「敬斗くんが困ってるわぁ、可哀想よう。パパ、ちゃんと順を追って説明してさしあげたら?」
私――鴨重紗良の母・叶恵が、雰囲気にそぐわないのーんびりとした口調で、ポカーンとしたままの敬斗くんへ助け舟を出した。「もちろんだよ」と相槌を返したお父さまが口を開く。
「あのね、わたしたちはそんな殺伐とした関係ではないんだよ。わたしから和泉くんに出資したことはあるけど、和泉くんから金銭をせびるような事案はない」
「てことは、オヤジは社長から借金してるわけじゃない、てことですか?」
「うん。だから昨日戴いた賞金は、きちんと敬斗くんが持っておきなさい。イズミさん。お母上として、今後はご子息のそういうのもきちんと面倒みてさしあげて」
「かしこまりました、社長」
イズミさんの口角が上がっているけれど、細かく震えている。アレ絶対に敬斗くんのことを面白がっている。あぁ可哀想、敬斗くん! こんなことなら私がもっと早く情報をすり合わせておけばよかった!
「俺と鴨重くんが小学生のときからの友達だっつーこと、結構前にオメーに言ったことあんだけどな。全然繋がってなかったんだな」
背もたれに寄りかかっている北斗おじさまもニヤニヤしている。じろ、と睨んで「全然記憶にございませんが」と言った敬斗くんがちょっと恥ずかしそうでかわいい。きっとまた頭に血が上っていて聞いていなかったり、忘れちゃったりしたのだろうな。
「しょうがないよ和泉くん。子どもたち交えて何かやるのこれが初めてだし」
「そういえばそーだね、鴨重くん」
「もう少し遡るとね、わたしたちは自分たちで言っちゃうくらい仲良しで、子どもの頃からしょっちゅう遊んでたんだ」
「鴨重くんの邸宅は変わってないけど、もともと和泉家は鴨重くんの家とご近所だったし」
「だから中学までは同じ学区でね。登下校もほぼ一緒」
「そーそー。クラス違っても関係なかったもんな」
「近所のいろんなところもお互いの家も行き来してたし」
「いろーんなヤンチャもひととおりやったしッ!」
果てに顔を見合わせて「ねぇー!」とにっこりするお父さま二人。なんとなくムカ、としている敬斗くん。
「その繋がりで大人になってもよく会っててよ、なんやかんやあって鴨重くんがイズミさん雇ってくれることになったワケよ」
「そのあと和泉くんがボクシングジム開くって言うから、じゃあ出資したげるよーってわたしがおカネ出したのね」
「でもそれだとなんか悪いからよ、しばらくしてから融資に変えてくれって頼んだんだ」
「でも断ったんだよ。『出資』にしといたほうがいろいろ都合いいから」
「こーやって鴨重くんが全然聞き入れてくんねーから、無理矢理返そうとしてたんだ。でも全部突っ返されちまってて」
「そうされると二重取りみたいになるし、尚更収支がごちゃつくんだってば」
「だから一旦清算してみよーぜって提案したじゃねーか。貰いっぱなしで申し訳ねーし」
「そんなことないって。イズミさんのみならず敬斗くんまで従事してくれてるのに」
やいやいと言い合いを始めるお父さまたち。それを白々としたまなざしで見つめている敬斗くん。話に入れなさそうと踏んだのか、左隣のイズミさんへ確認することにしたみたい。
「じゃあ、俺が考えてたのと全部逆だったっつーこと?」
「どう考えてたんだ、敬斗は」
「や、だから。『借金返せ』じゃなくて『返還の必要のないカネだから要らない』てことだったんだろ? 『返すカネが必要』なんじゃなくて『渡しても受け取ってもらえない』。『清算』だって『関係を終わらせる』意味じゃなくて、単に『ごちゃつきを正す』って意味だった……」
「残念ながら、どうやらあの二人はそうだったみたいだな」
やっぱり敬斗くんは、鴨重グループから北斗おじさまが資金を借りて、それをなかなか返さないことでおじさまが責め立てられているのでは、とソワソワしていたんだ。
だから少しでもお父さまの鉾を収められないかと自分ができることを探して、賞金の出るトーナメントへ出場することを決めて、たくさん我慢をしながら血みどろで優勝を狙った。結果、それを手にお父さまへ真正面から頭を下げた。
なんて勇敢なの、引き続きカッコいい!
「なんだそういうことかよ……」
「まあまあ、そうあからさまに気ィ落とすなって」
脱力して落ち込む敬斗くんの背中をイズミさんがバシバシと叩く。しかも見たことがないほど意地悪そうな顔をして、敬斗くんの頭をあっという間にくしゃくしゃにしてしまった。ああっ、その髪、一応敬斗くんがこだわってセットしているはずなのに!
「けど母ちゃん知らなかったなぁ。父ちゃんのために頑張るよーな優しいとこが敬斗にもあったこと」
「別にッ。結局、俺がむっちゃいろんなこと考えてたこと全部徒労だったんだろ。独り相撲。空回り。最悪……」
頬杖をついてむすくれてしまった。でも仕方がないと思う。蓋を開けてみたら、まさか親友である幼馴染を互いに思い遣っていただけ、というお花畑みたいな話だったんだから。
「とんでもないよ、敬斗くん!」
やいやいから突然抜けてきたお父さま。優しく微笑んでいるものの、敬斗くんはまだ苦い表情をしている。
「今回敬斗くんが取ったタイトルの大きさには重大な意味があるんだ。これがあるのとないのとじゃこっちの話が進められないからね」
「こっちの話? 賞金よりも圧倒的に意味のある話ですか」
「もちろん。だって、昨日優勝が決まった瞬間から、敬斗くんは企業とプロ契約できるようになったんだから」
「……プロ契約?」
まるで初耳とでも言いたげな顔をしている。ということはまさか、賞金に目がくらんでいたせいでもっとも大事なことを知らずに優勝しちゃった?
今回敬斗くんが頂点に立ったあのボクシングトーナメント大会には、厳格な規定があった。『連盟未所属であること』と『プロ未登録であること』。つまりアマチュア一般選手の敬斗くんは、優勝したことで今後どこかとスポンサー契約を結び、プロ選手として扱われるようになる。
それがこのトーナメント大会の最たる報奨だった。参加選手のほとんどは、百万円よりもそっちをもぎ取ろうと必死だったはず。
「昨日試合終わったと同時に、いろーんな会社から話がきてんだぜ。スポーツ用品会社、食品会社、大手美容クリニックに菓子メーカーとか」
「そのうちのどこかと契約を結ぶことで、敬斗くんはボクシングをしておカネを貰うことが叶うんだよ」
「プロ契約すると企業の名前背負って試合出ることになる。だからその企業からも報奨が出る……つーのはさすがに説明しなくてもわかるか」
「まぁ、ウチのジムからプロに上がった先輩たち見てきたし」
お父さまたちが代わる代わる『大人の事情』を説明していく。責任の伴う世界に足を踏み入れることになる敬斗くんに、誤解なく今後を歩んでほしいから、大人が二人がかりで説明をしているんだろう。
当然知っていること、なんとなく察していること、言われるまでわからないこと。まだ高校生で子どもな私たちはそれらが不透明だから、『親』という大人の思惑を誤解する。
「そこでだよっ」
ガタンと立ち上がるお父さま。ボディガードさんに椅子を引かれ、膝にかけていたナプキンをそのボディガードさんに預け、足取り軽く敬斗くんのもとへスタスタ。間もなく敬斗くんの両手を取り、ズイと詰め寄る。
「ぜひウチと契約しよう、敬斗くん」
「……って、鴨重グループと、ですか?」
「もちろんっ。私がどうしても敬斗くんを欲しいのにはいろいろ理由があるんだ、和泉くんの息子だからということだけじゃなくてね」
にこー、としたパパが敬斗くんの肩に手をまわす。あっ、そっちの肩って、昨日の試合の最後に重たい一撃を貰ったところですごく痛いはずなのに……あぁほら、またぎこちない表情をしている。
「紗良のボディガードとして永年イズミさんにはお世話になったわけだけどね、いずれは後任を考えなきゃならなくなる。あーイズミさんも誤解しないでほしいんだけど、イズミさんじゃもうダメだとかそういう話ではないからね? イズミさんはこれ以上ないほど叶恵さんと紗良に尽くしてくれているし、鴨重のあれそれをよく理解してくれている。イズミさんより実力に信頼をおける人だってそうはいない。だからその後任となると、イズミさんよりも絶対的に上回る基準が必要でね」
「仰せの意図は承知の上でございます、社長。つまり今回この愚息が優勝したことで、その力量が申し分ないと判断できるようになった、とご判断くださったわけですね」
「だからさ、愚息はやめてよ愚息は」
「敬斗くんは高校生だってこともあったし、この数か月間試験的に従事してくれたわけだが、これでようやく胸を張って在籍させてあげられるなー、ってね」
「パ……ちょっと待って、お父さま。試験運用だったって、なに?」
「いやいや、紗良は婚約者云々のときにママから聞いたんでしょ? 紗良の男性慣れ促進のために敬斗くんを導入したって話。アレはもともと高校卒業する頃にやってみようとしてたんだけど、イズミさんが調子悪くなっちゃったから『まぁいっか』で早めただけなんだよ。この場の大人の総意で」
「なっ……」
なにそれ! だからどうしていろいろと軽いの?! だいたい、力を入れるところをずっと間違えているのよ、この四人はっ。いったい私たちを何だと思ってるのやら……と苦く思ったとき、ふと敬斗くんと目が合ってギクリ。慌てて視線を俯ける。
今のは確実に「はあ?」の顔だった。私のあれそれのためにいいように使われていたと知って、さすがに嫌われたかもしれない。そういう落胆の表情だったかも。
巻き込んでしまって申し訳ないなと思うからこそ、敬斗くんのこれまでを考えるとツラくなる。胸の浅いところで感情がチクチクする。
「あの、社長」
敬斗くんの次の言葉に緊張が走る私。「はあ?」の顔はもうなかったけれど、膝の上で握った拳には汗が滲んでいる。
「俺がプロ登録して、鴨重グループとスポンサー契約して、本格的にボクサーとして活動することになったら、尚更紗……お嬢さまの護衛役は難しくなってしまうのでは?」
「そんなことないよ。プロになったとはいえ四六時中試合をするわけじゃないし、一般企業やバイトに勤しみながらプロ活動している人がほとんどだよ」
「それこそボディガードやら警備員やらと並行している人は多いぜ? 卒業しちまったウチのジムのプロ生もそうだったし」
北斗おじさまの援護射撃が、敬斗くんの表情をわずかに柔らかくした。イズミさんも柔らかいトーンで補足する。
「敬斗の続けたいことが同時に叶うぞ、と社長は仰せなんだよ。会社としても、先任の母ちゃんとしても、敬斗がプロボクサーだってことで殊更安心して紗良お嬢さまを任せられる、ということだ。続けたいんだろ? 護衛役」
「そりゃまぁ、そうだけど」
「学生のうちはそのくらいでいいんじゃねーかな。別に永久就職決定ってわけでもねーんだし、今はありがとーで受け取っとけよ。……ていうか敬斗が鴨重くんと契約してくれれば父ちゃんも気楽だからいいかなって」
「おい最後のが本音だろ。契約云々を口実に飲み会できるから」
「やっはっは、鋭いなぁ敬斗くん!」
「わちゃー、バレちゃったな鴨重くん!」
「バラしたよーなもんだろ和泉くん!」
まさか北斗おじさままで私欲だったなんて。びっくりを通り越して私も気が抜けてしまった。真正面の敬斗くんも呆れた表情。
きっと、この計画の発起人はイズミさんだ。この中でもっとも私に寄り添い続けてくれて、敬斗くんのこともよくわかっている唯一の人だもの。ぎっくり腰になったことで、より私の今後を案じた結果だったに違いない。
そしてこの両親のことだから、イズミさんが言い出したことにウキウキのノリノリで賛成して、誰にも違和感を与えないような理由付け考案に勤しんだのだろう。そうして、敬斗くんを脱アマチュアのかかった試合に出すことで収めた。だから尚更北斗おじさまもウキウキで手を挙げたというワケね。
向けた視線が再びかち合う。真顔のような、ちょっとだけ優しいような、曖昧な表情。
読めない。だからこそ今すぐ訊きたい。敬斗くんが、それぞれに都合のいいように謀られたこの契約をどう思っているのか。願ったり叶ったりな私が異を唱える必要はないけれど、私はいつだって敬斗くんの意思を尊重したいもの。
本当に納得できた? 私のボディガード続けるの、本当にイヤじゃない? どこかから冷やかされるかもしれないよ? 両立できると思う? もし私を嫌いになって別れることがあったら、どこまで亀裂が入る?
「社長」
痛いはずの肩に手をかけているお父さまの手にそっと触れて、ごく自然にそれを外し、ひと呼吸おいて向き直る。その間際に口パクで「ダイジョーブ」と描いてから、にこーと私へ優しく笑ってくれた。
「スポンサー契約、ぜひお願いします」
「本当?! わーい、よかった!」
「わーい、ってパパ……」
こんなに子どもっぽくても社長が務まるのね。たしかに私はもう少し肩の力を抜いてもいいのかも。
「じゃあ、本契約の面倒くさいことは改めて月末くらいに詳しく話しよーね」
「はい、よろしくお願いします」
「紗良ちゃんよかったわねぇ、引き続き敬斗くんが傍にいてくれるわよー?」
右隣のお母さまにそう言われてつい顔を赤くしてしまう。もう、わざわざ言わなくたっていいのに!
「お嬢さま。躾の行き届いていない愚息ではございますが、引き続きよろしくお願い申し上げます」
「愚息だなんてとんでもないです。それに、私こそお願いしますなんだから」
イズミさんの優しい笑みが私を向く。あぁ、この表情は本当に敬斗くんと似ている。だから敬斗くんがにこー、とすると、なおのこと安心するんだ。
お父さまたちは抱き合いつつバシバシ背中を叩き合って、それからやっぱり子どもみたいにゲラゲラと笑っている。腰を労りながら立ち上がったイズミさんとも握手を交わして、大人四人で今後の勤務についてお話が始まって。
ふぅ、と背もたれに寄りかかる。
なんだかとっても好都合に丸く収まってしまった。いいのかな? これ、おカネとか会社とか利権とかも絡んでいるのに、本当に大丈夫?
膝上のナプキンを取って静かに席を立つ。ふと敬斗くんと目が合えば反射的に立ち上がってくれて、「出るんだろ?」の人差し指の合図を飛ばしてきたから思わずキュン。なに、先回りして気付いてくれるじゃん。そういうとこ大好きじゃん。
黒服さんの二人がついてきてくれようとしたけれど、敬斗くんがそれを阻止。断る口調が柔らかい。きっと今の二人も昨日の試合を見に来てくれていた人だと気が付いたからだろう。
食事会場の重たい扉を敬斗くんが押し開ける。大人たちの歓談の声を背に、目配せをした私たちは二人でこっそり抜け出した。
私――鴨重紗良の母・叶恵が、雰囲気にそぐわないのーんびりとした口調で、ポカーンとしたままの敬斗くんへ助け舟を出した。「もちろんだよ」と相槌を返したお父さまが口を開く。
「あのね、わたしたちはそんな殺伐とした関係ではないんだよ。わたしから和泉くんに出資したことはあるけど、和泉くんから金銭をせびるような事案はない」
「てことは、オヤジは社長から借金してるわけじゃない、てことですか?」
「うん。だから昨日戴いた賞金は、きちんと敬斗くんが持っておきなさい。イズミさん。お母上として、今後はご子息のそういうのもきちんと面倒みてさしあげて」
「かしこまりました、社長」
イズミさんの口角が上がっているけれど、細かく震えている。アレ絶対に敬斗くんのことを面白がっている。あぁ可哀想、敬斗くん! こんなことなら私がもっと早く情報をすり合わせておけばよかった!
「俺と鴨重くんが小学生のときからの友達だっつーこと、結構前にオメーに言ったことあんだけどな。全然繋がってなかったんだな」
背もたれに寄りかかっている北斗おじさまもニヤニヤしている。じろ、と睨んで「全然記憶にございませんが」と言った敬斗くんがちょっと恥ずかしそうでかわいい。きっとまた頭に血が上っていて聞いていなかったり、忘れちゃったりしたのだろうな。
「しょうがないよ和泉くん。子どもたち交えて何かやるのこれが初めてだし」
「そういえばそーだね、鴨重くん」
「もう少し遡るとね、わたしたちは自分たちで言っちゃうくらい仲良しで、子どもの頃からしょっちゅう遊んでたんだ」
「鴨重くんの邸宅は変わってないけど、もともと和泉家は鴨重くんの家とご近所だったし」
「だから中学までは同じ学区でね。登下校もほぼ一緒」
「そーそー。クラス違っても関係なかったもんな」
「近所のいろんなところもお互いの家も行き来してたし」
「いろーんなヤンチャもひととおりやったしッ!」
果てに顔を見合わせて「ねぇー!」とにっこりするお父さま二人。なんとなくムカ、としている敬斗くん。
「その繋がりで大人になってもよく会っててよ、なんやかんやあって鴨重くんがイズミさん雇ってくれることになったワケよ」
「そのあと和泉くんがボクシングジム開くって言うから、じゃあ出資したげるよーってわたしがおカネ出したのね」
「でもそれだとなんか悪いからよ、しばらくしてから融資に変えてくれって頼んだんだ」
「でも断ったんだよ。『出資』にしといたほうがいろいろ都合いいから」
「こーやって鴨重くんが全然聞き入れてくんねーから、無理矢理返そうとしてたんだ。でも全部突っ返されちまってて」
「そうされると二重取りみたいになるし、尚更収支がごちゃつくんだってば」
「だから一旦清算してみよーぜって提案したじゃねーか。貰いっぱなしで申し訳ねーし」
「そんなことないって。イズミさんのみならず敬斗くんまで従事してくれてるのに」
やいやいと言い合いを始めるお父さまたち。それを白々としたまなざしで見つめている敬斗くん。話に入れなさそうと踏んだのか、左隣のイズミさんへ確認することにしたみたい。
「じゃあ、俺が考えてたのと全部逆だったっつーこと?」
「どう考えてたんだ、敬斗は」
「や、だから。『借金返せ』じゃなくて『返還の必要のないカネだから要らない』てことだったんだろ? 『返すカネが必要』なんじゃなくて『渡しても受け取ってもらえない』。『清算』だって『関係を終わらせる』意味じゃなくて、単に『ごちゃつきを正す』って意味だった……」
「残念ながら、どうやらあの二人はそうだったみたいだな」
やっぱり敬斗くんは、鴨重グループから北斗おじさまが資金を借りて、それをなかなか返さないことでおじさまが責め立てられているのでは、とソワソワしていたんだ。
だから少しでもお父さまの鉾を収められないかと自分ができることを探して、賞金の出るトーナメントへ出場することを決めて、たくさん我慢をしながら血みどろで優勝を狙った。結果、それを手にお父さまへ真正面から頭を下げた。
なんて勇敢なの、引き続きカッコいい!
「なんだそういうことかよ……」
「まあまあ、そうあからさまに気ィ落とすなって」
脱力して落ち込む敬斗くんの背中をイズミさんがバシバシと叩く。しかも見たことがないほど意地悪そうな顔をして、敬斗くんの頭をあっという間にくしゃくしゃにしてしまった。ああっ、その髪、一応敬斗くんがこだわってセットしているはずなのに!
「けど母ちゃん知らなかったなぁ。父ちゃんのために頑張るよーな優しいとこが敬斗にもあったこと」
「別にッ。結局、俺がむっちゃいろんなこと考えてたこと全部徒労だったんだろ。独り相撲。空回り。最悪……」
頬杖をついてむすくれてしまった。でも仕方がないと思う。蓋を開けてみたら、まさか親友である幼馴染を互いに思い遣っていただけ、というお花畑みたいな話だったんだから。
「とんでもないよ、敬斗くん!」
やいやいから突然抜けてきたお父さま。優しく微笑んでいるものの、敬斗くんはまだ苦い表情をしている。
「今回敬斗くんが取ったタイトルの大きさには重大な意味があるんだ。これがあるのとないのとじゃこっちの話が進められないからね」
「こっちの話? 賞金よりも圧倒的に意味のある話ですか」
「もちろん。だって、昨日優勝が決まった瞬間から、敬斗くんは企業とプロ契約できるようになったんだから」
「……プロ契約?」
まるで初耳とでも言いたげな顔をしている。ということはまさか、賞金に目がくらんでいたせいでもっとも大事なことを知らずに優勝しちゃった?
今回敬斗くんが頂点に立ったあのボクシングトーナメント大会には、厳格な規定があった。『連盟未所属であること』と『プロ未登録であること』。つまりアマチュア一般選手の敬斗くんは、優勝したことで今後どこかとスポンサー契約を結び、プロ選手として扱われるようになる。
それがこのトーナメント大会の最たる報奨だった。参加選手のほとんどは、百万円よりもそっちをもぎ取ろうと必死だったはず。
「昨日試合終わったと同時に、いろーんな会社から話がきてんだぜ。スポーツ用品会社、食品会社、大手美容クリニックに菓子メーカーとか」
「そのうちのどこかと契約を結ぶことで、敬斗くんはボクシングをしておカネを貰うことが叶うんだよ」
「プロ契約すると企業の名前背負って試合出ることになる。だからその企業からも報奨が出る……つーのはさすがに説明しなくてもわかるか」
「まぁ、ウチのジムからプロに上がった先輩たち見てきたし」
お父さまたちが代わる代わる『大人の事情』を説明していく。責任の伴う世界に足を踏み入れることになる敬斗くんに、誤解なく今後を歩んでほしいから、大人が二人がかりで説明をしているんだろう。
当然知っていること、なんとなく察していること、言われるまでわからないこと。まだ高校生で子どもな私たちはそれらが不透明だから、『親』という大人の思惑を誤解する。
「そこでだよっ」
ガタンと立ち上がるお父さま。ボディガードさんに椅子を引かれ、膝にかけていたナプキンをそのボディガードさんに預け、足取り軽く敬斗くんのもとへスタスタ。間もなく敬斗くんの両手を取り、ズイと詰め寄る。
「ぜひウチと契約しよう、敬斗くん」
「……って、鴨重グループと、ですか?」
「もちろんっ。私がどうしても敬斗くんを欲しいのにはいろいろ理由があるんだ、和泉くんの息子だからということだけじゃなくてね」
にこー、としたパパが敬斗くんの肩に手をまわす。あっ、そっちの肩って、昨日の試合の最後に重たい一撃を貰ったところですごく痛いはずなのに……あぁほら、またぎこちない表情をしている。
「紗良のボディガードとして永年イズミさんにはお世話になったわけだけどね、いずれは後任を考えなきゃならなくなる。あーイズミさんも誤解しないでほしいんだけど、イズミさんじゃもうダメだとかそういう話ではないからね? イズミさんはこれ以上ないほど叶恵さんと紗良に尽くしてくれているし、鴨重のあれそれをよく理解してくれている。イズミさんより実力に信頼をおける人だってそうはいない。だからその後任となると、イズミさんよりも絶対的に上回る基準が必要でね」
「仰せの意図は承知の上でございます、社長。つまり今回この愚息が優勝したことで、その力量が申し分ないと判断できるようになった、とご判断くださったわけですね」
「だからさ、愚息はやめてよ愚息は」
「敬斗くんは高校生だってこともあったし、この数か月間試験的に従事してくれたわけだが、これでようやく胸を張って在籍させてあげられるなー、ってね」
「パ……ちょっと待って、お父さま。試験運用だったって、なに?」
「いやいや、紗良は婚約者云々のときにママから聞いたんでしょ? 紗良の男性慣れ促進のために敬斗くんを導入したって話。アレはもともと高校卒業する頃にやってみようとしてたんだけど、イズミさんが調子悪くなっちゃったから『まぁいっか』で早めただけなんだよ。この場の大人の総意で」
「なっ……」
なにそれ! だからどうしていろいろと軽いの?! だいたい、力を入れるところをずっと間違えているのよ、この四人はっ。いったい私たちを何だと思ってるのやら……と苦く思ったとき、ふと敬斗くんと目が合ってギクリ。慌てて視線を俯ける。
今のは確実に「はあ?」の顔だった。私のあれそれのためにいいように使われていたと知って、さすがに嫌われたかもしれない。そういう落胆の表情だったかも。
巻き込んでしまって申し訳ないなと思うからこそ、敬斗くんのこれまでを考えるとツラくなる。胸の浅いところで感情がチクチクする。
「あの、社長」
敬斗くんの次の言葉に緊張が走る私。「はあ?」の顔はもうなかったけれど、膝の上で握った拳には汗が滲んでいる。
「俺がプロ登録して、鴨重グループとスポンサー契約して、本格的にボクサーとして活動することになったら、尚更紗……お嬢さまの護衛役は難しくなってしまうのでは?」
「そんなことないよ。プロになったとはいえ四六時中試合をするわけじゃないし、一般企業やバイトに勤しみながらプロ活動している人がほとんどだよ」
「それこそボディガードやら警備員やらと並行している人は多いぜ? 卒業しちまったウチのジムのプロ生もそうだったし」
北斗おじさまの援護射撃が、敬斗くんの表情をわずかに柔らかくした。イズミさんも柔らかいトーンで補足する。
「敬斗の続けたいことが同時に叶うぞ、と社長は仰せなんだよ。会社としても、先任の母ちゃんとしても、敬斗がプロボクサーだってことで殊更安心して紗良お嬢さまを任せられる、ということだ。続けたいんだろ? 護衛役」
「そりゃまぁ、そうだけど」
「学生のうちはそのくらいでいいんじゃねーかな。別に永久就職決定ってわけでもねーんだし、今はありがとーで受け取っとけよ。……ていうか敬斗が鴨重くんと契約してくれれば父ちゃんも気楽だからいいかなって」
「おい最後のが本音だろ。契約云々を口実に飲み会できるから」
「やっはっは、鋭いなぁ敬斗くん!」
「わちゃー、バレちゃったな鴨重くん!」
「バラしたよーなもんだろ和泉くん!」
まさか北斗おじさままで私欲だったなんて。びっくりを通り越して私も気が抜けてしまった。真正面の敬斗くんも呆れた表情。
きっと、この計画の発起人はイズミさんだ。この中でもっとも私に寄り添い続けてくれて、敬斗くんのこともよくわかっている唯一の人だもの。ぎっくり腰になったことで、より私の今後を案じた結果だったに違いない。
そしてこの両親のことだから、イズミさんが言い出したことにウキウキのノリノリで賛成して、誰にも違和感を与えないような理由付け考案に勤しんだのだろう。そうして、敬斗くんを脱アマチュアのかかった試合に出すことで収めた。だから尚更北斗おじさまもウキウキで手を挙げたというワケね。
向けた視線が再びかち合う。真顔のような、ちょっとだけ優しいような、曖昧な表情。
読めない。だからこそ今すぐ訊きたい。敬斗くんが、それぞれに都合のいいように謀られたこの契約をどう思っているのか。願ったり叶ったりな私が異を唱える必要はないけれど、私はいつだって敬斗くんの意思を尊重したいもの。
本当に納得できた? 私のボディガード続けるの、本当にイヤじゃない? どこかから冷やかされるかもしれないよ? 両立できると思う? もし私を嫌いになって別れることがあったら、どこまで亀裂が入る?
「社長」
痛いはずの肩に手をかけているお父さまの手にそっと触れて、ごく自然にそれを外し、ひと呼吸おいて向き直る。その間際に口パクで「ダイジョーブ」と描いてから、にこーと私へ優しく笑ってくれた。
「スポンサー契約、ぜひお願いします」
「本当?! わーい、よかった!」
「わーい、ってパパ……」
こんなに子どもっぽくても社長が務まるのね。たしかに私はもう少し肩の力を抜いてもいいのかも。
「じゃあ、本契約の面倒くさいことは改めて月末くらいに詳しく話しよーね」
「はい、よろしくお願いします」
「紗良ちゃんよかったわねぇ、引き続き敬斗くんが傍にいてくれるわよー?」
右隣のお母さまにそう言われてつい顔を赤くしてしまう。もう、わざわざ言わなくたっていいのに!
「お嬢さま。躾の行き届いていない愚息ではございますが、引き続きよろしくお願い申し上げます」
「愚息だなんてとんでもないです。それに、私こそお願いしますなんだから」
イズミさんの優しい笑みが私を向く。あぁ、この表情は本当に敬斗くんと似ている。だから敬斗くんがにこー、とすると、なおのこと安心するんだ。
お父さまたちは抱き合いつつバシバシ背中を叩き合って、それからやっぱり子どもみたいにゲラゲラと笑っている。腰を労りながら立ち上がったイズミさんとも握手を交わして、大人四人で今後の勤務についてお話が始まって。
ふぅ、と背もたれに寄りかかる。
なんだかとっても好都合に丸く収まってしまった。いいのかな? これ、おカネとか会社とか利権とかも絡んでいるのに、本当に大丈夫?
膝上のナプキンを取って静かに席を立つ。ふと敬斗くんと目が合えば反射的に立ち上がってくれて、「出るんだろ?」の人差し指の合図を飛ばしてきたから思わずキュン。なに、先回りして気付いてくれるじゃん。そういうとこ大好きじゃん。
黒服さんの二人がついてきてくれようとしたけれど、敬斗くんがそれを阻止。断る口調が柔らかい。きっと今の二人も昨日の試合を見に来てくれていた人だと気が付いたからだろう。
食事会場の重たい扉を敬斗くんが押し開ける。大人たちの歓談の声を背に、目配せをした私たちは二人でこっそり抜け出した。

