これにて専属契約は

「ヒョェッ」

 お風呂から自室へ戻った私――鴨重紗良は、なんの気なしに確認したスマートフォンに表示されている新規通知に驚いて、思わず変な声が出た。
 現在時刻二一時一〇分。幸い部屋の中では一人きり。昼間の脱出劇のせいで引き続き二人のメイドさんが張り付いてはいるけれど、よっぽどでなければ入ってくることはないから今のはセーフ。

「じゅ、一八分前、和泉敬斗、新着メッセージ?」

 何事だろう、わざわざ敬斗くんから連絡してくるだなんて。前例がないから予測もできず、なおさらギクリドキリとしてしまう。だって、敬斗くんとしたことがある連絡内容といえばボディガードについての業務連絡だけなんだもん。
 深呼吸を一回、二回。鏡台の椅子に腰を落ち着けて、鏡には背を向けて、メッセージアプリを立ち上げて。
 冷静に考えて一八分前ということは、既にそこそこ待たせてしまっている。二〇時半過ぎからお風呂を戴いていたから、その間に連絡をくれていたのね。まさかの展開すぎて感情に頭が追いつかないけれど。

『ちょっと話したいことあるんだけど今いい?』

 開いた文面に首を捻る。これだけでは敬斗くんのテンションまでは読めない。思わず生唾ゴクリ。

『お返事遅くなっちゃった、ごめんね。いまなら大丈夫だけどどうしたの?』

 この程度の単純な文章なのに、送信までに三分もかかってしまった。物思いに耽る間もなく、スマートフォンが着信の音を奏でた。

「ええ、で、電っ、電話?! どっ、ええっ」

 滅多に鳴らない私の着信音。こんなメロディだったんだ、とまばたきが増える。

「は、はい私ですっ!」

 最悪な取り方。しかも名前ですらない名乗りをしてしまった。

「あ、えと、俺です……いやオレオレ詐欺じゃねーんだから。あー違う、んなこたどーでもよくて」

 思わず噴き出して笑ってしまう。でもこっそりと。聞こえないくらいに。

「あの、電話でいい? なんか、文章で伝えることじゃねーなと思って、けど会える時間じゃねーし、かといって明日じゃなんかヤで」

 なんだか普段よりも随分ソワソワしているような。姿勢を正して「うん、ダイジョブ」と肩を縮める。

「あーっと、昼間、河川敷で話してたとき、悪かったなって、思ってて。だからその、早く謝っときたくて」
「う、うん」
「何回もなんかしら言いかけてたのに、俺、全然聞こうとしなかったなーって思い出してから、そんとき何言おうとしてたんかなーって、訊きたくて、と言いますか」
「え、と」

 ちょっと待って。そもそもあのとき私たち何の話をしてたんだっけ?
 婚約者を勝手に決められていて飛び出したという話から、でも敬斗くんがなぜか怒っちゃって、私はそれを諌めようとしてアワアワしていただけだった気がするのだけれど。落ち着いてとかちょっと待っての言葉にどんどん被せられた感じだったような……。

「ご、ごめんなさい。何て言おうとしてたか、ちょっと、全体的に忘れちゃったんだけどォ……」
「わす、忘れたァ?」
「ででででもね! パ……じゃなくて、お父さまからね、それよりすんごく大事なお言伝(ことづて)を預かってるのっ。そっちのがずっと大事!」
「社長、から」

 耳に当てたスピーカーからでも敬斗くんの緊張感が伝わる。不安にさせないためにも、なるべく端的に、的確に伝えてあげなければ。

「あのね。本人の辞任意思や規約違反がない限り、お父さまの私情でボディガードの解任はないって。つまりその、和泉くんが辞めたいわけではないのなら、これからも頼みたい、って言ってたよ」
「てことは、社長は別にここの関係(・・・・・)を清算しようとしてるわけじゃねーのか」
「ここの関係(・・・・・)?」
「あ、いや、なんでもないデス。だったら引き続き、俺がさ……お嬢さまの専属ボディガードてことで。変わらず、お願いします」
「ほ、ほんと? いいの?」
「当然、そりゃもう! まか、任せてもらえんなら、いっそう気ィ引き締めてしっかりお務めいたしますっ」

 食い気味にそう言われて、私は嬉しい七割、苦しい三割を感じていた。

「つか、まだ全然護衛らしいことなんにもできてねーじゃん、俺。ボールからも人だかりからも護れてねーのに何がボディガードだよって。こんな状態で辞めるほうが中途半端で無理だわ」

 苦しい理由は、あのときの嫉妬心に似ている。振った相手のボディガードを平然と務めようとする敬斗くんが、あまりにも大人だと思ったから。
 きちんと公私を分けられていてえらいなぁ。なのに、私はどうだろう。きっと顔を合わせたら暗い顔をしてしまう。敬斗くんを好きだという気持ちが微塵も変わらないのがもどかしいくらい、しばらくズルズルと引きずりそう。これまでどおりになんて取り繕えない。

「あんね。俺、かなり不安だったよ」
「不安? どうして?」
「アンタの護衛役辞めさせられんじゃねーかって思ったとき、いつの間にか『辞めたくない』って思ってたから」
「そ、そう、だったの」
「さ……お嬢さまの護衛役の席は、もう誰にも……たとえ『イズミさん』相手でも、明け渡すつもり俺にはないからね」
「へえっ?!」

 思わず心臓が熱く跳ねる。なんなの、どういうこと? 敬斗くんは私が恋愛感情を向けていることを拒否したはずでは?! そういうことを平気で言うから、無条件に好きな気持ちが加速しちゃうじゃない!

「えと、本題戻るんだけど。一個確認していい?」
「かく、確認?! な、何の?」
「あーいやだからそれはそのえーとつまりっ! かかか河川敷で、さ……鴨重さぁ、好きな人の話したじゃん」
「う、うん」
「あのですね。俺あんとき相当頭に血ィ上ってましてですね。聞き逃したか聞き違いをして、変な返事しちゃった気がしてまして……」
「変な返事? カネも地位も持ってる人がお似合いだ、って言ったやつ?」
「マジじゃん! ごめん最悪。ホントに悪かった! 大事な話してくれてたのにな。平身低頭謝る。申し訳ないッ」

 何とも返せない私。『いい』わけじゃないし、謝られたところでこの気持ちの行き場はもうない。

「それでその、今更だしクソかっこ悪いんだけど、俺のあの返事、一旦綺麗に忘れてほしいんです」
「わ、忘れて、って」
「あんとき俺、なんか混乱してたの。だから意図しない返事っつーか、返すべき答えじゃなかったっつーか、そーゆーの言っちゃったワケ。すんげー勘違いもしてたし」

 ばくんばくんと大きな音。どうしよう、まるで心臓がはち切れそう。

「その代わりっちゃアレなんだけど、頼みたいことあって」
「な、なに?」
「てか都合よすぎんだけどね、こんなこと言い出せる立場じゃねーのに。さ……鴨重を傷つけたことには、変わりないワケだし」

 頬も首もスマートフォンを当てた耳も、何もかもが熱い。それに喉も渇く。お風呂から上がったばかりなのにまた汗が滲んでいる。

「それでも頼む。来月の俺の試合終わるまで、本当の返事、保留にさしてくんない?」
「は……って、『保留』?」
「クソ中途半端で最低な提案してるってわかってる。マジで頭おかしい。しかもこういうのむしゃくしゃするから心底ヤだし、本音は今すぐ決着つけたい。でも、それだとダメ。それやっちゃうと、俺が何もかもどうでもよくなって全部放棄するから」
「そ、そんなに?」
「そんなに。だからマジでごめん。全部承知で、さ……鴨重に待っててほしい。来月の……二週間後の試合で優勝して、そしたら俺から、ちゃんと言うから」

 理性的でいられない。もっとずっと大好きになっちゃう。たまらなくて泣いちゃいそうだし、表情筋もゆるゆるだし、今すぐ敬斗くんに会いたい。

「……わかったよ。二週間だけ、待ってる」
「マジ?! あんがと! よっしゃ、これで頑張れる!」

 こんな敬斗くんが新鮮で、電話口にバレないようにクスと笑った。ちょっとかわいいとさえ思えてしまったから、惚れた弱みにはどうしたって敵わないのだろう。

「でさ、その試合の決勝戦だけは絶対見に来てくんね?」
「決勝だけ? どうして?」
「俺は優勝しかしねーから」

 遂に撃沈。振り返って鏡台に倒れ込む。もう無理、私の推しがかわいすぎる。

「さ……鴨重が直接見てるなら、ガチで優勝するしかねーじゃん?」
「そ、そうなの?」
「そーなのっ。マジで俺がカッコつくとこ、一番近くで見といて」
「でも、和泉くんはずっとちゃんと、格好いいよ」

 ゴンゴン、と聞こえる電話口。絶対いまおでこを壁かどこかに打ちつけてたんだろうな。やった、一勝した。

「あーてかさぁ、なんで和泉くん呼びに戻ってんの? しばらく名前だったのに」
「え、だ、だって。振られちゃったし、距離おいたほうがいいだろうなって」
「保留っつったじゃん。それとも、もう名前で呼ぶのやだ?」
「え、ううんっ。じゃあ、その、『敬斗くん』」
「う、うん……じゃあ俺、その、さ――」

 気付いているよ、なんとなく。敬斗くんがさっきから呼ぼうとしてはためらって、結局呼べないを繰り返していること。嬉しすぎてニヤニヤしちゃうもん。
 でもね、助けたり促したりしてあげないの。今の私はちょっと意地悪だからね。

「『では二週間後の試合の決勝戦、大変楽しみにしておりますわね』」

 敬斗くんが息を吸い込んだそのタイミングで、わざと冷静に被せる。フフンと口角を上げて、挑戦的な表情をするの。

「『あなたがお勝ちになるまではすべて保留(・・・・・)、でしたよね?』」
「ぐっ……クソ、自分で自分の首絞めた気分」
「ふふっ!」

 正直、敬斗くんが優勝してもしなくてもあまり関係ないと思っている。そりゃ気持ちよく優勝して、心の底からたくさん称賛したいけれど、物事の本質としては『本気で挑むこと』にこそ本当に意味があると悟ったの。

「明日からガッコ行くとき、家まで迎えに行くから」
「わざわざ来てくれるの? 敬斗くんの家からここまで結構距離あるのに」
「ランニングは基礎トレーニングとして必須メニューですので。てか迎えに行きたいの。単純に俺がっ。そしたらいつもより、ちょっと早めに顔、見れるし」
「あーもう、だからっ! 保留の意味ッ!」
「だー、やっぱ性に合わねぇッ! で、でもアレ、まだ明確にしてねーしセーフっしょ!」
「してるも同然だよっ、もう八割わかっちゃってるもん!」
「クソッ、マジでダメだ。夜中のテンションにやられてる、絶対」
「いやいや、まだ九時半だけどっ」

 ブフッとお互いに噴き出して、しばらくヒーヒーと笑って。

「あのね、敬斗くん」
「は、はい」
「ボクシングに集中するためにボディガードお休みしたいときは、ちゃんと言ってね。私どうこうじゃなくて、ちゃんと自分が突き詰めようとしてること、大事にしてほしいの」

 伝わるだろうか、この真意が。
 ボクシングもボディガードもどちらも大事にしてくれることはありがたいけれど、ボクシングはお父さまと二人三脚でやってきた競技であり、今回の大会は大きな節目にもきっとなるもの。

「私のボディガードは『敬斗』だけだけど、ボクサーの敬斗くんも一人しかいないからね。だからボクサーとしてやりたいことがあるなら、その都度達成してきてね、って」

 私は敬斗くんに、ずっと輝いていてほしい。敬斗くんが今まで頑張ってきたことで、ひとつずつ達成感を積み上げていってほしい。

「わ、わかった。あの、あんがとね、いろいろ」

 それに、敬斗くんはまだお父さま同士の『貸し借り』について誤解したままだもの。敬斗くんがどう誤解しているのかはよくわからないけれど、これも私から話すことではないと思う。こっちも『保留』にしておいて、敬斗くんのせっかくの覚悟と集中を保たせてあげなくては。

「鴨重のその相手(ひと)のこと深く理解してくれるとこ、フツーにすげーと思うよ」
「そ、そうかな。照れる」

 へへ、ともじもじしたそのとき、目の前の鏡の中の自分と目が合って再び撃沈。最悪。とんでもなくだらしのない顔をしてたんだけど、私ッ!

「ガチでダメになりそうだから、そろそろ切るわ」
「わ、私も……今あまりにも酷い顔してんの見ちゃってギャアってなったし」
「ブッ! どゆこと」
「も、もういいのッ! おや、おやすみなさいっ」
「ん」
「『おやすみなさい』」
「お、『おやすみなさいませ、お嬢さま』」
「うんっ」

 数秒して、どちらからともなく電話を切る。
 ガバッと立ち上がり、思わずベッドへダイブ。スプリングのキィキィという音がかすかに聞こえて、深く深く溜息をついた。
 明日からどんな感じで接してくるだろう――枕に顔を埋めた私は、外のメイドさんたちにバレないように「わーっ」とひと声だけ吐き出した。