これにて専属契約は

 予定されていた会食はつつがなく進行し、二一時過ぎには終わりを迎えた。

「ごめんね。ずーっと後ろに立ってるだけだったし、ただ食事の風景見せ続けられてたらよりお腹空いちゃったでしょ」

 会食相手と解散後、化粧直しという名目で親元から離れたお嬢さまに付き従う。その道中で俺――和泉敬斗はお嬢さまからそう声をかけられた。

「『お気遣い大変感謝申し上げます』。でもどのみち減量中だし、慣れっこ。邪念を殺すトレーニングになったし」
「そんなことしてたの? この前の船上パーティーのときみたいに人数もたくさんの立食型式だったら、隙を見ていくらでもくすねられたのにね」
「……鴨重ってときどき物騒なこと言うよな」
「そーかなぁ。だってもし逆の立場だったら、私、絶対お腹鳴っちゃうもん」
「そんときはその場でピックアップしておもっクソ笑ってやるんだけどな」

 もう! と憤慨したとて、赤くなった頬に笑みが残っているから大丈夫。お嬢さまも、なかなか俺と冗談を言い合えるようになってきたものだ。そうそう。このくらいフランクに話せるほうが楽しくていい。
 化粧室という名のトイレへお嬢さまが入ったあと、その出入口を背にピシッと立って待つ俺。最近は一人きりになると、何かしらの考えがぐるぐると巡る。
 下校時にさり気なく言葉で確認して、きちんとわかったことがある。それは、お嬢さまがいつの間にか俺を苦手とは思わなくなっていたということ。
 たとえば『苦手なものビンゴ』があったなら、鴨重にとっての俺はそのシートの中でいくつもビンゴの列が完成している状態だ。逆に俺だって、鴨重のことを非難できないほど列は完成しまくっていた。
 しかしお嬢さまのボディガードをするようになり、一対一(タイマン)で接触することが増えてからは、鴨重も俺に対する苦手意識を払拭してくれていたらしい。奇跡的に俺と同じ感情変化を遂げていた、ということだ。
 互いにビンゴ穴が塞がって、「コイツならまぁ嫌悪するほどでもないか」という位置に収まって、ビンゴ列が崩壊していって――その結果が現状なのだろう。ただの女友達や気心の知れた昔馴染みとも違う、『鴨重紗良』と『俺』の関係性。しかもこの状態が不思議と心地いい。

「――何度も言うがね、それはもっと先の話だろう?」

 渋みのある男声にハッとして、思考の海から戻る。そちらを注視すると、鴨重社長が電話をしながら歩いてきた。もちろん、後方にボディガードを二名つけている。
 お嬢さまの父親である鴨重グループ社長の鴨重氏は、細身の『イケオジ』に該当する。白髪混じりながらも毛量の多い頭髪と髭はいつもナイスな感じに整えられていて、ビシッと着こなしたスーツはその脚の長さを際立たせている。常に余裕のある笑顔を湛え、雰囲気や気分を害しない程度の香水を纏い、ボディガードも運転手も帯同していて『これぞ敏腕社長!』というお手本みたいな人だ。
 そんな人が人目も憚らず何やら切迫感のある話を始めている……とはいえ周囲に俺たち以外に誰もいないし、一応声を潜めてはいるが。それにしたって、こんな社長を目撃するのは初めてだ。

「まったく、急に何を言い出すかと思ったら……ああ、うん、そうですよ。でもねイズミくん。あのときお互いに納得して決めたことじゃないか。どうして今になってまた掘り返すんだね」

 恐らく、俺がトイレの前に立っていることは、社長はおろかそのボディガードたちにすら気付かれていない。
 どんどん神妙かつ切羽詰まった口調に変わっていく社長は、電話をしたまま柱の陰に隠れてしまった。しかし俺の耳が勝手にその会話を傍受してしまう。

「だからいいんだよもう、カネの話は。それに二重取りになっ……うん、うん、だからそれは――いやいやだからさぁイズミくん、あのねぇ」

 さっきから社長が名前を出している『イズミくん』を聞くたびに、背筋に嫌な寒気が走る。俺も和泉だからもそうだが、『カネの話』というのが妙に生々しくて気が気でない。……まぁ、まったく別の『イズミ氏』の可能性だって大いにあり得るが、俺の母親も鴨重グループに従事して永い一人だ。社長の電話相手がウチの両親のどちらかである可能性が拭いきれない。

「貸し借りで均衡が保てていたじゃあないか……『セイサン』? 何を言っているんだ、全部無かったことになってしまってもいいっていうのかい?」

 文脈から察するに『清算』だろうか。関係や取り引きを終わらせるという意味だが。

「あーもう、電話じゃ埒(ラチ)が明かないな。近いうちに直接決着をつけよう。……そう、そうだね。だからそのときに……あぁ当然だ、アイミくんもケイトくんも呼んだっていい」

 アイミにケイトって、絶対に母ちゃんと俺じゃん! ってことは、電話相手の『イズミくん』ってガチで俺のオヤジ?!

「うん。うん。そのときはこちらも二人を列席させる。……うん、そうだねそうしよう。今後のシンタイについても話せるしな」

 こちらも二人をってことは、奥さまと令嬢も着いてくるってこと? なんだそりゃ、とんだ面談会だな!
 ていうかそもそも、あのオヤジ、鴨重グループからカネ借りてんのかよ! 和泉家(ウチ)ってそんなに鴨重グループにおんぶに抱っこなワケ?! だいたい、貸し借りで均整が取れるってどういうことだ? シンタイって『進退』? まさか、借金のせいで誰かの役割が終わる?

「――お待たせしました」
「ぶわあっ!」

 背後から声かけられてビビり倒す俺。ヤバいヤバい、精神が掻き乱れすぎている。普段なら滅多に背後(バック)なんか取られないのに。

「ど、ご、ごめんなさい。びっくりさせちゃった?」
 目をまんまるに見開いているお嬢さま。マズい、逆に驚かせてしまった。

「いっいやあのっ、だっ、か、考えごとを、ちょっと」

 スーハースーハーで調えて「すみませんでした」と一礼。浅く社長の方を振り返るも、すっかりあの緊迫感ある声は聴こえなくなっていた。電話を切ってしまったか。惜しいが仕方がない。
 参りましょう、と移動を促し半歩後ろから着いていく。しかし思考はなかなか切り替えられず。
 はたしてどんなカネの話なのだろう。ウチのオヤジは、なぜ鴨重グループから借金する必要があったんだ? 和泉家(ウチ)はわりと一般的な生活をしているはずなのに。
 オヤジは元プロボクサーで、今は自身のボクシングジムの会長として日々俺や他の生徒さんたちを指導している。それに、プロテストを受けて上がっていく大人たちもいるから、ファイトマネーの一部がわりと安定して入ってきている。
 母ちゃんだって、社長夫人とお嬢さまのボディガードを務めていた。その分の給金は鴨重グループから戴いていたし、そのお陰で俺が高校に通わせてもらっていることを母ちゃんから恩着せがましく自慢されたこともある。……当然それについては感謝しているが。

「おお、紗良。どこに行ってたのかな? 車がもう待ってるよ」

 いや、待てよ? あのオヤジのことだ、もっと和泉(ウチ)に好条件な返済内容に変えてくれと不恰好に嘆願したのかもしれない。それを社長は鬱陶しく想い、跳ね除けているとか? それだと不思議と腑に落ちてしまう。
 その不恰好さのせいで、まさか俺か母親がボディガードを辞めさせられるとか? その『進退』?! 嘘だろ、オヤジめ余計なことをッ! この代役をまっとうするまで辞めさせられるわけにはいかないのに。ボディガードの席も、お嬢さまの御身と同等に俺が護らねばならないものなのに!

「ごめんなさいお父さま。もう帰るだけとはいえ、少しお化粧直しをしてきました。お食事のあとでしたから」
「あぁなるほどね。それならいいんだ」

 しかしこの件が引き金となって、社長の一存で俺も母親もボディガードを辞めさせられてしまったら?
 そんなの確実にオヤジの借金返済に影響が出る。鴨重グループだってそれを理解しているだろうから、そう簡単に辞めさせやしないだろう。だいたい、いち債務者のオヤジよりも永く親交のあるイズミさんのほうが重宝されるに違いない。

「それじゃあ、会場に忘れ物はなかったかな?」

 ただ、俺は違う。
 俺は高校生だし『イズミさん』の代役でアルバイト程度の給料だ。オヤジの借金返済に協力し続けられるとも思えない。それに『護衛』としての働きがきちんとできていないのは『進退』面で考えると危うい。

「ええ、私は大丈夫でした。敬斗も一緒に確認をしてくれましたし」

 もし辞めさせられてしまったら、俺はどうなる?
 きっと簡単だ、ただの高校生に戻るだけ。ということは、ボクシングの自主練もジム練習も自分のペースでたんまりできる生活に戻る。
 昼間のような「部活の助っ人になってくれ」という頼みも聞けるようになる。エーシンやチッヒーと好き勝手に遊べるし、ダイキとの勝負も邪魔されない。そして、こんな真っ黒な高級ブランドスーツに身を包みながら始終気を張ることもなくなる。そうなれば――

「ねぇ、敬斗?」

 ――学校生活でも、この鴨重お嬢さまのドジにいち早く駆けつける必要だって、なくなるんだ。

「……敬斗、くん?」
「はっ、はい! かしこまりましたお嬢さまっ」

 お嬢さまからの視線と、声かけと、キョトン顔。その奥の社長のポカン顔。あ、ヤバい。俺、今まったくお嬢さまの話を聞いていなかった……。

「大丈夫かい、敬斗くん? お腹減ってボーッとしちゃったかな?」
​「い、いえ、まったくそのようなことはございません! しかし、大変申し訳ございませんでした。わたくしとしたことが、わずかばかり集中を欠いておりましたッ!」

​ 社長に訊ねられ、反射的に直角に腰を折り曲げ勢いよく頭を下げる。
 変なリズムで心臓が鳴っているのがわかる。ヤバい、オヤジの点けた火に俺が油を注いでしまったかもしれない。

「正直で大変よろしいが、一応まだ護衛中なのだから気をつけてくれたまえよ。現代社会では、いつどこから誰が何を仕掛けてくるのかわかったものではないのだからね」
「承知いたしました。社長、お嬢さま、大変失礼をいたしました」
「か、顔を上げて、敬斗。お父さま、私も謝りますのでどうか敬斗をお許しください」

 クイと優しく腕を引かれる。しかし社長の言葉を賜るまで頭は上げられない。なぜなら『敬斗』の雇用主がお嬢さまでなく、この鴨重氏だからだ。
 学校では勘違いされているが、ボディガードとしての俺はお嬢さま直々に雇われているわけではない。社長の命でお嬢さまをお護りしているだけで、つまりこの主従関係は社長に握られている。
 お嬢さまだって、父親の命で俺に身を預けている状態だ。本当なら、お嬢さまからここまで温情をかけられる立場ではない。こういうところがコイツの優しすぎるところだよな、と思う。

「まぁ今はもうね、食事会も終わったし。わたしのボディガードもたくさんいるからいいんだけどね。紗良が一人のときなんかはそうされると困るから、そこはよく覚えておいてくれたまえよ」

 ポンポンと左肩を叩かれて、そろりそろりと顔を上げる。社長の柔らかい笑みが俺を見おろしていて、さほどお怒りでないとわかった。すかさず「かしこまりました、社長」と返すと、満足そうに車へ移動を始めてくださったから、顔に出さないようにホッと胸を撫でおろす。

「敬斗くん、ホントに大丈夫?」

 社長と距離ができたとき、お嬢さまが小さく訊ねてきた。

「『はい。ご心配をおかけし大変申し訳ございませんでした』」
「私がトイレ行ってる間、何か気がかりなことでもあったんじゃないの? 声かけただけでびっくりしたり、ずっと何か考えてるみたいだし……」

 まったく。こっちの気付かれたくない部分を的確に探し当ててくるから、鴨重紗良は侮れない。じっと見つめてくるこのまなざしには余裕のある笑みで返したいのに、妙にぎこちなくなって仕方がない。

「『何も、ございませんよ』」

 黒いレンズのせいで見えないだろうが、その視線を切るためにわざと瞼を伏せる。

「『さぁ参りましょう。社長とかなり離れてしまわれております』」
「う、うん」

 鴨重の護衛をしなくなったら、また以前のように鴨重を遠く感じてしまうのだろうか。たかだか同じ学校、同じ学年、同じクラスになった同士――たったそれだけに、俺たちは本当に戻れるのか?
 また俺は、コイツとは話をしなくなる? 俺にとってコイツは、視界の端にたまに入ってくるモブ女子の一人? コイツも、もじもじおどおどと怖がりながらごくたまに俺のことを「和泉くん」と呼んでいた頃に戻る?

「――鴨重」
「なぁに?」

 歩きながら、ボソ、と、本当にただ無意識的に口からこぼれてしまった。それにすら、こんなにきっちり反応してくる。これではどっちが主従かわからん。

「あの、さ」

 軽快にふわりと振り返るそれは、プレッシャーによる疲れを微塵も感じさせない。
 爽やかな微笑、好印象な声のトーン。日頃からの優しい声かけ、まなざし。公私問わない俺への気遣い。常に寄り添い味方でいてくれる懐の広さ――。

「……『いえ、なんでもございません』」

 生唾を呑むように、うっかり出かけたひと言を喉の奥へ流し、沈める。

「そう?」
「や、違くて。やっぱ俺腹減ったかもーって。成長期だし」

 ――イヤだ、手放すのは。コイツに、俺はまだなにひとつとして返せていないというのに。

「な、なんだぁ。そんなに厳しく減量しなきゃダメなの?」
「まだ絞る程度。だから家帰ったら何か食うよ。でもさっきのフレンチ美味そうだったなー」

 このお嬢さまのことを、やっと少しずつわかってきたというのに。

「今度、何かのタイミングで一緒に食べられたらいいのにねっ。それこそ立食のやつでさぁ。私がサッと取ったげるから」
「ブハッ。だーからそれ『あまりお行儀がよろしくありませんよ、お嬢さま』」

 鴨重紗良を透して、自分の気持ちにたくさん気付きを得ているというのに。