲をキョロキョロしながら着いてきている。

「はぁ、涼しーい!」

 結局、船首デッキまで来てしまった。遊歩デッキよりも風が強い。だから人がいないのね、と納得。

「甲板に出られたかったのでしたら、先にお申し付けくださればご案内いたしましたのに」
「ううん、ただ風に当たりたかっただけだから。中はひしめきあってて息が詰まりそうで」
「でしたら、こちらへ椅子をお持ちいたします」
「大丈夫。それよりグラスありがとう。ひとつ頂戴しますね」

 胸の高さまである手摺に背を向け、敬斗と対面になる。左手のグラスを受け取って、しかし右手を持て余している彼が困ったように訊いてきた。

「あの、もうひとつは」
「もちろん敬斗の分です。どうぞ、召し上がって」
「いえしかし、これはご来賓へ配られているものですから」
「どっちも私が飲んだことにしちゃえば平気だよ」

 はい乾杯っ、と無理矢理グラスを鳴らした。キンと軽く鳴ったそれは、あっという間に波と風の音に消える。
 杏色のノンアルコールカクテル……というかただのソーダ水。口に含むと甘い匂いが鼻に抜けていく。あれだけ大勢と話したあとに喉を潤す分としては、さすがにこれ一杯では足りそうもない。
 チラリと彼を覗えば、多少苦々しい顔をしてグラスを見つめていた。黒いレンズのせいで眼球がどこを見ているのかわからないけれど、ふと私と目が合ったらしい素振りを見せて、小さく頭を下げてからようやくグラスに口をつけた。
 敬斗に背を向けて夜景を眺める。
 出発した枝依港の奥には、枝依南区の灯りが見える。豪華絢爛な都会の灯りではないけれど、田舎すぎることもない程よい灯りたち。加えて、限りなく黒に近い夜の色を映している海面。船の進みに合わせて波形が幾本も生まれては、別の波形とぶつかって馴染み、消えていく。
 それらを眺めながら、私はひたすらに「どうしよう」と頭がぐるぐるしていた。
 ドレスアップでの帯同は何度かしてきたけれど、やっぱり黒スーツでバリッとしている和泉敬斗は群を抜いて格好いい。ビジュアルが良すぎる。正直目のやり場に困る。
 乗船直後にじっと見つめたときは、彼の体調を心配していたこともあってどうにか照れずに済んだけれど、よく考えてみたら二人きりになるだなんてはちゃめちゃに緊張するやつでは? だって、心臓が爆速で鳴っているのがわかって動揺してしまうもの。ああっ、二人きりが嬉しいのに逃げ出したい! ひどい矛盾に顔が崩れ――

「――あの、お嬢さま」

 呼ばれてフッと我に返る。「はいっ」と振り返るときに口角に笑みを残しておくのが基本中の基本。

「大変申し上げにくいのですが、こちらにいらっしゃる間だけ、サングラスをはずさせていただいてもよろしいでしょうか。暗がりに暗いレンズだと、結構視界が制限されまして……」
「そっ、そうね、そうよねっ。ええもちろん! ごめんなさい、気が付かないまま暗いところへ連れ出してしまって」
「滅相もございません。ご許可大変ありがたく頂戴いたします」

 空いている右手でサングラスを取る敬斗。スルリと胸ポケットへしまえば、学校でよく見る『和泉くん』の顔面が現れた。そんなことは当然なのだけれど、考えていたよりもずっと直接的に『和泉くんと二人きり』という状況を意識してしまって緊張が加速する。

「……いかがなさいましたか、お嬢さま?」
「なっ、なんなな、なんでもないっ。ごめんなさい」

 怪訝に覗かれ、声が裏返る。いけないいけない、うっかり見すぎてしまった。『和泉くん』が近すぎると、こんなにもオフィシャルな自分がままならないだなんて。ドキドキをリセットしたくてグラスを煽る。
 そういえば、今は流れであっさりと言えていた。
 本当は、放課後よりもっとずっと前に『あの言葉』を和泉くんへ言っておかなければならなかった。なのに、プライベートの私が意地っ張りで見栄っ張りで幼稚なせいでなかなか言い出せず、そのままズルズルと時間が経ってしまっている。
 どうしていつもこうなるのかなぁ。普段から令嬢モードのように素直で大人で凛々しい私でいられたら、こんなに悩まずに済むのに。そうしたら自己嫌悪になんかならないし、男の子だって怖くないし、誰かを羨んで対抗心を燃やさずにいられるだろうに。
 そもそも和泉くんは、あのときのことをどう思っているのかな。今は普段と変わらないように見えるけれど、実は私と同じようにモヤモヤしていたり、私に不信感を抱いているのだろうか。そうだとしたら、モヤついている私の護衛をなんら変わらず従順に務めてくれているということ?
 そんなのやっぱり凄い。どんな状況でもきちんとオンオフを切り替えられるのは、精神的に大人な証拠だもの。しかも、やっぱりそれは私が理想としている姿にとても近い。仮に立場が逆だったならとても私にはできるとは思えない。だから同時に悔しさも抱いてしまう。
 目の前に広がる夜景も落ち着いていて綺麗なのも、忠告のお陰で今がそこまで寒くもないのも、一人きりでこのパーティを乗り切れたも、きっとすべて彼が傍にいてくれたから。私よりずっと大人な彼が、私のためにと傍にいてくれたから。
 そんな彼に焦がれて、羨んで、あまつさえ妬むだなんて。私、いつまでこうしているのかな。ウジウジしたままでいいわけがない。
 きっと、今しかない。今日のことは今日中に直接解決するべきで、だから私からきちんと言わなくちゃ。

「あの、和泉くん」
「お嬢さま。今は護衛中でございますから――」
「学校のときの鴨重さんが、同じクラスの和泉くんに話しかけてるのっ」

 敬斗だってサングラスを外しているんだもの、私もその間くらい素に戻ったっていいよね? 自分自身へ必死にそう言い聞かせて、口を噤んでいる和泉くんへ言葉続ける。

「お昼前は、ごめんなさい。和泉くんが私の代わりにみんなの分集めてくれたのに、ろくにお礼言わないどころか、怒り散らかしちゃって」

 ゆらゆらと波立つ海面を見つめ続ける私。とてもじゃないけれど、怖くて彼を見られたものではない。

「ほ、本当はもっと、早く謝らなきゃだったんだけど、なかなかその、上手く言語化できなくて。それで結局ズルズルしちゃって、今に至りまして……」
「あんとき、アンタは迷惑だった?」

 教室で聴く和泉くんの声音。私はブンブンと首を振る。

「違う、迷惑じゃない。そうじゃないの」

 私の左隣にやって来る和泉くん。「どゆこと?」と訊ねながら、手摺に肘をついて前傾に寄りかかる。

「言葉にするとね、急に大したことじゃなくなるんだけど。その、く、悔しくなっちゃった……と言いますか」
「……はあ?」
「わ、わかんないだろーね誰も。私の勝手な事情だし」

 くるりと身を反転させて、手摺に背を預け直す。グラスの華奢な脚を両手の指先で持ち、視線も落とす。

「和泉くんは人望あるしさ、器用だしさ、フットワーク軽いじゃない。なんでも簡単にやれちゃってさぁ、全然労力使ってない感じ。でも私はさぁ、ひとりひとりに説明しながら回収してまわることしかできなくて、それでも一回で集められなくて。どうしてこんなに気力使うんだろうって、溜息ばっかり出てさ」
「それで和泉くんが羨ましくて悔しくなってプンスカした、ってか」
「だって。私は和泉くんみたいに、大声出して一気に集められないもん。和泉くんみたく、みんなに言うこと聞いてもらえる人じゃあないもん」
「だーかーらァ。なんでアンタはそういつもいつも独りで全部やろうとすっかなぁ」

 視線を感じる。そろりそろりと彼に顔を向けていく。頬杖をついた和泉くんが、やはりジトリとこちらを見ていた。

「誰にでも得手不得手あんだからさぁ、自分にできねぇことはできそうなヤツに頼ればいいだけだろ。人間ひとりの許容範囲(キャパ)なんてたかだか知れてんだし、フツーに誰かに助けてもらえよ」
「それだと、まるで私がなんにもできないみたいじゃない」
「考えすぎ。仮に俺がアンタに何か頼ったら、俺はなんもできねーヤツだって思う?」
「そ、そんなこと、ない」
「な? つーかさ、今回のこれと一緒じゃね? 社長は自分が来れねぇってなったから、娘のアンタに挨拶まわりの代役を頼んだ。俺もそう。母ちゃんが腰やっちゃって動けなくなったから、アンタの護衛を俺に頼んできた。で、結局それ俺がずっと請け負ってる。大人だって自分ができねぇことを誰かに頼むんだから、アンタもできるヤツに頼めばいいだけだろ。ないものねだりでプンスカしてるほうが疲れねぇ? もっと気軽にすればいーじゃん」
「そう、だけど」

 ごもっともだし、突然ストンと腑に落ちてくれた。今まで誰に何と言われても私の考えが変わることはなかったのに。そうかぁ、『こうならなければ』と固執するから、上手くできない自分に落ち込んでしまうのか。
 納得すると同時に「ちょっと待って」とブレーキがかかっている。今、和泉くんから聞き違えかなと思う言葉が出てきて思考が止まってしまっているからだ。

「あの……私の護衛を俺に頼んできたって言った、よね。誰がだって?」
「は? や、だから、俺の母親が」
「俺の母親が? どうして?」
「あの、何言ってんの? アンタを小一から高一までずーっとボディガードしてたの、俺の母親だろ」
「えぇ? いやいやいや、だってイズミさんは――」

 と、そこまで自分で言ってようやく気がついた。
 敬斗の前任はイズミという女性だった。一七〇センチ程のスラリとした麗人で、年齢不詳。
 彼女はもともと、私の母のボディガードを務めていた。しかし、小学校へ上がる私を心配した母が、自身がもっとも信頼しているボディガードであるイズミさんを私に付けてくれた。
 優しくて、会話も上手で、立ち居振る舞いのアドバイスをいくつもくれたイズミさん。合気道や柔道をはじめとした護身術をひととおり身に着けているらしく、彼女のおかげで危ない目に遭わずに済んできた。小中学校の参観日に両親が来られないときには代役を務めてくれたほど、献身的に私に尽くしてくれた。
 そんなイズミさんが、彼のお母さまだというのなら――

「――まさか、名字の『和泉』さん、だった?」
「なんだ。あのひと、アンタの前ではイズミって名乗ってたワケ?」

 ぎこちない笑みが頬に張り付いていて取れない。一方、和泉くんは何でもないようにケロッとしている。

「愛美(あいみ)っつーんだよ、下の名前。まぁ、『可愛すぎるから』って避けがちだから、恥ずかしがって敢えて名字使ってただけだろーけどな」
「本当は、『アイミ』さん……じゃあやっぱりイズミさんは、和泉くんのお母さまなんだ?」
「そーですよ。なに、マジで知らなかったの?」
「知らなかったよっ。ずっと下のお名前だと思ってたもん。それに、その、おふたり全然似てないものっ」
「えーそうかぁ? 結構似てるって言われるけど。ま、男女差もあるし、先入観なきゃわかんねーか」
「はぁ、情けない。普段私がどれだけぼーっとしているのか思い知った気がする……」
「だな。アンタがいつまでもぼーっとしてっから、俺とか母ちゃんみたいなバカ強い護衛がずーっと必要になんだよな」

 グラスを煽ってカラにした和泉くんは、意地悪そうな笑顔を向けてきた。瞬間的にムカッとするも、不意にその表情の向こう側にイズミさんが見えてしまった。

「ともかくさァ。昼間のアンタの感じの意味わかってやっとちょっとスッキリしたわ。とはいえ学校で傅いてやるつもりはねーけど」

 ああ、私は『この子』にずーっととんでもないことをし続けていたんだ――和泉くんの話す言葉が右から左へ抜けていくなかで、私はとあることを思い出していた。そしてうっかりと涙腺が緩み、コロリと涙粒がひとつ頬を転がった。