これにて専属契約は

 俺――和泉敬斗は、この春から某ご令嬢のボディガードをしている。
 もともと俺の母親が彼女のボディガードを務めていて、しかしぎっくり腰で動けなくなったからその代役を頼まれたのが始まりだった。
 だからあの日はこれっきりのつもりで、仰々しいほど恭しく務めてしまった。ちょっとからかってやろうと思って、後先考えずにテキトーをこいたんだ。大して偉くもない誰かにへーコラするのなんか絶対に嫌だから。

「よ、よろしくね、敬斗」

 なのに、高二になったときのクラス発表の貼り紙を見て心底「やらかした」と思った。
 同じ学校にいることはぼんやりとわかっていたものの、まさか同じクラスになるとは予想していなかった。普段から話す相手でもなかったし、どうせご令嬢は普段の俺のことなんか知らないだろうという認識だったから。

「おじょ――」
「シーッ! あの、表立ってお嬢さま扱いは、ちょっと……」

 コソコソ声で迫られ我に返った。なるほど、と俺も声量を落とす。そして都合がいいと思った。二面的に接することをコイツも切望していることがわかったから。

「ア、アンタ、まさか学校ン中でも俺に傅(かしず)けとか言うつもりじゃねーよな?」

 素の俺で話したことはなかったからだろう、ご令嬢の反応が数秒遅れた。それまでモジモジしながら微笑んでいたのに、目を白黒させて頭にたくさんハテナを浮かべていた。

「『アンタ』? いや、えと。か、傅けなんて、一度も言ってないし思ってないよ。私はただ、せ、せっかく同じクラスになったんだから、学校(こっち)でもな――」
「悪いけど。仕事は仕事、学校は学校だから」

 コソコソ話しているご令嬢の言葉をピシャリと遮って、俺は自分が出せる一番低い声で彼女へ釘を刺した。

「ボディガード(あっち)のときはアンタに従順でも、学校(こっち)のときは普段の俺なんで。キッパリ分けるのが俺の主義。わかった?」

 ご令嬢の顔が歪む。多分、かなり怖がらせている。
 だがそれでいい、怖がってくれなければ意味がない。あんまり近付きすぎて公私混同で頼られてしまっては、近く俺の首が締まるだろう。だからあらかじめ予防線を張っておかなければ。そういう意味で怖がらせて遠ざけよう、という腹づもりであって。
 なのに、このオジョーサマときたら。

「――『かしこまりましたわ』」

 なぜだか対抗して『令嬢モード』で切り抜けやがった。

「『では学内では、和泉くん、とお呼びするのでよろしくて?』」

 ニコッと笑ったそれは、俺がボディガードをしていたときのコイツの雰囲気。口調も恭しく、姿勢や所作に隙がない。
 こめかみと口角がピギピギとしつつも、俺はどうにか平静を装って「『結構でございます』」と頷いてやった。
 だって、こんな女に負けたくない。豪勢で恵まれている実家、余裕のありすぎる生活、何十人もの大人を従えているくせに、更に俺の母親にその身を護らせるという贅沢さ。俺はロクに母親に甘えた記憶なんかないのに。……いや、マジで全然マザコンではないのだけれども。

「――お嬢さま。枝依港に到着いたしました」

 到着するなり、後部座席の俺側の扉が自動で開く。もちろん俺が先に下車するためだ。何があるかもわからない場所へ要人を降ろすわけにはいかないだろう。
 降り立ち、振り返って左手を差し出す。そこへ利き手の右手をかけるお嬢さま。両脚を着地させたことを確認後、ふわりと引き上げて完了。
 令嬢専属運転手と彼女がいくつか短く言葉を交わしてから、車から数歩離れる。自動で扉が閉まり、発進を見送ってひと呼吸。

「では参りましょう、敬斗」
「はい、お嬢さま」

 パーティ会場である豪華客船へ向かう彼女の背筋は凛としている。五センチヒールがカツカツと鳴る。歩き方がきちんとしているのか、その音は最小限だ。
 鮮やかなローズピンクのドレスの裾も、金糸が織り交ぜられた白い薄手ショールも、緩いカールがかけられたおくれ毛も――身に付けているすべてがお嬢さまの歩幅に合わせてふわりふわりと揺れる。確実に価値の高いエメラルドで首元と耳たぶを飾り、きちんとしたメイクを施したこの女が、まさか昼間に学校で理由もわからんままプンスカしていたヤツと同じ人物だとは思えない。

「天候も気温も風も、予測と大差ないみたいね。敬斗が調べてくれたとおりですね」
「おそれいります」
「メイドさんが、ショールの用意について教えてもらえて助かった、と。私からもお礼を言わせてください」
「とんでもありません、むしろ過分でございます」
「ふふ、腰の低いこと」

 こうしてきちんとしているときのほうがまだ接しやすいし話しやすい。もしかして、普段からこうしていたほうがお互いのためなのだろうか? お嬢さまにだけは普段からボディガードモードでいるのが賢明だと?
 いや、それだと絶対に他のヤツらが変に思う。俺の性格が変わっただとかあることないこと言われるだろうし、そもそも今はまだ大っぴらにしていない鴨重紗良のボディガードのバイトをしていることが周囲に筒抜けになる。それはまだ避けておきたい。俺たちが異性同士ということもあって、恋愛感情を絡めて冷やかされたり、妙な勘ぐりを入れられる光景がやすやすと想像できてしまうからだ。そんなのは腹立たしい。からかいだのは抜きで楽しく暮らしたいのが俺の主義ってやつなんで。だいたい、人間関係に上下があるってことが俺は――

「――敬斗?」
「はっ」

 マズい。考えごとに集中しすぎた。お嬢さまの声で我に返り、彼女の姿を瞬時に視界に入れる。
 どうやらいつの間にか船内に入っていて、更にひたすらまっすぐ歩き続けてしまっていた。大股の早足で彼女のもとへ戻り、「申し訳ございません」と頭を下げる。

「意図せずお嬢さまの規定範囲外に出てしまったこと、深く反省いたします」
「いいのよ。ただ、あなたがどんどん進んでいってしまって驚いただけなの」

 スッと頭を戻すと、珍しくお嬢さまにじっと見つめられていた。
 いつもならモジモジしていて視線が合わない。だから、真顔のお嬢さまが、ましてどんなことを考えて俺を見続けているのかなど、俺にわかるわけがない。とにかく今はボディガードという立場なので、俺も表情を変えずに彼女の反応を待つ。

「ねえ」
「はい」
「サングラス取って」
「え? いや、しかし、これは社長から言われて」
「いいから取って」

 強情な女。ひとの話を聞け。……などとは言えないので、社長命令でかけていたサングラスを静かにはずす。
 俺がこのボディガードの仕事を引き継いだとき、社長から仕事着と称してスーツ一式を渡されている。上下スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、革靴に革手袋に靴下まですべて黒。仕上げにと黒いサングラスまで付いていて、いずれも統一ブランドのものだ。
 ボディガード中はいずれもはずしてはならない、と社長から言われている。言い方は優しかったものの、そのまなざしに大層な圧を感じた。だからそれを忠実に守っていたというのに、コイツときたら。

「どうかしたの? 船酔いする?」

 視界に鮮やかさが戻ったと同時にそう訊ねられ、思わずドキリ。
 あ、この訊き方、『鴨重紗良』だ。ご令嬢のときではない感じ。そう察した俺は、プライベートモードに切り替えつつコイツから視線を逸らし、短く「いや?」と否定。

「乗ったことねーしわかんね。三半規管は鍛えられてっから別に酔わねーんじゃね?」
「そ、そうなの? でも」
「具合悪いわけでも風邪ひいてるわけでもねーよ。平気」
「でもボーッとしてたから、その」
「ちょっとぐちゃぐちゃ考え事してただけ。仕事は仕事でちゃんとやるから。……悪かったな」

 サングラスをかけ直そうとするさなか、チラリと見えた鴨重の顔が不安そうに揺らいでいた。きちんとかけ直し、ボディガードモードに戻る。

「わたくしへのお心遣い、大変痛み入ります。さぁ、会場はこちらでございます。参りましょう」
「うん……あ、『はい』」

 関連会社の要人との挨拶まわりは、八〇分にも及んだ。とはいえ、お嬢さまがみずから動かずともあっちから延々とやって来るのを捌いていただけなのだが。
 ネームプレートを下げているわけでもないのに、お嬢さまはそのひとりひとりがどこの誰だかきちんと把握していた。役職まで頭に入っているのか、一度も訂正されなかったことは傍で見ていて一番驚いた。
 というのも、今回以前の付き添いでは本当にただお嬢さまの身を護るだけが業務内容だった。お嬢さまの役割は、社長か奥さまどちらかのお供だったわけで、つまり俺は『お供の護衛』というわりと責任感の薄い役割だった。最悪俺がボーッとしていても社長や奥さまのボディガードがカバーしてくれるだろう、くらいの薄さだ。
 だが今回は違う。身内が誰もいない。責任はすべてお嬢さまにあり、そんなお嬢さまの身の安全は俺一人に全力で任されてしまっている。互いにプレッシャーは相当なものだ。
 そんな中でも、誰ひとりとして不快な想いをさせることなく、丁寧な挨拶と上品な話術で父親の会社の印象を護ったお嬢さま。コイツのこういうところだけは尊敬にあたいする。見直してやらなくもない、とさえ思えてしまった。……まぁ、思えただけで見直したわけではないので。

「どうやら、こちらからご挨拶に伺わなくても済んでしまったみたいね」

 挨拶の脚が途絶えた頃、肩の力が抜けたようにお嬢さまは短く息を吐いた。さすがに疲れただろう、しかしそれをおくびにも出さないのがこのお嬢さまだ。

「少し端のほうで休まれては?」
「そうね。飲み物を戴いてきましょう」
「すぐにお持ちいたします」
「ではふたつ」
「かしこまりました」

 近くにいた配膳人から、ノンアルコールのグラスをふたつ受け取る。細身のシャンパングラスだ、たしかこれは脚を親指、人差し指、中指の三本で受け取るルールだったはず。
 しかしなぜお嬢さまはふたつも一気に必要と言ったのだろうか。まさか一脚を豪快に煽ったあとにもう一脚も煽って「あー疲れた!」なぁんてことをするわけでもあるまいに。
 じゃあ、チビチビと二杯分誰にも邪魔されずに飲みたいから? いやいや、まさかだろう。空いたグラスと交換できるよう配膳人が常に会場内をウロウロしているのに。

「お待たせいたしました。ご指定のとおりおふたつお持ちいたしました」
「ありがとう。では参りましょう」
「え、あの、どちらへ?」

 そう訊ねるも、含みのある笑みが返ってくるだけで特段答えてはもらえなかった。
 会場の隅を進んでいくお嬢さま。ヒールのコツコツ音をダークレッドのカーペットに吸収させながら歩く。そうしながら気配を消し、お嬢さまはとある扉を静かに開けた。