どうやら俺――和泉敬斗の場合、頭の中のモヤモヤを抱えたままでいるとあらゆるものがストレスになるらしい。
現に、これまで耐えられていたわずかな空腹にものすごくイラついて仕方がない。さっきはジャージのジッパーが上手く噛み合わないことに対してブチ切れてしまいそうだった。……いや、いくらなんでもくだらなさすぎる。冷静に思い返すとクソ大人気ない。
ジムにこもっていてもどうしようもないので、ランニングを兼ねて外へ飛び出した。
日曜日の午前中の空気は初夏の青みを帯びている。見上げた空は快晴、照りつける陽射しはギラギラ。吹く風にも熱がつき始めているし、減量用に汗をかくには都合がいい。
なんの気なしに河川敷まで走り来てしまった。ここには、俺のようにランニングをしに来ている人はもちろん、犬の散歩や自転車も通る。ひらけている場所ではバーベキューをしている大学生グループも見える。「天気がいいから最高だろう」と思う反面、今の俺にはあの肉の匂いがツラい。
陰になっている橋の下で息を整えつつ、頭から風を浴びるためフードを脱ぐ。よかった、風を浴びるとモヤがわずかに晴れたような気になれた。ともあれ問題は解決していないので『気がするだけ』だ。
肉の匂いの届かないところでストレッチでもするか、と歩き出したところで、堤防縁のコンクリートの石段に座り込んでいる一人に目が留まった。
とんでもなく見覚えのある姿、背格好……というか顔。陽射し避けも敷物すらもなしに、なぜこんなところに?
「……幻覚?」
独り言で認めないようにしてみたものの、却って本人でしかないという確信を得てしまう。辺りを見渡すが、どうやら完全に独りきりらしい。ますます『なぜ』が深まる。
コンクリートの石段を二段飛ばしでのぼる。俺という『誰か』の気配に気が付いたようで、ソイツはふわと顔を上げた。
「あ。やっぱ鴨重だった」
「えっ、け、敬斗くん? なんでっ」
「たまたまランニングしてたら見つけた」
ぎょっとして立ち上がろうとするので、それを制止して俺も左隣に腰を下ろす。脚をボンと投げ出して、お嬢さまへ一度ニコリ。
こうすると普段ならわたわたと視線を逸らすのだが、やはり様子がおかしい。お嬢さまは口をへの字に曲げたまま俺をジロジロと見つつ、身を捩るようにして距離を取ろうとしてきた。……もしかして汗臭かったのだろうか。まぁ、いいや。気を取り直して訊ね直す。
「鴨重こそ何やってんのココで? 『独り』珍しいじゃん」
この場所は鴨重邸からほど近いが、お嬢さまが独りでボーッとしに来る場所としては不釣り合いだ。それにさっきも思ったが、ご令嬢が地べたに直接座っている上、陽射し避けになるものを何も身に着けていないのも不自然極まりない。
「あの……ホントにランニングしてただけ? 私を探すために派遣されてきたワケじゃない?」
モジモジしながら肩を縮め、ジト目を俺へ向けてくるお嬢さま。あぁコレ、何かしらを疑ったり不安に思っているときにする仕草だ。
「えと、なに、どゆこと? 俺、朝からウチのジムで自主トレしてて、そんで、汗流しに気の向くまま走ってただけだけど。スマホすら持ってねーよ?」
「そ、そっか。『その感じ』なら、ホントなんだね」
いや『どの感じ』? 俺ってそんなにいろいろと露骨か?
川面に目を向けて、鴨重は気だるそうに溜息をついた。
「飛び出してきちゃったの、家から。セキュリティも、私を呼んでたメイドさんたちの声も、全部無視しちゃった」
「は……えええ?」
「私の意思とか気持ちを無視してどんどん進められちゃうからね、『もうっ!』て気持ちが爆発しちゃって」
出た出た、鴨重の爆発癖。普段から言いたいことを呑み込んで我慢しているから大爆発を引き起こすんだろ……とは言えない、案外お嬢さまに従順な俺。
「そっ、ま、まぁ……い、いろいろあったんだな、鴨重も。あー、だからメイドさんたちから俺に連絡が行って、俺がここまで捜しに来たと思ったワケね」
「でも偶然なんでしょ?」
「偶然ですよ?」
「あの。今は、護衛と令嬢って立場はナシにして」
「お、おう」
口を尖らせて、立てた膝に顔を埋める鴨重。なんだか随分と落ち込んでいるな。拗ねているというか、モヤついているというか。
何も喋らなくなってしまった鴨重をチラチラと観察する。うーん、やはり気になる。このままここに居ると熱中症のリスクしかないよな。それに、コイツの陶磁器みたいに白い肌が簡単に焼けてしまいかねない。いいのか? このまま日焼けなんかしたら、ドレスを着るときにネックになるだろ?
「ここ直射日光で暑いしさ、向こうの橋の下ンとこ行かね? あんま長居すると日焼けすんぞ、首のうしろとか」
正直にそう誘いながら立ち上がる。ややあって遠慮がちに頷いた鴨重の足元のバランスを確認しながら、しかし「段差だからな」と勝手にその左手を引いた。
壁状になっている橋脚のコンクリートにもたれかかる。やはり日陰は体感温度が違う。吹いている風も結構涼しく感じる。……炭火焼肉の匂いがするけれど。
素肌の手首で鼻の下やら顎を拭うお嬢さまを見て、「鴨重こそスマホもなんも持ってきてねーの?」と問う。
「うん。朝ご飯終わりにそのまま飛び出してきちゃったから。わざわざ自分の部屋に寄るのも遠かったし、どうせスマホに内蔵されてるGPSで場所バレしちゃうし。だから別にいいかなーって」
「そ、そーですか……。あいにくガッツリ汗染みたこのタオルしか持ってねーんだけど、さすがにコレの上に座らすわけにはいかねーからなぁ。てことで、しばらく立ったままでも平気?」
「私と一緒にいてくれるの?」
「だって。ここにアンタ独り残して『じゃーな』はねーでしょ」
昼間とはいえどこにどんなヤツがいるかわからないのに、大企業のご令嬢を独りきりにさせられるわけがない。仮にもその護衛役だぞ、俺は。……今の今までオフだったけど。
「やっぱ優しいよね、敬斗くん」
「そーなんよ。俺、思い遣りがあって気配り上手なんですよ。まぁホントに気配り上手だったら、ここで飲み物かアイスでも買ってきて『どーぞ』をやれるくらいじゃねーとなんだけどね。あいにく減量中でして、小銭の一枚すら持ってませんで。口腔摂取するものはオヤジに徹底的に管理されてましてね。コソコソと買い食いもままならんのよ」
「フフッ。あーあ、でもいいなぁ。敬斗くんはお父さまにちゃんとわかってもらえてるんだね」
「押し付けのが多いけどね。あのオヤジ、実は元プロだし、俺が自分の息子だからって容赦しねーの。『俺はアンタの分身じゃねー!』ってしょっちゅうケンカする」
「そうだよね。私たちは別に親の分身じゃないんだもん。私は私の意見があっていいよねっ」
ということは、さっきは親に向けて爆発したのだろうか?
「鴨重も親とケンカすんの?」
「ううん、したことない。私ずっと『イイコちゃん』やってたからね、マ――お母さまに、さっき初めて言い返したの」
「へぇ。どうだった? スカッとした?」
「スカッとしたように見える?」
「見えない」
「だよねぇ。はぁ、どうしたらいいんだろ」
顔を掌で覆い、長くて深い溜息を吐き出す鴨重。
「何が原因で、その……『奥さま』とケンカを?」
訊いてほしそうだと思ったから切り込んでみたものの、黙り込まれてしまった。わ、マズい。自分のタイミングで話し出したいパターンだったかもしれない。ったくもー、見極めめんどくせー! ……あぁいやいや、お嬢さまの精神的成長の第一歩なんだからなるべく寄り添ってやらないと。
「わ、ワリィ。訊かれたくねーよね、こういう――」
「婚約者を用意してるって、言われて」
沈黙、五秒。
バーベキューをやっている大学生の騒ぐ声が異様に近く感じる。おかしいな、初夏ってこんなにセミの鳴き声がしたっけ?
「な、なに? 婚約?」
「勝手でしょ? 私が男の子苦手だからって、親が手ェまわしてたんだよ? わざわざウチと関係のある企業の御曹司とか、由緒正しい家柄のご子息との将来見据えた話を何件か取り付けてある、って。順番にお見合いしてってその中から選びなさい、って」
な、なるほど。鴨重グループとしての今後を考えるならば致し方ないことなのかもしれない。少なくとも、自由恋愛の末に「私たち結婚します♡」と顔合わせをし、両家の了承を得て……いうのは、鴨重令嬢の立場として到底認められないだろう。
しかし、コイツは令嬢である前に、ひとりの一七歳の女の子だ。同時に、ご令嬢であるからこそわきまえなければならないことだってあるのだが……という堂々巡りが終わらない。
「たしかに私、男の子苦手だけどさぁ。なのにいきなり結婚話と繋げてくるなんて酷いよね? そんなの考えたことすらないし、そもそも私まだ高校生だし。ていうか私だって、苦手意識上回っちゃうくらいに惹かれる人、いるもん」
「……え」
マジ? い、いるの? 好きな人? 鴨重が? もう既に誰かを好きなの?
いや落ち着け。コイツだって俺と同じ歳、同じ学年、同じ高校生。恋愛話が絡むことは何も変ではない、むしろ自然なことだ。俺たち一般人と同じように、振った振られただの付き合う付き合わないだのを考えていたって不思議ではない。
「そんなことも知らないでさ? 私の気持ちも知らないのにさ? 周りから聞いた情報だけで勝手に私の将来決めようとするなんて、やっぱり横暴だよねっ?」
もしや既に誰かから告白されたことがあるとか? はたまたどこぞの誰かを『彼氏』と呼んでいた過去があったり? ついでに言えば、その、アレ、もっと肉体的なことだとかの経験まで……いやいやいや、まさか。お嬢さまにかぎってあるわけがない。だいたい、俺の母ちゃんがずっとべったり付いていたんだぞ。そんな浅はかなことがあるか。
「敬斗くんなら、私の気持ちわかってくれるよね?」
くるりと俺を見上げてくる、コイツのまるい双眸。わずかに上気した頬と、不安そうな眉間と、柔らかそうで艷やかな唇。「ね?」とあざとくも無垢に首を傾げるその仕草のせいで、思わず「うぐっ」と言葉に詰まった。
すると、それまでモヤモヤぐるぐると考えていたすべてがパンと弾け消えてしまった。あれ、何だったっけ。ていうか、悩んでいた全然かどうでもいい気がしてきた。
「つ、つーか俺、鴨重が誰かのこと好きとかマジで知らなかったんだけど、聞いちゃっててよかったワケ?」
「え。……あっ! あーそのォ」
「や、やっぱマズかったよな。不可抗力とはいえ、スマン……」
「ううんもういいの、別に。私が悪いの。不注意で口走って、知られちゃって」
なんだ、どういうことだ。俺がイズミさんの代役のインスタントボディガードだから知らせる予定もなかったってか? コイツ、ヒトの気も知らねーで。
「こういうことは、その、ちゃんと改まったかたちで伝えようと思ってたの」
あー、オンのときにね? 「敬斗ッ。私と彼が付き合えるように協力しなさい!」みたいなね? 「かしこまりましたお嬢さま」……って、んなこと言えるかっ。絶対にイヤだ。もっともイヤだ。
「だからあのー、何というか、ホントは――」
「悪いけどっ。オンオフ関係なく俺はこーゆーことでチカラになってやれねーから」
ピシャリと言い放つ。スゥと上気した頬が冷めていくところから目を逸らし、数歩離れる。
「話聞くくらいなら別にいいけど、基本的に恋愛のことって自力で当たってどうにかするもんだと思ってっから。だから俺が変に根まわししたり、相手の男のことで動いたりすんなら、それってアンタがさっきブチ切れてきたアンタの親と同じことするっつーことだかんね?」
「そん、そんなことしてもらう必要、敬斗くんにはないもんっ。だって」
「まーな。俺が頼まれてんのはアンタの身の安全確保だけだしな? むしろ寄ってくるヤツを遠ざける役割だけだから、寄せ付けるのは管轄外だな」
「ねぇ、なんで怒ってるの?」
「怒ってねーけど? 俺が、どこぞの知らねー男の護衛までせにゃならんかと思ったらメタクソにイヤだなーって思っただけですけど?」
「どこ、『どこぞの知らねー男』? なにそれ」
「だって。アンタが好きになるってことは俺よりフツーに楽しく話せるヤツだろ? 誰だよ、そんなヤツいた? ここ数か月ずっとアンタのこと見てたのに全然わかんねーからすんげームカつくんだけど。秘密にされてたことも、自分の観察眼のなさにもっ」
言ってしまってから思った。これはただの八つ当たりだ。
俺はただ自分の観察眼のなさに情けないだけ。それ以外はすべて、鴨重に当たり散らすためにそれらしい理由にしただけだ。
「だっ、だって、そりゃ秘密にするよ。関係壊れちゃったら……敬斗くんに私の護衛してもらえなくなったら、ホントにヤだったんだもんっ」
「俺なんかなんちゃってバイトなんだから、どのみちもうそろそろ切られるよ」
「どうして? そんなことないってば」
「ウチのオヤジ、なんか社長からカネ借りまくってるみてぇだしな。カネにだらしねーヤツの息子が大事な娘の周りをずっとウロウロしてたら、社長だって目障りだろ」
「ねぇ敬斗くん、聞いて」
「俺、来月あるボクシングの大会に出んの。むっちゃ賞金貰えるやつ。それで優勝したいから今こーやって身体つくってんのね。だからそっちで忙しくなって護衛役できなくなるんなら、今が辞めさすのに丁度いいだろ」
「私はずっと敬斗くんが好きで、だから、縁談勝手に決められてイヤだったのっ!」
「俺よりカネも地位も持ってるヤツのが、お嬢さまにはずーっとお似合いですよ」
ザン、と風が抜ける。きっと今、俺の目は死んでいる。
蒼白な顔面をしたお嬢さま。コイツは俺の言うことひとつで簡単にコロコロと表情を変える、単純で無垢すぎるヤツ。そんで――。
「……和泉くんのばか」
――俺の言葉ひとつですぐに泣いてしまう、どうしようもなく脆いヤツなんだ。
現に、これまで耐えられていたわずかな空腹にものすごくイラついて仕方がない。さっきはジャージのジッパーが上手く噛み合わないことに対してブチ切れてしまいそうだった。……いや、いくらなんでもくだらなさすぎる。冷静に思い返すとクソ大人気ない。
ジムにこもっていてもどうしようもないので、ランニングを兼ねて外へ飛び出した。
日曜日の午前中の空気は初夏の青みを帯びている。見上げた空は快晴、照りつける陽射しはギラギラ。吹く風にも熱がつき始めているし、減量用に汗をかくには都合がいい。
なんの気なしに河川敷まで走り来てしまった。ここには、俺のようにランニングをしに来ている人はもちろん、犬の散歩や自転車も通る。ひらけている場所ではバーベキューをしている大学生グループも見える。「天気がいいから最高だろう」と思う反面、今の俺にはあの肉の匂いがツラい。
陰になっている橋の下で息を整えつつ、頭から風を浴びるためフードを脱ぐ。よかった、風を浴びるとモヤがわずかに晴れたような気になれた。ともあれ問題は解決していないので『気がするだけ』だ。
肉の匂いの届かないところでストレッチでもするか、と歩き出したところで、堤防縁のコンクリートの石段に座り込んでいる一人に目が留まった。
とんでもなく見覚えのある姿、背格好……というか顔。陽射し避けも敷物すらもなしに、なぜこんなところに?
「……幻覚?」
独り言で認めないようにしてみたものの、却って本人でしかないという確信を得てしまう。辺りを見渡すが、どうやら完全に独りきりらしい。ますます『なぜ』が深まる。
コンクリートの石段を二段飛ばしでのぼる。俺という『誰か』の気配に気が付いたようで、ソイツはふわと顔を上げた。
「あ。やっぱ鴨重だった」
「えっ、け、敬斗くん? なんでっ」
「たまたまランニングしてたら見つけた」
ぎょっとして立ち上がろうとするので、それを制止して俺も左隣に腰を下ろす。脚をボンと投げ出して、お嬢さまへ一度ニコリ。
こうすると普段ならわたわたと視線を逸らすのだが、やはり様子がおかしい。お嬢さまは口をへの字に曲げたまま俺をジロジロと見つつ、身を捩るようにして距離を取ろうとしてきた。……もしかして汗臭かったのだろうか。まぁ、いいや。気を取り直して訊ね直す。
「鴨重こそ何やってんのココで? 『独り』珍しいじゃん」
この場所は鴨重邸からほど近いが、お嬢さまが独りでボーッとしに来る場所としては不釣り合いだ。それにさっきも思ったが、ご令嬢が地べたに直接座っている上、陽射し避けになるものを何も身に着けていないのも不自然極まりない。
「あの……ホントにランニングしてただけ? 私を探すために派遣されてきたワケじゃない?」
モジモジしながら肩を縮め、ジト目を俺へ向けてくるお嬢さま。あぁコレ、何かしらを疑ったり不安に思っているときにする仕草だ。
「えと、なに、どゆこと? 俺、朝からウチのジムで自主トレしてて、そんで、汗流しに気の向くまま走ってただけだけど。スマホすら持ってねーよ?」
「そ、そっか。『その感じ』なら、ホントなんだね」
いや『どの感じ』? 俺ってそんなにいろいろと露骨か?
川面に目を向けて、鴨重は気だるそうに溜息をついた。
「飛び出してきちゃったの、家から。セキュリティも、私を呼んでたメイドさんたちの声も、全部無視しちゃった」
「は……えええ?」
「私の意思とか気持ちを無視してどんどん進められちゃうからね、『もうっ!』て気持ちが爆発しちゃって」
出た出た、鴨重の爆発癖。普段から言いたいことを呑み込んで我慢しているから大爆発を引き起こすんだろ……とは言えない、案外お嬢さまに従順な俺。
「そっ、ま、まぁ……い、いろいろあったんだな、鴨重も。あー、だからメイドさんたちから俺に連絡が行って、俺がここまで捜しに来たと思ったワケね」
「でも偶然なんでしょ?」
「偶然ですよ?」
「あの。今は、護衛と令嬢って立場はナシにして」
「お、おう」
口を尖らせて、立てた膝に顔を埋める鴨重。なんだか随分と落ち込んでいるな。拗ねているというか、モヤついているというか。
何も喋らなくなってしまった鴨重をチラチラと観察する。うーん、やはり気になる。このままここに居ると熱中症のリスクしかないよな。それに、コイツの陶磁器みたいに白い肌が簡単に焼けてしまいかねない。いいのか? このまま日焼けなんかしたら、ドレスを着るときにネックになるだろ?
「ここ直射日光で暑いしさ、向こうの橋の下ンとこ行かね? あんま長居すると日焼けすんぞ、首のうしろとか」
正直にそう誘いながら立ち上がる。ややあって遠慮がちに頷いた鴨重の足元のバランスを確認しながら、しかし「段差だからな」と勝手にその左手を引いた。
壁状になっている橋脚のコンクリートにもたれかかる。やはり日陰は体感温度が違う。吹いている風も結構涼しく感じる。……炭火焼肉の匂いがするけれど。
素肌の手首で鼻の下やら顎を拭うお嬢さまを見て、「鴨重こそスマホもなんも持ってきてねーの?」と問う。
「うん。朝ご飯終わりにそのまま飛び出してきちゃったから。わざわざ自分の部屋に寄るのも遠かったし、どうせスマホに内蔵されてるGPSで場所バレしちゃうし。だから別にいいかなーって」
「そ、そーですか……。あいにくガッツリ汗染みたこのタオルしか持ってねーんだけど、さすがにコレの上に座らすわけにはいかねーからなぁ。てことで、しばらく立ったままでも平気?」
「私と一緒にいてくれるの?」
「だって。ここにアンタ独り残して『じゃーな』はねーでしょ」
昼間とはいえどこにどんなヤツがいるかわからないのに、大企業のご令嬢を独りきりにさせられるわけがない。仮にもその護衛役だぞ、俺は。……今の今までオフだったけど。
「やっぱ優しいよね、敬斗くん」
「そーなんよ。俺、思い遣りがあって気配り上手なんですよ。まぁホントに気配り上手だったら、ここで飲み物かアイスでも買ってきて『どーぞ』をやれるくらいじゃねーとなんだけどね。あいにく減量中でして、小銭の一枚すら持ってませんで。口腔摂取するものはオヤジに徹底的に管理されてましてね。コソコソと買い食いもままならんのよ」
「フフッ。あーあ、でもいいなぁ。敬斗くんはお父さまにちゃんとわかってもらえてるんだね」
「押し付けのが多いけどね。あのオヤジ、実は元プロだし、俺が自分の息子だからって容赦しねーの。『俺はアンタの分身じゃねー!』ってしょっちゅうケンカする」
「そうだよね。私たちは別に親の分身じゃないんだもん。私は私の意見があっていいよねっ」
ということは、さっきは親に向けて爆発したのだろうか?
「鴨重も親とケンカすんの?」
「ううん、したことない。私ずっと『イイコちゃん』やってたからね、マ――お母さまに、さっき初めて言い返したの」
「へぇ。どうだった? スカッとした?」
「スカッとしたように見える?」
「見えない」
「だよねぇ。はぁ、どうしたらいいんだろ」
顔を掌で覆い、長くて深い溜息を吐き出す鴨重。
「何が原因で、その……『奥さま』とケンカを?」
訊いてほしそうだと思ったから切り込んでみたものの、黙り込まれてしまった。わ、マズい。自分のタイミングで話し出したいパターンだったかもしれない。ったくもー、見極めめんどくせー! ……あぁいやいや、お嬢さまの精神的成長の第一歩なんだからなるべく寄り添ってやらないと。
「わ、ワリィ。訊かれたくねーよね、こういう――」
「婚約者を用意してるって、言われて」
沈黙、五秒。
バーベキューをやっている大学生の騒ぐ声が異様に近く感じる。おかしいな、初夏ってこんなにセミの鳴き声がしたっけ?
「な、なに? 婚約?」
「勝手でしょ? 私が男の子苦手だからって、親が手ェまわしてたんだよ? わざわざウチと関係のある企業の御曹司とか、由緒正しい家柄のご子息との将来見据えた話を何件か取り付けてある、って。順番にお見合いしてってその中から選びなさい、って」
な、なるほど。鴨重グループとしての今後を考えるならば致し方ないことなのかもしれない。少なくとも、自由恋愛の末に「私たち結婚します♡」と顔合わせをし、両家の了承を得て……いうのは、鴨重令嬢の立場として到底認められないだろう。
しかし、コイツは令嬢である前に、ひとりの一七歳の女の子だ。同時に、ご令嬢であるからこそわきまえなければならないことだってあるのだが……という堂々巡りが終わらない。
「たしかに私、男の子苦手だけどさぁ。なのにいきなり結婚話と繋げてくるなんて酷いよね? そんなの考えたことすらないし、そもそも私まだ高校生だし。ていうか私だって、苦手意識上回っちゃうくらいに惹かれる人、いるもん」
「……え」
マジ? い、いるの? 好きな人? 鴨重が? もう既に誰かを好きなの?
いや落ち着け。コイツだって俺と同じ歳、同じ学年、同じ高校生。恋愛話が絡むことは何も変ではない、むしろ自然なことだ。俺たち一般人と同じように、振った振られただの付き合う付き合わないだのを考えていたって不思議ではない。
「そんなことも知らないでさ? 私の気持ちも知らないのにさ? 周りから聞いた情報だけで勝手に私の将来決めようとするなんて、やっぱり横暴だよねっ?」
もしや既に誰かから告白されたことがあるとか? はたまたどこぞの誰かを『彼氏』と呼んでいた過去があったり? ついでに言えば、その、アレ、もっと肉体的なことだとかの経験まで……いやいやいや、まさか。お嬢さまにかぎってあるわけがない。だいたい、俺の母ちゃんがずっとべったり付いていたんだぞ。そんな浅はかなことがあるか。
「敬斗くんなら、私の気持ちわかってくれるよね?」
くるりと俺を見上げてくる、コイツのまるい双眸。わずかに上気した頬と、不安そうな眉間と、柔らかそうで艷やかな唇。「ね?」とあざとくも無垢に首を傾げるその仕草のせいで、思わず「うぐっ」と言葉に詰まった。
すると、それまでモヤモヤぐるぐると考えていたすべてがパンと弾け消えてしまった。あれ、何だったっけ。ていうか、悩んでいた全然かどうでもいい気がしてきた。
「つ、つーか俺、鴨重が誰かのこと好きとかマジで知らなかったんだけど、聞いちゃっててよかったワケ?」
「え。……あっ! あーそのォ」
「や、やっぱマズかったよな。不可抗力とはいえ、スマン……」
「ううんもういいの、別に。私が悪いの。不注意で口走って、知られちゃって」
なんだ、どういうことだ。俺がイズミさんの代役のインスタントボディガードだから知らせる予定もなかったってか? コイツ、ヒトの気も知らねーで。
「こういうことは、その、ちゃんと改まったかたちで伝えようと思ってたの」
あー、オンのときにね? 「敬斗ッ。私と彼が付き合えるように協力しなさい!」みたいなね? 「かしこまりましたお嬢さま」……って、んなこと言えるかっ。絶対にイヤだ。もっともイヤだ。
「だからあのー、何というか、ホントは――」
「悪いけどっ。オンオフ関係なく俺はこーゆーことでチカラになってやれねーから」
ピシャリと言い放つ。スゥと上気した頬が冷めていくところから目を逸らし、数歩離れる。
「話聞くくらいなら別にいいけど、基本的に恋愛のことって自力で当たってどうにかするもんだと思ってっから。だから俺が変に根まわししたり、相手の男のことで動いたりすんなら、それってアンタがさっきブチ切れてきたアンタの親と同じことするっつーことだかんね?」
「そん、そんなことしてもらう必要、敬斗くんにはないもんっ。だって」
「まーな。俺が頼まれてんのはアンタの身の安全確保だけだしな? むしろ寄ってくるヤツを遠ざける役割だけだから、寄せ付けるのは管轄外だな」
「ねぇ、なんで怒ってるの?」
「怒ってねーけど? 俺が、どこぞの知らねー男の護衛までせにゃならんかと思ったらメタクソにイヤだなーって思っただけですけど?」
「どこ、『どこぞの知らねー男』? なにそれ」
「だって。アンタが好きになるってことは俺よりフツーに楽しく話せるヤツだろ? 誰だよ、そんなヤツいた? ここ数か月ずっとアンタのこと見てたのに全然わかんねーからすんげームカつくんだけど。秘密にされてたことも、自分の観察眼のなさにもっ」
言ってしまってから思った。これはただの八つ当たりだ。
俺はただ自分の観察眼のなさに情けないだけ。それ以外はすべて、鴨重に当たり散らすためにそれらしい理由にしただけだ。
「だっ、だって、そりゃ秘密にするよ。関係壊れちゃったら……敬斗くんに私の護衛してもらえなくなったら、ホントにヤだったんだもんっ」
「俺なんかなんちゃってバイトなんだから、どのみちもうそろそろ切られるよ」
「どうして? そんなことないってば」
「ウチのオヤジ、なんか社長からカネ借りまくってるみてぇだしな。カネにだらしねーヤツの息子が大事な娘の周りをずっとウロウロしてたら、社長だって目障りだろ」
「ねぇ敬斗くん、聞いて」
「俺、来月あるボクシングの大会に出んの。むっちゃ賞金貰えるやつ。それで優勝したいから今こーやって身体つくってんのね。だからそっちで忙しくなって護衛役できなくなるんなら、今が辞めさすのに丁度いいだろ」
「私はずっと敬斗くんが好きで、だから、縁談勝手に決められてイヤだったのっ!」
「俺よりカネも地位も持ってるヤツのが、お嬢さまにはずーっとお似合いですよ」
ザン、と風が抜ける。きっと今、俺の目は死んでいる。
蒼白な顔面をしたお嬢さま。コイツは俺の言うことひとつで簡単にコロコロと表情を変える、単純で無垢すぎるヤツ。そんで――。
「……和泉くんのばか」
――俺の言葉ひとつですぐに泣いてしまう、どうしようもなく脆いヤツなんだ。

