私――鴨重紗良は、まもなく『敬斗』に連れられて河川敷を離れることとなった。右手首を掴まれ、河川敷からどんどん住宅街方面へ進む。私に合わせない歩幅、リズム、速度。そして気まずすぎる無言が、今日の暑さを助長するように重苦しかった。
その道中、お父さまの秘書さんの車とすれ違った。いち早くそれに気が付いたのは私だったけれど、戦意喪失中の私が『敬斗』の拘束から逃れられるわけもなく。数メートル後方で停まった秘書さんの車まで、手首を掴まれたまま簡単に連れて行かれてしまった。
「あーよかった、紗良お嬢さま! 案外お近くにいらっしゃって! お父さまにご報告申し上げますのでどうぞ中へっ。敬斗くんも乗車……あー、走って帰る? え、ランニング? はー、なんと素晴らしくて爽やかなっ! 承知いたしました! 紗良お嬢さまにお付き添いくださり、社長に代わりまして感謝申し上げますッ」
重苦しい私たちとは対照的な反応を見せてきた秘書さん。でもきっと、手を尽くして方々を捜し回ってくれていたに違いない。安堵したような笑顔のかたわらで滝のような汗をかいていた。
結局『敬斗』は私にひと言もかけずに、ランニングへ戻っていった。
「まったく。いったいどれだけの人たちが心配したかわかってるかい、紗良?」
「……ごめんなさい」
門扉の向こうへ車で入ると、ずっと向こうの玄関の前で両親が待ち構えていた。お母さまはしゃくりあげるほど泣いていたみたい。そしてお父さまは、かなり怖い顔でお母さまの肩を抱いていた。
叩かれるだとか怒鳴られるだとかは一切ないし、お父さまから出た言葉は全然多くない。しかし、抑えた声音の向こうには、言おうとして呑み込んだり、私にぶつけることを控えた言葉がたくさん見えた。
「紗良ちゃんに何かあったら、ヒグッ、どうしましょうーって、ママ、とっても気が気じゃなくってね、グスッ。ほんとに……ほんっとーに紗良ちゃんが無事でよかったぁー!」
大人気ないほど鼻水を垂らして泣くお母さまを、真顔でたしなめるお父さま。そのうちに専属のメイドさんに引き取られて、お母さまは数歩後ろに下がった。こんなときに考えることではないけれど、私の涙腺が弱いのってママがこんなに激情型だからじゃない?
「捜してくれていた警備さんたちと心配かけたメイドさんたちには、自分できちんと後始末をつけるように。そのあとはしばらく自室にいなさい」
「けどパパ、ひとつ訊きたいことが――」
「正午過ぎには時間を設けるから、それまでは待っていなさい」
被せられた声色が社長命令のそれで、簡単に怖気づいた私は静かに首肯を向けた。
私の初めての『ワルダクミ』は、成功したんだか失敗したんだかわからない結果になってしまった。しかも、まさかパパがこんなに怒るとは思っていなかった。
ただ笑って許してくれると思っていた。優しく諭すような物腰で迎え入れてくれるものと思っていた。なのにそれがまさか、あんなに冷淡な目をしているだなんて。
専属のメイドさん二人とお父さまのボディガードの一人に周囲を囲われて、自室まで戻される。普段であればメイドさんが一人しかお供につかないのに、これも『社長命令』だろう。
「二人とも。普段のお仕事と違うことをさせてしまってごめんなさい」
メイドさんたちには素直な心で謝ることができた。お手本みたいにわたわたと慌てた二人は「気にしないでほしい」と笑ってくれた。
これにわかるように、我が鴨重邸は内外共にガードが堅い。
邸内には執事さんやメイドさんが、門扉や玄関などの外部通用口には警備員さんが、それぞれ常時配置されている。当然、監視カメラをはじめとした遠隔監視セキュリティも常時稼働しているから、人目を忍んでこっそりと抜け出すことなど本来あり得ないこと。
だからこそ、この『ワルダクミ』は大がかりなミッションだったの。子どものいたずらレベルや薄っぺらな反抗心だけでこれを突破するのは、不可能だから。なので私は、ずっとそれなりにオリコウサンでいなければならなかった。そうでなければこの鴨重邸で暮らすのはツラいもの。
この状況を恵まれていると取るか、鳥籠と取るか――生まれた家のことで悩むなど、本来であればとんだ贅沢だ。
おいてけぼりにしたスマートフォンの通知がゼロ件であることを見て、心にいっそう冷たい風が吹き込むようだった。
「――で。訊きたいことって何かな?」
そこから自室で頭を冷やすこと小一時間。監督役として扉の外で立たされていたメイドさん二人に連れられて、ダイニングルームへ通される。
横に長いダイニングテーブルの上座にお父さま、その左隣にはお母さま。私は二人の向かいに着席。これは『いつもの位置』ではあるものの、三人揃って三人だけで食事など稀なこと。
話を切り出してきたお父さまはレモンクリームの冷製パスタに添えられた生ハムにフォークを突き刺したところで、お母さまなんか副菜のサラダを一生懸命噛んでいる。もうっ、私がどれだけ大きな反抗心を見せたかわかっていないの?!
「『敬斗』の……ううん、『いずみボクシングジム』との間にある貸し借りの問題のこと、きちんと私にも教えてほしいの」
私はランチには手をつけない。むしろものすごく真剣な表情でお父さまに臨む。
なのに、二人ともキョトンとしたままその動きを止めた。まもなくゆっくりと顔を見合わせて固まってしまう。
十数秒の沈黙がいたたまれない。しかし反応を待たないわけにはいかない。こらえてじっと待っていると、お父さまは生ハムが刺さったフォークをそっと置いた。
「さっき会った敬斗くんから、何か聞いたのかな?」
「特に何も。けど様子が変だったから、気になって」
あのとき、貸し借りの話が出てからの『敬斗』はいつもと様子が違った。ポジティブな発言が急激に減ったし、私の話が耳に届いていなくて、いっぱいいっぱいな感じだった。……まぁお陰で告白してしまったことがうやむやになった感じはあるからセーフ、みたいな? けど、振られた印象がものすごく濃く残っているから油断するとどんどん気落ちしていくの。さっきうつらうつらしていたお陰で少しメンタルリセットはされたけれども、ふと思い出してしまうと普通にツラい!
いやいやいや。今は『敬斗』のことよ。私情を散らし、身を乗り出してパパへ向き直る。
「敬斗くんのお父さま、パパから『たくさん借りがある』って。それをパパが快く思っていないだろうから、もうすぐ自分は辞めさせるだろうって言ってたの。すごく投げやりな感じだった。ねぇパパ、どういうこと? そんなに進退に関わるようなものを『貸し』たの?」
「えー? うーん……敬斗くんがお父上から何を聞いたのかはわからないけど、どーやら行き違いがあるみたいだなぁ」
パパは腕組みをして背もたれによりかかる。
「わからないことはひとまず置いとくとして。パパは敬斗くんを辞めさせる気なんか全然ないよ。もちろんイズミさんもね」
「そっ、ほ、ほんと?!」
「紗良もわかっているだろう? 和泉の家と鴨重家は交友を築いて永い。些細なことで簡単に辞めさせたりなんかしないよ。それに就業の意志は、規律違反がない限りは個人に委ねるものだしね」
なるほど。敬斗くんのお父さまと私のパパが金銭的繋がりがあるにしろないにしろ、『敬斗』が私のボディガードを解任されることはない。少なくとも『鴨重社長』は私怨で人を切ったりしないのね。
「それとももしや、敬斗くんは辞めたがっているのかな?」
「そっ、それは……」
「それは有り得ないわぁ。だって、敬斗くんの様子を見てる愛美ちゃんが『あのコとってもノリノリよー!』って言ってたものっ」
「イズミさんがそう言うなら、やはりお父上との行き違いが原因かもしれないね。ともかく、こちらから敬斗くんを辞めさせることはないから、安心しなさい。伝えられるようなら、敬斗くんに紗良から教えて差し上げるようにね」
優しいパパの笑みが戻って来る。そのまなざしに、ようやく心の底から安心感に浸る。よかった、イズミさんとなかよしのママがそう言うなら裏付けもばっちりだし、きっと本当に何か勘違いしているだけよね。
「紗良の訊きたかったことはこれで解消されたかな?」
「う、うん、ひとまず。ありがとう、パパ」
「そう、よかったです。朝食のときは、このことで家を飛び出したのかな?」
「あーその、実はそれとは違くて……」
ついついママへ視線を向ける。するとバチリと目が合って、ママは困ったようにきゅんと口をへの字に曲げた。
「お見合いとか婚約のこと、ママから聞いたの。それで――」
「えっ、あの話ぃ? もー。ママったら勝手に先に言っちゃったのー?」
「だってぇ! とっても素敵なお話ばかりだからぁ! 受ける受けないはともかく、早く紗良ちゃんに教えてあげたかったんだものー!」
うわあん、とママの幼い一声。膝に敷いていたナプキンを掴み上げて啜り泣く。もう、ママってば典型的天然お嬢さまなんだから。泣けばどうにかなると思ってるでしょ。
「逃げ出しちゃったってことは、紗良ちゃんとしては婚約者の話は不本意だったんだね?」
「……うん」
「そっか。いやね、パパもママも、紗良ちゃんが他者に心を開くのが苦手なことを心配していてね。もしかしたら自分と似たような立場の友人ができたら、対人関係が円滑にいくんじゃないかなー? って思っていたのさ。本当になんとなく考えていただけだったんだよ」
自分と似た立場の友人? あーなるほど。だから『御曹司』だの『ご子息』ばかりなのね。ということは、今回は家柄については二の次の話だったのかな?
「こっちとしても、なにもすぐお嫁にやろうとか早く婿入りさせたいとか、そんなことは一切考えてないからね。まだ十代じゃあないか。早すぎるよ。なんならあと十年は親元にいてくれたまえよ?」
「さ、さすがにそんなにはヤだよ」
「そんなこと言わないでぇ、紗良ちゃーんッ! もう少しママとパパのかわいい紗良ちゃんでいてちょうだーいっ!」
「も、もうっ、落ち着いてよママ。ちょっと泣きすぎ」
ズビズビと鼻を啜るママは、後で控えていた専属メイドさん二人から涙を拭かれ、落ち着けるような声かけをされ、と盛りだくさんだった。
始終苦笑いのパパとふと目が合って、私は深呼吸をしてから話を改める。
「パパの言うとおり、たしかに私まだ一七歳だよ。でもね、結婚相手だのに限らず、先走ってなんでも勝手に決められちゃうのは、さすがにいい気はしないよ」
膝の上で拳を握る。キュッと優しく、でも強く意思を持ったままで。
「二人が私のことを想ってくれてるのもわかる。家柄のことだってわかってる。わかってるんだけど、もう私がなんでもかんでも先回りして用意されなきゃならないような子どもじゃあないってこと、二人にはわかってほしい」
ズッと鼻を啜って、ママが大きくひとつ頷いた。
「失敗したり、泣いたり、恥ずかしい想いしたり。そんなふうにしていろんなこと学んでいくじゃない? 私も学びたいの。それで、選んだり悩んだり迷ったりしたい。そういう学生生活を今は存分に送りたい」
小刻みにうんうんとしているパパ。けっして目線を私から外さない。パパがこんなに真剣に私の話を聞いてくれたことは、今まであったろうか。
「だから交友関係のことも、そんなに心配しないで。大人から見たら私はお友達いないように見えるかもしれないし、実際に人数は少ないけど……でもね、ちゃんと気持ちをぶつけ合ったり、本音を言える人たちはいるんだよ」
胸の真ん中からじんわり温かくなる友達――紅夏とえみり。私にとってかけがえのない、心底大切な二人。それに最近は、栄村くんと近井くんもよく話しかけてくれる。大して接点のなかった伊達くんは、私がピンチのときに助けてくれた。
「みんな私の本当の気持ちをね、ちゃんと汲んでくれるの。たまに勘違いし合うけど、話し合えばきちんと結束するもの」
そして彼――和泉敬斗くん。
去年一年間、遠くから見てただ焦がれて、一方的に憧れて、眩しく想って。たったそれだけだった。
まさかのご縁で行動を共にすることが増えて、ひとつずつわだかまりが解消されていって、距離がひとつずつ縮まって。いつのまにか、『誰かと一緒にいること』が心地いいと感じるようになれた。
それもこれも全部、敬斗くんのお陰。
敬斗くんは「いつも護れていない」と苦い顔をするけれど、外敵から身を護ることだけがボディガードではないの。私の傍にいて、私の隣にいて、私が感情豊かに過ごせる環境を調えることは、私の身を護るに等しい功績だもの。
「最近は毎日楽しいの。何も危なくない一日も当然大切だけど、感情豊かに過ごせた一日がとっても充足感があって、心地よくて、わくわくするの。そんな人とね、私、毎日学校生活を送れてる。だから――」
「そっか。いやはや、実に素晴らしいことだね」
腕組みを解くパパ。表情はいつにもまして柔らかい。
「イズミさんが傍を離れるってなったときはどうなることかと思ったけど、紗良は自分ひとりで、ピンチを追い風にしたんだね」
「ひとりじゃないよ。敬……み、みんながいてくれたから」
「紗良ちゃんは、わたしたちが知らないうちに、随分大人になっていたのね」
幼い素振りを見せていたママが、急に母親の顔になった。涙が染み込んだナプキンをメイドさんたちに預けて、私を向き直る。
「信じてあげなくてごめんね、紗良ちゃん。ママ、あなたのいま現在の感情を抜きにして考えてしまってたわ」
「ううん! 私こそちゃんと話さなかったり、ろくに話を聞かなかったから。だから、ごめんなさい」
椅子から立ち上がるママ。テーブルをまわって、私の右隣までやってくる。どうしたのだろうと困惑していると、座っている私をそのまま抱き締めた。
ママにこうされるのは、いつぶりだろう。ひと吸いした匂いが甘く優しい『母』の匂いで、たまらなくなる。
ママの腕は華奢で、細くて、重たいものなど持てないほど非力。私が抱きかかえられたことなど記憶にない。でも確実に『懐かしい』と思えてしまう心地がする。
ママの背に腕をまわし返す。母親に縋りつくなんてみっともないはずなのに、でも、今くらい別にいいよね。私のママの腕の中も、こんなに温かくて安心するんだね。
「ところで紗良ちゃん。突っ込んだ話が進んだついでに訊いちゃいたいんだけどぉ」
そっと緩むママの腕。「え?」と顔を上げると、いつもの調子のママに戻っていた。しかも、楽しそうにウキウキしつつニヤニヤしている。
「好きな人がいるって、ホント?」
「んなっ!」
「な、なんだいその話?! 紗良ちゃん、ママ、僕も聞いてないよ! 早く教えてッ!」
「ちょ、ちょっと待ってママ、どこからそんな話を!」
「んふっ、ヒミツ! さあ、楽しい会議の始まりよーッ!」
その道中、お父さまの秘書さんの車とすれ違った。いち早くそれに気が付いたのは私だったけれど、戦意喪失中の私が『敬斗』の拘束から逃れられるわけもなく。数メートル後方で停まった秘書さんの車まで、手首を掴まれたまま簡単に連れて行かれてしまった。
「あーよかった、紗良お嬢さま! 案外お近くにいらっしゃって! お父さまにご報告申し上げますのでどうぞ中へっ。敬斗くんも乗車……あー、走って帰る? え、ランニング? はー、なんと素晴らしくて爽やかなっ! 承知いたしました! 紗良お嬢さまにお付き添いくださり、社長に代わりまして感謝申し上げますッ」
重苦しい私たちとは対照的な反応を見せてきた秘書さん。でもきっと、手を尽くして方々を捜し回ってくれていたに違いない。安堵したような笑顔のかたわらで滝のような汗をかいていた。
結局『敬斗』は私にひと言もかけずに、ランニングへ戻っていった。
「まったく。いったいどれだけの人たちが心配したかわかってるかい、紗良?」
「……ごめんなさい」
門扉の向こうへ車で入ると、ずっと向こうの玄関の前で両親が待ち構えていた。お母さまはしゃくりあげるほど泣いていたみたい。そしてお父さまは、かなり怖い顔でお母さまの肩を抱いていた。
叩かれるだとか怒鳴られるだとかは一切ないし、お父さまから出た言葉は全然多くない。しかし、抑えた声音の向こうには、言おうとして呑み込んだり、私にぶつけることを控えた言葉がたくさん見えた。
「紗良ちゃんに何かあったら、ヒグッ、どうしましょうーって、ママ、とっても気が気じゃなくってね、グスッ。ほんとに……ほんっとーに紗良ちゃんが無事でよかったぁー!」
大人気ないほど鼻水を垂らして泣くお母さまを、真顔でたしなめるお父さま。そのうちに専属のメイドさんに引き取られて、お母さまは数歩後ろに下がった。こんなときに考えることではないけれど、私の涙腺が弱いのってママがこんなに激情型だからじゃない?
「捜してくれていた警備さんたちと心配かけたメイドさんたちには、自分できちんと後始末をつけるように。そのあとはしばらく自室にいなさい」
「けどパパ、ひとつ訊きたいことが――」
「正午過ぎには時間を設けるから、それまでは待っていなさい」
被せられた声色が社長命令のそれで、簡単に怖気づいた私は静かに首肯を向けた。
私の初めての『ワルダクミ』は、成功したんだか失敗したんだかわからない結果になってしまった。しかも、まさかパパがこんなに怒るとは思っていなかった。
ただ笑って許してくれると思っていた。優しく諭すような物腰で迎え入れてくれるものと思っていた。なのにそれがまさか、あんなに冷淡な目をしているだなんて。
専属のメイドさん二人とお父さまのボディガードの一人に周囲を囲われて、自室まで戻される。普段であればメイドさんが一人しかお供につかないのに、これも『社長命令』だろう。
「二人とも。普段のお仕事と違うことをさせてしまってごめんなさい」
メイドさんたちには素直な心で謝ることができた。お手本みたいにわたわたと慌てた二人は「気にしないでほしい」と笑ってくれた。
これにわかるように、我が鴨重邸は内外共にガードが堅い。
邸内には執事さんやメイドさんが、門扉や玄関などの外部通用口には警備員さんが、それぞれ常時配置されている。当然、監視カメラをはじめとした遠隔監視セキュリティも常時稼働しているから、人目を忍んでこっそりと抜け出すことなど本来あり得ないこと。
だからこそ、この『ワルダクミ』は大がかりなミッションだったの。子どものいたずらレベルや薄っぺらな反抗心だけでこれを突破するのは、不可能だから。なので私は、ずっとそれなりにオリコウサンでいなければならなかった。そうでなければこの鴨重邸で暮らすのはツラいもの。
この状況を恵まれていると取るか、鳥籠と取るか――生まれた家のことで悩むなど、本来であればとんだ贅沢だ。
おいてけぼりにしたスマートフォンの通知がゼロ件であることを見て、心にいっそう冷たい風が吹き込むようだった。
「――で。訊きたいことって何かな?」
そこから自室で頭を冷やすこと小一時間。監督役として扉の外で立たされていたメイドさん二人に連れられて、ダイニングルームへ通される。
横に長いダイニングテーブルの上座にお父さま、その左隣にはお母さま。私は二人の向かいに着席。これは『いつもの位置』ではあるものの、三人揃って三人だけで食事など稀なこと。
話を切り出してきたお父さまはレモンクリームの冷製パスタに添えられた生ハムにフォークを突き刺したところで、お母さまなんか副菜のサラダを一生懸命噛んでいる。もうっ、私がどれだけ大きな反抗心を見せたかわかっていないの?!
「『敬斗』の……ううん、『いずみボクシングジム』との間にある貸し借りの問題のこと、きちんと私にも教えてほしいの」
私はランチには手をつけない。むしろものすごく真剣な表情でお父さまに臨む。
なのに、二人ともキョトンとしたままその動きを止めた。まもなくゆっくりと顔を見合わせて固まってしまう。
十数秒の沈黙がいたたまれない。しかし反応を待たないわけにはいかない。こらえてじっと待っていると、お父さまは生ハムが刺さったフォークをそっと置いた。
「さっき会った敬斗くんから、何か聞いたのかな?」
「特に何も。けど様子が変だったから、気になって」
あのとき、貸し借りの話が出てからの『敬斗』はいつもと様子が違った。ポジティブな発言が急激に減ったし、私の話が耳に届いていなくて、いっぱいいっぱいな感じだった。……まぁお陰で告白してしまったことがうやむやになった感じはあるからセーフ、みたいな? けど、振られた印象がものすごく濃く残っているから油断するとどんどん気落ちしていくの。さっきうつらうつらしていたお陰で少しメンタルリセットはされたけれども、ふと思い出してしまうと普通にツラい!
いやいやいや。今は『敬斗』のことよ。私情を散らし、身を乗り出してパパへ向き直る。
「敬斗くんのお父さま、パパから『たくさん借りがある』って。それをパパが快く思っていないだろうから、もうすぐ自分は辞めさせるだろうって言ってたの。すごく投げやりな感じだった。ねぇパパ、どういうこと? そんなに進退に関わるようなものを『貸し』たの?」
「えー? うーん……敬斗くんがお父上から何を聞いたのかはわからないけど、どーやら行き違いがあるみたいだなぁ」
パパは腕組みをして背もたれによりかかる。
「わからないことはひとまず置いとくとして。パパは敬斗くんを辞めさせる気なんか全然ないよ。もちろんイズミさんもね」
「そっ、ほ、ほんと?!」
「紗良もわかっているだろう? 和泉の家と鴨重家は交友を築いて永い。些細なことで簡単に辞めさせたりなんかしないよ。それに就業の意志は、規律違反がない限りは個人に委ねるものだしね」
なるほど。敬斗くんのお父さまと私のパパが金銭的繋がりがあるにしろないにしろ、『敬斗』が私のボディガードを解任されることはない。少なくとも『鴨重社長』は私怨で人を切ったりしないのね。
「それとももしや、敬斗くんは辞めたがっているのかな?」
「そっ、それは……」
「それは有り得ないわぁ。だって、敬斗くんの様子を見てる愛美ちゃんが『あのコとってもノリノリよー!』って言ってたものっ」
「イズミさんがそう言うなら、やはりお父上との行き違いが原因かもしれないね。ともかく、こちらから敬斗くんを辞めさせることはないから、安心しなさい。伝えられるようなら、敬斗くんに紗良から教えて差し上げるようにね」
優しいパパの笑みが戻って来る。そのまなざしに、ようやく心の底から安心感に浸る。よかった、イズミさんとなかよしのママがそう言うなら裏付けもばっちりだし、きっと本当に何か勘違いしているだけよね。
「紗良の訊きたかったことはこれで解消されたかな?」
「う、うん、ひとまず。ありがとう、パパ」
「そう、よかったです。朝食のときは、このことで家を飛び出したのかな?」
「あーその、実はそれとは違くて……」
ついついママへ視線を向ける。するとバチリと目が合って、ママは困ったようにきゅんと口をへの字に曲げた。
「お見合いとか婚約のこと、ママから聞いたの。それで――」
「えっ、あの話ぃ? もー。ママったら勝手に先に言っちゃったのー?」
「だってぇ! とっても素敵なお話ばかりだからぁ! 受ける受けないはともかく、早く紗良ちゃんに教えてあげたかったんだものー!」
うわあん、とママの幼い一声。膝に敷いていたナプキンを掴み上げて啜り泣く。もう、ママってば典型的天然お嬢さまなんだから。泣けばどうにかなると思ってるでしょ。
「逃げ出しちゃったってことは、紗良ちゃんとしては婚約者の話は不本意だったんだね?」
「……うん」
「そっか。いやね、パパもママも、紗良ちゃんが他者に心を開くのが苦手なことを心配していてね。もしかしたら自分と似たような立場の友人ができたら、対人関係が円滑にいくんじゃないかなー? って思っていたのさ。本当になんとなく考えていただけだったんだよ」
自分と似た立場の友人? あーなるほど。だから『御曹司』だの『ご子息』ばかりなのね。ということは、今回は家柄については二の次の話だったのかな?
「こっちとしても、なにもすぐお嫁にやろうとか早く婿入りさせたいとか、そんなことは一切考えてないからね。まだ十代じゃあないか。早すぎるよ。なんならあと十年は親元にいてくれたまえよ?」
「さ、さすがにそんなにはヤだよ」
「そんなこと言わないでぇ、紗良ちゃーんッ! もう少しママとパパのかわいい紗良ちゃんでいてちょうだーいっ!」
「も、もうっ、落ち着いてよママ。ちょっと泣きすぎ」
ズビズビと鼻を啜るママは、後で控えていた専属メイドさん二人から涙を拭かれ、落ち着けるような声かけをされ、と盛りだくさんだった。
始終苦笑いのパパとふと目が合って、私は深呼吸をしてから話を改める。
「パパの言うとおり、たしかに私まだ一七歳だよ。でもね、結婚相手だのに限らず、先走ってなんでも勝手に決められちゃうのは、さすがにいい気はしないよ」
膝の上で拳を握る。キュッと優しく、でも強く意思を持ったままで。
「二人が私のことを想ってくれてるのもわかる。家柄のことだってわかってる。わかってるんだけど、もう私がなんでもかんでも先回りして用意されなきゃならないような子どもじゃあないってこと、二人にはわかってほしい」
ズッと鼻を啜って、ママが大きくひとつ頷いた。
「失敗したり、泣いたり、恥ずかしい想いしたり。そんなふうにしていろんなこと学んでいくじゃない? 私も学びたいの。それで、選んだり悩んだり迷ったりしたい。そういう学生生活を今は存分に送りたい」
小刻みにうんうんとしているパパ。けっして目線を私から外さない。パパがこんなに真剣に私の話を聞いてくれたことは、今まであったろうか。
「だから交友関係のことも、そんなに心配しないで。大人から見たら私はお友達いないように見えるかもしれないし、実際に人数は少ないけど……でもね、ちゃんと気持ちをぶつけ合ったり、本音を言える人たちはいるんだよ」
胸の真ん中からじんわり温かくなる友達――紅夏とえみり。私にとってかけがえのない、心底大切な二人。それに最近は、栄村くんと近井くんもよく話しかけてくれる。大して接点のなかった伊達くんは、私がピンチのときに助けてくれた。
「みんな私の本当の気持ちをね、ちゃんと汲んでくれるの。たまに勘違いし合うけど、話し合えばきちんと結束するもの」
そして彼――和泉敬斗くん。
去年一年間、遠くから見てただ焦がれて、一方的に憧れて、眩しく想って。たったそれだけだった。
まさかのご縁で行動を共にすることが増えて、ひとつずつわだかまりが解消されていって、距離がひとつずつ縮まって。いつのまにか、『誰かと一緒にいること』が心地いいと感じるようになれた。
それもこれも全部、敬斗くんのお陰。
敬斗くんは「いつも護れていない」と苦い顔をするけれど、外敵から身を護ることだけがボディガードではないの。私の傍にいて、私の隣にいて、私が感情豊かに過ごせる環境を調えることは、私の身を護るに等しい功績だもの。
「最近は毎日楽しいの。何も危なくない一日も当然大切だけど、感情豊かに過ごせた一日がとっても充足感があって、心地よくて、わくわくするの。そんな人とね、私、毎日学校生活を送れてる。だから――」
「そっか。いやはや、実に素晴らしいことだね」
腕組みを解くパパ。表情はいつにもまして柔らかい。
「イズミさんが傍を離れるってなったときはどうなることかと思ったけど、紗良は自分ひとりで、ピンチを追い風にしたんだね」
「ひとりじゃないよ。敬……み、みんながいてくれたから」
「紗良ちゃんは、わたしたちが知らないうちに、随分大人になっていたのね」
幼い素振りを見せていたママが、急に母親の顔になった。涙が染み込んだナプキンをメイドさんたちに預けて、私を向き直る。
「信じてあげなくてごめんね、紗良ちゃん。ママ、あなたのいま現在の感情を抜きにして考えてしまってたわ」
「ううん! 私こそちゃんと話さなかったり、ろくに話を聞かなかったから。だから、ごめんなさい」
椅子から立ち上がるママ。テーブルをまわって、私の右隣までやってくる。どうしたのだろうと困惑していると、座っている私をそのまま抱き締めた。
ママにこうされるのは、いつぶりだろう。ひと吸いした匂いが甘く優しい『母』の匂いで、たまらなくなる。
ママの腕は華奢で、細くて、重たいものなど持てないほど非力。私が抱きかかえられたことなど記憶にない。でも確実に『懐かしい』と思えてしまう心地がする。
ママの背に腕をまわし返す。母親に縋りつくなんてみっともないはずなのに、でも、今くらい別にいいよね。私のママの腕の中も、こんなに温かくて安心するんだね。
「ところで紗良ちゃん。突っ込んだ話が進んだついでに訊いちゃいたいんだけどぉ」
そっと緩むママの腕。「え?」と顔を上げると、いつもの調子のママに戻っていた。しかも、楽しそうにウキウキしつつニヤニヤしている。
「好きな人がいるって、ホント?」
「んなっ!」
「な、なんだいその話?! 紗良ちゃん、ママ、僕も聞いてないよ! 早く教えてッ!」
「ちょ、ちょっと待ってママ、どこからそんな話を!」
「んふっ、ヒミツ! さあ、楽しい会議の始まりよーッ!」

