お嬢さまが気を遣ったのか社長がそうしたのかは不明だが、それからの二週間で俺――和泉敬斗にボディガードの仕事はひとつも入らなかった。お嬢さまに訊けば「私は参加しない席ばかりだから、私もお休みなの」とだけ返ってくるから、そうと信じるしかなかったワケだが。
代わりに登下校から学校生活内は、これまで以上にきっちりしっかりとボディガードの任を請け負っていた。まぁしかし自分から『保留』と言い出した手前、大っぴらにアイツに構ったりべったり隣に張り付いたりはしなかったけれど。本当なら始終そうしていたいところだが、そうするとほら、俺自身の歯止めと集中が途切れてしまうワケで。
それに、この二週間はアイツも徹底して『令嬢』をしていた。腹の中を見せないその姿勢のお陰で俺も自分のことに集中できたから、いつものように律儀に気を遣ってくれていたのだろう。
ということで無事に身体も引き締まったし、目標もより明確にできたし、技術向上も相成りました……と思いたい。
そんなこんなで迎えた『新人発掘トーナメント戦』。枝依市南区の『新枝依ベイホール』が今回の会場で、日程は連続二日間。
優勝賞金百万円。出場条件は『連盟未所属・プロ未登録であること』。つまり、脱アマチュア勢のためのメラメラギラギラのボクシング大会だ。
いくつかの有名企業がスポンサーについていて、試合は動画サイトでライブ配信されることになっている。それに、活きのいい若手を引き抜かんとする大手ボクシングジムの会長さんやトレーナーが、会場のそこかしこで目を光らせていると囁かれているから、それまで何度も出てきた大会とは緊張感が桁違いというワケ。
二日目の今日は準決勝と決勝戦のみ。ここまでくると、より厳選された選手だということがイヤでもわかる。
やたらと目つきの悪いおっさんやら、そちらの界隈の方かなと思う風貌のお方、コイツ絶対既にプロだろと思うほど磨き抜かれた選手たちを相手に試合ができるとなると、高揚と緊張で武者震いが止まらない。
そしてどうやら俺は、今回の準決勝以上に残った選手のうち最年少らしい。前日の予選時からやたらとガキだのなんだのと対戦相手に煽られてきたので、今日の面々を見て非常に納得がいった。……まぁお察しのとおり、煽られたところで効きませんでした。ボディガードスイッチをオンにして受け流していたからね。
「前腕の痛みは?」
「アイシングでどーにか」
「準決はあと一ラウンドだがよ、決勝戦まで進むんだろ?」
「……ん」
「そんじゃ意地でも身体もたせろ。ラッキーなことに今の相手は足にキテる。そゆときどうすりゃいいか、俺が言わんでもわかるだろ?」
「ワキからボディに、だろ。今まで散々言われてきたやつ!」
プロ戦みたいなガチのゴングの音。リングを照らすライトの白さ。加えて、いつもの試合よりも俄然重たいダメージ――そうそう、こういうのだよ。このくらいの相手とやり合わないと。いままで俺がどれだけぬるま湯に浸かりきっていたのか、文字どおり身に沁みてよくわかる。
オヤジよりも上に、そして母親である『イズミさん』よりも強い自分になる。そして、そうあり続けたい。
準決勝の相手を降して、レフェリーに腕を持ち上げられてやっとひと息。
みんな強豪選手だ。ステップは軽いし、拳の全部が重たい。こんなにボコボコになるのは、実際に撃ち合えるようになった中学生の頃に出た試合以来かもしれない。小学生時代は強い撃ち合いを禁止されていた大会だったから、ダメージをほとんどわかっていなかった。
降した相手と軽く挨拶をして、リングから下りる。そのときにふと目線がとらえた集団に、俺はビシッと動きが止まった。
会場の東側観客席。そこの最後列から三列が真っ黒スーツの軍団で埋まっている。え、何アレ? いや、めちゃめちゃ見覚えはあるがなぜこうなる?
たしかに「来て」とは言ったよ。言ったけれどもよ。誰があんなにたくさんの黒服軍団を連れて来いって言ったの。全員絶対に鴨重社長の周りの人だろ!
「敬斗よかったなぁ。紗良ちゃん、もう来てくれてんぞっ」
「なんでオヤジがニヤニヤしてんだよ。ほっといて」
「いやいやいや、だってアレ」
滝のように流れ出てくる汗を拭いながら、オヤジが指した鴨重グループの黒服軍団を再度見やると、何やら横断幕らしい横向き長方形の布を広げ始めていたから更にぎょっとした。
おいおいおいおい誰だよ横断幕まで用意しようって言ったの! しかも『和泉敬斗 一撃入魂』などと書いてあるが! 恥ずかし! 鴨重グループカラーの鴨の羽色とむちゃくちゃ目立つビビッドピンクというなんとも悪目立ちするカラーリングで恥ずかし! やめて、動画サイトのライブ配信で流れちゃうからやめてーッ!
「嬉しーなぁ、敬斗! あんなん今までなかったもんな!」
「そう思うのか? 本っ当にオヤジはそう思うんだな?」
ないほうがカッコついたし幸せだったよ、絶対。でもまぁ、お嬢さまなりに何かしたいと思ってくれたその気持ちだけはきちんと伝わりました。感謝。気持ちにだけ。
小一時間のインターバルを経て臨んだ決勝戦。
相手は俺よりも一〇歳上。スタミナでは確実に俺に軍配が上がっているだろうが、代えがたい『経験』が彼にはある。
それに、ここまで勝ち残ってきた運と実力は互いに拮抗しているんだ。大会の本命が相手選手ならば、俺はいわゆる大穴というやつだ。俺が勝ち残ったことは、実況のマイクを握る人まで意外に思っていたらしい。初めから期待をかけられた立場よりは俄然やりやすくて助かる、と喜んでおこう。
プロ戦のそれのようにマイクを通して名前を呼ばれる。痺れますね、こういうの。憧れ続けてきた状況に身をおける幸せたるや!
しかしその瞬間。
「けぇー、いぃー、とぉー!」
東側観覧席のあの軍団が、そんなふうに野太い声を出し始めたから本気で肝が冷えた。
「け、い、とッ! け、い、とッ! け、い、とッ!」
ちょ、ちょっと何アレ。もう本当にやめて、衆人環視に耐えられない! 頼むからこれ以上カネに物言わせるような素敵な演出はしないで!
ヒィー、と内心で青褪めている俺の後ろで、身内のセコンドであるオヤジたちがゲラゲラと笑っているから腹が立つ。クソ、俺の何でもかんでもを面白がりやがって! ぐっ、会場のそこかしこからも笑われている……屈辱。
そんな中で恨みがましく見やったド派手横断幕。その中央に被るように、鴨重紗良が立っていた。
まったく、いつにもまして不安そうな顔しやがって。今はそれ、むちゃくちゃ失礼だからな。
優勝しかしないと豪語した手前、この試合こそ打ち負けるわけにはいかない。どうあったとしても最後まで立っていなければならない。そうして賞金と共に鴨重邸へ向かう。ずっと固く決めていたことだ。
「あれ『敬斗』くんのスポンサー? 凄いね」
「いや違います」
「ハハ、冷たァ」
ゴング前の双方挨拶で、対戦相手からそうして軽く笑われた。実に余裕そうな笑みだ。顔に受けたであろう痣や傷が少ないからなおのこと強者感がある。しかし。
「ただ、どちらかと言えば――」
あまりにもアホみたいなものを見たおかげで、準決勝まで入っていた妙な力まで一緒に抜けてくれたらしい。
深呼吸で目が冴える。視野は広く。耳で察知。どんなときでも基礎に忠実に。それだけ守っていれば、なんてことはない。
「――ビジネスパートナーですね」
互いにベストコンディションよりも七割は減退した状態でゴング。どれだけ無駄な力を入れずに臨めるかカギだ。
初手の一撃をこの人から先制できたものの、しかし間もなく前腕に重い打撃をいくつもくらう。力むな、力むな、この人だって同じくらい疲労は溜まっているんだ。なのに、それでもこの人は強いし、上手い。そんな人から勝ちを、このタイトルを、百万円をもぎ取らねばならない。
「敬斗くん、とんだハードパンチャーだねぇ」
「あは、そうすか」
スウェイの速度が準決勝時より遅くなってきている。まだ一ラウンド目なのに身体がついてきていない。マズいな、自信しかなかったスタミナと身体耐久に陰がチラつく。
「僕ね、ハァ、もう膝、けっこー痛いんだよね。オッサンだから」
「ハァ、ウソっしょ。そんな柔らかく、使えてんのに?」
二ラウンド目。何度この人からダウンを貰ってしまったろう。何度ゆすいでも口の中は血の味だし、冷静でいるつもりなのにオヤジから何度も「大振りだ」と注意を受けている。
「ブレイク、ブレイク!」
この人とのワンラウンドが妙に長い。徐々に過集中になっていって、ここ数か月感の景色がリプレイされていく。
鼻の血管ってどうしてあんなに簡単に切れるんだろうな、なかなか止まんねーし。
ボールとはいえ、頭に打撃受けたら目の前がくわんくわんするよな、わかるよ。
ヒール履き続けているのにずっと背筋も伸ばしていて、案外腹筋も背筋もあるんだな。
「せっかくだしさ、ハァ、華のある勝ち方、したいよね。太い大会だし」
「わかりますッ。ハァ、俺ももう、腕痛すぎて、ハァ、あんま感覚ねーですけど」
左肩に受ける重い拳。よろめく。ガクンと片膝。カウントをとられ始める。レフェリーの声が遠い。
あと少しなのに。あと少し――。
「――『しっかり立って、敬斗』!」
ミット撃ち、スパーリング、筋トレ、食事制限、パンチングボール、模擬戦、戦術考案、ランニング、河川敷、夕焼け、焼けた牛カルビの匂い、黒の高級車、赤くさせてしまった目元、電話口の優しい声、洗練された話し言葉、ぎこちない距離、笑ったときに縮める肩、友人二人の前で見せる隙だらけの表情、いつもハーフアップにしているあのヘアアクセのクリアブルーはずっと前から俺が好きな色。
「私これ以上絶っ対待たないからッ!」
ダンッと踏み締める。焦点が定まる。声が近い。そうだ、『見ている』。
顎を引いて、顔を上げて、握れる限りで拳を構えて。
「はいはい『かしこまりました』よ、『お嬢さま』ッ!」
顎に入る、右ストレート。目をまわして倒れ込む。バダン、と筋肉がリングマットに沈む音。
カウントが増えていく。ひとつずつ、ひとつずつ。
セコンドの声、全員必死だ。そりゃそーか。でもこれどっちのセコンドの声? ていうか倒れ込んだの、どっち?
あー、もう疲れた。さすがに動けねー。頑張った、頑張ったよどっちもさぁ。
仰ぐ白色ライト。けたたましく鳴るゴング。レフェリーが、立ち呆けていた俺の腕を高く持ち上げる。……あの、申し訳ないけどその腕痛いの、パンパンだし。あんまり強く持たないで。
「敬斗ーッ! やりやがった敬斗ーッ!」
リングに上ってきたオヤジに担がれて、大量に降るライトの白色に熱をおぼえて。
「勝ったぼいね、俺……」
「ぽいじゃねー、マジで勝ったんだよ! 優勝優勝! さっすが敬斗!」
「マジ? 最後まで立ててた?」
「自分の右ストレート相手の顎に入れて、相手が倒れたの余裕そうに見てただろ! このー、生意気にッ!」
嬉々としたオヤジの声がもの珍しくて聴き慣れない。そうだっけ? と思いつつもそうだったような気がしてきた。
対戦相手が満身創痍でリングの上に座している。ちょっと笑っているところを見ると、力量は五分五分だったのだろうなとわかる。
オヤジに下ろされ、対戦相手とハグ。いくつか言葉を交わして、しっかり賛辞まで戴いて。
「あの横断幕効果? すごかったよ、敬斗くん」
「そー思うなら真似してもいいスよ。オススメします」
「ブフッ! 遠慮しとく」
バシャバシャとカメラのフラッシュを浴びる。正直ヘロヘロなところはあまり撮らないでほしいけれども。
そんなふうに周りの興奮冷めやらぬなか、俺のボロボロのままの意識がアイツをぐるんぐるんと捜す。……あ、やっぱり近くにいた。リングの東側の隅に指をかけて、涙でぐずぐずしながら俺を見ている。その周りを黒服が五人で囲っているのは『令嬢』として当然のこと。
「終わたよ、おじょーさまぁ……」
よろよろと近付く。リングロープに寄りかかりながらしゃがむ。にこー、と笑うも表情筋が痛い。
「すごかった。すごかったよ敬斗くん。私感動しちゃった」
細くて白い彼女の腕が、俺の赤黒くなった前腕と左頬に触れてくる。ひやりとしていて心地がいい。
「あは。言ったろー? 俺、優勝しかしないって」
「うん、うん。私まだ震え止まんないもん……ズッ」
「もー、泣きすぎ泣きすぎ。ハンカチは?」
「グス……も、持ってる」
鼻を啜りながら顔を拭う彼女の頭に手を置く。流れに沿ってさわさわと撫でつける。なんだか、ようやく充足感。ホーッと全身から力が抜けていく。
「かっこよすぎて、すんごく困ったの」
「マジ? な? そーでしょ? つい惚れ直しちゃうっしょ?」
ハンカチから顔を上げる。眉間にシワ、への字の口。赤い鼻の頭。
「……違うもん」
「へぇ?」
「今は私のターンじゃないから、言わないもん」
ずぎゃん、とした破壊力。リングロープからよろよろと離れて、後方へ尻もち。そのまま背中から倒れてしまう。
「それは、そう……」
「けっ、敬斗くん?!」
お嬢さまからのカウンターでノックアウト。ばたばたと駆けつけたオヤジがにちゃにちゃと笑っているのが見えるが、もう反論するのも面倒くさい。
真の優勝は、こうしてたった数分で令嬢が簡単に奪っていきました……とさ。
代わりに登下校から学校生活内は、これまで以上にきっちりしっかりとボディガードの任を請け負っていた。まぁしかし自分から『保留』と言い出した手前、大っぴらにアイツに構ったりべったり隣に張り付いたりはしなかったけれど。本当なら始終そうしていたいところだが、そうするとほら、俺自身の歯止めと集中が途切れてしまうワケで。
それに、この二週間はアイツも徹底して『令嬢』をしていた。腹の中を見せないその姿勢のお陰で俺も自分のことに集中できたから、いつものように律儀に気を遣ってくれていたのだろう。
ということで無事に身体も引き締まったし、目標もより明確にできたし、技術向上も相成りました……と思いたい。
そんなこんなで迎えた『新人発掘トーナメント戦』。枝依市南区の『新枝依ベイホール』が今回の会場で、日程は連続二日間。
優勝賞金百万円。出場条件は『連盟未所属・プロ未登録であること』。つまり、脱アマチュア勢のためのメラメラギラギラのボクシング大会だ。
いくつかの有名企業がスポンサーについていて、試合は動画サイトでライブ配信されることになっている。それに、活きのいい若手を引き抜かんとする大手ボクシングジムの会長さんやトレーナーが、会場のそこかしこで目を光らせていると囁かれているから、それまで何度も出てきた大会とは緊張感が桁違いというワケ。
二日目の今日は準決勝と決勝戦のみ。ここまでくると、より厳選された選手だということがイヤでもわかる。
やたらと目つきの悪いおっさんやら、そちらの界隈の方かなと思う風貌のお方、コイツ絶対既にプロだろと思うほど磨き抜かれた選手たちを相手に試合ができるとなると、高揚と緊張で武者震いが止まらない。
そしてどうやら俺は、今回の準決勝以上に残った選手のうち最年少らしい。前日の予選時からやたらとガキだのなんだのと対戦相手に煽られてきたので、今日の面々を見て非常に納得がいった。……まぁお察しのとおり、煽られたところで効きませんでした。ボディガードスイッチをオンにして受け流していたからね。
「前腕の痛みは?」
「アイシングでどーにか」
「準決はあと一ラウンドだがよ、決勝戦まで進むんだろ?」
「……ん」
「そんじゃ意地でも身体もたせろ。ラッキーなことに今の相手は足にキテる。そゆときどうすりゃいいか、俺が言わんでもわかるだろ?」
「ワキからボディに、だろ。今まで散々言われてきたやつ!」
プロ戦みたいなガチのゴングの音。リングを照らすライトの白さ。加えて、いつもの試合よりも俄然重たいダメージ――そうそう、こういうのだよ。このくらいの相手とやり合わないと。いままで俺がどれだけぬるま湯に浸かりきっていたのか、文字どおり身に沁みてよくわかる。
オヤジよりも上に、そして母親である『イズミさん』よりも強い自分になる。そして、そうあり続けたい。
準決勝の相手を降して、レフェリーに腕を持ち上げられてやっとひと息。
みんな強豪選手だ。ステップは軽いし、拳の全部が重たい。こんなにボコボコになるのは、実際に撃ち合えるようになった中学生の頃に出た試合以来かもしれない。小学生時代は強い撃ち合いを禁止されていた大会だったから、ダメージをほとんどわかっていなかった。
降した相手と軽く挨拶をして、リングから下りる。そのときにふと目線がとらえた集団に、俺はビシッと動きが止まった。
会場の東側観客席。そこの最後列から三列が真っ黒スーツの軍団で埋まっている。え、何アレ? いや、めちゃめちゃ見覚えはあるがなぜこうなる?
たしかに「来て」とは言ったよ。言ったけれどもよ。誰があんなにたくさんの黒服軍団を連れて来いって言ったの。全員絶対に鴨重社長の周りの人だろ!
「敬斗よかったなぁ。紗良ちゃん、もう来てくれてんぞっ」
「なんでオヤジがニヤニヤしてんだよ。ほっといて」
「いやいやいや、だってアレ」
滝のように流れ出てくる汗を拭いながら、オヤジが指した鴨重グループの黒服軍団を再度見やると、何やら横断幕らしい横向き長方形の布を広げ始めていたから更にぎょっとした。
おいおいおいおい誰だよ横断幕まで用意しようって言ったの! しかも『和泉敬斗 一撃入魂』などと書いてあるが! 恥ずかし! 鴨重グループカラーの鴨の羽色とむちゃくちゃ目立つビビッドピンクというなんとも悪目立ちするカラーリングで恥ずかし! やめて、動画サイトのライブ配信で流れちゃうからやめてーッ!
「嬉しーなぁ、敬斗! あんなん今までなかったもんな!」
「そう思うのか? 本っ当にオヤジはそう思うんだな?」
ないほうがカッコついたし幸せだったよ、絶対。でもまぁ、お嬢さまなりに何かしたいと思ってくれたその気持ちだけはきちんと伝わりました。感謝。気持ちにだけ。
小一時間のインターバルを経て臨んだ決勝戦。
相手は俺よりも一〇歳上。スタミナでは確実に俺に軍配が上がっているだろうが、代えがたい『経験』が彼にはある。
それに、ここまで勝ち残ってきた運と実力は互いに拮抗しているんだ。大会の本命が相手選手ならば、俺はいわゆる大穴というやつだ。俺が勝ち残ったことは、実況のマイクを握る人まで意外に思っていたらしい。初めから期待をかけられた立場よりは俄然やりやすくて助かる、と喜んでおこう。
プロ戦のそれのようにマイクを通して名前を呼ばれる。痺れますね、こういうの。憧れ続けてきた状況に身をおける幸せたるや!
しかしその瞬間。
「けぇー、いぃー、とぉー!」
東側観覧席のあの軍団が、そんなふうに野太い声を出し始めたから本気で肝が冷えた。
「け、い、とッ! け、い、とッ! け、い、とッ!」
ちょ、ちょっと何アレ。もう本当にやめて、衆人環視に耐えられない! 頼むからこれ以上カネに物言わせるような素敵な演出はしないで!
ヒィー、と内心で青褪めている俺の後ろで、身内のセコンドであるオヤジたちがゲラゲラと笑っているから腹が立つ。クソ、俺の何でもかんでもを面白がりやがって! ぐっ、会場のそこかしこからも笑われている……屈辱。
そんな中で恨みがましく見やったド派手横断幕。その中央に被るように、鴨重紗良が立っていた。
まったく、いつにもまして不安そうな顔しやがって。今はそれ、むちゃくちゃ失礼だからな。
優勝しかしないと豪語した手前、この試合こそ打ち負けるわけにはいかない。どうあったとしても最後まで立っていなければならない。そうして賞金と共に鴨重邸へ向かう。ずっと固く決めていたことだ。
「あれ『敬斗』くんのスポンサー? 凄いね」
「いや違います」
「ハハ、冷たァ」
ゴング前の双方挨拶で、対戦相手からそうして軽く笑われた。実に余裕そうな笑みだ。顔に受けたであろう痣や傷が少ないからなおのこと強者感がある。しかし。
「ただ、どちらかと言えば――」
あまりにもアホみたいなものを見たおかげで、準決勝まで入っていた妙な力まで一緒に抜けてくれたらしい。
深呼吸で目が冴える。視野は広く。耳で察知。どんなときでも基礎に忠実に。それだけ守っていれば、なんてことはない。
「――ビジネスパートナーですね」
互いにベストコンディションよりも七割は減退した状態でゴング。どれだけ無駄な力を入れずに臨めるかカギだ。
初手の一撃をこの人から先制できたものの、しかし間もなく前腕に重い打撃をいくつもくらう。力むな、力むな、この人だって同じくらい疲労は溜まっているんだ。なのに、それでもこの人は強いし、上手い。そんな人から勝ちを、このタイトルを、百万円をもぎ取らねばならない。
「敬斗くん、とんだハードパンチャーだねぇ」
「あは、そうすか」
スウェイの速度が準決勝時より遅くなってきている。まだ一ラウンド目なのに身体がついてきていない。マズいな、自信しかなかったスタミナと身体耐久に陰がチラつく。
「僕ね、ハァ、もう膝、けっこー痛いんだよね。オッサンだから」
「ハァ、ウソっしょ。そんな柔らかく、使えてんのに?」
二ラウンド目。何度この人からダウンを貰ってしまったろう。何度ゆすいでも口の中は血の味だし、冷静でいるつもりなのにオヤジから何度も「大振りだ」と注意を受けている。
「ブレイク、ブレイク!」
この人とのワンラウンドが妙に長い。徐々に過集中になっていって、ここ数か月感の景色がリプレイされていく。
鼻の血管ってどうしてあんなに簡単に切れるんだろうな、なかなか止まんねーし。
ボールとはいえ、頭に打撃受けたら目の前がくわんくわんするよな、わかるよ。
ヒール履き続けているのにずっと背筋も伸ばしていて、案外腹筋も背筋もあるんだな。
「せっかくだしさ、ハァ、華のある勝ち方、したいよね。太い大会だし」
「わかりますッ。ハァ、俺ももう、腕痛すぎて、ハァ、あんま感覚ねーですけど」
左肩に受ける重い拳。よろめく。ガクンと片膝。カウントをとられ始める。レフェリーの声が遠い。
あと少しなのに。あと少し――。
「――『しっかり立って、敬斗』!」
ミット撃ち、スパーリング、筋トレ、食事制限、パンチングボール、模擬戦、戦術考案、ランニング、河川敷、夕焼け、焼けた牛カルビの匂い、黒の高級車、赤くさせてしまった目元、電話口の優しい声、洗練された話し言葉、ぎこちない距離、笑ったときに縮める肩、友人二人の前で見せる隙だらけの表情、いつもハーフアップにしているあのヘアアクセのクリアブルーはずっと前から俺が好きな色。
「私これ以上絶っ対待たないからッ!」
ダンッと踏み締める。焦点が定まる。声が近い。そうだ、『見ている』。
顎を引いて、顔を上げて、握れる限りで拳を構えて。
「はいはい『かしこまりました』よ、『お嬢さま』ッ!」
顎に入る、右ストレート。目をまわして倒れ込む。バダン、と筋肉がリングマットに沈む音。
カウントが増えていく。ひとつずつ、ひとつずつ。
セコンドの声、全員必死だ。そりゃそーか。でもこれどっちのセコンドの声? ていうか倒れ込んだの、どっち?
あー、もう疲れた。さすがに動けねー。頑張った、頑張ったよどっちもさぁ。
仰ぐ白色ライト。けたたましく鳴るゴング。レフェリーが、立ち呆けていた俺の腕を高く持ち上げる。……あの、申し訳ないけどその腕痛いの、パンパンだし。あんまり強く持たないで。
「敬斗ーッ! やりやがった敬斗ーッ!」
リングに上ってきたオヤジに担がれて、大量に降るライトの白色に熱をおぼえて。
「勝ったぼいね、俺……」
「ぽいじゃねー、マジで勝ったんだよ! 優勝優勝! さっすが敬斗!」
「マジ? 最後まで立ててた?」
「自分の右ストレート相手の顎に入れて、相手が倒れたの余裕そうに見てただろ! このー、生意気にッ!」
嬉々としたオヤジの声がもの珍しくて聴き慣れない。そうだっけ? と思いつつもそうだったような気がしてきた。
対戦相手が満身創痍でリングの上に座している。ちょっと笑っているところを見ると、力量は五分五分だったのだろうなとわかる。
オヤジに下ろされ、対戦相手とハグ。いくつか言葉を交わして、しっかり賛辞まで戴いて。
「あの横断幕効果? すごかったよ、敬斗くん」
「そー思うなら真似してもいいスよ。オススメします」
「ブフッ! 遠慮しとく」
バシャバシャとカメラのフラッシュを浴びる。正直ヘロヘロなところはあまり撮らないでほしいけれども。
そんなふうに周りの興奮冷めやらぬなか、俺のボロボロのままの意識がアイツをぐるんぐるんと捜す。……あ、やっぱり近くにいた。リングの東側の隅に指をかけて、涙でぐずぐずしながら俺を見ている。その周りを黒服が五人で囲っているのは『令嬢』として当然のこと。
「終わたよ、おじょーさまぁ……」
よろよろと近付く。リングロープに寄りかかりながらしゃがむ。にこー、と笑うも表情筋が痛い。
「すごかった。すごかったよ敬斗くん。私感動しちゃった」
細くて白い彼女の腕が、俺の赤黒くなった前腕と左頬に触れてくる。ひやりとしていて心地がいい。
「あは。言ったろー? 俺、優勝しかしないって」
「うん、うん。私まだ震え止まんないもん……ズッ」
「もー、泣きすぎ泣きすぎ。ハンカチは?」
「グス……も、持ってる」
鼻を啜りながら顔を拭う彼女の頭に手を置く。流れに沿ってさわさわと撫でつける。なんだか、ようやく充足感。ホーッと全身から力が抜けていく。
「かっこよすぎて、すんごく困ったの」
「マジ? な? そーでしょ? つい惚れ直しちゃうっしょ?」
ハンカチから顔を上げる。眉間にシワ、への字の口。赤い鼻の頭。
「……違うもん」
「へぇ?」
「今は私のターンじゃないから、言わないもん」
ずぎゃん、とした破壊力。リングロープからよろよろと離れて、後方へ尻もち。そのまま背中から倒れてしまう。
「それは、そう……」
「けっ、敬斗くん?!」
お嬢さまからのカウンターでノックアウト。ばたばたと駆けつけたオヤジがにちゃにちゃと笑っているのが見えるが、もう反論するのも面倒くさい。
真の優勝は、こうしてたった数分で令嬢が簡単に奪っていきました……とさ。

