これにて専属契約は

 敬斗くんの様子が少しおかしかったあの食事会からまる一週間後の日曜日。

「じゃあ、もうすぐ戻ってこられるのっ?」

 自宅での朝食時、私――鴨重紗良は身を乗り出すほど驚き、安堵した。だって、向かいに座って低糖質ワッフルを堪能しているお母さまの口から、二か月ぶりにイズミさんのお名前を聞いたから。

「今すぐではないけれどねぇ。ゆくゆくは絶対に戻ってきてくださるって」
「そっかぁ。けどよかった。イズミさん、私生活でも無理してそうだから悪化してないか心配してたの」
「でしょー? クセになりやすいって聞くものねぇ。だからしばらく日常生活で様子見るって。わたしもそれがいいって言ったの。イズミちゃんには一日でも早く戻ってきてほしいけどね、何より身体が資本だもの。紗良ちゃんもそれで納得してくれるかしら」

 イズミさんの話をするお母さまはかなり嬉しそう。そりゃそうだよね。イズミさんはお母さまにとって、娘の私よりも永い付き合いで、安全を預け預かる間柄。友達とも同僚とも違う特別な関係の人だもの。
 私は「もちろん」と快く頷いた。

「それでね、敬斗くんにはもう少しあなたについててもらわなきゃならないんだけど、いいかしらねぇ?」
「わ、私は、構わないけど」
「そう。じゃあイズミちゃんとパパにそう言っとくわねぇ。ていうかあなたたち、本当に上手くやれてる?」

 ニコニコからのハの字眉で無慈悲な質問をぶつけるお母さま。反射的にギクッとしてしまって、視線を逸したまま「ま、まぁ」と曖昧に返す。

「けけけ敬斗くんとは同じクラスだし、ボ、ボディガードついてくれるようになってからは、いろんな話するし。楽しいよ、ちゃんと」
「あらそーなの? 前からイズミちゃんがね、『紗良ちゃんは男の子苦手みたいですよー』って報告してくれてたからね、敬斗くんに張り付いてもらってて大丈夫かしらー? って思ってたのよねぇ」

 お母さまは真偽不明みたいな顔をしているけれど、さすがはイズミさん。ダテに私に十年弱ついていてくれただけあってきっちり見抜いている。

「てことはぁ、荒療治が成功したってことね。やったわぁ」

 満面の笑みで低糖質ワッフルをもしゃりなお母さま。かたや、ワッフルへ入れていたナイフの手を止めた私は眉間にシワを刻んで顔を上げる。

「……なに? 荒療治?」
「んふー。『敬斗くん』が大丈夫ってことは、同年代の他の男の子のことも克服したってことでしょー? 紗良ちゃんにちょっとずつお話がきてるのよね。それ、ひとつかふたつくらいお受けしてみてもいいかもーと思って!」
「ちょ、ちょっと待ってママ。お話きてるって、何の話?」
「縁談よう、決まってるじゃない」
「えん……だ?」
「素敵でしょー? 紗良ちゃんより二、三コ上のイケメン御曹司とのお見合いよー?」
「お、おみっ、お見合いーッ?!」

 ガタンガタンと椅子を鳴らして思わず立ち上がる。
 ちょっと待って、絶対にヤダ! いくらなんでもムリ。だって私まだ一七歳だよ?! 法律的には合法かもしれないけど現代社会に於いて未成年で結婚ってなに?! しなければならないほど切羽詰まっている環境ならまだしも、鴨重家(ウチ)って別に差し迫ってお世継ぎに困っているわけじゃないよね?! なのにどうして結婚話なんか出てくるの?!

「んもー紗良ちゃんたら、大袈裟ねぇ。ほら、座って座ってぇ」
「や、だ、だってそんな」
「安心して。ママもパパもそんなに簡単にホイホイと紗良ちゃんを手放したりしないわぁ。ただの顔合わせなんだから。婚約者候補の方との」
「何、それ。なんで……こ、婚約者?」

 背後に立っていたメイドさんの一人に促されてようやく椅子へ座り直す。ダメだ、全然状況が呑み込みきれない。

「大丈夫よう、ウチのグループとお付き合いあるしっかりした家柄の方たちだもの。それに、何人かは鴨重の家に入ってもいいって仰ってくださってるの。だから全っ然構えなくたっていいのよ。初めのうちはお食事するくらいなんだからぁ」
「そっ、そういうことじゃ、ないよ、ママ」

 勝手に決めないで! どうして私の意思は無視なの?! ……くらいのことをしっかりと口に出せたらいいのに。もう、私の意気地なし。
 こんなの赤ちゃんと一緒だ。私は無意識下でいつまでも、親からの賛辞と評価だけが私の心の栄養だと思い込んでいる。ただパパとママから「お利口ね」と言われたくて、パパとママを困らせたくなくて、一番簡単な『反抗しない』を選び続けている。……って、そりゃこんなことまで勝手に決められても仕方がないか。

「別にすぐ誰かに決めなくたっていいのよう。紗良ちゃんはずーっと男の子苦手だったんだから、そんなにすぐには決められないと思うもの」

 たしかに私はずっと男の子が苦手だったし、今も正直なところそうだ。というより、男女問わず『他人』に苦手意識を持っている。だって、周りの人の目が気になって、上手く自分の言いたいことが言えないんだもの。
 でも、そんな中でも、きちんと理解し合ったり通じ合って、心から安心するほど仲良くなれる人ができたもの。わざわざ大人に面倒見てもらわなくたって、きちんと本音を言える大事な友達が、私にはいる。

「気になる人ができたら、そのときに教えてくれたらそれでいいのよ。あとはパパとママでどうにでもしてあ、げ、るっ」

 友達だけじゃない。嫉妬するほど私が欲しかったものを持っている人が、心揺さぶられるほど恋い焦がれる人が、ただ他愛ないひと言を交わしただけで泣きたくなるほど愛おしいと感じる人が、私にはちゃんといるんだから。

「もしママたちに言いにくかったら、せっかく仲良くなった敬斗くんに言ってもらってもいいのよー? フフフ!」
「そっ、そんなこと、一番言えるわけないじゃないっ!」

 ばんッ、と卓上を叩いて、大きな声を出してしまった。
 真正面に座っているママの顔は見られない。目線を下げたまま、キリリと奥歯を噛み締める。後ろに控えているメイドさんたちも、きっと相当驚いたに違いない。現に誰も私に寄ってくる様子がない。

「……しない、から」

 声が震える。でも、私は私の心を護るためにきっぱり宣言しておかなくちゃ。

「私、お見合いなんか、しないから」
「さ、紗良ちゃん?」
「婚約者なんか必要ない。全部断ってっ」
「ちょっと待って、紗良ちゃん、一旦落ち着いて?」
「落ち着いてるし冷静だもんっ!」

 たまらず上げた視線。そのときとらえたのは、見たことがないくらい凍りついているママの顔だった。今まで私が大した反抗もしてこなかったから、びっくりを通り越した衝撃があったんだろう。
 それでも抑えられない。こんな話題の渦中ではママを思い遣れない。昂った感情が、出口を探してどんどん這い上がってくる。

「ただ二、三回食事するだけで、一生一緒に過ごす相手を決めなきゃならない行事になんか、私、絶対に参加しないからね」

 自分の意志と関係なくボロボロと涙がこぼれ落ちる。きっと、昂った感情が溶け込んでいたと思う。そのくらい、頬に転がる温度が熱くてビリビリと痛い。

「付き合う人のことくらい、私、ちゃんと自分で決められてるからっ」

 小さく「ごちそうさま」と吐き出してからママに背を向けて、小走りでダイニングルームを飛び出す。こんなことを今まで私がしたことがないからだろう、その場に控えていたメイドさんたちは誰一人として動き出せていなかった。相当呆気にとられたんだな、と鼻を啜った。
 ときおり背後を気にしながら廊下を進む。ママ――いや、お母さまが、まさかここまでわたしを知らないとは思わなかった。アレはイズミさん伝いで、コレはメイドさん伝いで……そうやって結局全部が『聞いた話』。
 聞き分けをよくしすぎたかな、とイイコちゃんのまま成長した自分に後悔して、誰も追いついてきていない廊下の真ん中で涙を拭う。
 ふと、その廊下の窓から射し込む陽の光に目がいった。初夏の晴れ空が爽やかで眩しい。まるで、学校にいるときの敬斗くんみたい。
 そう思った瞬間、私はひとつワルだくみを思いついてしまった。